Session Talk with Taguchi Randy
on Levinas and Aikido
2003 19 Dec. in Re-set, Sannnomiya
田口 最近レヴィナスに惹かれているんです。きっかけは、友人の熊野純彦さん(哲学者)がご著書の『レヴィナス入門』という本を私に送ってくれたことでした。それまでレヴィナスのことは何も知らなくて、レヴィナスってきれいな名前だななんて思ったくらい。ところが読んでみて、とても興味をもってしまいました。死者に対するレヴィナスの困惑の仕方が、すごく自分と似ているという気がして、とても惹かれてしまったのです。
内田 そうかもしれないですね。他者は死者ですから。
田口 レヴナスは面白いね、という話を晶文社の編集者さんにしたら、レヴィナスならば内田先生ですよと教えられました。内田先生はレヴィナスの翻訳もされ、生前のレヴィナスにもお会いになられていますが、なぜレヴィナスなんですか? きっかけがおありになったのですか。
内田 最初のきっかけはモーリス・ブランショというフランスの文芸批評家で、その人が僕の修士論文のテーマだったのです。彼についての研究書を読んでいたら、そのなかに20代からレヴィナスと親交があって、その哲学の影響を強く受けていると書いてあったのです。それならば読んでみようということで、79年に読み始めたのです。最初に読んだのが『困難な自由』。
これはユダヤ教についての書で、当時はユダヤ教に関して何も知らなかったのですが読んだ瞬間にビビッときた。何を言っているのか全然わからないけれどもビビッとくる瞬間はあるのです。これはとんでもない書に会ってしまったということで、その後はずっとレヴィナス。
読んでも何を言っているのか全然わからないので、相当緻密に読み込まなくてはいけないと思っていたら、たまたま国文社という出版社から私の指導教官の足立先生に「レヴィナスの翻訳を出したいのだけれども」という話がきたのです。
足立先生はレヴィナスには別に興味がなくて、「レヴィナス、レヴィナス」と言っている博士課程の院生がいるから、そいつにやらせたらどうかということで翻訳の話がぼくにまわってきたんです。
『困難な自由』を頭からなめるように読んで訳したのですが、まるでわからない。なにしろ、ひとつの文が長いし。それでも、がんがん訳す。ヘブライ語が出てきますから、今度はヘブライ語を勉強しに通う。ユダヤ教のことがわからないときは渋谷のJCCのラビ(ユダヤ教の教師)に話を訊きに行く。
そんなふうにして、20代の終わりから30代はずっとレヴィナスの研究と翻訳に明け暮れていたのです。きっかけはいきなり。
これまで読んだ人とはまったく違う、「これは本物だ」と思った。
田口 私はヒロシマのことを題材にして何かを書きたいと思って、2年程頑張って小説を書いて、250枚まで書いて挫折してしまっているのです。暴力を一方的に加えていく他者に対して私は何を書いていいのかわからなくなってしまって、グジャグジャしているときにレヴィナスに出会っちゃうのですね。彼の世界に対して自分がやむなく存在することのしんどさを感じて、それは実はすごい今日的ななテーマで、いまとても大切な思考なのではないかと思いはじめました。自分でもそれに迫ってみたいなと思って、今日は内田さんに教えを請いに伺ったわけです。
内田 レヴィナスは巨大な人ですから。僕の解釈は分かりやすい解釈なんですが、決定的な契機はホロコーストなんです。レヴィナスという人は応召して39年にすぐに捕虜になってつかまってしまうのです。彼はユダヤ人なのですがフランス兵として捕虜になった。ウイーン条約で戦時捕虜の人権は保護されていますから、39年から45年の間に、ユダヤ人としては例外的に安全な捕虜生活を送るわけです。
ご自身はつらい捕虜生活だという実感はあるのでしょうが、作業をして書物を読んで、その間に『実存から実存者へ』という哲学書の草稿を書いたりしているわけです。
