三砂ちづる……国立保健医療科学院応用疫学室長
内田 樹………神戸女学院大学教授
(2003年11月9日 医学書院会議室にて)
――内田先生はラマーズ法なんですよね。
内田 前に三砂さんに最初にお会いしたときに、いきなり「あれは時代遅れ」と言われてしまいましたが、あれ、けっこうショックだったんですよ。ずいぶん時間を費やしたんですから、呼吸法を覚えるのに。奥さんからラマーズ法でやるようにと命令されて、日赤のラマーズ法講習会にずいぶん通いました。
三砂 ずいぶん、がんばられたのですね。
内田 70年代のニューファミリーですから。そう……総破産したあの「ニューファミリー」(笑)。
三砂 医療管理ではないけれども、ある種の管理のもとでの出産だというのがラマーズ法への批判です。
内田 わりとシビアな管理でしたよ。こういうふうにしなくちゃいけない、という枠組みがあって。分娩室にいたけれどもあまり居心地よくなかったですね。なんとなくみんなの仕事の邪魔しているみたいで。医師か看護婦がふつうに日本語話している横で、ぼくだけ「フッヒー」とやっているわけですからね。
でも、生まれた瞬間に子どもに会えたのはよかったと思います。母親より先に対面したわけだから、「あ、この人が私の親だ」という刷り込みがけっこうあったんじゃないかな。お母さんが抱くまえにぼくが抱きましたから。親の側としては、責任感のあり方がだいぶ違いますね。産室の廊下で待っていて生まれましたという報告を聞くのと、自分の目で産道から出てくるのを見ているのではね。
三砂 後ろにおられたのですか。
内田 横にいました。
三砂 いまは立ち会い分娩というと、お母さんの後ろにいかされます。「お父さんは後ろから支えてください」と言われて、手を握ったり。だから、赤ちゃんが出てくるところを見ているお父さんはあまり多くないんです。
内田 ぼくは看護婦さんの横で見ていましたよ。
●出産に男はいらない
三砂 私は立ち会い分娩にはイマイチ賛成ではないんです。いまの日本の文化的文脈からいえば男性が入ったほうがいい経験になる可能性は高い。実際に助産院のお産では、お父さん、子ども、家族が入って、それこそ「みんなでするお産」が多いんです。それはそれでいいのですが、私は出産はもともと猫が押し入れの隅で産むように、女性が自分だけで産むものだと思っているので……。男はいらないのではないかと思っているんです。
出産のときはエンドルフィンという、気持ちのいいホルモンがバーッと出ます。エンドルフィンハイになっているときは、ハッと恋に落ちてしまう。だから産科医とか傍にいる人は、恋に落ちられたりするわけ。出産後にお母さんから打ち明けられたりする産科医がいたりします。でも、そのホルモンは女性が本来は赤ちゃんに対してつかうものなんです。ワァーっとなって赤ちゃんにアタッチメントを感じるホルモンなので、傍に男なんかいると邪魔なんですよ。まあ、立ち会い分娩でご主人との関係がよくなるというのは、それはそれで日本のいまの文脈から考えると悪くはないのかもしれないけれども。
内田 うちはあまりよくならなかったな。あまりエンドルフィンが出てなかったみたいだな。
三砂 管理下の分娩ですからラマーズ法でやるお産は楽しくないんですね。分娩台に縛りつけられるよりは楽だけれども、女性が「楽しかった、また産みたい」というお産とは違います。からだとしっかり向き合ってお産をした人は、産んだあとすぐにまた産みたいと言いますね。そうやって、人間は楽しいからどんどん産んでいたのだと思う。
内田 そういうの好きです(笑)。
三砂 でも、いま「男はいりません」とあまり大きな声でいうと、せっかく病院で家族が出産に立ち会えるようになったのに、と言われそうです。
内田 それは弁証法的な進化だと思うんですよ。
三砂 助産所の分娩室には狭くて、暗くて、うすぐらいところがあります。その中で女性が野生の動物みたいになるのを、助産婦さんは傍で見ているだけなんです。でも、誰かが見てくれているという安心感はありますね。
内田 ぼくの印象としては、暗いところでウーッというのはいいように思います。動物のお産ってそうじゃないですか。村上春樹さんのエッセイだと、あのうちの猫は真っ暗なところで、村上さんが手を握っててあげると、じっと人間の顔をみながらお産をするんだそうですけど。
三砂 光りを落として、静かで、しかもあまり人がいない。そうなると、お母さんが赤ちゃんに集中できる。そういうお産をしたときの女性ってパターンがあるんですね。
生まれたらすごくアドレナリンハイになっているので、ものすごいびっくりした顔で赤ちゃんをみているんです。はっと気がついて、抱き上げて、背中をさすって、ワァーとなっている。
そこの時間を大切にしてあげないといけないと助産婦さんは言いますね。そこで「おめでとうございます」と言ってしまうと全部壊れてしまう。ハッと我に返ってしまうんです。お母さんがエンドルフィンハイ、アドレナリンハイになって産んで、自分の赤ちゃんを自分で取り上げて、背中をさすって自分で抱っこしてというプロセスを大事にしていると、自然に赤ちゃんに愛着がわく。お母さんに「ありがとうございました」と言われてはダメだと、その助産婦さんは言いますね。
内田 「ガオガオ」って言ったら成功だ(笑)
三砂 そう(笑)。「ありがとうございました」と言う人は、左脳だけでお産をしている。
内田 お産は右脳でするんですねぇ。
三砂 その人たちは、ほんとうに楽しかったと言います。子どもを産むだけならば100人でも産めてしまうと言いますもの。
内田 そういう人が増えてくれば大学の経営問題もうまくいきますね。ぼくと三砂先生の利害関係は一致しているんですよ。このままいったら日本の人口は危険な状況ですからね。
●いまの60代には良い出産体験がない
三砂 いま子どもを産んでいる女性の母親の世代が妊娠、出産、子育て、性生活にいっさい良いイメージをもっていないから、娘には悪いことばかり言っている。「結婚してもなにもいいことがない。仕事があるならばやっていたらいい。子どもなんか産まないほうがいい」というメッセージをがんがん伝えていますよ。そこをブレークスルーして結婚するのは大変です。結婚すること自体、すごいエネルギーが必要だったりするんです。
内田 ハードルが高い。
三砂 いまの学生さんもみんなそうでしょう?
