目次
序説
<原理>
<美>
<他者>
他なるものをめぐって
<一九六九 ‐ 一九七二>
<セザンヌ>
<ジャコメッティ>
<一九七八>
見えるもの・見させるもの
I もの・ことがら
II うち・そと
III 生活の時間
IV 現在の回復
V 見る・見られる
VI 結語
あとがき
ひとが何を己の主題(テーマ)として選択したか(あるいは選択させられたか)、そしてそこにどんな問いを見い出したか(あるいはどのようにそれを語ったか)ということには、すでにその人間の置かれている境遇が影のようにへばり付いている。
どのようにもがいてみても、吾れ知らず己れの背丈に合わせて穴を掘っているという古訓は、だから修正されねばならない。ひとはある意味で己れの置かれている境遇に合わせて、己れの背丈を(つまり思考や感覚や嗜好といったものを)つくってしまう。それらは半ば自ら選びとり半ば余儀なく選びとらされるものの宿命を負っているといってもよいだろう。己れの境遇というものに満足しているにせよ嘆くにせよ、あたかもそれを生得の気質のようにして語られること、あるいは逆にそれを手柄のように披瀝されたことはたいして重要なことではない。なぜならこの境遇は謂わば<偶然>に属することだからだ。もし半ば自ら選び半ば余儀なく選ばされた自らの思考や感覚や嗜好といったものにひとつの根拠を与え得るものがあるとすれば、それはこの<偶然>を、ひとが如何にしてかれの<必然>に変えていったのかというところにしかないだろう。そしてどんなにうまくそれを必然化したにせよ、それが選びとらされた<偶然>でしかないというおもい(・・・)は残り続けるに違いない。すべての創造的営為に込められたおもい(・・・)は、いつも達せられなかった悲劇を宿している。自分に対してであれ他者に対してであれ、原理的に問うということは、この達せられぬおもい(・・・)への執着でもある。そしてそれはひとつの決意を含んでいる。
作品に込められたおもい(・・・)は、かれにとっていつも作品以上のなにか(・・・)である。又逆に、われわれはひとつの作品から、自分が読みとる以上のなにか(・・・)を、われわれの内部に堆積している。ひとはこういった考えは批評に於てはすでに古くさくなった感傷であるというかもしれない。つまり、作品が告げるメッセージだけを、湿り気なしに正確に読みとり意味付けなくてはならないというふうに。だがわたしの興味は、作者が作品に込めたおもい(・・・)にしかない。なぜならこのおもい(・・・)の中にしか、作者のそしてわたし自身の真実(もしそういった呼び方が許されるなら)というものは無いと思われるからだ。ここでは、このおもい(・・・)というものが、自身の背丈を形造っている生活の場と自己の内部を駆ける精神の運動(つまりわたしがわたしであるところのもの)が争い合うようにして紡ぎ出しているということが始まりとなる。日々の暮らしを離れたところでは、このおもい(・・・)は肥大し過ぎた観念でしかないだろうし、日々の暮らしの中だけにはこのおもい(・・・)は存在すらしていない。
日々の暮らしを支えている経験と感覚の世界は肉体的であり、肉体の動きから精神が離れないように慣らされている世界である。他者の<作品>から聞こえてくるのは、このこころ(・・・)とからだ(・・・)の間から響いてくる声であるといってよい。
<言葉>や<絵画>は、そのあらわれ(・・・・)の前に、作者の歴史を内圧(・・)として保持している。それは<作品>が、その完成度とか芸術性とかいわれるものの内側に持っている喩であり、原理的に問うことの意味は、この喩に直接に触れることに他ならない。
日々の暮らしは、およそ原理的な問いかけを禁制として遠ざけたところで営まれているように見える。毎日の仕事場でも、友人達との会話の中でも、原理的に問いつめるものは生活のリズムを乱すものであり、調和を破るものとして疎んじられる。けれどもそれは、その問いつめが、生活の場にあって奇異であり、不適当であるという理由だけによるわけではなく、生活そのものが原理的な精神の動きを退りぞけたところで成立しているからである。経験が積み重ね、感覚がおし拡げてゆく世界というものの理不尽や不合理は、意味論的には容易に指摘できるし論難できる。人は意味のない笑顔で他人を容れ、不本意な仕事に精力を注ぐ。けれどもこの無言の経験の堆積が持っている理不尽や不条理は、合理的な意味の体系から発せられる論難に対して常にひとつの強みを有している。俺の汗やなみだが知っていることは、俺の知識よりもいつも確実だったし、信頼に足るものであったという開き直りがここでは許されている。この開き直りには、おそらく当人もそれと自覚しない根拠がある。この根拠はたぶん、人間は決して観念的な存在ではなく、生物の延長にある自然史的な存在であるというところからきている。(そしてこれが半ば(・・)選ばされている(・・・・・・・)ということの最も本質的な意味なのだが)食うために動物を殺し、養うために耕すという生活に対する経験的理論は、殺すという事それ自体の痛みや耕すということそれ自体の持つ喜びといった余剰の感覚を(あるいはその意味の詮索を)生活の外へ追いやってきた。こういう場処では倫理的な言葉や美的な意味は入り込む余地がない。
原理的に問うことあやうさ(・・・・)は、ほんらい非―意味的であり、非原型的である生の自然な状態を、どこかで意味や原型に近づけようとする性急さにあるといえるかもしれない。原理を問うということに含まれている決意―それは、この問いが現実の生活の中ではついに生きられぬものであることを知りつつ、そこに己れなにか(・・・)を投企してゆくという決意であるといってもよいように思う。
わたしの場合、絵画をめぐってその魅力の源泉を書き留め、自分の感想とか解釈をその依ってきたるところへ向かって推し進めてゆくと、いつもあるところで固い確執のようなものに出遭い、押し戻され、やり直しを余儀なくされた。それは、わたし自身の、人間の精神きしみ(・・・)を作品に読まないと満足しないという性癖にもよるだろうが、多くは絵画という一見中性的な表現の持つ特質によっている。たとえば今、ここにわたしの気に入った作品がある。なぜそれをわたしは好きなのか。理由はいくらでも挙げられそうな気がする。画家の思想への共鳴。作品の主題の持つ魅力。わたし自身の生来の嗜好。こういった材料はいずれも一枚の絵を魅力あるものとする原因であるかのように見えている。事実、わたしが読んだ限りでの絵画論は、精神の動きを作者や作品や鑑賞者自身へと還元してゆくことで成立している。然然の色彩の調和が美を生んでいる。われわれが探り当てる原因には、いずれももうひとつの「なぜ」が被せられ得るだろう。画家の観念が一体どうやってヴィジュアルな画布へとき凝固するのか。作品のメッセージはどの様にわれわれの内部へ呼び込まれるのか。美しさとは何を表わしているのか。わたし自身の嗜好とは、ところで何を表現するのか。これらの疑問は次の様に変容される必要があるだろう。
画家は己れのヴィジョンを絵に変えるのだろうか。それとも描いているうちにヴィジョンが形成されてゆくのか。
わたしはこの絵を好きなのか。それともこの絵の中にわたし自身の好みを発見するのか。
答えられそうにない、又答える必要のない問いである。表現(行為)はいつも、そこにある関係の総体を反映しているのだし、観念と肉体の錯綜は、作品の前提ではあっても、作品を還元してゆくところではないからである。たぶん、ここに働いた己れの精神の動きを検証することの意味はひとつしかない。それは、謎解きの快挙などではなく、別の謎へと己れ自身を投ずることなのだ。つまり、今の自分というものを、もっと別の自分へと変えることは可能であるのか。そうだとすれば今の自分になるために私が選び選ばされたものは何だったのか・・・
「セザンヌの色は実に美しい。」(*1)と小林秀雄は書いている。誰でもそう言える権利は持っているし、そうではないとも言える権利を持っている。したがってこういう言葉は、そこに働いている精神の動きを見ることなしには、無意味な断言である。そこでこの批評家は何を言いたかったのか。かれの内部には、それを美しいと言わせる何かがあったし、この色(・・・)には、かれの精神を動かす何かがあった。小林はそれをセザンヌの色彩感受の発見や、音楽性に擬して語っている。これは嘘ではない。嘘ではないがかれの真実の半分しか語ってはいない。つまり己れの精神の動きへの遡求は、セザンヌの伝記的事実の下に周到に隠している。ちょうど、歌舞伎役者が万感の思いを、見えを切ることの下に隠しているようにである。「セザンヌの色は実に美しい」「花の美しさという様なものはない。美しい花があるだけだ。」この様にしか語り得ぬという様に書いているが何故この様にしか語り得ぬかということには触れていない。このことで小林は己れの批評「作品」と救済し、己れの美意識を守っている。だが、書くことが、演舞を見せることであるのと同時に舞台裏を体験するものであってもよいとわたしは思う。破れ(・・)のない文章というものは、どこかで他者を選り分けている。解らぬひとには解らなくてもよいのだというふうに。
確かなことは、誰もセザンヌの絵の価値に判決を下す権利などは持っていないということだけである。<この絵は美しい。なぜならば・・・>という理路には、すでにひとつの転倒が含まれている、言葉というものが肉体を離れたときにすでに含んでしまった転倒が。「花の美しさという様なものはない。美しい花があるだけだ。」だが、美しい花という様なものもまた無いだろう。いつでも花がそこに在り、美しいと感ずる自分がそこにいるだけなのだ。それを「美しい花」とひとに言わせるためには、ひとつの文脈がかれに加担していなければならない。単なる事物の上になにかがこぼれ出る。日常の生活の中では行き場のなかった余剰の感覚がこぼれたものの全てである。
美しいと感ずる自分、しかしひとはこのおもい(・・・)をもて余す。なぜならこのおもい(・・・)はひとつの生の停滞であり、非生産であり、余りにも自分自身であるために、実生活の中を生きられないからである。花を育て花を刈る。花を運び花を販ぐ。どこにあっても、このおもい(・・・)は余剰でしかない。ひとはだから即座にこれを手近な理由と交換するのである。「美しい花」と言うや否や、おもい(・・・)は消え、花の価値(等級)へとそれは変ずる。関係の切実さは事物の重さへ変わる。美しい花が在り、美しくない花がある。日常生活の言語の中ではそれは花の等級でしかない。
「美しい花があるだけだ」と小林秀雄が言うとき、かれは美しい花が在り、美しくない花も在るというような日常言語の文脈と全く異なったところに身を置いている。われわれはかれの言葉にしたがって、事物(花)を見てはならない。われわれの視線は、言葉の上で立ち止まり、そこでかれの顔を思い浮かべるしかない。かれが花について語っているのでないことは明白である。かれが語っているのは、言葉についてであり、他者にそれを伝えようとすれば不可避的に嘘でしかなくなるような言葉についてであるのだ。
モーリス・ブランショが指摘するように「事物の重さを記号の軽快さに還元し、記号の具体性を記号の意味の流動性に還元すること」が伝達の理想であるとするならば、小林秀雄の言葉は、これを拒否したところでしか成立しないような言葉でなくてはならない。なぜなら、小林秀雄は、他者に伝え得ぬところでしか生きられぬ自己意識の劇に、こういったかたちで形式を与えているのだから。
「私にとっては、発見した真理とは発見に要した私の時間以上の意味も、時間以下の意味も持ってはゐない。」(手帖 II)だとするならば、かれの時間を、わたしが共有することがない限り、わたしは他人のようにかれの真理を通り過ぎてゆく他はない。
絵画と向き合う。そのとき絵画は鏡のようにわたしに向き合いわたしの内部を映し出すというはたらき(・・・・)である。わたしは絵画の中に、絵画とともに、己れの嗜好や美意識や生の倫理を発見する。(あるいはつくり出す。)
たぶんそういうことなのだが、絵画について語り始めるや否やこのダイナミクスは消失し<美>や<価値>の見かけ(・・・)が前面にせり出してくる。絵画作品の内部に<美>や<価値>が塗り込められてはいないのと同様に、われわれの内部に嗜好や美意識の鋳型が先在しているわけでもない。<美>はあちら側(作品)にも存在していないし、ことら側(精神)の特殊な状態を指すものでもない。ただひとつの<関係>が可能になるとき、そのダイナミクスの中で、われわれは自ら選んだものが何であったのかを知り、何を選ばされていたのかを知るだけなのだ。花を美しいと呼ばせるような精神の運動。もんだいはそれにどんな形式を与え得るかということであるだろう。小林秀雄はセザンヌの色が美しいのは「全体の色の調和が、画面を万遍なく巡回する光を生む」(*2)からだというが、それはただかれの孤独な精神が、絵の中で絵とともに、万遍なく巡回する場処を見い出しているというに過ぎない。この非日常的な文脈の中にだけ、かれの真実があり、それは言葉にして日常的な文脈の中へ運び出すや否や、虚偽でしかなくなるのである。かれは、セザンヌの色彩に<美>という名称を与えているが、この名称はまたかれの全ての自意識の劇を要求している。セザンヌの色彩の<美しさ>に関する一般的処方。そんなものはどこにも存在していない。<美>なる語は、わたしにとって、自分の余剰の感覚を不可避的に事物の価値へ転ずるという文脈を見ることなしには何の意味も持たぬ死語でしかない。
<美>は押しつけることも、収奪することもできない。<才能>とは作者が光栄のうちに世に迎えられたという結果に過ぎないのであって、作品に先行する画家の能力や秘術に帰すべきものではない。<嗜好>は作品の中で見い出され、つくり出されるものではあっても<嗜好>がその対応物を作品の中に選択する訳ではない。とはいえ、現実は、これらのものはすでにそこに在り、今後も在り続けるものであるかのように見せている。この見かけ(・・・)が、最大公約数的な結果であり、歴史が抽出する幻想であることを指摘することは、ある意味でたやすいことである。美術書など読まず、ただ己れの肉体(精神)の動きに忠実になりさえすれば、この見かけ(・・・)が、現実の体験と相いれないものであり、論理的にはどんなにつまらないものであるように思えても、これを取り去ったり、無視することも又、できない。もんだいはこの見かけ(・・・)が、虚妄であることを指摘することではあるまい。この見かけ(・・・)にひとつの根拠を与えてやると、つまりなぜひとは見かけ(・・・)をつくらずにはおれないかということを見ることであるだろう。絵画というものが、その時代の美の標準をつくりつつも、内的体験のドラマを演じるものであるという両義性の中に、絵画のなぞがあるといってもよい。わたしは、<意味>の外に在り<意味>を尋ねるかぎり、このなぞに触れることはできない。わたしは、<意味>の前面にあって暗い精神や肉体の運動というものにどうやったら付き合うことができるのだろうか。このことは次の様に言い換えても同じである。われわれは、どうしてわれ知らずのうちに見かけ(・・・)をつくってしまうのか。個々の勝手で自由な行動や選択はどうして、ひとつの歴史性として抽出されてしまうのか。
メルロー=ポンティは、この主題にひとつの裁断を与えている。かれは対象→感覚器官→知覚→認識といった交通図式が示すような要素論的な感覚論を次のように批判している。まずわれわれに直接与えられているのはひとつの意味のまとまりを持った知覚なのであって純粋な感覚というものではない。たとえば刺激と感覚とのあいだに一対一の対応が在るという仮説だが、われわれの経験はこれと相容れない。つまり、「未分化で瞬間的かつ点的な一つの<衝撃>の体験」などという概念は、現実には何処にも存しない。(*3)又、色や形は感覚ではなく感覚されるものであり、器官の特性ではない。知覚が諸感覚の連合の結果であるという仮説も、ちょっとした知覚実験で反証され得る。(*4)順序は逆であり、まずはじめに地の上の図という意味的なまとまりがあってはじめて、諸感覚への連合や追憶への展延が可能になる。おおむね以上のような観点から次のような帰結が得られる。われわれが対象(もの)を見るというとき、まず感覚器官へのニュートラルな刺激があり、それが感覚連合や記憶への接合を経てひとつの知覚(世界)が構成されるといった要素論的な知覚図式はまやかしであり、知覚とは、感覚的統合の結果ではなく、意味に媒介された対象(もの)との関係である。そして知覚の中に判断や推理、対象の価値や魅力はすでに胚胎している。メルロー=ポンティは、所謂客観的世界認識の持っているまやかしをあばく為に、視点そのものを、意味の内部へ、身体現象の中へと変換する。絵画を語るとき第一義としてあらわれる<見る>ことを考えるとき、この哲学者の省察は、避けては通れぬ問題を投げかけている。