戦争が終わって戻ってきてはじめて、自分のリトアニアの親族が全部死んだことを知る。
おそらく、そのときに、ものすごい罪責感を感じたと思うんです。なんで生き残ってしまったのか。自分はすごく苦しい目にあっていると思っていたのだけれども、実は自分の味わった苦しみは同胞600万人が味わった苦しみに比べたら何程のものでもない。
けっきょくその自責の念がおそらくは強すぎるせいで、「被害者」の立ち位置から、ナチスの非人道的なホロコーストを告発するということをためらってしまう、というところがレヴィナスの独自なところだと思います。
自分だけ生き残ってしまった。そのときの最大の困惑は、なんで自分が生き残ったのかわからないということです。
理由があれば納得もできる。けれども「たまたま」生き残ってしまった。
この先、どうやって生き延びたことを意味づけるのか。
生き残った人間が自分が生き延びたことの理由を「あとづけ」しなければならなくなったとしたら、その人間には仕事は1つしかない。
死んだ人たちが生きていたらしていたであろうことまでも含めて、自分がひとりでそのことをやらなければ、生き残った意味はないだろう、そういうふうにレヴィナスは考えたのだと思います。
戦前のレヴィナスは、こう言ってよければ、自分のために生きている。戦後のレヴィナスは600万人の死者のために生きている。
そうじゃないと自分が生き残った意味が自分自身で納得されられないのです。
レヴィナスの言っている「他者」は基本的には「死者」のことです。
フランス語でpour l'autre と言うのは、これは「他者のために」「他者に代わって」という意味です。
他者のために、いない人の代わりに何かをしなければいけない。いくらやっても取り返しがつかないのだけれどもやらないではいられない。
目の前に困っている人がいて、被抑圧者とか被迫害者のためにならば、正義が執行されて、苦しんでいる人が救われたらそれで仕事はひとつ終わります。
でも、レヴィナスが抱えているのはそういう「終わる仕事」じゃないんです。
すでに死んでしまった人たちの身替わりに何かをするということなんですから、その仕事に「終わり」は来ない。永遠に終わらない。
だけどその「終わらない仕事」を引き受けない限り、自分が生き残った意味がわからない。生き残った意味を構築できない。
レヴィナスはすごく偉い人で、徳が高くて、困っている人のために努力を惜しまない人だというふうに言われますけれど、そんなすっきりしたもんじゃない。ぼくはもっと切実だと思います。
レヴィナスは自分が生きていくことの意味が1回わからなくなっている。
なんとか自分が生きることの意味を再構築しないといけない。レヴィナスだって必死なんです。その必死さがわからないとレヴィナスはなかなかわからない。
ハイデッカーやフッサールの哲学をさらに展開した、というふうに解釈すると、ただ「むずかしい」ことを言っているようにしか読めないと思うんです。むしろ、「ずいぶんときれいごとを言っているなあ」と思ってしまう人もいると思います。
日本のレヴィナス学者の多くはたぶんそう思っていると思いますが、そうじゃない。
自分が何で生きているのかわからない。それを構築するためでないと、あんなにふうに切迫したものは書けないです。話がくどいですもの。同じことを何度も何度も言う。そういう文体なのだとか、そのかたちである種の響きを出している、テクストパフォーマンスの効果を狙っているというけれど、違います。そんなのんきな話じゃないんです。何度も何度も、繰り返し自分に向かって言い聞かせないと、居ても立ってもいられないぐらい切羽詰まっているんですよ。
田口 広島のことを調べているときに、ロバート・J・リフトンが書いた『死のなかの生命(ヒロシマの生存者)』という、広島の被爆者の生き残りの人々300人ぐらいに聞き取り調査をした本を読んだのです。ロバート・J・リフトンは日本に非常に興味をもっていて、オウム真理教のことも調べている。オウム真理教に関して『終末と救済の幻想(オウム真理教とは何か)』という不思議な本を書いているのです。リフトンの聞き取り調査の分析は独断が多すぎて全面的に信頼はできないところがあるのですが、被曝者の心理を心理学者でちゃんと調査した人は日本人には誰もいない。リフトンしかないわけです。当時の日本はそれどころではなかった……ということでしょうが。
