updated on 17 oct 2000

Seven days in Tibet

matsushita masaki

 

 

何故人は、どこかに旅をしたいと思うのだろうか。

 その主な理由のひとつとして、旅の目的地である特定の「場所」に生きている不特定の人々に自己を投射=同一化し、束の間その人々の日常的な眼で世界を一瞥してみたい、という欲望に突き動かされることが挙げられるのではないか。

 しかしどのように頑張ってみても、結局、旅行者は常に異邦人のままである。その「場所」の日常的な眼差しで世界を眺めることができたとしても、所詮それはほんの僅かな間のささやかな仮想体験にすぎない。

 そうしていつのまにか旅は終わり、旅行者は家に帰る。住み慣れた世界、理解できる言葉をしゃべる人々、見飽きた風景。けれどもある時、そこにふいに旅先の視野が重なる。異国の街のにおいが甦る。その一瞬、世界は重なりあい、溶融し、再び分離する。世界は束の間多義的なものとなる。

 旅をすることの醍醐味は、実はこのような感覚に魅了されることにあるのかもしれない。

 ラサの街に立って、ポタラ宮を見上げてみたい。随分以前からのその欲求が臨界に達して、今回の旅は始まった。同行するのは、かつてアンナプルナの山麓を共に歩いた加藤伸一君である。

 

第1日 成都で火鍋に泥鰌を入れる

 

 9月11日月曜日、午前6時40分、羽田空港で加藤君と会う。

 チベットはかなり特殊な地域であり、個人手配旅行では逆に自由がきかないとか、航空券を入手する手続きが面倒だとか、個人ではそもそも入境できない等々、様々な事情を検討した結果、ラサとその周辺を回るツアーに申し込んだのだが、参加者はどうやら他にはいないらしい。

 羽田から関西国際空港へ飛び、ただちに日本エアシステムJD235便にチェックインする。時差1時間。午後1時過ぎには、中国広東省の都広州に到着。暑い。成都行きの便のチェックインまで時間があるので、空港周辺をうろつき、コーヒーを飲む。

 3時25分発の成都行き中国西南航空SZ4302便に乗り込むが、荷物積み込みのトラブル(たぶん)で出発が遅れる。漢人ばかりの乗客が騒ぎ出し、一時は機内が騒然となるが、どうしようもない。

 結局成都に着いたのが予定より1時間遅れの午後6時半。迎えに来ているはずの現地ガイドの姿がない。しばらく待ってみたが、だんだん暗くもなってきたので、タクシーでホテルに行ってしまうことにする。

 大渋滞の道を30分かけて成都飯店に辿り着き、フロントに事情を説明する。とりあえずチェックインし、ガイドに連絡をとってもらう。しばらくして部屋に現地ガイド氏がやってくる。飛行機が遅れたので行き違いになってしまったとのこと。明日の航空券と「西蔵入境許可証」なるものを受け取る。ブロークンな英語をまくしたてる彼の案内で、近くの火鍋のレストランへ。火鍋とは、赤く煮えたぎった激辛のスープの中に様々な食材(肉、血だらけの泥鰌、堅くて薄い豆腐、豚の臓物、その他得体の知れないもの)を入れて喰う四川風しゃぶしゃぶのこと。地元の客でいっぱいの店内は 騒々しく、暑く、床はベトベトしていて、その迫力に圧倒される。

 ここはガイド氏のおごり。雨のぱらつく中、ホテルに戻る。お湯のポットが置いてあったので、加藤君持参のコーヒーを飲み、テレビを見る。

 

第2日 サムイェ寺でチベットうどんを喰う

 

 シートベルト着用のサインが点灯する。

 早朝成都を発った中国西南航空機SZ4401便が、ようやく着陸体勢に入ったのである。窓の外に峻厳な茶色の山々が連なっている様子が見える。それまでの漢人であふれかえった飛行機とは異なり、欧米人が大半を占める乗客の間にざわめきが広がる。

 広大なヤルツァンポ川をかすめるようにして、午前8時40分、飛行機は無事クンガ空港に着陸。

 タラップを降りると、突然、強烈な太陽光にさらされる。既に標高は海抜3400メートル。大気中の酸素は地表の半分程しかない。息苦しさはまだ感じないが、日光の眩しさは格別である。まともに眼を開けていられない。周囲の山々が空気遠近法を無視し、乾燥した空気を越えて妙にくっきりと迫ってくる。違う場所にやってきたという実感。

 