とはいえ、わたしは実際のところ、このような精密な問題のたどり方によくなじめない。そこでわたしなりに、メルロー=ポンティの<感覚>批判からくみとれるものをとり出してみることにする。まず<見る>ことについて語ろうとすれば、精神の運動あるいは精神の風土とでもいうべきものを前提としなくてはならないだろうし、<見る>という体験それ自体を離れたところで<見えるもの>を他のもので置き換えることはできないということである。たとえば、ドラクロアの作品からその色彩を、アングルの作品からその形式を、ピカソからその思想を取り出してみることは、ほとんど意味を持っていない。精神の運動ということに即して考えるならば、作品の持っている(かに見える)色彩的特質も形態も、画家の思想も、そこにすでに在った訳ではなく、<わたしが>絵画とともにつくり出しているものであるのだから。そして、わたしが「つくり出したもの(・・)」の中にではなく「つくり出すということ(・・)」の中に、わたしの語りたいものはすべて入っている。
画家の対象(もの)に対する知覚は必ずある変容を受けて表現される。われわれが絵画を見るとき、われわれは単に描かれた結果を見ているわけではなく、この他者の知覚の変容を、われわれの知覚の変容に重ね合わせている。言い換えるならば、われわれは他者の精神の動きを、われわれの精神の内部において反復している。こういったことは、われわれが、単に<見る>といっていることの中に全部入っているのだ、というように語り得る可能性がある。わたしが「眼と精神」の作者から与えられたものはこういったことである。
たぶんわたしは<他者>について語ることになるだろう。なぜなら、絵画を見るということは、<他者>の中において<他者>とともに見るという体験に他ならないのだから。「美しい果実」と「果実を美しく描いた絵」があるとする。ひとは躊躇なく前者を選ぶ(いや選ばされる)がゆえに、達せられなかったものを、美しく歪められた絵画を、必要としているとはいえまいか。
―註―
*1 小林秀雄全集 第十一巻 近代絵画 七十二頁。新潮社版 昭和四十二年十月二十日発行。
印刷批評の到達を示しているこの批評は、わたしの最も多く読んだものである。が、当初その文章に感じた緊張感や、サンボリスムというよりは、浪漫派的な対象の扱いが、わたしにはしだいに息苦しくなっていった。その理由は、このボルテージの高い文体が、わたしのリズムと合わなくなったということだろうが、小林の文体の持つ<他者>の不在、ゆるやかに自分以外のものと交わってゆくときの自然な運動の不在ということを指摘しておきたい。あたかも飢えた男が喰らうような性急さがここにはあり、時代思潮全体の雰囲気(論理ではない)を背景にするときのみ、よく理解し得る作者の急き込みが、対象作品の中にある他者を遠ざけている。
*2 前掲書。七十二頁。但し、旧漢字は、現代表記に改めて引用した。
*3 知覚の現象学 I M・メルロー=ポンティ 竹内芳郎・小木貞孝訳 みすず書房。三十頁。
*4 前掲書。五十二頁~五十三頁。
ある絵画作品が放つ魅力について語られたものを読むのは概して退屈である。画集の解説や美術批評家の理屈が、いつも色褪せた添え物のように精彩を欠いていたとしても、それは諸家の力不足によるものではないし、かれらのことばが正鵠を射ていないというものでもない。美術批評家のように語られたことば、つまり作品の特質を追認し理論化し、歴史の内部に位置付けようとする試みというものは、それが真理であればある程ある意味でおもしろくないものとなる。この理由を、批評家の力量が、絵画作品の出来ばえに拮抗できないというようなところに求めたのでは、当たらない。批評家の言葉が拮抗できないのは当の作品なのではなく、百聞は一見に如かずということを真理とする生活上の知恵であるからだ。偏見や独断の方が、まだスリルがある。なぜなら、そういったことばの中に読者は、絵画作品の真理などというものを見る必要がなく、ただこれを語るものの精神の動きというものに向き合うだけだからである。
絵画作品それ自体は、観念の世界のもつ豊かさとは別のところで、むしろ生活上の実感あるいは手ざわりというものの中に属している。ここでは、だから絵画作品そのものについて何かを語るというようりは絵画をめぐる精神がひかえ目にわたしに投げかけた問題が、わたしの内部でどのように変容していったのかということを書いてみようと思う。今想い浮かべてみると、絵画というものが、わたしの内部に大きな場所を占めたときが少なくとも二度ほどあった。ひとつは一九六九年、わたしがまだ予備校に通っていた時に、今は病に倒れてしまった友人の下宿で見たゴーギャンの「乾草の取入れ」という作品の複製である。
「しかしその日ぼくは、その暗さ、その静かさを何か言いようのない驚きをもって見た。それは憩らいとか老成とも無縁のもので、ぼくにとっては発見のようなものだったと思う。」
当時自分達でやっていた雑誌にわたしはこんなことを書いている。この絵そのものは、ブルターニュがどこか片田舎のひどく地味な感じのものであるが、それ故にわたしはそれまでわたしが抱いていた造形的で極彩色のタヒチのゴーギャンというものとは別の、何かむき出しの人間の有り様といったものを、この絵に読んだのである。今なら、あの時「発見」ということばに込めた思いをもうすこし別な言い方で言うことができる。わたしがその絵の中に発見したものは、ゴーギャンという野人の中にある孤独な感情とか、絵のテーマが持っている黙々とした日々の暮らしの重量といったものであるというよりは、わたし自身の内部にあって、自分でも気付かずにいたひとつの感情であり嗜好といったものであった。誰でも、あるとき自分は世の人々から疎隔されているという意識を持つことがあるに違いない。仕事上の失敗やら、友人との齟齬やら、自分が自然な人間関係から浮き上がった存在であるかのように思ってしまう素因は実生活上にはいくらでもころがっている。「青年期」には、この疎隔の感情は、優越感や劣等感に結びついてより強く意識されるかもしれない。つまり、この疎隔感を、あたかも己れの獲得形質であるかのように信じているのが、「青年期」というもののひとつの特質である。ほんとうは、この疎隔感は誰にも訪れる生理のような心の状態でありとりたてて固執するものではないのかもしれない。いずれにせよ、この疎隔感は、そこに陥ち入った個人にとっては、救済されねばならぬ問題である。この救済には、ふたとおりの行き方が考えられる。ひとつは、こういった疎隔感に慣れてしまうことである。生理のように訪れる感情を強引にねじ伏せたり、飼い慣らしたりする術を誰でもが自然に身につけてゆく。必要に応じて精神の動きを制御するようになることが成熟の一方の意味であるといえるだろう。もうひとつのやり方は、ここに訪れる疎隔感以上のリアリティを人間の在り様の中に発見することである。この疎隔感が生理のようにひとを訪れるならば、原理のように人間の生をつらぬいているものを見ることは救済たり得るはずである。これが、ゴーギャンの「乾草の取入れ」にわたしが読んだものであり、観念上の錯綜とほど遠いところで営々とくり返される無名の生活というテーマの前で、生理のような疎隔感は無限小に縮んでゆくといった救済があり得ることが発見されたのである。今わたしはこのときの心の動きの力点とはすこし異なった見方をしている。無限大に大きなテーマの前では個々の確執は無限小に縮む、というようなことは錯覚に過ぎないのかもしれないし、救済されねばならぬような心の状態というものもたか(・・)の知れたものであるかもしれないが、ここにある負のエネルギーなしには、ゴーギャンの唄った「土のオード」を聞く体験も又なかったということだけは確かなことである。
わたしにとって意味深いと思われたもう一枚の絵は、一九七二年に見たセザンヌの「サント・ビクトワール山」である。大学の地下にある図書館で退屈極まりない物理か何かのレポートを書いていたとき、急にセザンヌのあの透明なブルーが頭を占めてもう何もする気もしなくなってしまったのを覚えている。この体験自体は余り大したことではない。好いた女の顔や、歌謡曲の一節が突然心に浮かんでくることと同列のことに過ぎない。自分にとって意味があるのは、そういうことに大きな意味を見付けなくては気がすまぬと思うような心の急き込んだ状態の方である。「青年期」の心の急き込んだ状態は、いくつかある体験の中から我れ知らずある体験を拡大して見るのであり、その理由も又、体験の質の中に宿っている。ここに書いてきた、「青年期」に生理のように訪れる疎隔の感情、心の急き込んだ状態といったものは、今わたしが語ろうとする絵画のテーマを支えてゆくものである。対象を描くという営為を積み重ねる画家の心の状態に、わたしはここに書いた心の動きを重ねて見ようと思っているのだ。セザンヌを、最も生気ある言葉で描写したJ・ガスケの云うところを記憶しておこう。
セザンヌは身を慄わせている子供だった。
(ジョワシャン・ガスケ「セザンヌ」与謝野文子訳)
絵画がその沈黙によってわれわれに豊饒に語りかけているもの。それは「ありのままを描く」ということの意味の重さである。一枚の絵画が素朴に、骨太に、単純に語りかけているものは<眼の実現>でありそれ以外のものではない。画家の対象となった世界の意味も、出来上がった作品が必然的に持たされてしまう表現上の特質も<眼の実現>というテーマの前では副産物でしかあり得ない。ある意味で画家は、あるがままを凝視したものをあるがままに実現するという事だけを己れの仕事としている。あるいはこの単純で奥深い作業の中に己れの全てを投入している。勿論様々な描き方、様々な考え方、多様な表現スタイルがあり得ることは承知しておくべきだが、セザンヌのような、ゴーギャンのような、あるいはジャコメッティのような画家だけについてさえ語り得れば、絵画がその最も深いところから響かせている声を聞くことはできる。われわれにとっては作品が全てでありそれしか与えられてはいないとしても、あるがままを凝視している精神、あるがままを実現しようとする作業は、画家にとってはいつも作品以上のなにかであるということは信じてもよいと思う。
わたしにとって絵画はまず、何か(・・)を表現する手段、何か(・・)の表現であるというよりは、何か(・・)を凝視することへ駆りたてている精神を想わせる。かれの眼はわたしが日常ただ通過していたものの上で立ち止まり、思考し、棲みついてしまう。こういう眼をもったものは幸せなのか不幸せなのか。あるがままを凝視し、あるがままを実現するという精神は、表現という水準からこれを見ればひとつのストイシズムである。つまり、あるものはすべて実現されねばならないが、ないものを付け加えてはならない。ストイシズムとはひとつの生の倫理であり、わたしが注目している「身を慄わせている」画家は、極言すれば何も表現してはならぬということを、己れの生の倫理としている。画家は絵を描くことで自らの感覚に根拠を与えようとしているわけだが、かれが画家であることを選択したということは同時に絵画というものが切り捨てたものを自分も積極的に切り捨て、そこにひとつの生の倫理を与えようとすることだ。絵画が切り捨てたもの、それは他者に向かって「喋言ること」に他ならない。画家は絵を描くことの中で、沈黙を選択し、沈黙の有意味性に全身で加担しているのである。
ただ、どんな正常な人間でも、ある瞬間に、あるいは、傾向としておこりうるあの<喋言ったってしょうがない>、<喋言ることがたくさんあるのにそうするのは空しいからやめる>という<失語>をくわえなければならない。この最後の状態では言語の<概念>の成力にも、言語の<規範>にも心的な不全はない。ただ、なにかがかれをおしとどめる。おしとどめるものは、かれ自身の存在そのものである。
(吉本隆明「心的現象論」)
正常な人間におとずれるこの失語は、一見「喋言りつくせはしない」「解ってもらえるはずはない」といった喋言ることが機能として持つ不充分性へのあきらめに起因しているように見える。しかし人が喋言るのは、必ずしも相手に己れの意志を伝達するためだとは限っていない。こころに浮かんだことの自然な発露であるかもしれないし、欲求の流出であるかも知れない。そして何よりも、自分自身と他者の関係を自然で円滑なものにするための潤滑油のようなものであるはずだ。人は後で反省的に考えるほどには、意志の正確な伝達ということを期待してはいない。むしろ、「他者に正確に己れを伝えることなどできはしない」ということを、人間は体験の積み重ねの中で、暗黙裡に了解しているからこそ軽やかに「お喋言り」ができるといえる。
したがって、「喋言ること」のパラドックスが語っているのは次のことである。人に喋言ることをおしとどめるのは、他者というものがよく解らないからではなく、他者というものが余りにはっきりと見えてしまうからである。つまり、固体としての人間の存在自体が、他者(他人・社会)に対して保持している先験的なずれ(・・)、異和、転倒した関係、こういったものが見えてしまったとき、それが人に喋言ることをおしとどめるのだ。吉本隆明が言っているのはこういうことである。そして、もしこう読むならば、失語とは必ずしも余儀なく陥ち入った場処ではなく、自らを他者(他人・社会)から守るためにすすんで選択した手段でもあるといえるだろう。また、自分というものと他者との関係が最も露骨に見える場処が、失語なのだといってもよい。くり返すが、他者がはっきりと見えないから沈黙するのではなく、見え過ぎるから沈黙するのである。このことはたとえば、メルロー=ポンティがレンブラントの「夜警」に触れて、「物をそれとして見るには、光、明るさ、影といった物と空間の戯れそのものを見てはならない」と言っていることと相応している。
画家はある意味で、絵の中で失語を積極的に選択する。何かを他者に訴えるために「表現」するのではなく、沈黙の視野の中に己れの全てを投げ出すことが表現となる。セザンヌにとって、かれの描いた青い山や湖は、人間に親和的な自然の美なんかであってはならなかったのだ。セザンヌ自身はそれを「戦慄」と呼ぶのだが、わたしはこれがセザンヌの全て(・・)でなくてはならなかったのだと思う。小林秀雄はリルケを引用することで、セザンヌの選択が何であったかを示唆している。
「私はこれを愛する」と言っている様な絵を画家は皆描きたがるが、セザンヌの絵は「此処にこれが在る」と言ってゐるだけだ(とリルケは)言ふ。
(小林秀雄「近代絵画」)
長い間わたしはこういった道学者的なことばが理解できなかった。道学者的な達観としてこれを読むならば、それは気の利いた反語でしかなく、わたしはたぶんそのようにしか受けとることができなかったのである。今は、第一次大戦の予兆、父親の訃報、ロダンとの別離という状況の中でのリルケのせっぱつまった詩心を、ある程度読むことができる。又、何故昭和二十九年の小林秀雄が、このように書いたのかを理解できる。「此処にこれが在る」とリルケがサロン・ドオトンヌでセザンヌを見た時期はかれが「マルテの手記」を書いている時期に重なっている。つまり、パリという大都会のただ中で他者から疎隔されていることを実感していた時であり、かれのことばによれば「孤独」と「生きることの不安」の中にあった時である。かれは自己と他者を結びつける親和的で欺瞞的な言葉というものを、積極的に、セザンヌの絵のように放擲したのだといえる。
自分が変わりつつあると、なんのために人に言わねばならないのか?変わりつつあるのなら、僕はもうかっての僕ではないはずだ。以前とは違った自分になっているのなら、僕にひとりの知人もいないことは明白だ。僕の知らない人々に、僕を知ってはいない人々に、手紙を書くことはできない。
(ライナー・マリア・リルケ「マルテの手記」杉浦博 訳)
わたしは確信するのだが、リルケのセザンヌ体験を、かれの詩法に沿って言葉にすれば、詩人にとっては、どんな言葉も虚偽でしかないということと、詩人はどんな場合に於ても虚偽を表現してはならぬという二律背反(ディレンマ)が、セザンヌの絵の中では乗り越えられているという事実への驚きであったといえるだろう。どんな言葉も虚偽でしかないということは単に、言葉というものは己れの人間的本質をそこにのせて他者へ運ぶには十分なものではないといったことではないだろう。それはたぶん言葉が、固体内部での内圧であることをやめて、他者(他人・社会)へと放出されるや否や、自分自身が一個の他者となるような存在様式それ自体の性格を指している。リルケが、「僕の知らぬ人、僕を知らぬ人に手紙をかくことはできない」というとき、自分が一個の他者となることへの不安を表明しているのだ。つまり「僕のことば」によって「他人が理解する僕」というものは、かれにとってもまた一個の他者となる他はないからだ。このことを裏返して言えば「彼は彼以外のものにはなれなかった。」(小林秀雄)ということになろう。小林秀雄はこういうむき出しの「私性」に宿命という名を与えているが、吉本隆明はもうすこし噛んで砕いた説明を与えている。師イエスに忠誠を誓いながらもそれを裏切ってしまうペテロの話や、親鸞に絶対的忠誠を誓い「それなら人を千人殺してみよ」と逆にやりこめられる唯円の話をとおして、人間はある意味からはかならず語った言葉とは別のことを実現してしまうという要素を本質として持っているのだという。この本質を、個人の意志が手を触れることのできない「自然」であり、人間の存在がはじめからどうしようもなく保持している「性格」であると見るとき、この「自然」とか「性格」というものにはふたつの規制力が働いている。ひとつは生―死をつらぬく生物体としての人間の性格であり、もうひとつは社会(共同性)を必然とした類的な人間の性格である。ひとは個人の意志としては、このどちらにも自分をアイデンティファイしようとすることは可能だが、実際にはそのどちらからも規制された現実の自分にしかなることはできない。こういった「自然」をどうやって料理し、盛り付けるかは各人によっておのずと異なるだろうが、こういった「自然」に無自覚であるような表現はほんとうの指南力を持てない。小林秀雄がリルケを引いて「此処にこれが在る」と書いたとき、かれは己れの自然を自然として語らしむるためにひとつの言葉を放擲したといえるかもしれない。つまり他者に対して語りかけたり誓ったりする言葉を、である。「情況が<無>にひとしい」(吉本)ときは、言葉も<無>にひとしいといった真理がその代償であったはずである。