で、それを読んだら、ひじょうに多くの人がレヴィナスと同じ気持ちになっている。なぜ自分が生き残っているのかわからない。生き残っていることにものすごい罪悪感がある。ホロコーストを体験した人間に共通の心理らしいですね。そのことがあったので、レヴィナスを読んで被爆者の心理とすごく似ているなと。
プリモ・レーヴィという作家がいます。彼もイタリア系ユダヤ人で、収容所経験があり戦後は自らの体験を語り本を何冊も書いています。でも、彼はイスラエルとパレスチナの抗争でイスラエルがパレスチナを攻撃することを批判するのです。それで、同胞から厳しく糾弾され、最期はエレベータに飛び込んで自殺してしまいます。プリモ・レーヴィもレヴィナスと同じように、なんで自分だけが生き残っているのかと何度も何度も問いかけた人なんです。でも、決定的にプリモ・レーヴィとレヴィナスで違うところがあると思うのです。どう違うかは、うまく言語化できないのですが……。
内田 それはアウシュビッツにいた人間と捕虜収容所にいた人間の違いです。自分の運命に対してどういうロジックが働いているのかわからないというのがアウシュヴィッツの体験だと思うんです。自分がなんでここにいるのかわからないという人間と、ウイーン条約という明確な枠組みのなかで生きた人間では、おそらくそのときに経験した恐怖の質が違うと思う。
プリモ・レーヴィは強制収容所にいた人間ですから、レヴィナスはおそらくプリモ・レーヴィの絶望がわからない。その絶望がわからないということはわかる。
そして、捕虜収容所にいた人間と強制収容所にいた人間では、生き残ったあとの「疚しさ」の質が違うでしょう。ギリギリまでいった人間は、自分自身も死の淵まで行った人間は、自分の有責感をある程度緩和できる。
レヴィナスは生きて帰れることがわかって収容所にいたわけですから。「死の淵」を見たプリモ・レーヴィとは体験の質が違います。
田口 私はプリモ・レーヴィに共感できないのですね。レヴィナスにしか共感できない。要するにレヴィナスの悩みは、ニューヨークでテロが起きても、元気でごはんを食べてテレビをみている私に近いのです。
内田 言ってしまったらそうですね。
田口 現代人にとても近い。情報化されてしまった人間が抱えている漠然とした罪責感とか、生き残り感が彼の悩みに近いような気がしたのです。
内田 プリモ・レーヴィよりもレヴィナスの方が一般性があったのは間違いないです。
田口 私はやはりレヴィナスなんだなと。
内田 プリモ・レーヴィのほうが書いていることがクリアなんです。レヴィナスはずっと混乱しているのです。
田口 晩年のレヴィナスはどんな心境にいたっていったのですか。ずっと変わらなかったのですか。
内田 僕は変わっていないと思います。レヴィナス学者のなかでは、61年と74年の『存在するとは別の仕方で』ではその間に大きな変化があったと言います。大きく批判されて思考が変わったと言う学者もいますが、それはお門違いだと思います。
レヴィナスはぜんぜん変わっていない。変わったのは唯一帰ってきてから、50年代にすがりつくようにタルムードの勉強をはじめたことだけです。
タルムードはユダヤ教の解釈学なのですが、モルデカイ・シュシャーニという師について集中的に勉強をするわけです。そのときレヴィナスは50代で、集中的に伝統的なユダヤ教の解釈学を勉強することを通じて自分自身を立て直していくのです。それは不思議なスタイルをもった信仰なのです。
田口 やはり、信仰に救いを見い出していく。
内田 信仰に救いを見い出していくというと、ひじょうに平凡な結論なんですが、信仰というのとはまた違う。シュシャーニ師に会うことで、死者たちとの間の回路を開く方法を学ぶわけです。