 空港の外で待ち受けていたガイドと会う。重慶出身の漢人、ホ・カン嬢である。「入境許可証」を渡し、横腹に「西蔵旅遊」と書かれたランドクルーザーに、同行の加藤君と共に乗り込む。

 車は一路東へ、最初の目的地サムイェ寺に向けて走り始める。そこそこ舗装された道を、時々出現する牛や羊の群れを避けながら、車が進む。チベット人の集落がぽつんぽつんとあるが、やたら人は少なく、車も殆ど走っていない。真近に迫る山々を背景にゆっくりと流れる広大なヤルツァンポ川に沿って、走ること1時間。車が船着き場に到着する。

 何はともあれ、売店でミネラルウォーターを3元で購入(1元は約13円)。高山病対策には、水を飲むことがいいといわれていたからである。

 船着き場には、木製で幾つかの仕切りがあるだけの、そっけない大きめのボートのような舟が浮かんでいる。既に何人もの乗客が乗り込んでいる。乗り込むときに多少足元がふらつくのが高山病の症状なのかどうかは、よくわからない。

 単調なエンジンの音を響かせながら、舟は対岸に向けて出発。乗客は観光に来たらしい、人民解放軍の制服のままの軍人達、北京大学の美術科学生のグループ、それに荷物を山のように積み上げたチベット人の一団。

 対岸は見えているのに、流れに逆らって斜めに川を横断するためか、舟は一向に進まない。強烈な日射しを浴び、対岸の山を眺めながら、1時間かけて舟はようやく川岸に辿り着く。

 そこで待っていたのは、小型のトラックが1台。ガイドが助手席に乗るよう勧めてくれたのだが、せっかくだからとそれを断って荷台に乗る。寿司詰め状態の荷台では、幌用の鉄枠にしっかりしがみついていないと、振り落とされてしまうことは必至である。何しろ、道というものが殆どないのだ。時々は川になっている、石ころだらけのガタガタ道をトラックが進む。荒涼とした風景を真っ青な空が縁取る。草一本生えていない山の中腹に、小さなチョルテン(仏塔)が立っている。チベット人の集落を通り抜けるときには、子ども達が手を振ってくれるが、両手でしっかり鉄枠を握っていなければならないので、手を振り返すことができない。

 30分後、トラックは低い土壁にぐるりを囲まれたサムイェ寺の内陣で止まった。ここは、全体が曼陀羅の形になっているので有名なところである。中央に位置する3階建てのウツェ大殿はチベット建築の中でも最も美しいとされている仏閣である。金色の屋根、側面の黒と白のコントラストが、複雑な寺院の構造を見事にまとめあげている。中に入る。

 驚いたことに、奥の本尊釈迦牟尼像の前には赤い法衣の僧達が十数人も座り、読経の最中である。以前テレビのドキュメンタリーや映画で見たのと全く同じ光景が広がる。やがて笛や鉦、太鼓による音楽も始まる。ヤクのバターの灯明の燃えるにおいが、鼻にツンとくる。座り込んでずっと聞いていたい。

 しかし、本堂に並ぶ大日如来像を始めとする様々な偶像を説明するガイドの声にも集中しなければならない。その後どこの寺院へ行っても同じだったが、派手な衣装と彩色を施された偶像には無数の紙幣(中国元ばかりでなく、様々な国の紙幣)が捧げられ、バターでいっぱいの大きな器の中で灯明が幾つも一列になって燃えている。着色されたバターでつくられた飾り物が供えられていることもある。

 壁という壁は精密な壁画で埋め尽くされている。有名なダライ・ラマ5世を描いたタンカ(仏画)もある。ただひたすら素晴らしい。

 外に出て、曼陀羅を構成する4つのチョルテンを見て回る。本殿が須弥山、本殿の左右の建物が太陽と月、そしてチョルテンは四天王を表しているとか。それにしても、何故こんなところに寺院を建設したのだろうか。低い土壁で大きな円形(直径336メートル)に仕切られたサムイェ寺の横には数軒のチベット人の住居があるだけで、あとは何もないのだ。その周囲は潅木がまばらに生える荒れ地であり、さらにそれを不毛の山々が取り囲んでいるのである。

 本殿正面の広場に面して簡易宿泊所の建物があり、その一階が数軒の商店と食堂になっている。その食堂に入り、昼食。他に客はひとりもいない。そこで、ヤクの肉のはいったうどんトゥクパを喰う。なかなかうまい。塩を添えたフライドポテトも出る。白濁した熱いお茶は、予想に反してバター茶ではなく、ネパール風の甘いミルクティーだった。