画家は、もしかれが筋金の入った芸術家であるならば常に、絵空事という虚偽と、手を触れられそうにない「自然」の前で苦慮しているはずである。画家にとってかれの指先から生まれてくる色彩や造形は、詩人にとっての言葉である。そしてそれはいつも虚偽を表現してしまう言葉であるのだ。むろん画家はこのとき、己れを表現しようとすれば描かれる対象は死んでしまうし、対象を対象として表現しようとすれば己れの感覚はそこからこぼれ落ちてしまうといったような論理を己れの内部に持っているわけではない。あるいは又、己れを表現するということ(すなわち個人の心的な世界)は、社会的に認知され得る対象表現とは相容れぬものであるといったことを考えているわけではない。ただ画家は自分が自分の作品に永久に満足できないということを知るとき、己れの資質というものと直面している。「自分というものが干渉すると、みんな台無しになる、何故だろう」というセザンヌの苦悶は、この画家が絵筆をとった瞬間に自らの資質と直面している様子を雄弁に伝えている。誤解してはならない。セザンヌは、自我を捨て去らねば物の本質は見えないといったふうな達観を披瀝しているのではない。「こころ」の啓蒙について語るにはこの男は余りに人間というものから傷を受け過ぎていたし、人間(他者)というものに信をおいてはいなかった。自分に向かってだけささやくように吐かれる言葉というものは、それをいったん口に出して表明するとどうして欺瞞を響かせてしまうのか。<自分の>感覚というものは、それに形式を与えるとどうして別のものに変じてしまうのか。セザンヌの絵画がその最も深いところから響かせているのは、こういう声である。個体はいつも、自分自身と、かれがつくり出しているものとの間に、ずれ(・・)を産み続けている。こういった事に意識的であるか無意識であるかということを問わないとすれば、誰もがこのずれ(・・)の実感を通り過ぎてきている。なぜなら、このずれ(・・)は個体をつらぬく原理のようなものであり、現実が希薄になるとき、すなわち「青年期」のように観念の世界が肥大して現れるときや実生活の中で思わぬ孤立を味わうとき、原理だけが大きく拡大されて見えるからである。
人間はもともと社会的人間なのではない。
(吉本隆明「個人・家族・社会」)
たとえば、右のような認識は、それを客観的な人間認識としてみる限りでは、正しいともいえるし正しくないともいえる。ただ、自分というものが、不可避的に社会の方へ押し出されてゆくのだという実感のあるときだけ、こういった認識が原理のようなものに変わる。そして、不可避的に押し出されてゆく社会というものを長い時間をかけて必然に変えてゆくのが生活であるとするならば、セザンヌには最初から終わりまで生活意識というものが希薄であった。からは「人生とは、まったく恐ろしいものだ」という実感の前で立ちどまり、自分というものをこの感覚に従わせ、この感覚を絵に変えた。セザンヌという画家に関する逸話の中で最もわたしに興味深いのは、かれの色彩理論や人間嫌いの際立った性格ではない。それは、次のような「自然」に対する不思議な光学を述べたところである。
私はときどき散歩に出たり、市場へじゃがいもを売りにゆく小作人の二輪馬車の後からついて行ったことがある。彼は、サント・ヴィクトワールを一度も見たことがなかった。彼らは、あっちこっち、道に沿って何が植わっているか、また明日はどんな天気か、またサント・ヴィクトワールに冠がかかっているかどうか、などは知っている。犬猫のように、彼らは自分たちの必要にだけ応じてかぎつける。―中略―
ある種の黄色を前にして、あの人たちは自発的に、そろそろ始めなければならない刈り入れの仕草を感じとるのだ。
(ジョワジャン・ガスケ「セザンヌ」)
ここでセザンヌが言っている「あの人たち」からすれば、セザンヌの洞察は全くの見当違いであることはすぐにわかる。小作人の生活は実に多くの心配事や試行錯誤に満ちているだろうし、観察だろうが科学だろうが収穫に必要な情報には常に心を配っている。収穫までの営みの中にはかれが恐ろしいと感じて遠ざけたような「人生」がそのまま凝縮されている。けれどもセザンヌは「あの人たち」の中に、「犬猫」をつらぬいているのと同じ生の原理だけを見ようとする。セザンヌは、こういった生の原理を、あるがままの自然であると見ている。ほんとうは経験の積み重ねがもたらした知恵である刈り入れの作法を、季節がくれば発情し、帰巣の道をあやまたぬといった動物の本能のように感じとる。
これがセザンヌを生涯つらぬいていた「自然」である。
そしてもし、セザンヌが卓越した画家であるとすれば、それはかれがこの独特な「自然」を持っていたという事実によってではなく、こうしたかれの「自然」は絵の中でだけ独特に表現されうるということを発見したからだ、そうわたしには思える。
そこに在るものを在るがままに描く―これはセザンヌの絵の中にリルケが読み、小林秀雄が己れの夢を託したテーマである。だがこのテーマ自体はレオナルド以前から画家が共通に抱いていたものなのだ。そして、このテーマがあったからこそ、技法上の様々な発明―それは遠近法とそのヴァリエーションの歴史であり、色彩効果の追求であるのだが―が次々へとなされてきたわけだ。そしてこのテーマ自体は、おそらくはこれから先も(宮川淳ならば反発するだろうが)変わるまい。なぜなら、このテーマは単にレアリスムの問題(即ちイデーの問題)ではなく、われわれの意志にかかわりなく、ごろり(・・・)と目の前に投げ出されたひとつの事実であるからだ。つまり、われわれの外部にあって、どんなにわれわれがそれに働きかけ、通じようとし、とり込もうとしても永遠に<他なるもの>であるところの自然、他者、他処。
<見ること>だけが、この<他なるもの>へ架橋されているのだが、それはついに一方の通行しか許されてはいない。そして、自分も又<他なるもの>であるという発見が、人に喋言ることをおしとどめ、あるいは描くことの中に不安をもたらした。書くこと(喋言ること)そして描くことが<他なるもの>へ働きかける快楽であり、慰安であり、自己確認の安定であるかあるいは逆にそうすることが<他なるもの>からのずれ(・・)の意識の増大であり、嘘の生産であり、ついに地獄であるかは画家の才能なんかの問題ではなく、たぶん資質(選び取られるものとしての)の問題であるだろう。人がほんとうの自発性から選びうるものは資質だけであるという意味での資質でそれはある。
もし、並みいる印象派の画家の中で、ゴッホとゴーギャンだけが、他の力量的の不足のない画家群から距てられるものがあるとすれば、それは自ら選びとった資質そのものによって、かれらの描こうとするものがついに<他なるもの>であり、それを在るがままに描こうと工夫すればする程、かれらの筆は虚偽を表現し、不安を拡大するということをかれらが知っていたからである。だからこそかれらは、印象派のほとんど完ぺきなまでに洗練された騙しの技法を一たんは通りつつもそれに逆行するような言わば稚拙さを選ぶ。たとえばルノアールならば、騙し騙される余裕を支えているところの確固たる生活の空間があったといえるだろうが、かれらの性急さは生活のゆるやかな時間とおり合わなかった。逆に言えばそれはルノアールが、ゴッホやゴーギャンほどには<他者>を必要としていなかったと言えるかもしれない。「彼らの用いるひとつの色彩なりひとつの線が、画家の精神の内部をはっきりと映しだし、あるときはその色彩なり線が、彼らの性格を規定し方向づけてさえいる」これは安東次男の卓見だが、この「精神の内部」とは、<他者>への(現実の中では生きられない)希求であったと言えないだろうか。そしてそれは又、絵の中でならこの<不可能な他者への同一化>が可能であるかも知れぬという逆説をよく表現し得てはいないだろうか。
ゴッホの「麦畑」、ゴーギャンの「タヒチ」は、かれらがその中で無意識を貪り、働きかけ、獲得し、ようするに生活した<此処>ではなく、どうしても中に入ることのできぬ<他処>であり、だからこそそれらしく見せているが結局は虚偽でしかない夥しい<此処>に対するほんものの<此処>をその不在によって逆説的に強くわたしに訴えかけてくる。
しかし、それが逆説である限りに於て、ゴッホやゴーギャンの絵は、わたしの精神の内部に強くかれらの<此処>を意識させ、共感を呼ぶが見るという体験それ自体のうちでは、不可能であり、失敗であり、傷の深さでしかあり得ないのである。たぶんかれらの絵を、絵画(つまり見ることの冒険)であるより以前に、ひとつの精神の痕跡として(現実の中ではついに生きられぬ精神の冒険として)印象付けられてしまうのはわたしだけではあるまい。そしてこのことが、かれらの作品を絵画の系譜から外へはじき出し、嫡子を持たぬ孤高として立たしめたとわたしにはおもえる。かれらの<他なるもの>へ自己同一化しようとする希求、あるいは<他なるもの>を自己の内部へ引き寄せようとする希求は、それを現実の中で馴れ合わせ、平衡を保ってゆくには余りに強過ぎたとはいえないだろうか。ゴッホとゴーギャンの絵画が等しくその深部から響かせているのは、この<過剰>である。
もし(とあるとき、ジャコメッティは考えなかっただろうか。)もし<他なるもの>を「わたしの表現」として絵画にすることが禁じられているのならば、<他なるもの>をそれ自体として凝固させれば、この不可能は不可能のまま現前し得るのではないだろうかと。このとき在るものを在るがままに描くという絵画のテーマは転倒されねばならなかったはずである。なぜなら、画布をどんなにこねくりまわしてみても、<他なるもの>が<他なるもの>として<わたしの絵画>の中に現前するというテーマは矛盾でしかあり得ないのだから。つまり<他なるもの>はついに絵になりはしない。所謂ミニマルアートや具体派がやったように絵画それ自体を<他なるもの>にすることはできたとしても、である。絵画それ自体を<他なるもの>にしてしまうことのうちで不人称化を謳うのではなく、またシュール・レアリスムが試みたように<他なるもの>のその<も(・)の(・)>を放棄して<他なるものが与えるイメージ>によって描くのでもなく、<他なるもの>をそれ自体として凝固させること。ジャコメッティのプランはここにあり、ここにしか無かったと断言してもよいように思える。つまり、<他なるもの>を絵に変えるのではなく、<他なるものの絵(イマージュ)>(<他なるもの>がじぶんとの間につくっている距りそのもの)をつかみとるという試み。<他なるものの絵(イマージュ)>、つまり<わたし>と<他なるもの>の間にあるずれ(・・)そのものを描くことに、それは他ならない。在るものを在るがままに描くというテーマは、ここで見えるものを見えるままに描くというテーマへと転倒される。だが、ほんとうは転倒されたのは、絵画のテーマなのではなく、<見える>という語の内実であるのだ。ジャコメッティに見えているのは対象(モデル)それ自体、<他なるもの>それ自体、在るがままの物それ自体ではなく、あるいはそれらのイマージュでさえなく、それらを見えるものにしているずれ(・・)そのものであり、見えるものからの内的な距離(へだたり)そのものである。
物をそれとして見るには、光、明るさ、影といった物と空間の戯れそのものを見てはならない。
(モーリス・メルロー=ポンティ「眼と精神」)
たぶんジャコメッティが見ているのは、この物と空間の戯れである。物をそれとして描く画家にあっては透明で親和的な見ることの可能性であったものが、ジャコメッティには横切って行けそうにない、ざらざらした邪悪で不透明な<距離(へだたり)>であるのだ。だが注意しなくてはなるまい。ジャコメッティがひとつの常軌を逸した眼、達人的なものの見方、天才的な透視力を披瀝している訳ではないということを。たとえかれが次のように語ったとしても、である。
私が見つめている顔が凝固し、一瞬の中に決定的に不動化するのを初めてはっきりと認めたとき、私は生涯かってなかったような恐怖に震え、冷たい汗が背中を流れた。それはもはや生きている顔ではなく、何でもよいほかの物と同じように私が眺める一つのオブジェにすぎなかった。いや、そうではない。何でもよい物としてではなく、いわば同時に生きてもおり死んでもいるあるものとして私はそれを眺めたのだ。
(「夢・スフィンクス楼・Tの死」矢内原伊作 訳)
もしここでジャコメッティが、ひとつの宗教的とも言える体験、奇跡、天才の透視、達人的視力といったことを語っているとするならば、もはや批評がそこに介入してゆく余地はない。画家がもし、自分は常人の視線を越えてとびぬけてよく見える眼を所有するに到ったと語りはじめたら、われわれはもはやかれに付き合う必要はないのだ。達人のみが到達し得るひとつの境地。それはかれの見果てぬ夢でありわれわれの現実とは絶ち切れたところにあるもうひとつの<現実>である。それはまた、われわれがこの現実を捨てて、かれの宗門に下らぬ限り体験不能の<現実>であるのだ。奇跡は、ただ修行の中で<体験>することができるのみで、決して了解を導くものではない。この現実から地続になっているものは何もない。ジャコメッティの語る非現実的なイマージュは、このような意味での秘跡とは無縁のものである。宮川淳が言うように「ジャコメッティは以前よりも現実をよりよく、あるいはより深く見るようになったのではない。現実は彼にとってまったく別なように見えるようになったのだ」としても、(そしてこの洞察は全く見事なものだが)現実から飛翔して超越的な見者の方法を獲得したというようなことは全く根拠を持たない。
事情は全く逆である。誰もが思いもせぬ<失語>を体験し得るように、誰もがかれのように<現実の凝固>を体験し得る。そしてこれがジャコメッティの作品の持つ戦慄の根拠なのである。誰もが、疲労感や意識の混濁の中で、物と自分との距離が氷りついてしまったり、他人の顔がもの(・・)になったり、自分が浮き上がってしまったりする体験をしているはずである。ジャコメッティの言葉から資質がもたらす特異な嗜好とオブセッションを取り除けば、それは誰もが体験しているこの<ずれ(・・)>の感覚と等しいものになるはずである。重要なのは、かれの特異な嗜好やオブセッションなのではない。誰でもが体験し得る<対象の凝固>の方なのである。この体験には非現実的なものはない。前―現実的なものはあったとしても。
生きてもおり同時に死んでもいる顔。だがそれこそ、人間のあるがままの姿であるのかもしれない。たとえば眠りとは間欠的な<死>のイマージュであり、他者のイマージュとはひとつの<死>を意味しているとはいえないだろうか。たとえば、中学生の頃の朝礼のとき整列している前の人の耳だけを凝視したことはないだろうか。耳だけが大きく見え、奇妙な肉色のかたまりへとそれは変わる。それが音を聞く器官(つまり他者に交わるための生の希求)としてではなく、限りなく肉体の部位へ、それ自体のもの(・・)へと変じてゆくときのこの肉色の塊りである耳。それはまさしくモーリス・ブランショが言うところの死骸、「それ自身のイマージュ」であるところの死骸ではないだろうか。
そして、にもかかわらずジャコメッティは死体としての人間を絵にしようとしたのではない。生きてもおり、同時に死んでもいる人間を絵に変えようとしたのである。
もし、死体(化石化した人間)を絵にするのなら容易であったはずである。ジャコメッティの言うところとは別の意味で、見えるものを見えるとおりに模写すればそれはよかったのだから。所謂古典派の(たとえばアングルの)描くところのものは、(かれらが、あるがままに描くというテーマを標榜しながらも)限りなく化石に近い人間像となりはしなかっただろうか。
ほんとうは、ジャコメッティが見えるものを見えるままに言うとき、それは在るものを在るがままに描くというテーマについて語っており、所謂レアリストが在るものを在るがままにというとき単に見えるものを見えるままに描いてしまったということではなかっただろうか。そして、こうした逆説が起こり得るというところに絵画の真のもんだいが隠されているのだとはいえないだろうか。<在るがまま>を標榜しながらついに<見えるまま>しか描けなかったリアリスト。画家がこの見果てぬ夢を実現するかわりに、見ることの快楽を分かち合ったとしても、避難する必要もないだろう。そういう絵画もあるのだと言えばよい。けれども、見ることが快楽でなく<他なるもの>から距てられているという痛苦でもあったゴッホやゴーギャンの過剰な夢は救済されなくてはならなかった。なぜならそれはセンチメンタルな夢なのではなく、原理のように人間をつらぬいているひとつの現実であるのだから。
「なぜなら私はあなたがそれに対して手出しをすることのできぬ必然性の中にとらえられているのだから。もし私が私であるところのものに他ならないのなら、私は不滅だ。私が私であるところのものであるがゆえに、無条件に、私の孤独はあなたの孤独を知る。」