それで救われるのです。
レヴィナスはアウシュビッツの死者のことは直接は言及しないのです。あれだけの膨大な著作のなかで、そのことを書いているのはほんとうに僅かなのです。エッセイにして2つか3つ。
『存在するとは別の仕方で』の冒頭のところに、「600万人の死者のために」という献辞があるぐらいです。タルムードの勉強をしたのは、信仰に救いを求めたのではなくて、死者との対話、コミュニケーションの方法を学んだということです。
エリ・ヴィーゼルとレヴィナスはまったく同じ時期にシュシャーニ師に出会っている。
レヴィナスの家に3日ぐらいいて、後の残りの日はエリグリーゼルの家に泊まる、というような生活をしているわけです。ヨーロッパ的なきわめてリファインされた哲学教育を受けた人たちが、その段階にいたって、生き残ったことの意味が、唯物弁証法でも現象学でも存在論でも、何をもってきても語ることができない。ホロコーストを生き残ったユダヤ人のなかにどんな種類の感情的な欠落感があったのかということは、僕らにはうまく理解できない。単純にナチスに対する憎しみにいかないのですね。
− ランディさんは物を書いている1つの基盤にお兄さんの死があるんですよね。肉親の死であると同時に絶対的な他者というか死者というか、そういう存在としてお兄さんがある感じがしたのですが。
田口 肉親の死はあるていど了解可能なの。兄の鎮魂なら私はできます。そうではなく、地球のどこかで身も知らぬたくさんの人たちが、何かとてつもない巨大なものに押しつぶされて、いきなり殺されてしまうような状況がある。大昔なら知らないですんだのに、いまはどんどんテレビなどで情報として報道されていくじゃないですか。これでもか、これでもか……と、世界の悲惨が垂れ流されてくる。そのなかで、悲しみきれない私が出てくる。他者の悲惨を受け止めきれないわけです、で、無視したり、慣れたり、自己防衛的になってしまうのだけれど、そういう自分に罪悪感をもっていたりする。どうしていいのかな私、冷たいのかな私、こうして平和に生きていていいのかな私……。だからレヴィナスのズルズルさに惹かれちゃったんですよね。
内田 僕自身は、自分の根本にあるのは学生運動の経験なんじゃないかと思っています。友だちが死んでいるのですよ。親しい友人が若くして死んでいって、彼が死んで僕が生き残った意味がぼくには分からない。
同じセクトにいて、たまたま彼はあるセクトに拉致されてリンチされて死んでしまうのです。それは僕であっても全然おかしくなかった。それを考えると生き残ってよかったと思えないのです。なんで自分が生き残ったのかわからない。
レヴィナスほどの強烈な経験ではないけれども、個人的には重い経験なのです。その後の人生は、ああ生き残ってよかった、おもしろ楽しく暮らせるというふうにはならないんです。そうではなくて、死んだ人たちがもし生き延びていたら、彼らがこの世でなしたであろう良きことがあったとしたら、それを僕がやらなければ生き残った意味がないというふうに考えてしまう。
ぼくが死んだときに「ぼくが生き残ったことには、多少なりとも意味があった」とぼく自身が思えるようでないと、生き残ったことがよかったということにはならない。あえて生き延びた意味がない。
でも意味って、彼とぼくの生死を分かった、その瞬間にはないんですね。彼が死んで僕が生き残った分岐の意味は、後に生き残った人間が構築していかないといけない。死んだ人のかわりになるのは不可能です。いくら、やっても「ここまでやったから、もう十分」という段階には至らない。でも、それを放棄したら自分が生き残ったことの意味を自分自身に合理化することができないんです。