内田 いや、学生はもうすこし年齢が下ですからそれとは逆ですね。自分たちの母親の生き方に批判的な人が多いです。女の子の時代を見る目の変化は早いですよ。10年ぐらい前はゼミで質問をしたときに、結婚したいという人は1人か2人くらいしかいなかったな。「専業主婦になりたい」なんて言う人は、めずらしいものを見るみたいな目で……。いまの1年生の10人中8人は、専業主婦になってすぐに子どもを産みたいと言いますね。「私は母親の生き方とは反対」と。
三砂 いまの18歳ぐらいの子のお母さんは40代ですね。
内田 そうですね。親から「結婚などしてもいいことないよ」と波状攻撃を受けていた世代でしょうね。
三砂 40代のお母さんの親の60代、70代の人は、気の毒だけども、いい出産を経験していないんです。
内田 60代の人はいつごろ、結婚した人ですか。
三砂 昭和30年前後ではないですか。
内田 どんな時代だったのかな。
三砂 不幸な時代ではないです。日本がどんどん経済成長をしていって、生活が楽になって、男女平等。
内田 女性の社会進出が楽になっていった時代ですよ。
三砂 でも、彼女たちは女性の社会進出には乗れていない組ですから。娘がどんどん社会進出するのをみて、自分だけが損をしたと思っている世代ですよね。私は、その人たちの妊娠出産経験がけっこう悲惨だったのだろうと思っているんです。
日本の施設出産と病院出産が半々になったのが1960年で、そこからほとんど100%病院出産になっていく。60代、70代の人は病院出産のハシリだから大変つらい経験をしているはずです、みんな封印してなかなか言わないけれども。プロジェクトXの世代だから、ダンナは忙しくて家にいないし。生殖に関して楽しかったという思い出が、いまの60代にはあまりないんじゃないですかね。物質的に豊かになり生活が便利になっていくこととは裏腹に、自分がしっかりとしたからだの体験をしていなかったり、親から何も聞いていない世代なんだろうと思うのです。
内田 うちの父親はもうちょっと上なのですが、意外なことにあの世代はすごく近代主義なんです。戦争が終わったとき20代、30代だった人は、軍国主義に対するリアクションなのでしょうが、ひじょうに科学崇拝、進歩崇拝ですね。宗教的なことにものすごく警戒心があるし、神社仏閣にお参りすること自体に身を引くようなところがありましたね。
親たちにしてみれば、それなりに必然的なことだったんでしょうが、子どもの心に素朴な宗教意識みたいなものが育つ契機はかなり抑圧されたと思います。このあいだ、うちのゼミの学生が「最近は地域社会が解体して、お祭りみたいなのがなくなってきました」というような報告をしてましたけれど、それは全然違う。いまはむしろ増えてきている。お祭りのような地域社会の行事がいちばん停滞したのは、昭和30年代から40年代にかけてです。
そのころ地域社会を解体しようという合意があったんですね。軍国主義の温床になったような、地域社会が家族であるようなネバネバしたコミニュケーションを断ち切りたいという強烈な意思があった。核家族を作り、地域社会が解体していく過程、それもきわめて強固な意思をもって解体していく過程を、ぼくはまのあたりに見ているんです。三砂さんがおっしゃっているのは、その世代の人たちじゃないですかね。戦後民主主義に対する理念や科学に対する崇拝。鉄腕アトムの歌のように「ラララ科学の子」です。
三砂 その世代の人にとっては、いちばんのチョイスだと見えたのは当然だと思うんですよ。女性のことだけ考えてみても、理不尽なことばかりたくさんあって、それをなんとか跳ね返したくて……。それにつながったところに暗いお産のイメージがあった。だから、病院のきれいな場所で産みたいというのが最高の選択であったはずなのですが、そこに一緒に置いてきたものがあるんだと思うんですね。
内田 60代、70代の人たちは被害者ですよね。大きな時代の流れの転換点で、「ピカピカの分娩室」を科学の未来と考えたのは当たり前だと思います。
三砂 私は、子どもとして生まれるというのは、親を許さないといけないと思うんです。親は許されるために親なんで、子どもは全部親を許さないと先に進めない。あれはあれで、いちばんいい選択をしようとしたのだと。
内田 彼らなりにベストな選択をしたのだ、として認めてあげないと気の毒です。親たちは浮かばれないですよ。
三砂 それを子どもの側がまるごと受けとめて、その後で次の世代に伝えるものは何かを取捨選択しなくてはいけないのであって、親を責めてもはじまらない。そうしないとアメリカの精神分析になってしまう。
内田 女性に関していえば、あの世代ががんばったから、ずいぶん大きな自由を手に入れたと思うんです。そういうトレードオフはあるわけですから、しょうがないですよね。
三砂 でもなるべく早く気がついて、ギリギリの駆け込みでいいから子どもは産もうと思うようになってほしいと思う。そういうことで、自分と親との関係ももう1歩先にいけるのだと思う。
自分と親との葛藤を乗り越えていくきっかけは人生においていろいろ用意されているでしょうが、出産というのも一つの契機になると思うんです。自分が子どもを産む経験が、自分と親との関係も見直していけるのだと思います。
●身体知抑圧の戦後
内田 その世代の共通点は、「身体固有の知がある」ということへの組織的な無視ですよね。その世代に共通するのが、オカルトが大キライ。宗教がキライ。武道も当然好きじゃない。そして、人間が幸福であることの条件として年収、社会的地位、情報であるとか計量可能なものを並べていって、これを得るためにはどの方法が合理的かという考え方を一般化させていった。
それによって、「個々の人間は社会的に計量可能になった基準ではなくて直観的にからだが教えてくれた方向で動くことができる」という考え方を組織的に排除したと思います。学校教育の場がいちばん大きかったのだけれども、身体知はほぼ組織的に根絶されたと思う。語彙からして根絶された感じがするんです。