 食後、とりあえずトイレへ。チベット最初のトイレは、仕切りも何もない床に細長い穴が開いているだけのもの。

 再びトラックに揺られ、舟で対岸に戻る。大量の紫外線を浴びる。

 

 車でさらに東へと向かう。いくら走っても風景は殆ど変わらない。広い川と輪郭のはっきりした山々。すれ違う車も少なく、何よりも、集落といったものが殆どない。

 やがて建物がちらほら見えてきたなと思っているうちに、いつのまにか車はツェタンの町に到着していた。やたら広い道路、中国風の店鋪が並ぶ白い建物に日の光が反射する、明るい町である。ここで一番の高級ホテル、「ツェタン飯店」にチェックイン。部屋は最上階の4階。このホテルは3つ星だがエレベーターはない。首の後ろが僅かに重いだけで高山病は大丈夫だと思っていたのに、4階までの階段を普通にのぼることができない。息切れがひどく、やっとの思いで部屋に辿り着く。

 荷物を片付け、加藤君と散歩に出掛ける。といっても加藤君が結構高山病にやられているので、ホテルの前の通りを1街区分往復するに留める。店の看板は概ねチベット語と中国語の並記だが、中国語の方が断然目立っている。町の佇まいも、チベットらしさ(って何だ)があまり感じられない。従って歩いていてもあんまり面白くない。煙草とミネラルウォーターを買って早々にホテルに引き上げる。

 午後7時、ガイド嬢が迎えに来て、夕食に出掛ける。

 中国は東西に結構長いのに、ひとつの時間帯しか採用していないから日本との時差は、ハルビンも北京も上海もラサも、全て1時間。しかし実際には、地理的にみてラサと日本の時差は3時間位が妥当なところである。この事実だけから中国政府がチベット自治区を不当に抑圧している、とは言わないが、滞在中、いつまでも暗い朝といつまでも明るい夜にはまいった。かくしてまだ太陽が照りつける中、近くの中華料理店へ夕食に行く羽目になる。

 食事で驚いたのは、その量である。料理が5品、巨大なドンブリに入ったスープ、それに大量の白米。少なくとも4、5人分はある。チベットにいる間、昼食夕食共に常にこのスタイルだった。始めは戸惑ったものの、やがて、大量に残しても何も感じなくなってしまった(漢人達は食べ散らかして大量に残しているのである)。困ったことである。

 ホテルに戻り、風呂にはいってから外を眺めると、満月が鮮やかに輝いていた。

 

第3日 タントゥク寺で頭に酒をかける

 

 朝7時起床。悪夢を見て1時間ごとに眼を覚ましたり、トイレに駆け込んで下痢したりと、あまり調子が良くない。これが高山病の症状のひとつなのか、高山病対策で飲み過ぎた水のせいなのかどうかはわからない。

 外は真っ暗。しかし8時には何故か完璧に明るくなってしまう。1階のレストランに朝食に行く。ありがちなバイキング形式。といってもやはりここはチベット、選択肢は少なく、料理も貧弱。客はドイツ人のグループ、フランス人のお年寄りの団体、何人かの漢人といったところ。日本人はひとりもいない。とりあえず腹の具合も考えて、コーヒーにパン2片をゆっくり咀嚼する。何はともあれ、コーヒーを何杯も飲めるのがありがたい。

 

 今日はツェタン周辺の見どころを回る予定。9時半、ガイド嬢が迎えに来て、チベット最初の宮殿、ユムブ・ラカンへと向かう。

 ツェタンの町から南へ車が進む。昨日は空港から一応舗装された道路をやってきたのだが、どうやら舗装されているのは、そうした主要道路、つまり中国政府がかつてつくらせた軍用道路だけらしい。道いっぱいの巨大水たまり、車の轍が進行方向を示す泥の山、石ころだらけの凹凸の連なりを、ランドクルーザーは揺れに揺れながら進む。町の周囲のチベット人集落もいつしか過ぎ、再び、左右に山の広がる不毛の大地を行くこと30分。前方の小高い丘の上の建造物が視野に入ってくる。ユムブ・ラカンである。