田口 二十代のときに、ある劇団に所属していたのです。その劇団はむかしの防空壕を改築して稽古場にしていた。お正月の1月7日が稽古始めで、必ず稽古が終わってから宴会があってみんなで新年会をやるのです。ある年の1月7日の新年会を理由もなくさぼったのです。病気だったとか用事があったとかではなく、ただ行きたくなかった。その日、稽古が終わって彼らはいつものように宴会をやるのだけれども、火事になってしまい2人が焼死してしまう。1月8日は自分の会社の仕事始めだったので、朝起きてテレビをつけて会社にいく準備をしていたのです。そうしたら「昨夜未明、吉祥寺のアングラ劇団で火事が起きた」というニュースをやっているの。えっと思ったら死んだ人の顔が出てて、それが仲間で、ものすごくびっくりして会社を休んで現場に行った。生き残った人はそれぞれ病院に搬送されていた。
いまだに何であの晩、私は行かなかったのだろう。なんで私だけ生き延びてしまったのだろうと思う。その出来事が、私にはいちばん堪えているのだと思います。
内田 なんで生き残ったか意味がわからない。ほんとうは行くはずだったんですね。
田口 行かないなんてとんでもないことなんですよ。稽古始めなのに。それなのに、理由もなくいかなくて、自分だけ生き残った。悪運が強いなって言われました。
内田 学生運動で思うのですが、死ぬ気でやっている人はいないのです。結果的にはずいぶん死んだのだけれども、誰ひとりとして自分が死ぬとは思っていない。クラブ活動の延長みたいにお気楽に学生運動にはいって、お気軽にセクトを選んで、うっかり選んだセクトが非合法活動や党派闘争にはまりこんでゆく。それに巻き込まれて引っ込みがつかなくなって死んだやつや障害者になったやつがいっぱいいるわけです。断固たる決意をもって、死んで日本革命の礎になるぞという覚悟の人間が死んで、ダラダラした人間が生き残るのならばわかるのです。でも、ほんとうのところは、死ぬ気なんかなかった。ものごとの筋目を通したいとか、社会を少しでもよくしたいというような「学級委員」的な感覚で始めて、いずれ適当なところできりあげて、また市民社会に戻ろうと、漠然と考えていた人間が不意に殺されてしまうわけです。あれはけっこうキツイのです。
特攻隊に志願して死んだ人間に対して生き残ったものが抱く痛みというのは、彼らに死ぬ覚悟があったから、それなりに自分に言い聞かせることができなくもない。それよりは、まるで死ぬ覚悟のなかった人間の死のほうが、キツイんですよ。
田口 いちばん自分がダメなのは、この話をするときにものすごい罪悪感と同時にかすかに自分のなかに優越感があることがわかっちゃうのですよ。私は運良く生き残った、って。私は生き残ったぞ、って。自分だけ生き残って申し訳ないと口では言いながら、優越感もあるんですね。私って選ばれた人間みたいな。それが自分でわかってしまうので、そういう自分にまた自己嫌悪する……。でも自己嫌悪しながら優越感もあり……。すごく気分悪いんです。
内田 そのときに「選ばれた」という感覚はどこかにあって当然なんです。でも、それを「特権」だと考えると、自己嫌悪に陥ってしまう。「特権」ではなく「義務」を負うために選ばれたと言い換える以外に自己嫌悪を逃れる道がないのです。「生き残ってよかった」というために生き残ったのではないと。
田口 そこの2セットの組み合わせが、矛盾している。
内田 それはしょうがないですよ。そういう構造なんだから。だからレヴィナスを読んでも救いはないです。救いはないけれども、どうして「救いはない」のかということの条理は明らかになる。
生きている人間は、全員誰だって何らかのかたちで人を死なせているわけですから。けっきょくね、どんな死者に対しても、見たことも聞いたこともない死者に対しても、自分が生き残っていると思うことは止められない。これは限り無い。その疚しさから自由な人間は1人もいない。
だからレヴィナスをみんなは読むわけです。プリモ・レーヴィではなくレヴィナスを読んでいるというのは、レヴィナスの疚しさの方が、あるいは普遍性があるからでしょう。
でもみんなその辺りのことはわからない。
ジャンケレビッチという人が書いた文章をレヴィナスが引用しているところがあるのですけれど、レヴィナスは自分の気持ちとして引用しているのだろうと思います。