三砂 ドイツ式の陸軍式体育教育なんですよ。
内田 身体知の抑圧は長い歴史があると思います。武道の歴史のなかで大きな断絶が2回ありました。1回目は明治維新。総合的な、伝統的な身体思考があって、それを武士階級の人たちがマナーとして担っていたのだけれども、明治維新になって武士階級が全滅してしまう。結果的に武道的な身体技法が単なる殺人技術として西南戦争から後に蘇ってきて、軍隊のなかに取り込まれていく。その段階で、生き方のマナーから一気にただの格闘技術と彎曲化されて、それが軍国主義イデオロギーと親和化していく。
そして1945年に戦争が終わるとGHQがやってきて武道を全部禁止してしまう。これが2回目。けっきょく生き延びるために「武道は殺傷技術でもない、マナーでもない、スポーツです。これはゲームなんです」と、楽しむためにやるものとして、つまり野球やサッカーと同じものとして生き延びていくわけです。
そのあいだに、身体の深いレベルの感応力、深いレベルにひそんでいるポテンシャンルをいかすものがどんどん潰されていってしまった。いまのスポーツは、人間の蔵している心身の巨大なポテンシャルを比較するのではなく、表層的な能力を他人と比較してどっちが速いとか、強いとか言っているだけです。「一人ひとり全部違うかたちでポテンシャルがあり、その人にとって最大化すれば成功である」というような考え方は出てこない。そういう考え方を日本社会は150年かかって潰したという気がします。
三砂 武道と踊りのからだの使い方は、学校の体育がよくできるかどうかとは関係ないですよね。
内田 ほとんど関係がないですね。
三砂 私は小学校の体育が何もできなかったんです。坂上がり、跳び箱、鉄棒、何もできなかったので、その後でからだを動かすのが快適になるとは思わなかったですね。いまの小学校でも同じです。走って、飛んで、投げる。それは身体知に基づいたこととは全然違うことですね。体がどれだけ柔らかいか、ゆるんでいるか、それこそ背中が意識できるかということとは全然違う。
内田 筋力とか骨の強さではなくて、むしろ感度なんです。皮膚の感度ではなくて、からだの内側におこっている感度、接触した瞬間に相手の身体情報をどれだけとれるかという感受性です。サッカーで相手を見ないままにパスしたり、野球で背走してキャッチしたりするすぐれたプレイヤーがいますけれど、あれは運動能力というよりも身体感受性なんですよ。身体感受性の開発のための訓練もあるんですが、通常の学校教育では一切やらない。かくれんぼやハンカチ落としみたいな遊びは、五感だけじゃなくて、それを超えて人の気配や「殺気」みたいなものを感じ取る訓練法でもあったと思うんですけれど、もうそういうことはしませんね。いまの子どもはテレビゲームを一日中やっているわけで、動体視力と反射は早くなったけれども、それ以外の身体感受性はむしろ致命的に損なわれています。
いまカウンセリングに通う人は、ほとんどの人が人間関係で疲れているんですね。それは、たいていの場合、ネガテフィブなオーラを発して、生命力を奪ってしまうような人の傍にいるからです。でも、それがわからないから。だから「そこから逃げ出す」というオプションを思いつかない。言っていることは語義レベルではまともだし、つじつまがあっているんだけれども、それをずっと聞かされているうちに、聞く方がどんどん衰弱していく、そういうコミュニケーションってあるでしょ。彼らは、メッセージのレベルとは違うレベルで、「俺はお前をコントロールする。俺はおまえの生命力を低下させて私の支配力においておきたい」というメタ・メッセージを出しているんです。それは非言語的な身体メッセージですから、言葉を聴いているだけじゃわからない。それを感受するには身体感受性がないとダメなんです。でも、そういう能力は子どもの段階からどこでも訓練されていないの。だから、生きる意欲そのものを失わせるような不愉快で不快な人間関係のなかに平然ととどまっている。
●女は出産、男は武道
三砂 それに気がつかせてくれる環境もなかったんでしょう。何をきっかけに取り戻していただくか、ですね。私がなんでこんなに出産、出産って言うようになったかというと、出産した女性は身体知を一挙に取り戻すような経験をしているからですよ。男性が武道でできるようになることが、女性は妊娠出産でいっぺんにできる。
私は助産院での女性の手記をたくさん読んだのですが、パターンがあるんです。「宇宙の塵になったような」とか、「時間的感覚がまったくないような」とか、「自分のからだがどこまでもひろがっていくような」とか、「狭いところに入って出ていきたくない」とか。ピーク・エクスペリエンスみたいなものを感じる先に出産がある。それは1回感じてしまうと自分の身体知になって基本になっていくんですね。
道にいてもこわい場所だと感じられないのは、感じられるようになるそのコアがなかったんでしょう。そのコアを作るためには、武道をしたり踊りをしたり、という道もあるのですが、妊娠出産というショートカットもあって、そこでしっかりしていれば自分の身体知が感覚としてわかってくる。そういうお産をした人は、自分と子どもの住む世界を考えられるような社会性が出てきます。外とのつながりを求めていくようなプロセスが自然にできてくるのがすごいですね。
内田 ピーク・エクスペリエンスは出産の瞬間に、子どもにそのままストレートなかたちで伝達されるのではないですか。からだとからだがぶつかったときに伝達される情報の量はぼくらが考えているよりケタ違いに多いんですから。ものすごい量の情報、ふれた瞬間に長い時間を一緒に過ごしたみたなのがありうるわけです。母と子ならば、たったいま分離したばかりの段階なんだから、お互いの共感能力はおそらく想像しうる限りいちばん高い状態にありますよね。そのときに親の側からバッーと体感として伝わって、生まれた瞬間に子どものなかに宇宙感みたいなものまで刷り込まれていくことは、ぼくは理論的にありうると思う。