(ジャン・ジュネ「ジャコメッティのアトリエ」)
ジュネが感動を以ってこう繰り返すとき、この「至高の浮浪者」は、ゴッホやゴーギャンが果たせなかった<過剰な夢>の解放の糸口を把んでいる。<他者>を<他者>のままに知ること。たぶんこれは、ジュネが握りしめていたイマージュだったのだろうがすぐれて、ジャコメッティの芸術の方法の示唆たり得ている。ジャコメッティが「見えるものを見えるとおりに描く」というとき、そこに「<他なるもの>を<他なるもの>のままに理解する」ということを読んだとしても、間違ってはいないはずである。ジャコメッティ自身、自らの芸術の意図について語っている。「芸術は、私が見るものを私自身がよりよく理解するのに必要な手段なのです」と。ジャコメッティにとって<見えて>いるのは、<そこに在る>もの、つまり対象の即自的な存在形式ではなく、またかれの網膜上に映された対象のイマージュでもない。<そこに在る>ものと<見えているもの>との間にある落差であり、関係の不可能性なのだ。この<落差>には形式がない。なぜなら、それは形式を産むものではあっても、形式それ自体ではないのだから。詩人ならば、そこに与えられる形式(言葉)がついに虚偽でしかないということを知って、沈黙に加担するだろう。からが失語を選ばなかったとしても、沈黙を際立たせる為に言葉を用いるのだと言うだろう。詩人の言葉は<お喋言り>が終ったところから表出されるのだから。
ジャコメッティは、<他なるもの>を<他なるもの>のままに理解するために、<他なるもの>と<私が私であるところのもの>の落差そのものに形式を与えるという試み(それがついに不可能であると知りつつも)に、己れの夢を託したといえはしないだろうか。現実の生活の中では、「喋言ったってしょうがない」「描いたってそれは絵に過ぎない」という不可能せいであり、他者から距てられているという意識の痛みでしかないものが、試みている間だけは生きられる・・・
しかしまさしく目の終ったところから視線は始まるのだそして視線の終ったところからはなにもはじまりはしない始まるのは le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui・・・一種の痛みだけだ受け継がれるところのない不透明ないたみの連祷だけである
(安東次男「CALENDRIER」)
アナロジーが許されるならば、マラルメを借りて安東次男が書いたように、視線の終ったところに<他なるもの>は位置しており、ゴッホやゴーギャンは「いたみの連祷」を表現し、ジャコメッティは視線(絵画)の終ったところから仕事を始めたといえるかもしれない。ジャコメッティは仕事を試みている間だけ、<他なるもの>をそのままに理解し得るが、結果(絵画)を見るや否や失望するのである。だが、ほんとうは、それほど失望するにはあたらない。半ばは、かれの意図は達成されているのだから。かれが発見し、試みたいくつかの<他なるもの>を表現する形式。それはかれが考えているほどには失望するものではなかったといえる。なぜなら、それら<作品群>を他なるもののままに生かすのは、もはやかれの仕事なのではなく、こちら側の(即ちそれを見るものの)仕事であるのだから。かれがつくり(・・・)、見るものがそれを完成させる。「手品師は毎晩三百人の加担者を持つ」とサルトルは言っている。そしてサルトル自身がこの加担者となり、驚くべき観察を記すとき、ジャコメッティの作品の半ばは成就したということをわたしは知るのである。「ディエゴの眼は、私がそれを見つめれば見つめるほどはっきりしないものになる。しかしその場合私には少しばかり落ちている頬や唇の隅の不思議な微笑は見えているのである。」注意力を集中すればするほど限りなく物質に、(こちらの希求の届かぬ<他なるもの>に)変じてしまい、ぼんやりとしているときだけは、はっきりとこちら側へ親和的な眼差しを送ってくる・・・・これはあの整列しているときの前の人の耳が、それに注意を集中すればするほど限りなく肉色のかたまりへと変じていった体験に似ている。また、見えなかった関係(それは関係の不可能性なのだが)が見えはじめたときに思わず人を「喋言ったってしょうがない」と思わせる<他なるもの>のイマージュに重なり合う。そしてそうであるがゆえに、人の掛け値なしの孤独が信頼の光のもとに浮かびあがる。わたしにはそのように思えるのである。絵画が、単に美的なるものの生産ではなく、職人芸の披瀝でもなく、また画家のイメージの押し売りでもないひとつの生の倫理(そしてそれに形式を与えるという熱望)としてこちら側に語りかけることもあるというこれは希有の例ではないだろうか。なぜなら、<他者>の孤独をそのままに信頼するということはひとつの<倫理>に他ならないのだから。
その年、ひとりの友人が、思いがけぬ病いによって、驚くべき早さで連れ去られた。(そして、この年にわたしは結婚した。)
かれは一流の商社マンだったが、かれの<死>を前にしたとき、わたしには有能な商社マンであるかれではなく、猛烈な勢いで文学や芸術の世界へ跳び込み、もがき苦しみながら召還された<青年>のイメージばかりが大きくふくらんだ。かれの<死体>は、すべての死体がそうであるように無惨であった。それは限りなく一個のもの(・・)であり、場処ふさぎでしかないように思われた。わたしはその<もの(・・)>に呼びかけたが、声は届きそうになかった。
だが今、わたしは思う。このとき届かなかったわたしの声は、かれがしなやかな<生>の中に在ったときも、届いてはいなかったのではなかろうか、と。自分の声は必ず相手に届かなくてはならないという思い込みは、それ自体ひとつの錯誤ではなかったのだろうか。かれにはいつも自分をアイデンティファイする場処への強烈な飢餓のようなものがあって、それがわたしには生き急ぐあやうさのように映っていた。なぜなら、わたしには自分を何かにアイデンティファイしなくてはならぬという要請が全く無かったのだから。かれは、この飢餓感によって、わたしなどよりずっと絵画や詩を身近に引き寄せて感じていたということは確実である。かれは、たぶん画家の精神に身をすり寄せるようにして、絵を見ていた。かれが商社マンとしての自分を選んだとき、自分から、画家の精神に身をすり寄せて絵を見るということを禁じたはずである。なぜなら、画家の居る処まで下りていって、そこから絵を見たとき、商社マンとしては生きることのできぬ何かがそこでだけは生きられるということを知っていたからである。
かれは自ら選んだ生活と観念や幻想のなかでの<生>が並びたつものではないということをよく知っていて、力業ともいえる強引さで一方をねじ伏せた。かれが己れの内部にある<過剰な生>(なぜなら生活の中ではそれは過剰な精神の動きでしかないから)を何処に沈めたのかは知らない。しかし、その<過剰>故に、かれは商社での生活のひとつひとつの局面で幾度も選択の苦痛に耐える必要があった。「ビック・ビジネスというものひとつの仮構であり幻想に過ぎぬとしても、それを認めて道化の役回りを演じるためにはかれには何かが不足しており何かが過剰であり過ぎた。」わたしはたぶんそんなふうに考えていた。もし、この過剰故にかれに(そしてわたしにも)よく見えてはいなかったものがあるとすれば、それはたぶん誰もがこういう過剰を内に抱きながら己れの生活を選び成熟してゆくのだという単純な生の原理だったように思える。
<病い>はかれを仮構の中での役回りからかれ自身の生へ連れもどした。頭のてっぺんから脳圧を下げるための細長い管をぶら下げながら静かに笑っていたとき、かれは過剰な生を行使するに足る場処を見い出したようであった。かれは自分の中にある他人(ままならぬ自分の肉体そのもの)を支えるためにだけ過剰な生を使い、使い切っていった。もはやかれは選択する必要はなかった。かれは、だんだん言葉少なくなって、ついに喋言る必要がなくなったとき(かっては心ならずの失語だったが)自分の中の他者そのものになった。(これはわたしの希望である。)
もし、わたしがかれの<死体>を悲惨と形容するとすれば、それはわたしの中にある行き場のない<過剰>のためだろう。かれはいまわたしの声が届かぬ処に在るが、嘆く必要もないのかも知れない。かれが己れの<過剰>を使い切ったところで死んだのならば、わたしも己れの<過剰>を届ける必要はないのだから。もしなにもしてやれなかったといって嘆く残されたものに慰安があるとすれば、偶然に選ばされた<死>をかれが土壇場で選びとった<死>に変えたのだと信ずるときだろう。なぜならこういうところでわれわれは、つねになにもしてやれない存在なのだ。「無条件に、私の孤独はあなたの孤独を知る」たぶんこういうおもい(・・・)を噛み続ける以外には。
絵画はいつもその<意味>に於て饒舌であり、その<存在>に於ては寡黙であり続けた。セザンヌの一枚の絵には批評家の数だけの解釈があり、意味が探し求められる。けれどもセザンヌの絵の中でサント・ビクトワールの青い山に出遇うものにとって、これらの解釈や意味が、かれに何も付け加えないということも又事実である。かれは、批評家になろうとさえしなければ、沈黙との幸福な出遇いを得ることができる。気持ちの良い大気が絵の中にある。誰かが、魔術など使うことなしに、混ざり気なしの晴朗を保存した。これで充分である。とはいえ、誰もこの気分の良さに浸っていることだけで満足しないということも事実である。われわれの不幸な性癖が、ぼんやりとした気分の良さと引き替えに批評家である息苦しさを選ぶ。われわれの身体を絵の中に貸し与える代わりに、理性の迷路に絵を引きずり出す。われわれが絵に精神を集中すればする程、ぼんやりした気分の良さは遠ざかり、「似ているというだけで人々が賛美する絵画の空しさ」というパスカルの言葉を実現してしまう。われわれは絵を前にしていつも引き裂かれていく。
ひとは、絵画を語るとき、まず自分の感動に形式を与えようと思うだろうし、その感動が何に起因しているのかを分析したく思うだろう。思うに、それがもはや不運な選択なのだ。というのは、このときひとは同時にふたつの矛盾する前提を選択することになるからである。自分の感覚が他者のそれと必ず共有しうるという確信と、自分の感覚こそ他者に対して独自であるという自負とである。もし、感覚の共有というものが信ぜられぬなら絵画は十人十色の嗜好の対象でありそれについて他者に語りかける<理由>がなくなるし、反対に独自な感覚というものは他者に伝え得ぬことで<意味>を保持しているものだからである。したがってひとは、相手の相づちを求めているかのように語り、相手の無理解には、画家の<思想>とか智者の<了見>を数えあげることで答えることになる。けれどもそのとき絵画の生(なま)の体験が、もはや遠く離れ去っていることを忘れるのである。わたしは<自分の中の絵画>を、それが生起してくる状態へ置き直してみる必要を感じていたし、そのなかで<絵画の中の自分>と出遇いたいと思っていた。ジャコメッティの作品は、ひとつの機縁だった。
一九七三年、サルトルやジュネが並々ならぬ情熱をこめて語ったアルベルト・ジャコメッティの作品が東京にやってきた。( ALBERTO GIACOMETTI EXPOSITION AU JAPON )
かれらが「絶対の探究」と呼び「至高の不動性」と形容したその作品と直接に触れる機会が与えられた。その細長く伸びた奇妙な彫像と、何度も塗り直されて顔の部分だけが厚くなった肖像画は薄暗い会場の中で、他のどんな作家の作品とも異なった印象を与えた。
ジャコメッティの作品は彫刻や絵画の様々な流派、系統のひとつの典型というものでは全くなかった。それは系譜を持たぬものとして、それ故他の様々な様式全てに対する否定の契機であるように思われた。眼の前にあるものが絵画であり、彫刻であるためには、他のカテゴリー化された作品は別のものであり、他のものが絵画や彫刻ならば、これはもっと別な何かであるといった印象であった。ここにわたしが書く小論は、このときのわたしの精神の痕跡を、幾分分析的な手つきで、幾分かはメタフォリカルに語ることになるはずである。
絵画作品に対する定見というもの、あるいは絵画史というものの観点や到達といったものはここでは重要なことではない。したがって、特定の作品の解釈や、その作品が意味するものの歴史的意義、画家の技法上の問題や、コンセプトというものは語らない。個々の作品の相対的な評価というものは、いつでもわたしの実感の前で空しいという印象がある。人々が「いいものはいいんだ」「人さまざまだ」というとき、解説的な言葉や、作品に与えられた相対的な価値などは意味のないものとならざるを得ない。これは所謂、芸術は無用のものであるが故に個々の自由な精神の裡にある、ということは全然異なっている。一枚の絵画に向きあっている精神の運動は、ただひとつであるが故に、様々な解釈は無意味であるように見えてしまうし、どんなに正当に見える解釈も、精神の運動が書き込む地図にとっては単なる地名でしかあり得ないという現実のことなのである。地名をいくつ並べても地図はできそうにない。わたしは、「いいものはいい」というような感受性―たとえそれがどんなに大ざっぱで惰性的なものであろうと―に対峙できない評言は、いくら正確に緻密に論じられたものであってもダメであると思う。さらに、絵画論に限らず、作品論というものが、各々の作品に相対的な価値、評価を与えてゆくようなやり方を持っている場合には、それはやはり全くダメであると思う。少なくとも、ある作品を評価していく場合、それをする人間が自分の精神のどの水準で作品を測定しているかの自覚がなければ、作品の評価は永遠に「いいものはいいのだ」「人さまざまじゃないか」という体験が育てた確信の前で無用の長物となる他はない。誰も作品の価値のヒエラルキーをつくる特権など持ってはいないのだから。
<絵画>が、ひとつの語り難さを持っているとすれば、それは<絵画>が誰にも明白な、目に見えるもの(・・)であるという正確さの下にそこで生起していることがら(・・・・)のあいまいさを隠してしまうからであるといえる。<詩>や<音楽>は、それが文字であり空気のふるえであるより前にひとつのことがら(・・・・)であり、よく見えぬ明白ならざる体験であるだろう。ひとはことがら(・・・・)の体験をとおして現実の方を再びながめ直すかも知れない。作品は作者の精神の形式であるということを素直に信じさせるものがここにはある。<絵画>はいつもそれがもの(・・)であるということとことがら(・・・・)であるということの間で引き裂かれている。現実の距離と絵の中の距離は余りにはっきりと分けられてしまう。<詩>の中では、現実の時間と詩の固有の時間が重なり合い競合し影響しあっているのに比して、<絵画>はいつも絵空事であるという不運を負っているかに見える。時間は余儀なく選ばされるものであるが距離は自由に選べるということが、この不運に一役買っているのかも知れない。われわれが内的な距離というもの(他なるものと距てられているという孤独感のようなもの)を獲得し得たときだけ、現実の距離は二次的なものへ変わるといってもよいだろう。
<絵画>のもつこの二重性、もの(・・)とことがら(・・・・)の間で引き裂かれて在るという性格は、しかしひとつの可能性(それが負の可能性とでも謂うべきものであり、われわれにとっては見えてはならぬものであったとしても)を拡いているはずである。なぜなら、この<わたし自身>というものが原理的にはもの(・・)とことがら(・・・・)との間で引き裂かれて在るからである。人間は肉のふくろ(・・・)だといったのは、確かカフカであったと思う。ひとつの絶対的な孤独、他者から永久に距てられているという意識が、こんな発見をさせるとはいえまいか。
ジャコメッティの作品を見ていると、画家の思想とか作品の意味や形態上の特徴より以前に、存在とか孤独とか距離という言葉が自然に浮んでくる。それは、われわれの生活に生まれる傷口ではなく、存在自体が持つ傷口であり生活につくためには救済されねばならぬはずの桎梏である。サルトルやジュネが魅せられたのもこの「深さ」に違いないが、それは表現主題そのものが意味として持っていた哲学性ではなく、われわれがその作品とともに生んでいったものである。かれは何か新規なものや美しさといったものを生もうとして制作したのではない。誰でもが持っている桎梏に、ひとつの形式を与えただけである。もしそこに何かしらの新しさが在るとすれば、「見ること」のなかにすでにある距りの感覚を見えるものの中に持ち込むことでひとつの形式とするという無茶を敢えて犯した事である。「見えるものを見えるままに・・・」とかれは繰り返す。見ているのはかれであり、見えているのはかれではついにあり得ぬもの(・・)である。こちら(・・・)側でありあちら(・・・)側でもあるひとつの絵。途方もない試みだ。
人はさまざまに絵画を語ってきた。絵画から受けた印象を語り、絵画が意味するものを翻案し、画家のメッセージを再構成するといったように。だがたぶん最も本質的なことはまだ語り始められたばかりなのだ。それは絵画は(たとえばジャコメッティの試みが)可能であるのか、そしてそれは、われわれの視覚体験をどこに向って運ぼうとしているのかということを知ることにある。つまり絵画史の文脈に沿って作品を位置付けてゆく作業に代わって、絵画史全体を別な文脈へ(深みへの追求へと)組み変えてゆくような作業を絵画は要求している。