「生き残ったユダヤ人には何の共通点もない。いま生き残ってここにいるということ以外は。そしてわれわれはなぜ自分が生き残ってここにいるのか、その理由を知らない」。
「なぜ生き残ったのか、その理由がわからない」というのが、おそらく戦後のヨーロッパ知識人の出発点だったと思います。
理由がわからない。理由が分からないときにはむりに過去に遡って理由を探し出しても仕方がない。むしろ理由は未来に向けて構築していくしかない。そこでイスラエルを建国するという選択肢を取るも人もでてくるし、ユダヤ教を再生させようとする人もでてくる。
田口 カンボジアに行っていたときも、内紛で生き残った人たちにクメールルージュをどう思うかと質問したんです。キリングフィールドでは同胞が200万人も虐殺されたわけですから、私はごっつい批判が出てくるかと思ってました。でも、カンボジアの一般の人たちはあまり批判なんかしないんです。クメールルージュは自分たちの同胞だから、自分たちの国の人が自分たちをこんなふうにしたという二重の苦しみがあって、批判というところに全然いきつけない。悲しいことだ。これからどうやって子供たちにこれを伝えていいのかわからない、と自分たちを責めて泣いたりするんです。ものすごい暴力を受けると人間は自分を責めるのだなと思う。自分の存在自体を疑うんだな……と。
内田 ベトナムもそうですよね。人がたくさん死んだ。ベトナムの人が言っていましたけれども、アメリカのかつての軍人が最近になってベトナムに来るようになったんというんです。そして、自分たちが破壊した村や、焼いた水田にまた稲が育っているのを見て、泣き出すそうです。それに対してベトナムの人はどんな反応をするのかというと、「すんだことだからもういいのだよ」と。アメリカ許すまじということにはならない。ほんとうに理不尽な暴力の後は、誰かを恨む気にはならないですね。
田口 すごいよね、人間って。悲しいというか、せつないというか。
内田 テロの暴力を支えている憎しみはひじょうにクリアカットですよね。憎む理由がはっきりしている。テロの培地になる憎しみというのは、合理的な憎しみなんです。合理的な憎しみのほうが始末におえない。
− 先日、東大のゼミでランディさんがお話になったんですが、そのときの最後のお話として、メキシコに行ったときにインディオの人から言われた言葉のことを話されていましたね。「私たちはスペインに侵されたことなどありません」というような。それがすごく響いているという話をされたのですけれども。
田口 メキシコでシャーマンに出会いました。とても親しくなって、彼が「とても大切なものを今日あなたに授けよう」と言う。なんだろうと思ったら、これから言う話をよく聞いてねと言うわけ。そのときに彼の波動が私の身体に入ってくるのですよ。話を聞くまえからもうぼろぼろ泣けてきちゃう。彼は「われわれはスペイン人に侵略されたと言われているけれども、われわれはスペイン人から侵されたことはただの1度もないんだよ」と、そのことの意味はいまキミはわかるねと言うのです。そのときは「そうか」と思っって、もう完璧に理解したつもりでいました。ところが、日本に帰ってきたらわからなくなった。あんなにちゃんとわかったのに忘れちゃったんです。どうしよう(笑)。
─ほんとうに忘れてしまったのですか。
田口 ものすごくわかったことだけは覚えている。からだが感じたことは覚えているのだけれども、どうわかったのか思い出せない。「これはとても必要としていることだろう、わかったね」と言われて「わかりました、ありがとうございます」と答えたのに……。一晩寝たらからっと忘れた。そういう話を東大でしたんです。学生さんたち、みんな笑っていました。
内田 わかったよりもわからないほうがいいです。
田口 知ろうとするほど、わからなくなるから困るんです。
内田 別に困らないですけど。わからないことがまた増えてきたなと、ニコニコしているのですけれども。