自分が生まれる前と自分が死んだあとで時空をつらぬく1本の線があって、自分はある巨大なものの一構成要素であって、自分の前にも後にも「何か」があって、自分もそれにつながっているという感覚。その感覚をもつことって、すごく大切だと思います。武道の稽古の前にまず合掌しますね。合掌するのは、宇宙を貫く1本の線と体軸を合わせているんだとぼくは思っているんです。たぶん、それがすべての動作の始まりなんです。宇宙の軸といまの自分の限定的な時間と自分の空間をうまく合わせていって、それがカチンと合った瞬間に、絶対的な自己肯定がおきる。自分があと5分後に死ぬとしても、まったくそれとは関係なしに自分は大きな生命のなかの一部分であることを感じ取ることができる。それが霊的な経験だと思います。自分はいま「正しい時間に、正しい場所」にいるということ、いるべき場所に、いるべき時に、いるべき人とともにいる、ということを実感するということが霊的な経験だと思うんですよ。子どもが生まれるというのは、時空を貫く1本の線と自分自身の線がぴたりと一致している、そういうすごく宇宙的な経験なんじゃないですか。
三砂 アラインメントが重なるときは気持ちいい。またあそこに戻りたいと思う。
内田 でも、なかなかむずかしいんですよ。いきなり合掌してごらんと言われても。それで体軸が感知できるというものじゃないんです。合わせた踵と頭頂部を貫く自分の体軸を感じる、というところにゆくまでに何年もかかるわけですから。
三砂 いま男性は武道ですが、女性は日本舞踊などができるようになるとだんだん自分の軸が合ってくるのでしょう。それはふつう言われる技術とはちがって、楽しくて嬉しいから、どんどんやるんですね。出産もそういうところがあると思う。楽しいし、嬉しいから子どもを産もう、みたいな。
内田 むかしは、妊娠するようになる段階から、ある種の身体操作技法みたいなものをずっと教えていったと思うんです。セックスについても技法にちかいものがあったと思う。妊娠しているときのからだの使い方、出産のときのからだの使い方、出産後の子どもに接するときのからだの使い方、あるいはマナーというのが、ていねいに各種集団ごとに伝承されていったと思います。
三砂 そうなんですよ。95歳以上の人は月経血がコントロールできたというので「大和なでしこのからだづくり」というのを運動科学総合研究所というところでやっていて、骨盤底筋を意識して引きしめる訓練をしたりしているんです。からだをゆるめる体操をして、呼吸法を使いながら骨盤底筋だけをひきしめる。
内田 いいですねえ。合気道の稽古でも、お尻を宙に浮かして仰向けになって、内臓をぐーっと左側に巻き上げていくのがあります。これは手や足を鍛えるのではなく、内臓の筋肉を巻き上げていく。多田宏先生は若いころにお尻の下に五寸釘をおいて毎日この練習をやったと言われてましたね。これは内臓の筋肉を使う。尻の穴をきつくしめて内臓を持ち上げていくんです。
――失禁体操と同じですね。
三砂 いま若い女性でも尿漏れが増えているので、月経血コントロールもやったほうがいいということになったんです。頭を使いすぎている女性は中心をもう少し下に降ろしたほうがいい、ということでやる野口整体の体操があるのですが、ほとんど同じ発想ではないでしょうか。そうすると頭でばかり考えないで、骨盤底筋と子宮を感じながら女性が生きるようにできる、と。
昔の女性は着物だから、そういうことが自然にできたのですね。着物をきて歩いている姿勢、正座している姿勢、草履の姿勢のときは自然に中がひきしまっていく。それが楽だと感じられるような身体所作だったと思う。
ですから、そのぐらいの年齢の人は骨盤底筋をしめなさいと言われなくても、みんなできていたと思う。できていたからこそ、次の世代に言語化されて伝わっていない。着物の生活を捨てた時点でなくなってしまったと思います。……着物は着れば着るほどすごいことだと思いますねえ。(注:三砂氏は着物を常用している)
内田 それはいいですね。「サラリーマンよ、着物を着なさい!」。着物だと、正しい姿勢をとるのがわりと簡単ですね。襟の合わせが前にきて、首筋が襟に合えばいい。自分でからだをコントロールしなくても、正しい姿勢を着物が教えてくれる。
三砂 気がついていない人でさえも気がつくようになります。かたちから入るのは重要ですね。私も、着ることで毎日違った発見があります。着物はきちんと着れないと批判されるイメージがあってハードルが高いですが、でも、ぜひ着てほしい。
●敵意はサラリと受け流す
内田 着物はこれから自分が動く距離、その間に人がどれぐらい移動するかを洋服よりもたくさん考えないといけないんですね。あそこで袖がひっかかるといけないからとたもとを持ってからとか。むかしの人は刀をさしているから、左側の腰のうしろに60?ぐらいのでっぱりがある。これが物にあたることは「鞘当て」といって「無礼者!」と言って斬っちゃってもいいことになってましたから。
三砂 身体感覚をひろげていくことが、あまりにもオカルトみたいに取られすぎていますが、車を運転しているときに車幅感覚がありますよね。自分の身体感覚をそこまで広げられているのと同じです。
内田 盲人の人はステッキの先にふれる物の温度、色がわかる。それまで延長するわけですね。女の人は帽子の飾りの毛の先に何かさわってもわかる。無機物にでも感覚ってけっこう延長できるんです。
三砂 それが全部トレーニングとして組み込まれていたわけですね。
内田 聞いた話ですけれど、ラクビーの平尾誠二さんは、ものすごく身体感度の高い人なのですが、感度が高すぎて逆に車の運転ができないんですって。あまりにもたくさん身体情報が入ってくるので、「あっ危ない、危ない」と気が気じゃなくて運転できない。だから、車に乗るときは奥さんに運転してもらうんだそうです。
三砂 でも奥さんが運転しているときに、安心していらっしゃるのでしょうか(笑)。