アンドレ・パリノとの対話の中でアルベルト・ジャコメッティは次のように述べている。「あなたを正面から見ると私は側面を忘れてしまう。側面を見ると正面を忘れる。すべてが不連続になる。問題はそこにあるわけだ。私はもはやどうしても全体が掴めない。段階がありすぎ、基準になるものがありすぎる。」(宇佐美英治訳)見えるという具体性、明証性の下に、それを見させているもの、見えるようにしているものが隠蔽されているということがいかにもジャコメッティらしいことばで語られている。ヴィジョンのトータリティ(たぶんこれがジャコメッティの手に入れたいものだ)は、目を閉じたときにだけ実現され、目を開くや否や即物的なものの外観がこれを消し去ってしまう。かれにとっては(そして誰にとっても)視覚はひとつの限定であり制限なのだ。それはまた詩人にとって語るということが、語らなかったすべての精神の動きへの裏切りであるということに通じている。詩人がひとつの言葉を選ぶ。画家が一本の線を選ぶ。だがかれにとってそれを選んだという理由は、そこで選ばれなかったすべての言葉や線を必要としているのである。ひとりの詩人によって記されたひとつの言葉が、もしなにか(・・・)を響かせるとすれば、それは選ばれなかったかれのすべての言葉によるのだといってもよい。絵画について語るという行為が、それを語るものにとって、もしなにがしかの意味を持ち得るとすれば、それは見えるもののなかで、画家の精神の暗がり(・・・)と出遇うという事をおいてはない。絵画は、画家が選びとった視覚であると同時にかれが選び得なかった視覚でもあるのだ。それが絵それごとであることをよく知っていながらもなおそれに引き寄せられ意味を見つける理由はここにしかない。この暗がりに触れ得なければ、批評の言葉は絵それごとの絵そらごとでしかないのである。
絵画を見ることの次元は、謂わば夢をそれと知りつつ見る夢なのだ。夢の中でのできごと(・・・・)の夢の中での意味は、覚めたときに見い出される意味とは別の次元のものである。しかしフロイトが「帽子」(ひとつの意味だ)を「性器」として読み変えるためには、その人間のなま身の生の体験を必要としたように、ひとつの絵画は、それをつくり出すものと見るものの全体を必要としているといえよう。絵画の記号論、あるいは絵画を記号に近づける試み(近頃流行の現象だ)がついに背理としての意味しか持ち得ないのは、できごと(・・・・)の現場から離れたブッキッシュな思考でしかそれはないからだ。「患者にもどれ」とフロイトが言ったのと同じような意味においてわたしは表現としての絵画へもどらなければならない。
メルロー=ポンティは、それ自体が最良の絵画であるような最後の作品のなかで次のように書く。
作品の歴史のばあい、それが偉大なものであるかぎり、後になってそれに与えられる意味はその作品に由来する。その作品がこれまでとは違った光のもとで浮かび上がるとしても、その場面を開いておいたのはこの作品そのものなのであり、作品そのものが<おのれ(・・・)>を変貌させて自分自身の続編に<なる(・・)>のである。
(「眼と精神」木田元訳)
かれは絵画になぞらえて、あるいは絵画に啓示されて古典的哲学思考から自由になるための方法を示唆しているのだが(それを触覚的歴史学とかれは呼んでいる)、かれが歴史という言葉に込めた意味は必ずしも明確ではない。だがかれが歴史という言葉で呼んでいるものを見なければ、こういった言葉は気の利いたレトリックでしかないだろう。かれが絵画をこういうかたちで語るとき、そこには「わたし自身が生長し己れの肉体を完成させてゆくように、わたし自身の絵画(視覚)を深めてゆく」ということの喩が隠されている。絵画は<そこに在る意味>でもなければ<そこに在るもの(・・)>でもない。謂わばそこに在ると同時にこちら(わたしのなか)にも在るものなのだ。この撞着したいい方、かなた(・・・)のものでありながら同時にわたしの内部でもあるという位相が存在すればこそ、作品がそれ自体の続編となるのである。そしてあちら側でもあり、こちら側でもあるという奇妙な関係を、ひとつのもの(・・)が媒介する精神の運動としてみるとき、<表現>のな(・)かみ(・・)も見えてくる。ならばそれを、それと知らずにわたし自身がつくっているもの、すなわち<歴史>と呼んでもよいだろう。
ひとつの絵にひかれる。このときひとは、その絵が何かのしるし(・・・)によって、対象描写の正確さによって、意味の深さによってひかれると思うだろうか。たぶんそうではないだろう。われわれは、視覚が受けとっている手ざわり(・・・・)によって、絵の前に足を止めるのだ。絵画の意味するものや技術的な特質は、この手ざわり(・・・・)に言葉を与えようとするときに見い出され得るものではあっても、そういったものが手ざわり(・・・・)をつくっているのではない。なま(・・)の体験とはいつもこういうものである。
手ざわり(・・・・)、つまり触れられる対象と触れる主体の臨界面で絶えずわたしの<うち(・・)>と<そと(・・)>が交互に入れかわる・・・
おそらく絵画は、そこにひとつの物差しをあてがえば、物差しと同じ表情と価値しかあらわさない。ボードレールはかれの批評の方法を述べて次のように書く。「私は誇らかにことをあきらめて謙遜な態度をえらんだ。私は感ずることに満足した。」(「一八五五年の万国博覧会、美術」中山公男・阿部良雄訳)ボードレールは、体系的な言葉というものがいつも精神の動きに「遅れをとる」ものでしかないことを痛みとして感ずることができたひとである。そしてそれ故に過酷とも見えるアングル批判を展開したといえる。
彼は、自然は修正され矯正さるべきだと信じている。(前掲書)
ほんとうにアングルがそう思っていたかどうかはこの際もんだいではない。ボードレールは己れの感受性がついに世に容れられぬものであることを知っていたが故に、一切の規範的なものの匂いを遠ざけているのだ。ボードレールの<方法>がどんなに正当なものであろうと、かれが謙遜な態度を選択したとは言えない。かれには唯一つの信じられるもの(感受性とよんでもよいだろう)を握りしめていたのだから。
画家にとってもわれわれにとっても、今日感受性なるものが、握りしめていられる唯一の武器たり得ているだろうか。たぶん否、だろう。寺田透は「今日の絵画世界は根本からひびわれている」と言ったが、感受性がひとつの党派性でしかないというところから語り始めねばならぬところに今日の絵画の悲劇があるといえるかもしれない。たとえば日本画とアンフォルメル以後の絵画を共通の文脈の中で語ることばは、解体しているという現実がある。現代絵画。それ自体がひとつの党派なのだ。「絵画は・・・でなくてはならない」というところから導かれ氾濫した語の群れ。それは選びとられた感受性のなかでしか意味の無い言葉であるのだ。そしてこの<感受性>の解体の過程こそが今問われるべきことではなかろうか。わたしが<感ずる>というときに、その対象とわたし自身との間に吾れ知らずつくり出している<関係>、そういったところからのやり直し。
絵画というものが、おのれ自身を変貌させて、おのれ自身の続編になるのだとしても、絵画以外のものにそれはなりはしない。批評の言葉はほとんどこの事実に耐えられない。そして、だからこそまた絵画について語るということがなに(・・)ごと(・・)か(・)であり得るのである。なぜなら、ついに<他者>になり得ぬが故に<他者>によって与えられている(そして<他者>とともにつくっている)生の確かな手ごたえにかえらなければならない。絵の手ざわり(・・・・)とでもいうべきところへ。わたしがじぶん自身の手ざわり(・・・・)によって何処へ導かれるのか。それはわからない。けれども、もし真実(・・)というようなものがあるとすれば、それはこういったところにしか無いだろう。
絵画については門外漢であるわたしが、謂わばその道の専門家に向って異議を申し立てるのも、わたしがわたしの生の手ごたえに対して嘘をつくことができないからに過ぎぬのであって、かれらにとってかわる新しい思想を記すためではないのだ。絵画をめぐってなされた様々な考察、わたしがこれから批判しようとしている多様な光学、それはまたわたし自身のものでもあるのだ。
たとえばイメージの周囲に文学的ともいえる手際で絵画論を組み立ててゆく坂崎乙郎のような批評家がいる。かれは書く。
果たして、『ボッシュの世界には善と悪を同時に包括する世界は存在しなかった』と断定できるだろうか。反対に私は、ボッシュの世界でこそ『善と悪、暗闇と光、悲劇とユーモア』がいわばエクィヴァレントとして絶妙な平衡を保っていたと考える者であり、このことはけっしてブリューゲルの偉大さを貶めるものではないと信じている。では、ブリューゲルの偉大さとは何なのだろう。それは明らかに自然に対する彼の洞察であり、この点に関していえばブリューゲルはボッシュより遙かに近代の戸口に近付いていたことになろうか。
(「イメージの狩人」新潮選書P.124)
無難にこなされたひとつの批評(そしてそのぶんだけ論者の息づかいから遠ざかっている批評)であるとこれはいえる。まず目にとび込んでくるのは<善>であり<悪>である。生まの体験ではなく絵画から取り出したストオリイを中心にして論が展開されている。坂崎の手(・)の(・)うち(・・)、それはストオリイの組み変えである。ゼートルマイヤーが措定した<美>の等級性というものに対してかれは画家の生きた時代とその時代に対する画家の洞察力の差異を強調する。だがこれまでにすでに述べてきたように<善><悪><美>といったものは、絵画から導かれたストオリイではあっても絵画それ自体に還元されてゆくものではないのだ。それは<こちら側>のもんだいであって見ること(こちら側でもありあちら側でもあるということ)の中に在るもんだいではない。<俺がそこに何を感じようと、それは俺の勝手だ>ということなのである。坂崎の論理のあやうさ、それは画家が時代への洞察力を持っていたとしても、それを卓抜な技術で絵にすることで見るものにそれが伝わるというリニアーなコミュニケーションの規範をどこかで前提にして語りはじめているというところにあるだろう。しかし画家の<思想>とかれの<作品>とは、ひとまとめにして相補的に語り得るものではなく、それがついに別々な文脈に還元される他はない。まただからこそ、かれは描くのではないだろうか。ボッシュやブリューゲルが持っていた時代への洞察力や自然認識といったものは、同時代の凡様な知的エリートだっておそらく持ち得ていただろう。かれらが並はずれていたとすれば、それはその洞察や認識に於てではなく、どんなにくだらぬと見える考えも、物の中で考え「物に住みつく」(メルロー=ポンティ)ことに於てなのである。ボッシュは<善>や<悪>を描いたのではない。かれはただ己れの存在をおびやかすか、喜ばせるかするものに明確な形式を与えただけなのだ。われわれは、ボッシュの与えた形式(フォルム)を、言葉にするのではなく、かれの絵を見ることでわれわれの内部に生じる戦慄が、どこからやってきたのかを自分に尋ねる。こういう精神の運動が、ついに見えぬところで坂崎乙郎は語っている。絵画作品の優劣。画家の描くということ以外の能力の優劣。こんなものはなんの根拠も持っていない。
誰にとっても価値があり、共通の財産となり得るような<絵画>という考えは意味を持たない。絵画の価値はわれわれの身体の外で、ニュートラルな状態で<そこに在る>というものではない。あるときわたしは<マンガ>の一コマにだって感動できるし、又あるときは極めて抽象度の高いものも身近に感ずることができる。誰にでも歌謡曲もクラッシック音楽も同時に受けいれる精神をあわせ持っているといっても奇異なことではない。健康な精神とはむしろそうしたものだ。チエホフが言うように「胃を病んでいるとは、他の器官が正常にはたらいていること」なのである。対象をひとつの傾向として裁断することは健康な器官をも切りとってしまうことになるだろう。われわれは、これらの芸術的対象を、絵画とか音楽一般として消化するのではなく、われわれの生活の時間のある水準の中で、特定の作品をひきよせることを選んでいるのだ。生活の時間の水準が異なれば芸術作品との出遇いの関係もまた異ってくるといってよいだろう。もんだいは、このときそれぞれの<関係>が自分にとって如何なる意味を持っているかを知ることであり、逆に如何にしてある<関係(ダイナミクス)>を可能にし、それがある意味として価値付けられてくるのかを知ることではなかっただろうか。坂崎乙郎というすぐれた批評家が、あえて語っていないもの。それは坂崎の<私>であり、対象とする絵画作品の価値付けの下に、それを可能にした<関係(ダイナミクス)>は隠されたままになってしまっている。
今日の美術誌を見ると、批評家は画家のはんぱな代弁者といった印象を持たざるを得ない。目新しい<絵画用語>を駆使して作品のカテゴリーをつくったり<絵画の理念>なるものを哲学から借りた概念でこねあげる作業は、おそらく前衛美術批評家の予備軍以外にはついてゆけぬものだろう。絵画が、それ以外の表現ではなし得ぬ仕方でわれわれにもたらす単純で直接的な精神の運動といったものを抜きにして語られるとき、肥大化した観念の自己運動、恣意的な解釈の多様性、抽象概念のトレーニング以外に実りあるものを得られるだろうか、と思う。
「伝統的な抽象は、具象のように人間、事物、風景を表現対象をしているのではないが、三角形や円であれ(幾何学的・無機的・冷い抽象)、不定形であれ(非幾何学的・有機的・熱い抽象)点や面によって生成する形象を有している点では同じである。そして、この形象は現代絵画の特性として、画面が奥行きを失い平面化してはいるが、依然として地(グランド)(後景)と図(フィギュア)(前景)の関係を保持しているものである。」(藤枝晃雄・客体的な実在を求めて・美術手帖一九七八年一月号―「創刊三〇周年記念特集」未完なるものの過程から―による。)
ジャクスン・ポロックやバーネット・ニューマンといったアメリカの抽象作家たちの擁護者である藤枝晃雄のこの文章は、雑誌編集者の要請もあってか、カテゴリー化のかたちをとっている。この部分はアメリカの<真正>の抽象表現主義に対して伝統的な抽象画を批判的に定義しているところである。
かれが<地>と<図>の関係を保持しているような絵画の<上位>に見ているのは<形象の機会を超えた客体的な実在>としての絵画であることは明確である。だが<客体的な実在>を<地>と<図>を持つ絵画の<上位>に置くという根拠は語られていない。ジャクスン・ポロックの<絵>にわたしは心動かす。だがそれを<客体的な実在>のためだなどとはとうてい言えない。ましてこの画家が、即物的なジャクスン・ポロックもの(・・)の出現の下に画家じしんの表現(おもい(・・・))を消し去ったなどとは金輪際いうことができないのだ。ジャクスン・ポロックの意味。わたしのかんがえでは、それは表現が成立するためには必ず偶然(それはひとの意志がついに届かぬものとして考えられている)が手を貸し与える。ひとは己れを語るに己れ以外のものをもってするしかないということの<悲劇(ディレンマ)>である。ポロックの絵が、わたしの精神を動かすのは、その<絵>のなかで選ばされる偶然のうえを、選びとった偶然がわずかにずれ(・・)ながらすべってゆくときにつくられる風景が在るからである。
藤枝晃雄がポロックの絵に<形象の機会を超えた客体的な実在>というテーマを読んだというのはいい。だがかれが<絵>を見るという体験がどんな経路をたどってかくごとき言葉となったのか、そこが見えぬ。そして、そこが見えなければ、かれが賞揚する<真正>の抽象画家の作品と、それに酷似して現われるエピゴーネン達の<作品>をへだてているものは無いに等しいといってもよいのである。ポロックの描く(あるいはドリップする)風景がなに(・・)ごと(・・)か(・)であるのは、それがわれわれ自身の精神と存在がつくっているであろう<原風景>(それをついにわれわれは知ることができない)とでもいうべきものの、すぐれた喩となり得ているからなのだろう。
もうひとつ同じ雑誌の特集から、ポップ・アートを賞揚する東野芳明の文章を見てみる。
「いままでの芸術家が、つねに疎外された特権的な個人として、社会への呪詛を、反逆を根底にひそめていたとするならば、ポップアートの作家たちほど、自分たちの環境の変質をむしろ積極的に肯定し、その「事実」を大きく謳いあげた芸術家たちはいなかったかもしれません。ここでは、はじめて「芸術」が大衆文化という、潜在的な感受性の総体の前に脱帽し、むしろ、時代に遅れをとっている「芸術」を、大衆のレヴェルに近付けようとした、とさえいえるでしょう。」(東野芳明・ポップアートの日々)
芸術と大衆という、もともと比較すべくもないものを強引に結びつけ、ポリティカルな味つけがさなれたぶんだけ、芸術のもんだいが水で薄められた典型的な情況論となっている。ポップ・アートという現象の説明という意味では一貫した姿勢を見せてはいるが意味が無いといえば意味がない。「ぼくは時代を睥睨し、時代を予言さえすることができる」というかれの語り口が示すものは、(すべての予言的お喋言りがそうであるように)原因と結果のすり変えである。大衆がいて芸術家がいるのではない。<歴史>は個々の人間の様々な精神のレヴェルを大衆とか芸術家とかいう典型として抽出してしまうのだ。大衆(それが東野のいうようにカッコ付きの「芸術」をそれが遅れている故に有難いと思う人間だとしても)も、時に社会への呪詛を心に秘めるだろうし、芸術家もコカコーラを飲みながらテレビに興じる大衆のひとりである。大衆という呼称に見合う人間はどこにもいない。だとすれば大衆のレヴェルに近づけた「芸術」とは何も意味していないといえるだろう。