田口 物事を細かく分割していくとわかったところがわからなくなるんですよ。分割していけばいくほどわからなくなって、手におえなくなって終り。
内田 手におえなくなるのだけれども、思いがけないところからつながってくるのです。だいたいそうなんです。こっちの方向ではないところから来るのです。答えが来るのではなくて、別の問題がきて違う見え方がして問題が変わっていく。
ほんとに、新しい問いというのは、思いもかけないところから来ます。レヴィナスをぐるぐる読んでいるときはわからなかった。でも、最近ようやくわかってきたことというのは、合気道をやってきてわかってきたことです。人間の成り立ち方とか、身体の感覚とか、時間意識とか・・そういう合気道を通じて分かったこととレヴィナスとやっとつながった。
田口 私も合気道とレヴィナスってすごくつながる。だからこうして内田さんに会いに神戸に来たのですよ、わかってもらえてうれしいな。
内田 レヴィナスと合気道はようやく僕のなかでつながったのです。30年かかってようやくつながった話です。そのつながりを言葉にするまでは、まだ何年もかかります。もしかしたら解けるかもしれない。僕のなかではつながっているのですが、まだ言葉にしたことがない。
─ランディさんのなかでレヴィナスと合気道がつながったというのは、どういうことですか。
田口 まったく別の入り口からレヴィナスが入ってきて、私のなかでは最初から合気道とつながる確信があった。
内田 私の周囲にいる「街のレヴィナス派」には武道家、合気道をやっている人が多いのです。みんなレヴィナスから入ってきて合気道を始めている。ほとんどの人がレヴィナス経由です。
田口 レヴィナス的なグルグル感、ヘビがしっぽを噛んで回っているような、あの手の状況を何かのかたちで立て直そうとしたら、合気道というシステムがかなり有効ではないかと私は思っているんです。合わせるとセットとしていい。グルグルは人には業のように必要なのです。そのグルグルを生きながら、そのグルグルの外に立つ方法論が、合気道にはあるような気がする。
内田 おっしゃるとおり。
田口 嬉しいな。先生に褒められた気分。
内田 ランディさんにレヴィナスと合気道がつながるとなんでわかっちゃたの? この2つはまったくつながっているわけです。レヴィナスのことを朝から晩までやっている頃は朝の9時から6時まで翻訳して、6時になると合気道の稽古に行った。周りの連中や先生は言うわけです。君はドクターコースにいるわけだから、寝食を忘れて研究しなくてはいけない。なぜ毎日6時になると稽古に行くのか。健康のためなのか。
それは違うんです。別に、一日本ばかり読んでいるから、健康のために夕方から稽古をしているわけじゃないんです。
僕のなかでは、9時から6時までのレヴィナス研究と6時以降の合気道の稽古がつながっているのです。なんの矛盾もなくつながっているのだけれど、そのつながりを言葉にできない。いくつか言葉にしましたがまだまだできない。だんだんキーワードが出てきてはいるんですけれど。
田口 非言語的コミュニケーションの可能性を感じるのです。言語を使いつつ非言語の領域にも入れないと、人はグルグルから抜け出そうとばかりしてしまいます。抜けるのではなく同時に在る、そして外を見ることが可能なはずです。そのためには言葉と言葉でないものを両方持たなければならない。今日はとてもたくさんヒントをいただきまして、ありがとうございました。すばらしくいい夜でした。疑問が1つほどけて、有意義でおいしい夜でした。
内田 是非、レヴィナスと合気道について書いてください。思いがけないところからくるっていったでしょう。レヴィナスと合気道のつながりなんて、レヴィナス研究者からは出ないです。こっちから来るのです。全然違うところからくる。思いもかけないところからきて、それをきっかけにして話がガラッと変わるのです。ひとりで思っていてもダメなんです。いままでは僕がそう思っても誰もいなかった。ふたりいるとレヴィナスと合気道はつながっていくのです。
(2003年12月19日 神戸 Re-set にて)