内田 スーパーアスリートの人は、前後左右いろいろなところからくるさまざまな信号を全部感知できちゃうから、かえってキツイということはあるかも知れないですね。サッカーの中田英寿も、テレビのインタビュー見ていると、メディアの人のほとんど無意識的な悪意にもピッと反応しているみたいで、あれはあれでつらそう。
三砂 ある程度感度が強くなってきたら、鏡をもって歩きたくなるのかもしれませんね。反射するものを持っているのが重要なんじゃないかな。ジェラシーとかをこちらが吸収しちゃうと、嫉妬している人は私は悪かったと気がつかない。そこでこちらがちゃんと跳ね返してあげると、向こうが悪かったとわかる。鏡を持っているような気持ちで人と会うのが大事なのかと思ったりします。
内田 鏡はいいのですが、まっすぐに返すのではなくて、少しずらして流すほうがいいですよ。邪悪なメッセージを相手にじかに返すのはまずいんじゃないですか。
論争などでも、勝てば恨みを買うし、負ければ気分が悪い。どっちに転んでもいいことがない。学校の教授会で議論をしていてもそう思いますね。むかしものの弾みで議論の相手をきつい言葉で批判してしまったことがあります。そのときは論争レベルでは相手を黙らせたわけですけれど、結果的には、それが尾をひいて、5年経っても、10年経っても、何かあるたびにその人がぼくの足をひっぱる。だから、トータルでは大損しているんです。目先の勝負に勝ったことで長い眼では損をした。これで懲りました。
ぼくは本を出してからいろいろな人たちに論争を挑まれるのですが、だから全部逃げてるんです。勝って益なし、負けて益なし。戦いはいけません。嫉妬でも攻撃でも、相手にしないでさらっと受け流すのが一番です。
三砂 日本で昔から美徳とされてきたことは、本当はとても大切なことなのですよね。受け流す、まわりに気をつかう、お金にうるさくない、「まあまあそれでいいです」と言ってニコニコしてその場は終わるとか。
内田 イエスイエスと言ってノーを言う。
三砂 周りに気を配れるということですよね。「はっきり言わなくてはダメ、きちんと議論しなくてはダメ」と言われていますが、そんなことだけを言うほうがダメですね。
内田 一時期「ディベート教育」と日本の学校でも導入したらという議論があったじゃないですか。あんなのまるでナンセンスですよ。2つのチームに分けて賛成、反対なんて。大切なのは相手をやりこめることではなくていかにして和解しがたい対立を合意形成にもっていくかじゃないですか。ディベートと合意形成の訓練とは全然違うものでしょ。ディベートはむしろ対立点を明示化する訓練でしょう。そんなことしても何の益もない。
――いまは裁判でも、最新モードは修復的司法なんです。いわゆる「ケア型の裁判」ですね。
内田 日本にはその技術があると思いますね。和解は大切です。
三砂 全部1回、受けとめてからですよね。
内田 ヨーロッパ的なディベート文化、対立文化の根本には、「正しいものはいつか普遍化する」、つまり真理はからなず全体化するという抜きがたい真理信仰があると思うんです。でもぼくが前提にしているのは、反対に邪悪なやつは邪悪なままで、矯正のしようがないとあきらめることです。邪悪なものが及ぼす被害をどうやって最小化するか。なんだか性悪説みたいですけれど、このリアリズムの根本には他者は不可知だという断念があると思うんです。
本当のことを言うと、ヨーロッパのほうが「人間は腹を割ったら最後には分かりあえる」という信憑が最終的にはあると思うんですよ。そうでなければ、あれほど激しく他人を攻撃できません。でも日本人には、人間は腹を割ると何を考えているかわからないという恐怖感がある。わからないから恐い、恐いから「本音」をできるだけ聞かずにすませて、表面的になんとかなあなあでごまかす。そういう合意形成戦略のほうが実は人間の本質的な底知れなさに対する「恐怖」と「敬意」があると思いませんか?「他者とは何か?」と正面切って論じられる文化と、「他者とか、そういう話はナシにしませんか?」という逃げの文化では、どう見ても後のほうが他者の他者性というものに対する畏怖の念があるんじゃないかな。
●「パイプのような私」になってみる
三砂 こわい人間か、こわくない人間でなくなるかは、さっきのアライメントの取り方と関係がありますか。
内田 どうなんでしょう。微妙な間合いですね。ただ、その人と一緒にごはんを食べたいかどうかということはすごく大事ですね。家族は基本的に会食する集団でしょう。デートは基本的にごはんを食べに行くでしょう。どうしてかって言えば、ごはんを食べると、その人といて楽しいか楽しくないかがわかるからですよ。家族でごはんを食べるのは仲がいいから食べるんじゃない。その逆です。いつご飯がまずくなるかをチェックするために、いっしょにご飯を食べるんです。ごはんを食べていてまずくなったら、その家族は危険信号なんです。だいたい家族の解体シーンはちゃぶ台をひっくりかえしたり、残して「もう、いらない」ですから。
セックスするまでもなく、男と女は一緒にごはんを食べると、一緒にいられる人かどうかはわかるんです。ダメな相手とだと、味がしないんですよね。味がしないというのは、「この人はよしたほうがいいよ」って身体が発している信号ですから。いくら頭では一緒にいたいと思っても消化器のほうがいやがっている。たわいないことをしゃべっていても、やたらパクパク食べて「おかわり」と言えるときは、身体が「相性がいいよ」って教えてくれているんです。
三砂 そういえば、一つのアイスクリームをふたりで食べることができる人たちはからだの関係があるって何かの本に書いてありました(笑)。一つのものをシェアしているのは、それこそ親密圏だから。
内田 自分と同じものが好きだということ、同じ食の快楽を共有できているというのは身体的なところで調和しているということですからね。
――そういえば親密圏についての論文を書かれていると聞きましたが。