 車から降り、高さ10数メートルの丘の上まで、山道をゆっくりゆっくり登る。紀元前1世紀に最初のチベット王ニャティ・ツァンポが建てたとされるユムブ・ラカンは、その後何回となく改修が繰り返され今日に至っている。その外観は、宮殿というよりは、こじんまりとした要塞である。しかし内部の造作は、やはりチベット寺院であり、僧達の読経スペースを取り囲むように、仏陀を始めとする様々な偶像が、賽銭が散らばり、灯明がともる向こうに、幾つも並んでいる。7世紀にチベットを統一した吐蕃王国の王ソンツェン・ガムポ、彼のもとに嫁いだネパールの王女ティツンと玄宗皇帝の娘文成公主、仏教を国教と定めたティソン・デツェン王、そしてチベット仏教の祖パドマ・サンバヴァ等々。

 外に出て外壁を回る。壁の窪みには、信者が奉納したマニ石(小さな石に経文や仏像が彫られたもの)が大量に置かれている。巡礼に来たらしいチベット人の女性二人とすれ違う。二人ともバターの袋を持っている。

 ユムブ・ラカンの立つ丘の周囲には平坦な土地が広がり、その殆どが収穫間近の麦に覆われている。まばらに人家が点在する麦畑は、しかし唐突に立ち上がる山々によって遮られる。典型的なチベットの風景である。

 丘を下る。漢人の観光客のグループとすれ違う。水を運んできたラバが、首の鈴を鳴らしながら、追い抜いていく。

 

 次に向かったのは、ソンツェン・ガムポ王によって建立されたとされるチベット最古の寺院タントゥク寺。ツェタンに戻る途中の集落の中にある。

 門をくぐり、前庭を抜けると、回廊に周囲を囲まれた本堂が立っている。最古というよりも、修復がすすんでいないというべきなのだろうか、荒廃した感じが何ともいえない。チベットではどの寺院も、1951年の中国侵攻以来略奪され破壊され、過酷な運命に晒されてきた。そのとどめが文化大革命である。それ以来今日に至るまで、修復作業が続けられきた。この寺院の、顔が削られた仏陀の壁画やすり減って着色がはがれたレリーフを見るとき、チベットの歴史を顧みないでいることはできない。内陣では、壁画修復の真っ最中だった。鮮やかな色彩で描かれた仏陀の群像に、職人の面相筆が、顔を描き込んでいく。

 タントゥク寺の本尊は、無数の小さな真珠でつくられた仏陀のタンカ(仏画)である。金網で厳重に守られた小部屋の奥に掲げられていて、暗くてよく見えない。その前で、僧からチベット酒を両手に受け、口をすすぎ、頭にかける。祝福を受けたことになるようだ。旅先でその土地のこうしたしきたりに加わることは、いつでもちょっと心踊る経験である。壁には、中国政府の認めた転生者パンチェン・ラマの写真が掲げられている(亡命中のダライ・ラマ14世は観音菩薩の生まれ変わりであり、パンチェン・ラマは阿弥陀如来の生まれ変わりであるとされる。最も信仰されそれゆえ中国と敵対するダライ・ラマの写真を掲げたりすることは、現在のチベットでは禁止されている)。窓からの光で浮かび上がる暗い室内に多分ここで寝起きしているらしい老僧と、数人の信者達。わずかに異様な雰囲気が漂う。  

 回廊の屋上に登る。チベット仏教のシンボルである、左右に鹿を配した法輪が屋根の中央で金色に輝く。その下では、大きなチベット犬が、昼寝をしている。

 帰りがけに剥落した壁画を見ようとしたとき、その横の扉が開いていたので覗き込むと、そこはこの寺院の厨房だった。巨大なかまどと、見慣れぬ道具類、バター茶をつくる器具ドンモがかまどに立て掛けられている。宗教の場はそのまま僧達の生活の場でもあるのだ。暗い中、立ち上る湯気に天井から一条の日の光が差し込んでいる。美しい。

 タントゥク寺を後にして、ツェタンの町に戻る。そのまま昨日と同じ中華料理店へ。昨日と同じように大量の料理が並べられる。ふたりとも腹の具合が思わしくないので、その大半を残してしまう。もったいないことである。

 いったんホテルに戻り、ひと休み。睡眠不足なのか、少しウトウトしてしまう。

 

 午後3時再びガイドと共に車で出発。車で1時間の蔵王墓へ。しかしその1時間のドライブは、最悪と思われた午前中のドライブをさらに上回るものだった。全行程が、道というより川や谷を走るといっても過言ではない。昨夜遅く降った雨のせいか、至るところ道は川となり、訳がわからない。身体が振動でおかしくなる。