私見によればポップ・アートの意味は所謂楽屋(・・)おち(・・)を方法化して見せたに過ぎない。つまり描くという現場にいる人間の直面する表現の困難(自己の表現はどこかで偶然に引きずられるもの(・・)の宿命を前提としているという困難)を、現場の人間だけわかる皮肉として提出したということであり、表現のもんだいに何もつけ加えはしなかったのである。
ここに挙げたのは、いずれも現代の代表的な美術批評家の文章である。わたしは勿論、全体の流れの見えぬ抜粋をもって、かれらの「論旨」そのものを裁断しようとしているのではない。ひとつの批評文の切り口が見せる論者の批評精神の在り様について、<文体>について批判しているのである。批評家は何故、かくのごとく絵画論(・・・)の擁護者や、批判者にしかなりたがらないのか。もんだいは絵画史(・・・)のコンテクストを組み変えることではあっても絵画(・・)のコンテクストを別なものへ組み変えてゆくことではない。一体かれらの精神の中に、かれらの語る絵画はどんな軌跡をどのようにして持ったのか。逆に絵画は、かれらの精神の動きを受けてどのような絵画となった(・・・)のか。絵画をあれこれ定義し、分類したとしても、われわれはそれを隠してしまうことはできない。いつまでたっても上野で長い列をつくるのは「印象派」や「バルビゾン」の絵画なのである。
絵画は、画家の<思想>や<技術>が求心的に凝固してゆく場であると同時に、いつもその向こう側と、こちら側に<暗がり>をつくっている。この<暗がり>に向けて画家は絶えず問いかけ、われわれはその問いを、われわれ自身の問いに変えることでこの<暗がり>に参入する。画家の目と、われわれの目のあいだで、その<もの(・・)>は己れを変身させて、どんな絵画と<なる(・・)>のか。わたしの興味はこのふしぎな生成に尽きる。作品という結果の様々な解釈を並べるのではなく、様々な解釈を可能にしている精神の運動の方へ、そしてその中に現われる絵画の<顔>に近づく必要がある。ポール・ヴァレリイが、これ以上はうまく言えぬというように書いている。
「(レオナルドの「最後の晩餐」の中に)神秘が、もし一つだけあるとしたら、それはこのような組合わせをどうしてわれわれが神秘だと判断するのかという神秘である。」
<ジョコンダ>―永遠の名画ということになっている。われわれの五百年が、はじめは讃美し、分析し、そして名画の陳列席の最上座に納めた。この絵に先行する精神がものした五千葉の手帖とおびただしいスケッチも又、近代のテクノロジーの先駆として、レオナルドという名とともに、しかじかの陳列棚に祭られている。かれは万能の天才であり、万能の天才に<なった(・・・)>人物である。ここでは、かれもまた己れの生活をつくり、食い、嫉妬し、時に憎悪したという「生の確かな手応え」の方は省り見られることは少ない。記述され読み継がれた伝記というものは、必ずどこかで順序を逆にしたり、比重をとり違えたりしながら、かれの<生>を組み立てるものだと思ったほうがよい。われわれは、ひとりの天才の生涯を、その結果から遡行していって、天才的人物像の典型をつくりたがる。生活の時間の中に於ては、即ちこの天才と同じ時間を共有したものの目に映ずる限りでは、この人物は、決して伝記が作り上げた像のようではない。かれが天才であるのは、<作品>を創ったからであって、人々が天才的と認めた人物が化石して天才となったわけではない。オフィスの隣りの席の奴が詩を書いているといえば、うだつのあがらぬ奇妙な人物として印象付けられる。かれと生活の時間を共有するものにとっては、かれの観念の世界や芸術的関心といったものは、日常の所作の前であぶく(・・・)に過ぎない。逆に、われわれが芸術家とか思想家というものを思い描くとき、生身の肉体が発散する体臭とか所業の方が、かれの観念的な世界や芸術的創造よりも切実でおもしろいに決まっているのに、どこかでそれが逆転して、残されたもの以外は忘れ去られる。かれは、あたかもかれが創造した創作上の人物とか観念の傀儡として己れの生涯を全うしたかのような見かけ(・・・)をつくる。これは確かに、われわれが食らい、生活する時間の中での出来事とは異なった次元というものを思わせる。われわれの日常が、それと知らずにつくっている<歴史>というものはどんな顔を持っているのか。人は何故、何かを記すのか。人は何故絵筆を握るのか。実生活に於ては役立たずの行為が己れを主張する冒険がここにある。
たとえば、<ジョコンダ>とは何であり、何であったのか―と考えてみる。フランチェスコ・ディ・バルトロメオという商人の三番目の妻といわれている女性の似姿がそこにあり、レオナルド・ダ・ヴィンチという不世出の天才の名と業とエピソードがあり、それを支持し、賞讃してきた無数の人々がある。この美しいマダムの縁りのものが、この絵を見たとき、「作者」も「作品」も忘れ、ただマダムの<美しさ>だけを賞讃しなかっただろうか。このとき、<ジョコンダ>は、制作依頼者の意にかなった、完璧な職人業なのだ。そして、依頼者にとっては、レオナルドの手法上の秘密や、マチエールの実験や、画家の努力といったものが隠されているからこそ、マダム・フランチェスコがはっきりと、認識できる。又、この作品から、当の作者であるレオナルドの技量に惚れ込み、かれを宮廷のおかかえ(・・・・)にしようとしたパトロンにとっては画家は、精密で間違いのない機械であり、世人の羨望を集める道具なのだ。かれに於ては、<ジョコンダ>は、かれの意にそむかぬ技術の確かな証拠であればよいわけで、画布に別なものが描かれていてもよいわけだ。従ってここでは、描かれた対象の個性は隠されたかたちになる。また、それらとは逆に、素材(マチエール)の研究という立場や、画商という立場も考えることが可能であるだろう。
これほどははっきりとした水準の違いを見ぬにせよ、一枚の絵画は、それを見るものの立場や生活の違いによって、異った顔を見せる。この確からしく見える事実は、作品の解釈上の多様性といったものではない。むしろわれわれが作品を<見る>ときの制約や不自由さが何処にあるかを教えてくれる。われわれが<見える>のは対象が隠蔽されているからであるという逆説がここにはある。絵画の中に於ては、素材(マチエール)を見てしまっては、対象を名差し得るものとして見ることができない。こういった<物質―形相>の水準の隠蔽効果のさらに奥で光学的な隠蔽が為される。メルロー=ポンティは「眼と精神」の中で、レンブラントの「夜警」に触れて、物をそれとして見るには、光、明るさ、影といった物と空間の戯れそのものを見てはならないと述べている。そして「<見えるもの>は或る全体的な可能性にもとづいているのだが、この可視性そのものは繰り返し創りなおされており、そのつど、<見えるもの>のうちに閉じこめられているさまざまな幻影を解き放つ」と記している。こうしてみると、<見る>ことは、可視性のもんだいではなく、可視性を背景に展開される、対象を名差し得る対象として選びとる運動ということになる。画家は素材(マチエール)を<見えるもの>に変え、われわれは<見えるもの>を<存在>に変える。画家はわれわれに、対象をすでに名差し得るものとして選び取らせるのではなく、即ちものの名称を与えるのではなく、そこから名差されるであろう<もの>と<たわむれ>の始源の状態をつくり出し、われわれに幾度も名差し直すという運動を促すのである。
この運動の中で<ジョコンダ>はこれまでの例とは全く異なった相のもとに浮かびあがる。われわれが見るのは、その<絵>ではなく、こちらへ向ってくる<微笑>であり<眼ざし>である。われわれは<絵>を見るのではなく、<絵の中>で微笑みかけられ見つめられ、それに向って問いかけるのである。対象が受肉し、われわれがモナ・リザに見つめられる対象に変わるのである。この微笑みがわれわれの微笑みを誘い、その眼ざしに思わず顔を赤らめるといっても別に奇異なことではあるまい。視覚が、どのような規制のもとにこの相互主観的な感覚を呼び覚ますのかはさしあたりもんだいではない。われわれのなかに、そういった次元を選ばせるものが存在し、絵の中にそれを促す<力>が存在しているということがここではもんだいなのだ。したがって<感情移入>とか<擬人化>といったものでこれを説明したのでは話が逆になる。そういった幻想の効果そのものが、われわれの裡にどうして体制化されてくるのかといったことが主要なもんだいとなるのだ。そしてそれを知るために、わたしはわれわれの生活世界というものの構造、絵画の現象を見てゆき最後にそれを身体の外延で生長してゆく<世界>として追ってみよう。
われわれは、レオナルドという稀有の人格に直接触れ、かれの<人間。を目のあたりにするほうがおもしろいに決まっていると思い、マダム・フランチェスコというとびきりの美人を見るほうが楽しいに決まっていると思いつつも、もはやそんなことを必要としない次元を選ぶ。絵の中でわれわれが見るのは、<現実>の写し絵や、瞬間の風景といったものではなく、他者(・・)に(・)よって(・・・)限りなく(・・・・)反趨(・・)された(・・・)裸の自然なのである。どこが違うのか。ひとつは<時間>であり、もうひとつは<奥行き>というもののわれわれにとっての意味が違っているのである。つまり、対象的自然が絵画となったとき切り落とされた次元である<時間>と<奥行き>が、その不在によって、われわれにひとつのビジョンを喚起する。われわれが、日常生活の中で毎日眼にし、その名を呼び、その中で生かされている<世界>が安定しているためには、それを支えるもの、それを動かすものが見えてはならない。ちょうど魚があやまたず岩の間をすり抜けるようにわれわれも<世界>をすり抜けている。生活の時間の中では、それをどう(・・)すり抜ければよいかということが一義的であり、それが何であるかを知る必要がないのである。絵の中で遠くのものは小さく近くのものは大きい。われわれはそこに距離を<感ずる>。また、幼児の描く絵の中では遠くのものも、近くのものも同じ大きさである。一体とちらが実際の視覚を表現しているのか。たぶんいろいろな説明ができるだろう。遠方では視野が拡がり、多くのものが視界に入る。それをひとつの画布に入れるためには、遠方の風景は圧縮されねばならなかった。けれどもそのようにして描いた絵が<奥行き>を感じさせるためには、必ず無意識にすり抜けている生活世界全体が必須なのだ。たとえば寸法の異った同形のものを、同じ寸法で絵にすれば<奥行き>は現われまい。<奥行き>は物理的な遠近関係を視野内の量的関係に置きかえたときに生ずる<錯覚>ではなく、生活世界全体が絵画に問いかける問いかけのなかに現われるものである。遠近法がつくる構図も、幼児がつくる平板な構図もどちらも実際の視覚なのだ。それはただ、かれらの生活世界からの問いかけのもとにあらわれたあらわれ(・・・・)であり、生活世界に等価な真実としてあらわれるしかない。ひとはどのようにして現実の世界に問いかけ、どのようにして絵画に問いかけるのか。このもんだいを、生活世界はどのような構造をもっているのかと変えても問いの意味は同じである。
今日、他人のゴシップならどんなものでも目がないといった連中でさえ、レオナルドが師のヴェロッキオとどんな仲だったのかとか、スフォルツアの宮廷で、どんな手管でのしあがっていったのかとか、ジョコンダは、ほんとうにいい(・・)女(・)だったのかなどという話には興味を示さない。ゴシップ好きにとっては、伝記的事実などは、色褪せた絵もちに過ぎない。ゴシップは、そこに自分も足をすくわれるかもしれぬという現実(・・)性と、その現実は自分の生活を犯さないという非現実(・・)性のアクチュアリティーがなければ成立しない。ここでは、同じ現実と何処かでねじ曲がりつつも地続きである生活がどうしても必要なのだ。芸術というものが、こういった<場>に降りてくるのを、じつはわれわれはよく目にしている。つまり、生活の時間の中で、芸術というものが、どんな意味を分泌しながらその宿命に従うかということがである。<モナ・リザ>が上野に上陸したときの喧噪と爾後の憤懣は、名作というものの宿命の典型でもある。わたしも、阿呆面さげて、この「月の石」を見に会場の入口に殺到した口だ。そしてほとんどの客と同様、これ以上ない失望を味わって帰ってきた。ジョコンダが、噂ほどにすごみのあるものではなかったからか?美しくなかったからか?そうではない。美術館の壁に、ぶ厚いガラスに隔てられて、ぶらさがっているそれ(・・)は、いつもポスターや、カレンダーで見慣れたあの<微笑み>と寸分の違いも見せずに正確で、気品にあふれ、美しかったが故に、失望したのだ。そこには生活の中にとり込まれ屈折を持たぬ美的な価値があるだけなのだ。ひとつの絵画が、あるときは比類のない存在となり、あるときはつまらぬ骨董に変わる。絵画も、こちらの感受性も変化しないはずなのにそういうことはよく起こり得る。これは、<絵画>というものが、生活の文脈の中で必然的に持ってしまう<出遇い>が異なれば、別々の<意味>となって実現されるということをあらわしている。日常の生活の流れの中で、ジョコンダは、ゴシップの対象になれなければ全くつまらぬ絵もち(・・・)となる他はなかったのである。正確にいうなら、それを全くつまらぬとする精神の水準なしには、生活してゆくことができないし、誰でもそういった精神の水準を持っている。これをふまえないで、芸術に一義的な意味を附着させると、芸術家―大衆、芸術―政治、文化―芸術といった奇妙な情況論の下地をつくってしまうのは、前節で見てきたとおりである。
世の親は、息子が本気で絵筆を握ればその行く末を嘆く。これは何も世の親が芸術に無理解なわけではなく、芸術を理解する必然というものが、現実の日常生活の文脈の中にはないということに過ぎない。つまり世の親は<生活>というものを、精神のどの水準で渡ってゆけば最も負債を少なくすることができるかということを、体験的によく知っているからに他ならない。逆に、<生活>を知るものでなければこのつまらぬものに己れを賭けるということの意味の重さも理解できない。
いったい人は、絵画や詩の何によって引き寄せられ、心を動かすのだろうか。いや、そうではなく、自分自身のどんな精神の水準が絵画や詩というものへ向うのだろうか。これは誰もが試みてよい問いだと思う。なぜなら、われわれの精神が二元的な善悪感や、価値の体系といったものへ分解還元されてゆくのではなく、逆にそういうものを産み出してゆく<構造>が、精神の運動のあらわれである<表現>のなかにすでに胚胎している、あるいは<表現>は価値や理念を通過することでしか完成しないのだから。
吉本隆明は、その「マルクス伝」という伝記的著作を書くにあたって次のような示唆深いプロローグを置いている。
吉本は、幻想の領域というものが、それ自体で閉じたひとつの文脈を持っており、それは現実の領域における判断や価値の体系とは転倒したり、ずれたりするのは必然であるといっている。ここで「必然」という言葉で不問に対することができないことがあるとするならば、かかる幻想の領域へ向けての精神の運動というものは、一体何であり、何を意味するものなのかということである。現実の領域においては余剰でしかないものへ関与するということは、現実の身体というものが、そういう余剰を生み出しつつ存在しているものであるということに他ならない。吉本は「心的現象論序説」のなかでこれを追求し、<原生的疎外>(同全集10 P.23)すなわち、生命体がただ生命体であるという理由によって、無機的自然にたいしてア・ブリオリにもつ<異和>にその出自を求めている。「知識について関与せずに生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。」
(吉本隆明全集12 P.155 勁草書房。)
すぐれた、(というのは、その動機が見えないということだが)犯罪というものを見てゆくと、必ず犯行者の<無意味なもの>、あるいは既に現実的意味を喪っているものへの強い執着、謂わば<確執(オブセッション)>というようなものにつきあたる。それは<性>であったり<病い>であったり<自然>であったりというように対象を特に選ばないのだが、犯行者にとっては、それでなくてはならぬ内的な理由があるはずである。今ここでわたしが手に入れたいものはその内的な理由ではなく、その<確執(オブセッション)>によって、<生活の時間>の外へと、ほとんど唐突に連れ出されてゆく<風景>である。この<風景>は異様である。なぜなら、かれは対象に確執するということ以外に対象に対する意味というものを持っていないのである。この対象それ自体の無意味は拡大されて風景全体の無意味となっている。たとえば、文学に創造された殺人者(ムルソーにしろラスコオリニコフにしろ)にとって現実の犯行の意味は単なる小さな結果なのであって、かれらの本質的な踏み外しから地続きに帰結されるものは何もない。したがって現実の意味の方からたどってゆく推理の糸は完全に断ち切られている。「罪と罰」の第一編の一章から七章まで、つまり老婆殺しの直前までのくだりは、ラスコオリニコフの中から、現実的な意味が一枚一枚はがれてゆき、<確執>だけが自己運動する様子が克明な心理描写として記されている。直接の犯行は、この<無意味>の彷徨から、現実的な対立関係へと帰ってくる機会でもある。ラスコオリニコフは、犯行直後よりソーニヤとの邂逅に到るまで、己れの罪に対し倫理的におびえるのではなく、ただ生活の中の時間、現実の意味におびえるのである。