内田 金井淑子さんの親密圏の話をとてもおもしろく読ませてもらいました。近代的な個の確立はいいのだけれども、「人間は強くなければいけない」ということになると、集団の中では最初に弱い老人とか幼児とか病人が排除されてしまう。自立主義というのは、自立する能力のない人たちが無価値なものとして排除されているのではないか。自立、自立と言うのはけっこうだけれども、自立できない人たちはどうするのか。行政がどうこうすればいいのではなくて、義務ではなくそれ自体が本務として行うような主体がいなければならないというのが金井さんの考え方だと思います。
金井さんは「家族」という言葉をつかいたくないので、「親密圏」という言葉をつかって、弱い個体に対してそれを保護したり慰撫する人たちがいないと人間は生きていけないということを言おうとしているんだと思います。
三砂 こういう良いことがあるから受けとめてもらっているのではなく、自分がそのままで受けとめてもらえているという気持ちがあると、人間は次に進めるじゃないですか。それは子どもでも大人でもそうです。「いまのままのあなたでいいです」と言われる経験が、1回でも、1人でもあればいい。その能力のある人をどうやって増やしていくかを考えると、毎日会っているのだから家族がいちばん大切になってくる。まあ、家族でなくてもいいのですが。
「この人をしっかりあるがままで受けとめる」という力がある人が、家庭のなかでも、プロとしての医療福祉の分野でも減ってきているのだろうと思うんです。「あるがままをあるがままでいい」と受けとめる能力、それがケアの能力の本質だと思うのですが、それを持つには自分の側にもそういうふうにしてもらった経験が基本的には必要ですよね。してもらえないならば、武道の経験で感じるとか。
内田 武道の経験は師弟関係ですから。師弟関係が成立するのは「師によって認知されている」ことが弟子に実感されるからです。時間を貫いていく流れのなかで、師から弟子に何かが継承されてゆく。そうやって師から継承されたものを、また次の世代に継承してゆく。師弟関係って、ひとことで言えば「無償の贈与」なんですよね。師匠からみれば弟子は何もできない、はるかに劣った存在であるにもかかわらず、師は弟子に受け止めきれないほどの贈り物をしてくれるんですから。
根本にあるのは、「いまのままのきみでいい」ではなく、「きみには可能性があるのだ」ということだと思います。それを口で言うのではなく、ほんとうに感じている。相手の「可能性」にピンポイントして話しかけてくる。いま自分が何ものであるかではなくて、未来の自分にむかって掛け金をおいてくれるという感じですよね。
人から抱きとめられているということの、最大の感動は、「あなた自身が気がついていないけれども、あなたの中にはものすごく豊かなものがあるんだよ」というメッセージを受け取ることです。でも、そういうメッセージを送るのって、義務とか仕事としてではできないことですよね。ほんとうにその人が蔵している豊かなものに直接「触れた」という実感がないと、そんなこと言えませんから。「義務として人を抱き締める」なんてことはありえないですからね。
三砂 やっぱりそれは、ケアを提供する側、信じる側も気持ちいいからやるのですよね。その人の豊かなところに触れていることで、自分もまた肯定されていく。その相互作用なのだと思います。
助産婦さんはシンドイ仕事なんだけれども、助産院で仕事をしている助産婦さんが絶対に仕事をやめたくないというのは、産婦さんを受けとめたときに、相手が腰が痛いというときに自分も腰が痛いと感じられるような、受けとめて、受けとめられる関係ができてきたときの心地よさを覚えているので、擦り切れないからなんです。ずっとそういうケアを提供していたらバーンアウトするのかと思っていたのですが、それは逆。バーンアウトするようなケアの提供をしているからバーンアウトする。あるがままを受けとめて、受けとめられているから、ケアしている側も気持ちがいいんでしょうね。
内田 愛情は、自分の中から出てくるものではないんです。通過してゆくものなんです。お金とおなじです。お金は貯めていると入ってこないけれど、使うと入ってくるじゃないですか。貨幣の本質は運動ですから、貨幣は運動しているところに集まってくる。だから、お金を使ってくれる人のところにドンドン入ってくるんですね。川の流れと同じで、じゃあじゃあ横をお金が流れているなら、ちょっと手桶をつっこむだけで、取りあえず必要なくらいのお金は手に入る。でも、それを貯め込んじゃダメなんです。自分で貯水池をつくって、そこにお金を呼び込もうとしたりすると、もうお金って入ってこないです。ただ横を流れていくだけ。ビジネスマンで大きな仕事をする人は、個人ではお金をもっていないです。ただその人のところにお金がガンガン入ってガンガン出てゆくだけ。愛情もそれと同じですよね。
三砂 流れるようなからだにしておくのが大事ですよね。エゴがいっぱいだと自分のからだのなかで流れがブロックされて、とまってしまう感じがする。
内田 自分の能力やポテンシャルを自分のものだけにしようとか、自分の能力を貯めておいて利子がついたらと大きく使おうと考えているとダメなんです。
三砂 自分がやっているのは自分の力ではない。それは自分の役割として受けとめさせてもらっているだけなので、自分をいい状態にしておけば、いいものは流れていくでしょう。
内田 自分の持ち出しならばすぐに切れてしまいます。愛情だってだって、すぐに底をついてしまう。外から流れ込んで来るものをちょっと使わせてもらうしかない。
三砂 流れるようにしておかなくてはいけないですね。外からくるものを止めるとつまってしまうし、出そうと思っても出せなくなる。チョロチョロしか出なくなるし。
内田 抵抗のない流動体にしていくんです。
三砂 自分など、なければないほうがいいと思います。自分探しなんかしても、ない。役割がきたら「ありがとう」と言っていればいいのです。ケアを提供する職種でもそうなのですが、「いかにそれを流していく自分になれるか」が課題です。
内田 パイプの径を太くしていく。
三砂 掃除しながらつまらないように。
●時間をずらす……K1と出産
――先ほど三砂先生から、感受性を上げることによって受けてしまう被害にどう対処するかという話がありましたが、内田先生のWeb日記に、K1の武蔵さんの「殴られても痛くない方法」の話がありましたね。
内田 相手の攻撃を受けたときは危機的なときですから、身体感受性を最大化していかないとその状況を乗り切れない。でも身体感受性を最大化するときは痛覚も最大化するわけだから、すごく痛い。当然ですよね。でも、身体感受性の感度を下げれば痛みは軽減しますが、そのかわり体は動かなくなる。根本的な矛盾ですね。その矛盾をどうやって解決するのかを聞きたくて、武蔵さんに会う機会があったときに、とりあえずまずそれを聞いたわけです。
答えは、「2つ先のパンチの方を考える」。
いま殴られているときに、2つ先の、右のストレートが相手の顔面をパンチして相手がダウンしているときの体感をリアルにする。それを「現在」にする。そうすると殴られていることが過去のことになるので、どこの部位にどういうダメージをくらったのかは明確にわかるけれど、痛みはリアルではない。そうやって、時間をずらす。未来のほうにシフトする。この説明を聞いて、これまでいろいろな武道家が言っているけれどよく分からなかったことが、すとんと「腑に落ちて」、かなり感動しましたね。
――鏡の話では「角度をずらす」ということでしたが、今度は時間をずらすんですね。
内田 客観的には何が起きたを完全に理解していて、どこにダメージがあるかも全部わかっているのだけれども、痛みの切実さを「時間をずらす」ことで軽減させているわけです。この時間のコントロールが結果的には、武道的に言うと、「先手を取る」ということに結びつくと思うんです。
オートバイのコーナリングと似てるんです。バイクの場合、コーナリングしおわって、コーナーを抜けたときの体感をコーナーに入る前にはっきりと持てるときは、きれいに抜けられる。でも時間と動作が完全に同調していて、リアルタイムでバイクを操作していると、コーナリングはひじょうに難しいんです。逆に、「クリッピング・ポイントあたりでリアタイヤがすべったら、いやだな……」というようなことをうっかりイメージすると、実際にそうなるように無意識のうちに身体が動いてしまって、リアがずるずる滑り出す。人間は実は「未来の体感」を先取りして、それをいわば「設計図」にして、それに合わせて、それを実現するように現在の体をコントロールしているわけです。ある種の志向性をもっていないと身体が動かないんです。
だから、輪郭のはっきりした「未来の体感」をもっている人間とあまり持っていない人間、時間的に先まで行っている人間とリアルタイムをずるずる生きている人間というのは、設計図に従って家を建てている人間と、設計図なしにそこらにある材木や工具をぼんやり手にとって、「これをどう使えばいいんだろう」と考えている人間くらいに動きの効率が違うわけです。設計図をもって行動する人の方が、当然にも圧倒的に有利なんです。
三砂 お産も、まったく同じような感じなんです。未来のポイントがあるわけです。そのポイントに集中できていると、陣痛の波をうまく乗り越えていける。いい波に乗れて、そのポイントがイメージできるときは、痛いときは痛くても、そうでないときは数十秒でも眠ってしまうくらいリラックスできる。それがあるから痛い波を乗り越えられる。それの繰り返し。「出産は痛くてつらくて苦しくて」と思われているけれど、それは波をうまくイメージできないからなんです。
20年ぐらい前に、山梨県のある村で、当時70歳ぐらいの人の出産の聞き取り調査をした報告を読んだことがあります。その村では「お産はなんでもない。誰でも生める」という言い伝えがあるんですが、そういうところでは実はみんなお産は軽い。新生児も死んでいない。みんな140?ぐらいの小さいおばあちゃんだけれども、お産でこわい思いをしたことはないと言うんです。それはお産のイメージがついていて、未来のポイントが見えているからだと思います。しかもそれが楽しい経験だったと伝えられているので、そこに向けて終息するようにからだができているのかなと思います。
パンチを受けることを陣痛と同じように考えると、その波が見えている方がうまくいくのかなと思う。医療介入したり、途中で手を出すのは、そのリズムを壊してしまうことですね。1回リズムを逸脱すると際限ない介入をしないと次の結果をつくれないことになるのだと思いますね。
内田 武道の場合に、相手が手を出してきたときにこちらがその手をはらったり、つかんだりすると、その接点からの情報でこちらの次の行動がわかってしまう。体軸の位置や重心や動きの速さや強さや方向が、ほんのわずかな時間のうちに相手に伝わって、相手がそれに反応してくる。人間の感覚って、鋭いですからね。そういうことが何十分の一秒というくらいの時間で全部伝わってしまうんです。
接点での接触面積が多くて、接触時間が長ければ、それだけ伝わる身体情報は多いですよね。でも、逆に、軽く触れるだけのような反応の仕方だと、身体情報は少ない。そういう場合には、相手は何をされているのかよくわからなくなるんです。小さな声を聞きつけた場合と同じです。何かを言っていることは分かるけれど、何を言っているのかは分からない。そのときぼくたちの聴覚はいちばん敏感になりますよね。そして、そのときに「時間がとまる」。
敏感になっているとき。それも相手からの送られた情報を「解析」するために、身体の感受性を上げているときって、時間が止まってしまうんです。「私の身にこれから何が起こるのだろう?」という問いに足を取られて、現在に封じ込められてしまう。現在という時間に「居着く」わけですね。