ところで<絵画>の位相は、この犯行者の<風景>のそれとよく似ている。つまり、画家にとって、生活の中である役割を担った対象を、その役割をもった絵にすることはできないし、<意味>を絵にすることもできないからである。画家は対象を描きはじめるや否や、<無意味>のなかへと投げ出されるはずである。もしもかれが、その絵を(広義の)プロパガンダにしようとしなければという留保を付けてもよい。なぜなら、からは<存在>を再構成しようとしているはずだし、<存在>は、<意味>をつくり出すものであっても、<意味>を内包するものではないのだから。かれはこの<無意味>を反趨するなかで、日常的であり決して作品の価値など創ってはいないし価値ある作品を創るのでもない。価値とは、少なくとも絵画に関する限り<意味>を媒介した<物>の対他的名称形態だからである。かれは、対象に向って、それがなぜそこ(・・)に在り、この(・・)よう(・・)に(・)見えるのかを尋ねるがそれが何であるのかは問わない。それは恰も、犯行者が対象への確執によって対象の意味を失い世界全体を無意味に引きもどすのに似ている。ただ犯行者にとってはこの対象は自己の観念であったものが、画家に於ては<物>の像なのである。すぐれた<眼>は、たぶん視覚の起源とでもいうべきものと戯れているはずである。山を山とするもの。水を水とするもの。人体を人体とするもの。こういったものが、画家の戯れているほんとうの対象なのだ。画家は、そのすぐれた<眼>をたずさえて、白むくの画布の上に何を置こうとするのか。
かって宮川淳は、画家の仕事の意味に触れて次のように書いたことがある。
「現実と創造―ボードレールにおいてはまだ不可分に結びついたものとして予感されていた、この近代の二つの方向は、セザンヌにおけるサンサシオンとレアリザシオンの葛藤をへて、再現性と造形性の対立という様相を次第に強めながら、そして造形性の優位を決定的に明らかにしながら、その緊張の生み出すさまざまなヴァリエーションとして、近代絵画を展開させてゆく。」
(「美術史とその言説」宮川淳。<絵画における近代とはなにか>より。昭和五三年四月三十日発行。中央公論社。P.16)
確かに作品を編年的に並べて見渡せば、こんな意味付けも可能であるという程度の説得性をもっている。だが、これは数ある作品の中から、近代的意味という要請に従ってピックアップして作品を並べ、あたかも作品がこのように変遷したのだと言い換えても同じことである。もっと別な要請に従えば、全く別な組み変えも可能であるともいえる。現に、今でも所謂写実画は描き続けられているし(ほとんどの人間がそれを絵画だと信じているし)、過去にも幾らでも造形的な作品は発見できる。わたしは、絵画の内容形態が時代の変化や科学(社会科学、自然科学を問わず)の歴史、思想史と相補的に歩みを合わせるという見解をつくづくくだらないと思う。ここで宮川の提出しているもんだいを、わたしなりに扱えば次のようになる。
科学や哲学は、画家に、かれの描く対象的自然が、対象それ自体の再現ではなく、対象の与える<感覚>の再現であると教えた。この<感覚>なるものは<視覚>のように強く空間性に依存するものから<イメージ>を経て<感情>のように時間性に依存するものまでの広大な心的な世界を持っている。画家が己れの得た<感覚>のどの水準を形象するかによって、絵画は、写実性とか抽象性といった見かけ上の差異をつくる。そしてこれは人間の<歴史>と絶えず緊張関係を持って表現されるが、必ずしも相補的な関係とはならない。これに対して造形性は<感覚>内部の出来事ではない別の文脈を持っている。造形性のもんだいは常にひとつである。それは偶然が機会に変わるときに何がそこに働くのかということである。そして、造形性を志向する絵画こそが、何の為のものでもない絵画の自立(それが何を意味するのかは一向に明らかでないが)への足がかりとなるという誤解が生ずる理由もここにある。フォンタナが、キャンバスを切り裂く。ポロックがバケツの穴から絵の具をしたたらせる。ジョーンズが画布に半立体を貼り合わせる。あるいは、モンドリアンが平行線を組み合わせる。これら全ての試みが示しているのは、偶然がどこまでその偶然性を保存し、何がその残りを偶然から機会へと変えたかということである。たぶんこのことを最も良く理解し、自覚的に<作品>をつくったのは、マルセル・デュシャンである。かれは画家が何を対象とするか、どうとらえるか、どんな意図でつくるかという絵画の表現過程を構成する<必然性>を極力遠ざけることで、無人称化された通りすがりの<物>に偶然(・・)に(・)出合う。それがたとえばコーヒーカップであり便器である。かれがそこに画題を与え作品化することで意図するものは表現過程の解体などというものではないし、反芸術などと総括され得るものではない。反対である。全ての<表現>が、表現として成立する基底には、必ず<偶然>が<機会>に変わる何かが横たわっている。それをさしあたり共同の幻想といってもよいだろうし、心的世界の構造といってもよい。いずれにせよ、この化体(けたい)は個々の思い入れや意志といったものとは別のところで、起こり得るのである。これが、わたしなりの、かれの<レディー・メイド>の了解であり、全ての造形的なもんだいの中心である。これは、それなりに大きな課題であり、表現の可能性を孕んではいるが、<感覚>の再現性という絵画に固有のもんだいと魅力からは遠ざかってしまっているといわねばならない。たとえば、ジャコメッティは永遠に、机に座ったモデルを前にして仕事をしなくてはならないと言っているが、その言葉のなかに、絵画に固有のもんだいが何であり、何ではないかということがはっきりと現われている。ジャコメッティにとって絵画は、ひとつ出来れば、あとはいくらでも出来るし、それが駄目ならば、永久に出来ないといったものである。この場合の<出来る>は、<生産>の意味ではなく、<ポシビリテ>であるということが重要である。ジャコメッティにとっては、絵画は、似せてつくられるものではなく、ほんものの再現なのである。これがべらぼうな探求であることを画家はよく知っている。おそらくセザンヌもジャコメッティもブラックも、まだ何ひとつ完成していないと思いつつ死んでいった。それは、所謂造形的な画家たちが、全ては完成されつくしてしまったという意識から出発しているのと対照をなしている。どちらが正しいか。勿論、どちらも正しいはずだ。けれどもどちらがより深くより多くの問題をかかえ込んだかは明らかに思われる。わたしは<方法>について記述してゆかなくてはならない。確かに、ジャコメッティの絵画は見えるものを見えるがままに描くという点に於て、伝統的なレアリスムの態度を踏襲したものである。しかしその<光学>は正反対である。因襲的なレアリスムというものが、あるタヴローのヴィジョンへ向けて、「絵をつくる(・・・)」のに対して、かれは、かれとモデルの間にある空間を「圧搾する」(サルトル)ことを選んだのである。かれは、ひとつの良くできた似顔絵をもってこれを「俺の視覚だ」ということに不満なのである。かれにとって、モデルは筋肉や脂肪のマックスではない。そこにあって、あそこにもあり得るようなひとつの客体ではない。それはかれから数メートルの距離にある「位置付けられた外観」であり、空間を凝集しているものなのである。からはレアリスムの概念そのものを内在的に転倒させようとしているのだが、まず無茶な冒険であるということをかれ自身よく知っている。要約すればこうなる。三次元空間の中に充足しているモデルを、二次元のキャンバスへ移すとき当然失われる次元を、知的なレヴェルで回復することなしに、どうしたら視覚として保存できるか。この矛盾を破るために、どんな圧搾機を用いればよいのか。かれは視覚というものが、鏡像のようにニュートラルな尺度ではないということを一九四五年に発見している。
「或る日スクリーン上に人物が見える代わりにぼんやりした黒い斑点が動いているのが見えた。そこで隣りにいる人を眺めると、突如、これまで見たことのないように見えた。新しくなったのは、スクリーン上で、起こっていることではなく、私の横にいる人たちの方だった。あの日、モンパルナス大通りを出る時に、それまで見たことがないもののように大通りを眺めたのをはっきり覚えている。すべてが別物だった。奥行きも、物も、色も、沈黙も・・・というのはここでは沈黙が役を演じているからだ。」
(「私の現実」中、画家の独白(二)ジョルジュ・シャルボニエとの対話よりP.149 みすず書房。)
ジャコメッティは沈黙の役割ということで何を言おうとしているのか。それは、現実がかれに与えるヴィジョンの質である。たとえばスクリーンの中で人間はしゃべる。間断なく動き、その動きが目的へ向う。ひとつの動作は次にくるシークェンスを予告し、過去からの続きである。ここでは音が、動作が、人間の個性や物語りのもつれが、視覚の対象を対象たらしめる決定的な証明となっている。なぜなら、こういった要素が、構成的に布置された<映像>をちょっと別の文脈へずらしてみるだけで、それは<黒い斑点>に変わる。映画的ヴィジョン、写真的ヴィジョン、絵画的ヴィジョンといったものは、<生活の時間>が地続きになっているという虚構を前提としている。それは謂わば現実がわれわれに与える全体的な生きたヴィジョンの断面であり、われわれはその<断面>をもって<全体>を回復する。一枚の絵、それは多かれ少なかれ<過去>にひとがこのように見たという現実の断面であり、<幻影>なのである。なぜ映画や写真の中で通常は人物や風景は<黒い斑点>ではなく、名指し得る対象なのか。それは、はじめから名指し得るものを対象としているからである。すでに生活の中で分節化され、意味を持ちそれに見合う時間と空間を持っている。それは何処に置かれても、形が多少変わっても、誰それであり、机であり、パンであるのだ。だからこの意味では絵画は容易であった。画家はもの(・・)ヴィジョンを描くのに、その名称を描けばよかったのである。誰それという人物。これこれの机。何処そこの風景といったように。ジャコメッティは、そういうもの(・・)の名称を<括弧>に入れたのだといってよい。からは何メートル先に座っているモデルは、このように見えたという絵を許容しない。かれとモデルとの間の距離は、横切ることが出来そうもないほどに凝集力を持った絶対的な距離である。ものの大きさもヴォリュームもこの距離がつくるのであって、彼方にあるものではない。かれはもの(・・)が何であるかを知ることなしに、否、より一層よく知るために、もの(・・)ではなく、ものを見させているものを圧搾しようとする。これが、かれのとった<方法>であり、かれの作品の<文体>とでもいうべきものである。具体的にそれはどのようなかたち(・・・)を持つのだろうか。われわれは、サルトルのおそろしく正確な報告書を持っている。サルトルは、自分の哲学的な問題に引きつけて、ジャコメッティの<転倒>を語っている。
「例えばここにアングルの一枚の絵があるとする。私が、オダリスクの鼻の先を見つめれば、顔の他の部分はぼんやりとして、唇の柔らかな赤でいろどられたばら色のバターのようになる。視線を唇の方に移すと、今度は 半ば開いて濡れた唇が影から出てきて、鼻は背景の無差別にのみこまれて消えてしまう。そんなことは構わない。私はそれを気の向くままに呼び出すことが出来るのを知っており、だから安心しているのだ。ジャコメッティの場合は全く逆である。一つの細部が私に明確だと思われるためには、それを私の注意力のはっきりした対象としないことが必要であり、またそれで充分である。私に信頼を抱かせるのは、私の眼の片隅でそれとなく見ているものである。ディエゴの眼は、私がそれを見つめれば見つめるほどはっきりとしないものになる。しかしその場合私には少しばかり落ちている頬や唇の隅の不思議な微笑は見えているのである。」
(「ジャコメッティの絵画」矢内原伊作 訳)
視覚がひとつのドラマを持っている。見事なドキュメントというより他はない。<美>を渉猟する美術批評家にとって、<美>は、もの(・・)がもの(・・)であるという同一律の中に在り続けたし、超越的なもの(・・)の上にペッタリと付着していると錯覚され続けた。そして、そうである限り、ジャコメッティの作品も、<存在>の雰囲気を漂わせた新しい造形であり、表現形態の一ヴァリエーションでしかない。ジャコメッティの作品の持つ<転倒>を知るためには、それを享受する側のやり方(・・・)を転倒すること、すくなくとももの(・・)が<現前>してくることに自覚的であるような方法が必要であった。わたしに、サルトルの報告書はこう告げている。ここで、わたしじしんの方法を反省すればこうである。たぶんわたしはあまりに通俗的な絵画の見方、絵画史の文脈に慣れすぎていたために、こういった自覚が<見る>という規制の中に隠蔽されているのに気付かなかった。つまり、わたしは、じぶんの現在(・・)の(・)な(・)まの(・・)<視覚>に付き合うよりは<観念>で作品を見ていた。
絵画の本質とは、結局のところ絵画が告知し続けているものに他ならない。とはいえ、それは絵画作品が、われわれの生活の時間の中へ投げ出されるや否や必然的につくってしまう文脈を意味しない。画家の<名>や、作品に読み取れる<思想>や、対象の<意味>や、作品の<価値>といったものは結局作品がそのようになった(・・・)のであり、作品の<効果>の総体に他ならない。ところが、この効果とはすでに期待されていたものなのだ。われわれは作品の<効果>の総体から遡行していって、自己にふさわしい居心地のよい<言葉>を作品の<内容>として探り当てているのである。たとえば、<美>を感ずるためには、すでに<美>のなんたるかを知っていなくてはならないといったように。こういった謂わば、我れ知らず進行する不断の<過去>の選択に対置されるようなものがあるとすれば、それは絵画の本質などというものを捨て、全体的な根源的なやり直しの可能性をひらくことだろう。
ジャコメッティとその作品がわれわれに示唆しているものは<現在>の回復である。しかも永遠にそれは<現在>なのだ。わたしがかれの作品を見る。とたんに<絵画>は消え去る。机に座ったモデルに従属しているかのように見えた外観はそれを期待すればする程遠のいてゆく。絵はモデルの縮減模型であることをやめ、わたしの視覚をつくるものとなる。わたしが見ることと、わたしが見えていることが、いっしょに流れ込んでくる。それは突如としてわたしの<現在>に浸入してくるのである。わたしは、モデルのイマージュを絵の中に見付けるのではなく、現在の<手ざわり>といったものを楽しむ。ちょうど、触わることと触わられることが、表裏して<手ざわり>を構成するように、見ることと見られることが<視覚>を構成するといった具合に。ここでは<見る>ことは、体験の拡がりではなく、まさに深まりとして捕らえられる。実際のところ、ここには<転倒>はない。わたしはジャコメッティの作品とともに、<視覚>の「組成(きめ)」(メルロー=ポンティ)に向って降りてはいるが、それを別なものと置き変えてもいないし、生活と別な時間をくぐり抜けてもいない。ただ暴かれた現実に立ち合っているだけなのである。ジャコメッティの<転倒>の意味はこうである。始めから、現実の<時間>や<空間>を他のもので置き変えたり順序を逆にすることで虚構を作り出していた絵画を、はじめて現実の時間の中に、位置付けられた空間の内部に正立させたのである。ヴァレリイが、マルセル・シュウオブと一緒にルーヴルへ行ったときの逸話の中に、われわれは、レアリスムの桎梏が何であったかを見ることができる。
「もっとも有名な肖像画のある一枚の前で、この友達が叫び声をあげ、大声で似ていると言ったので、私は、君はデカルトを見たことがあるのか、ときいてやった。かれはデカルトを見たことなどはなかった。それなのに、昔のデカルトの面影に接したように思ったのだ。」
(「私の見るところ」筑摩叢書60・P.288 佐藤正彰・寺田透 訳。)