「居着き」というのは武道的には足の裏が床にへばりついて身動きならない状態をいうわけで、一般的には空間的な停止状態のことですけれど、もちろん時間的な居着きというのもありうるわけです。身体が現在に固着してしまう。さっきの「悪いコーナリング」の場合と同じで、時間と身体がリアルタイムでして動く状態ですね。この状態が武道的にはいちばん危険なわけです。
だから、武道的にいうと「活殺自在」というのは、相手を空間的に停止させるということではなくて、ひとつの時間流のなかに封殺してしまうということだと思うんです。時間の中を緩急自在に行き来している人間と、ある時間流に固着している人間とでは、もう勝負になりませんよね。
三砂 動いている間は本人には、時間感覚みたいなものが消えていますね。時間がそこに向かってすぅーと自然に流れていけば、いくら長いお産であっても本人にとっては時間の感覚がないからうまくいっているんですよ。でも、いまの医療は全部パートグラムで計って、いわばこちらの時計の時間で切るわけです。気持ちがいいし達成感もある経験をお母さんも子どももしているときに手を出すことの意味が、いまのお話を聞いていてすごくよくわかりました。経験をとめることになるんですね。
内田 運動するということは空間的な移動じゃなくて、実際には時間の中も動いているわけですから、時間を停止させられて、現在から動いちゃいけないと言われるのは、いま痛みを感じている側にとってはすごくきついことですよね。
●思わず産みたくなってきた
――無痛分娩を選択したらその経験ができないのでしょうか。
三砂 せっかくそういう経験ができるのに、無痛分娩に閉じ込めてしまってもったいないですね。もう一つは、生まれてくる子どももその経験をしているわけです。赤ちゃんの経験をも封じ込めてしまう。
ある助産所に、臍帯(さいたい)が4回巻いていた赤ちゃんを出産したときのビデオがたまたま残っていました。病院では1回でバタバタと切ってしまうのですが、そこではなかなかお産が進まなかった。ただ、赤ちゃんの心音はいいし、お母さんも元気だし気分が良さそうなので見ていたというのです。すごいゆっくりなお産なのだけれども、子宮口が全開大になったところでものすごい勢いで赤ちゃんが降りてきた。頭だけ出たら4回巻いている。助産院では切りませんから、助産婦さんが1回、2回、3回、4回とほどいて子どもが生まれてきた。
その方は70歳代を過ぎた助産婦さんなんですが「赤ちゃんの顔をみてください」と言うんです。それは誇らしい、いい顔をしているの。「私はやりました」という顔をしている。つまり赤ちゃんは自分がそういう状態であることをお腹のなかで察知できているわけです。ゆっくり降りてこないといけないな、と思って、おそらくゆっくりと調整して降りてきた。全開大になったら、そこは産道だからゆっくりしているときついじゃないですか。そこでガッと出てきた。赤ちゃんとしては自分の力を使いきれた。経験したかった経験をやって自分で出てきたということなんです。
助産婦さんが言われるのは「こういう経験を子どもにさせてあげないといけないですね。自分の状態がわかって、生まれてこようとしている経験があるとないでは違うでしょう」と。こういう経験がなくても、もちろん後の人生で挽回できるのだけれども、最初からこのような経験をしてここから出発できるのと、そうでないのとでは人生の出発としてものすごいギャップがあります。だから、助産婦さんの言葉を聞いてそのとおりだと思いましたね。
私自身は子どもが2人いるのですが、どちらもひどいお産なんです。上の子はブラジルで逆子だから帝王切開、下の子はイギリスで陣痛促進剤をいっぱい使われて、というお産でした。ですからお産ではあまりいい経験をしていないんです。自分の出産のことを考えると、子どもに対する目がやさしくなります。子どもが生まれてくるときにゆっくり待ってあげられなかったのだから、いまはちゃんと何でもゆっくりやらせてあげないといけないと思えるようになりました。
――助産婦さんに「帝王切開で生まれた子どもはそういう経験ができなかったからダメだ」と言われた女性がつらい思いをしている、という話がありました。
三砂 そういう言い方をされるとほんとうにつらいでしょうね。そういう出産経験をできなかったお母さんや赤ちゃんほど、手厚いケアを受ける必要があるのに。それは仕方のないことですよ。そこを受けとめて、その状況でよかったと思えるようになってもらうようにケアをしなくてはいけないのに、帝王切開だからこの子はダメ、なんていうことは本当に問題があります。
私が「いいお産、いいお産」と言っていると、「そういう経験をできなかった人はどうするのか」と言われるんです。できない人はしょうがないですよ。しょうがないからそこを周りが受けとめて周りが支えていけばいいのです。できない人がいるからといって、本来のお産はこういう経験だということを言わなくていいということではない。お産はこういう経験だということを、お母さんも赤ちゃんも男の人もみんなわかっていい。いまは医療の出産しかみていないから、ほんとうの生まれる意味がわからなくなってきている。本来のお産がこんなにすばらしいと言うと、「できない人やできなかった人がかわいそうだからやめてくれ」と反応するのは、方向が逆だと思いますね。
内田 そのとおりですね。
三砂 人間は経験したからわかるものではない。大学ぐらい出た人、知識人といわれる人たちは、言葉から想像して経験を共有するために勉強しているのだから。自分が経験していないからわからない、ということではないと思う。経験、ではないですよ。
内田 ぼくは三砂先生の話を横で聞いていると、すごく気持ちのいいお産をしたときはどんな気分かが体感として送られてきますよ。
三砂 私は自分ではいい経験をしていないですから、想像的な体感なんです。それでも伝わるとしたら、女性の言葉を聞いたり、見たりして、これを伝えなくてはいけないと思うからでしょうね。
内田 思わず産みたくなりました。