わたしはフランス・ハルスのこの絵を知らない。しかしシュウオブが見たものはよく解る。比喩的に言うならば、かれは<絵>を見たのではなく絵(・)の(・)中(・)で、デカルトの面影を見たのである。ここに在るのは、<現在>ではなく、仮構された<時間>であり<空間>である。もっともよくできた場合、レアリスムは、そこに仮構された<時間>と<空間>を、意識の外においだすということをよく教えてくれる。シュウオブは「似ている」とは言えても「デカルトである」とは言い得ない。けれども、見たこともないものの面影を確かだと思わせる実在感は確かに絵の中に在るのである。そしてシュウオブにそう思わせた実在感とは生きているものの持つ<類似性>に他ならない。この<類似>という考えは、一見レアリスムと相容れないもののように見える。なぜなら、画家の対象は、<差異>によって他のものと区別されて個性を持ち得ると思われるからである。ひとの顔はそれぞれ異る。その異ったところを、正確に取り出し定着させるところにレアリスムの本領があり、だからこそ写真機の発明と発達によって、レアリスムは衰微してゆく命運にあるという現象も生まれたのである。もし実在感というものが、反対に<類似>からくるのだとすれば、その<類似>とは何であるだろう。確実に言えることは、生きている身体の類似であり、現在進行しているな(・)ま(・)の<関係>の持つ類似であるということだろう。シュウオブは、仮構された時間や空間を見ているのではなく、その(・・)中(・)に(・)入って(・・・)このな(・)ま(・)の類似を体験したのである。それに対して、先に引用したサルトルは、いま(・・)ここ(・・)で(・)それを体験しているといえるだろう。
批評家は画家の代弁者になることも、裁判官になることも出来ない。原理的に、そうすることはできないということを前章までで示してきた。われわれは一枚の絵画の前で、すべて等しく一個の証人である。けれども、どのように感じたかは知っているが、どうしてそう感じるかについてはほとんど知っていない証人なのである。わたしがこの小論で得たものは、ほとんど自明のことである。つまり、画家の意図と出来上がった作品は、別々な系へと還元されるべきであるということ。前者は、表現への要請は何処にあり、何であるのかということであり、後者は、生活に於ける価値の体系を意味の違いとして抽出する必然的な精神の運動である。わたしは、絵画がどのようなものであるのかという問いには興味がない。それは効果の総体であり結果であり、ただ個々の自由な選択のうちにあると思うからである。そうではなく、どうして、かくのごときものとして了解され得るのかということが、全てのもんだいの根底であると思われる。そのためには前節まででは絵画を規定する作業が中心であったが、それを規定したこちら側の心的な体制について語っておかなくてはなるまい。ここでは<視覚>それ自体を中心として、その中に現われる絵画を取り扱う。
たとえば、われわれが机のふちをなでるとき、われわれは机の表面のざらざらを感ずるが、もし指先や手のひらにささくれがあるときは、むしろ机よりも手のひらのささくれを感ずるという例をあげて、市川浩は次のように述べている。
「それを契機として<図>と<地>が転換する。私は机によってふれられて(・・・・・)いるのであり、机の稜角が私の手のなかへ突出して(・・・・)きているのである。こうして私は他なる(・・・)もの(・・)によって対象化された私の対他物身体を把握する。」
(「精神と身体」市川 浩 勁草書房 P.36)
確かに触覚の場合の「さわる―さわられる」という両義的な体制は理解しやすいのだが、視覚に於てはこうはうまくいかない。それは「さわる―さわられる」という両義性が、体表を境にした表裏の関係で成立するのに対して「見る―見られる」という体制は相互浸透の関係にあるということがひとつ。もうひとつは「さわる」ということが能動態であり他者への働きかけにおいて成立するのに対して「見る」ということはむしろ「見えている」という状態に於て考えられるべきであり、見させているものが媒介されているということである。しかしこの相互浸透の関係を表裏の関係のように単純化して考える手だてがない訳ではない。<分裂病者>が語る「見られている私」は、「見る」ということの中に、対象化された私の対他物身体が潜在していることを暗示している。さわることが、自らの身体をさわるものに於て確認することであるのと同様に、見ることは見えている風景の中に自らを確認することである。カメラが見るともスクリーンが見るとも言うことはできない。したがってわれわれが見るという場合には、単に網膜上に対象が写し出されることではなく、そのことにおいて自らを確認するということを含んでおり、それは生の全体的な構造をかたちづくる営みである。このことは次の重要な問題の手引きとなる。われわれが見るというとき、対象を<地>と<図>として見分けていることであるが、このことは逆に対象の差異によってわれわれ自身の外延的身体を分節するということを意味している。ちょうどわれわれの身体内部に胃があり腸があるように、身体の外延にわれわれのたとえば十メートルの距離があり、赤という色彩を持っているということである。メルロー=ポンティが「見るとは離れて持つこと」というのはこの意味に於てである。対象を示差する運動は、自らの外延的身体(可能的身体)を獲得してゆく運動とひとつのものの表裏であるということができる。このような考えかたは、あくまでも生きている身体というものが体表に包まれたマッスの機構であるということに加えて、可動性、可視性といったものが肉体を中心とした広い<身体構造>として成立しているという考えに基づいている。市川浩が指摘するように、魚があやまたず岩の間をくぐりぬけるのは、体表のひとまわり外側にそのはたらきとしての構造を身体性(・・・)と(・)して(・・)持っていることを示しているといえるだろう。
ジャコメッティのあるデッサンには、足の先と頭の一部だけで胴体の部分が空白の状態になっているものがある。しかしわれわれはそれを切断された頭部と足というふうには見ない。逆にそれが医学的なスケッチであるならば頭部のスケッチと、足のスケッチであり両者に直接のつながりはない。この理由は医学的な記述は、体表に包まれた骨と筋肉のマッスとしての身体を表現しており、ジャコメッティはあくまで生きた身体を表現しているということによっている。このことはわれわれの<視覚>が単なる対象の写像ではないということを示している。われわれは頭部にそれが何であるかをたずね、その足にそれが何であるかをたずねることで、この素描がモデルの生きた身体として<生成>してくるのを知るのである。つまり何も描かれずに空白になっている部分は、われわれがこの素描と(・)とも(・・)に(・)デッサンすることでひとつの胴体として<見えて>いるのである。
ミロのヴィーナスの失われた腕を、われわれは<想像>によって回復するのではない。<想像>とは夢と夢と知りつつ見る夢であって、そこに様々な腕をとりつけることを可能にはするが唯ひとつ確実に<見えている>腕は確実な<現実>をわれわれに与えている。われわれはヴィーナスが、腕のないモデルによっている訳ではないということを、まさに現実の視覚体験の中で知り得るのである。われわれはヴィーナスの全体の動勢によって働きかけられ、外皮としてのモデルでもないし骨格としてのモデルでもないひとつの緊密性といったものを手に入れ、ジャコメッティが「透明なコンストリュクシオン」と呼んだものが見えているのである。ジャコメッティにとって机に座ったモデルは体表に包まれた量(マッス)としての物体でもないし、体表の描く人体の曲線でもない。それはかれ自身の<視覚>を、そこに在って構成しているかれの身体の外延であり、そこからかれ自身を<世界―内>に位置付けているモデルの身体の外延である。かれは、この相互の内属化の運動だけが、かれの視覚の中の身体像を石化せずに表現され得る実質なのだと考えている。われわれは道具を持ったり持たなかったりすることができるが、われわれ自身の身体を持ったり持たなかったりすることはできない。われわれの頭部、手、足という<部分>は、ただわれわれを対象化する解剖学的な上空飛行的了解の中でのみ意味を持つものであり、われわれ自身の生きている身体にとっては<部分>は<全体>への一視点であるに過ぎない。われわれは頭部を生き、手を生き、足を生きていることでわれわれの<身体>を生きている。視覚の錯乱、メルロー=ポンティが言う<離れて持つ>ということは、丁度われわれが、われわれの思いっきり広範な身体(視覚し得るところまでを)を生きているという次元をさしている。<見えるもの>を生きるというのは、客観的な身体記述に於ては撞着した言い方である。しかし画家が選択し、われわれがその作品の中で見ている次元は、まさにこの撞着した次元なのである。画家にとって<奥行き>とは並べられた二点間の寸法ではなく、ここから生きられる資的な距離である。たとえば足先の痛みは、われわれがそれを「死体の寸法」へと対象化することなく、又神経細胞間の伝達機構など知ることなしに<いま><ここに>感ずる。これがわれわれが生きた身体であることの意味であり、<視覚>は、まさにこの生きた身体を<かなた>までおし拡げ、<見えるもの>をわれわれの身体へ内属させるのである。画家にとって<かなた>に座って微笑みかけているモデルは、画家の足先の痛みと同じ水準で<いま><ここで>進行している内的な事実なのである。絵画へ向けての内的な要請(見るものにとっても、制作するものにとっても)は、この見えるものを内属化する要請である。われわれに、ひとつの絵画を好ましいと思わせるものは、すでに見たように心的な時間の様々な水準が選ぶものであるだろうが、われわれをその空間の中に発見させるものは、この内属化された空間であり、視覚が実現する固有な空間把握なのである。われわれは絵画に問いかけることで、自分に固有な空間を獲得し、可視性の内部にある関係を<了解>する。可視的は<世界>とは、われわれの身体の謂わば質的な鋳型であり、われわれの身体性というものを、体表を超えたところで支えているのである。
<絵画>は<精神分裂病>の場合と似ている。「了解可能なものが知覚しうる事実として現象する限りにおいてのみ現実的であり、それに応じてすべての経験的了解は解釈となるが・・・了解が拠り所とする現象には無限の解釈可能性と解釈変更性とをもつ。」これは<絵画>について述べられたものではなく、<分裂病>についてのカール・ヤスバースの所見である。(「精神病理学総論」岩波書店一九五八年・上巻八十二頁)しかしわたしにはそっくりそのまま<絵画>について述べられた真理のようにさえ思える。どちらも、文法を無視したあるいはただ固体の身体が与える文法のみに忠実な心的な世界の表出だからである。
たとえばファン・ゴッホが渦を巻くように麦畑を描く。(champ de ble´ aux corbaux, 1890 )誰でもそれを麦畑とは見えないという根拠を持っている。客観的な対象描写とは明らかに異っている。けれども絵画にとって客観的な正確さとは何だろう。誰もゴッホの眼が何を見ていたかは知らない。ただかれが単に色彩や形態上の効果をねらってこのような絵をつくったのではないと信ずることができるものには、かれがまさにこの絵と同じものを見ていたのだと信ずることも可能であるだろう。これは一体どういうことか。小林秀雄はリルケの言葉を借りて書いているような「私はこれを愛する」でもないし「ここにこれが在る」でもない。まして「私はこれをこのように見る」という視覚の解釈学でもないのである。それが告げるのは、誰でもがある精神の位相においてはゴッホと同じものを見るだろうし、ブラックのように見るだろうし、アングルと同じものを見るだろうという可能性なのである。ゴッホは己れに固有な空間をありのままに表出したのだと信じよう。いや信ずるか否かということももんだいではないかもしれない。ただわれわれの<精神―視覚―身体>が、それを好ましいと思うとき、かれに固有な空間はわれわれにも親しい空間であり、われわれは画家の近くにいる。
絵画のメッセージを読みとること。それをもとに解釈してみせること。画家の表現に名を与えること。すべてこれらのことは、ちょうど精神医学が<科学>の名のもとに、患者の表現を病種としてラヴェリングすることで排除し、隔離することで<正常>な表現を保守するのに似ている。それは無限にある解釈のひとつであり、患者はそれを欲してはいないということだけが明白な事実である。
了
(一)
ここに収めた三つの文章は一九七八年から一九八一年にかけて書かれたものである。いずれも<絵画>をめぐっての考察ではあるが、特に体系的な絵画論を意図しているわけではなく、断片的に考えていたことを自力の及ぶ限りつきつめてみようというプランのもとに自由に書いたものである。したがって<序説><他なるものをめぐって><見るもの・見させるもの>と題した文章は、それぞれ独立したものであり独立したテーマを負っていると考えてもらってよい。もしこれらのものにひとつの音色(トーン)が流れ込んでいるとすれば、それはたぶんこの間にわたしに訪れ、わたしが選んでいった個人的な<出来事>に依っている。ひとつは親しかった友人の<死>であり、もうひとつはわたしの<結婚>と、それに続く子供の<誕生>である。つまり誰の人生にも訪れる出来事を、矢つぎ早やに、そして逆さまに体験したに過ぎない。しかし言葉(あるいは識知)ということからこれを眺めた場合、これらの出来事は負債なしには通過することのできぬものを含んでいる。誰でもが通過しなくてはならないこれらの事実の前で言葉はあるとき全く無力なものとならざるを得ないということがある。ここでは、ある意味では言葉(想像力・イマージュ)の通りに進行するものは何もないといってよい。なぜなら、これらの事実を謂わば生活の根底をなすものとして見るなら、言葉は無際限に広がってゆく<観念の世界>に属しており、生の限定そのものである<生活>の中には属していないからだといえるかもしれない。ここで言葉を軽ろんずるか、沈黙するか、語り続けるかは各人の選択にかかっている。しかし、言葉が届かぬ領域があり得るという認識は、言葉にとってははじまりにある認識であって、目的ではあるまい。本や旅行から得られる識知や見聞をいくら積んでも言葉が鍛えられるわけではない。言葉が鍛えられるのは、ただ言葉が無力にならざるを得ぬ場処に於てである。ある意味で、言葉は<現実>を様々に意味付け、解釈し、やり直すことを許されているのだが<生活>はただひとつの処理、一回限りの生き方を許されるだけである。逆に、だからこそひとは己れの<現実>を会心や後悔や慙愧の言葉で語るのではないだろうか。
兎に角、この個人的な体験を通過してゆくなかで、わたしの言葉は痩せて細くなっていったとはいえるかも知れない。自分で自分に信じられる言葉だけを記そうとしたという意味である。政治的にか、倫理的にか、理念的にか言葉を発することはある意味ではたやすいことであり、誰もが日常的にはそうしている。しかし自分で自分に信じられる言葉だけを発するということは誰にとっても易しいことではない。これは自分の言葉に確信を持っているかどうかということを意味しない。政治的な確信、倫理的な確信、理念的な確信というものは、自分をたなあげにしたところで持つことは可能であるからだ。ひとは自分で自分に対してそれを信じていなくとも確信を表明できるし、確信のない言葉もあるとき語らねばならない。言葉に対する過大な評価も軽蔑も、ここに起因している。自分で自分に対して信じられる言葉、これをつきつめてゆけば、たぶん<失語>に限りなく近いところに言葉のイマージュを定めることになろう。
(二)
画家にとって<絵画>は謂わば未生の<言葉>である。それは又、お喋言りが終わったところから始まる<表現>でもある。しかし絵画作品が完成されるや否や、それは不可避的に言葉に、お喋言りに近づいてゆく宿命の中に投ぜられる。言葉の中ではそれ(絵画)は記号であり、意味であり、技術であり、才能である。そして当の作品がそういったものではないことを知っているのも又、制作者自身ではないだろうか。つまり画家にとってかれのおもい(・・・)(描かれなかったもの)はかれの<作品>以上のなにか(・・・)であるという考え方も成り立ち得る。そしてこれを推し進めてゆくことが、わたしの握りしめていたモチーフであった。そしてこのことが必然的にわたしの考え、<絵画>の表面からその内面へと運んでいった。これはたとえば、言葉からその「伝える」「指し示す」といった機能的な側面を取り除いていったとき発話者に何が残るのかといった試みに比してよいと思う。つまり<絵画>から、それが伝えるメッセージ、記号、技術、才能といったものを次々と取り除いていったとき、画家をその<作品>に駆る飢渇が見えてはこないだろうか。そしてこの飢渇がわたしのものでもあり得るという水準がなければ、絵画について語る必要も又無くなるだろう。
この場合わたしは作品評価ということを放棄せざるを得なかった。なぜなら<絵>(作品)は<絵画>(表現)とは、別々なところに還元してゆく他はないものと見えたからであり、この限りで<絵>はそれを描くものとこれを見るものの精神の運動の喩でしかなく、また喩としてしかこの精神の運動に形式を与えることはできない。そして、精神の運動それ自体には、評価の対象となるものは何もなく、ただ凝視されるものとしてそこに在るだけである。わたしは、<絵>の中で、己れの精神の運動を対象化すればよかったのである。こういった謂わば精神の暗がりに、わたしの言葉がどこまで届いたかはよく解らないが、わたしのプランはそこへ肉迫することだけであり、それ以外にはなかった。おそらくわたしは画家(他者)のおもい(・・・)とわたし自身のおもい(・・・)の間にある交通(それは言葉が生まれる以前か、言葉が終わったところで成立する)とでも謂うべきものに執着しているのだがこのオブセッションにうまく形式が与えられただろうか・・・
一九八一年三月 石沢 玄