 吐蕃王国の王を葬った蔵王墓は、広い盆地のあちこちに土を盛り上げた丘陵状の古墳が9つ。そのうちでも最大の、高さ13メートルのソンツェン・ガムポ王の墓に登る。頂上には小さな寺院が建てられている。確かに墓としては巨大ではあるが、とりたてて面白いものではなく、寺院の様子も何となく寂し気。ユムブ・ラカンのように漢人の観光客もいない。登り口に小さなみやげもの屋がぽつんと一軒だけあるのも、妙に散文的な光景である。

 ただ、古墳の頂上から眺めた近くの村チョンギェの佇まいは、なかなか趣きのあるものであった。なだらかな山の中腹に白い寺院建築を中心に幾つもの建物が寄り集まっている様子が、いかにもといった風情。真っ白なチョルテンが、アクセントとなっている。

 

 先程と同じ道を同じように揺さぶられながら走り、ホテルに帰る。往復2時間の過酷なドライブで、加藤君の具合がさらに悪くなる。加藤君がベッドでくたばっている間、ウトウトしたり、中国語のやかましいテレビを眺めたりする。(それにしてもこちらのテレビは、なんでこんなに薬のCMばかり流しているのだろう)

 午後7時夕食へ。今までとは違うところだが、やはり中華料理店。もう料理の多さには驚かなくなっている。そこそこ食べるが、加藤君は殆ど食べていない。

 ホテルへ帰る途中、加藤君が小さな店でリンゴとナシを買う。リンゴは青リンゴ、ナシは洋梨の形だが、よくわからない味。その隣の店で、ミネラルウォーター2本、ビスケットを買う。ホテルの中にもみやげもの屋や日用品の店がある。加藤君はそこで、明日の峠越えに備えて酸素を買う。大きめのスプレー缶で、キャップをはずして横向きに取り付け直し、マスク状にして使うのだが、効果の程はよくわからない。

 部屋でコーヒーを入れ、ビスケットをつまむ。加藤君は早速酸素を吸う。就寝10時。

 

第4日 カムパ・ラでルンタを拾う

 

 6時半には目が醒める。体調は悪くない。昨日よりは体調を戻したという加藤君と朝食へ。例によってコーヒー2杯とパンを少々。

 午前9時、チェックアウトを済ませ、車に荷物を積み込んで出発。ツェタンともお別れである。

 ヤルツァンポ川に沿って西へ、空港からやってきた道を逆に辿る。朝は曇っていたが、徐々に晴れてくる。冷えてしまい、車を停めてもらって立ち小便をする。正面には早朝のチベットの山々、気持ちがいい。

 空港の前を通り過ぎ、さらに西へ。出発して2時間、広大なヤルツァンポ川に架かる初めての橋が見えてくる。(ツェタンからここまでおよそ110キロ、ここからラサまで60キロ。この橋を東京日本橋とすると、ツェタンは甲府、ラサは相模湖位の見当である。それでもツェタンとラサはチベットの中ではほんの隣町なのだ)右折してこの橋を渡れば道はラサに通じる。しかしここを曲がらずに車は左手の山並に向かう。いくつかの集落を過ぎてからは、お馴染みの悪路。しかも不吉なことに、道は登り続けている。道はどんどん険しくなり、斜面を切り開いた登山道とかわらない。片側が山、片側が谷という道を横断して水が激しい勢いで流れている。たまにやってくる対向車とすれちがう瞬間は、スリル満点というしかない。しかしもともと高いところは大好きなので、揺さぶられながらも、ひたすら面白い。

 登り始めて1時間、ついに雲の中のカムパ・ラ(峠)に到着。標高4749メートル、チベット仏教の聖地のひとつである。寒い。石を積み上げた塚オポが幾つも並び、タルチョ(経文を刷り込んだ布)が幾重にも巻き付いている。峠からは、眼下に広がる聖なるヤムドゥク湖が見渡せる(面積621平方キロ、琵琶湖に匹敵する大きな湖だが、そうは見えない)。緑色の湖面が美しい。近くにみえるが、湖面までの標高差は500メートルもある。湖へ下る斜面には、祈りを込めて撒かれる馬の絵の刷り込まれた紙、ルンタが散らばっていたので、記念に何枚か拾う。罰当たりな行為である。

 この辺りはランドクルーザーが何台も停まっていて、観光客が多い。ヤクを引いたチベット人達が、ヤクに乗れ、ヤクの写真を撮れとうるさい。それでも何枚か記念写真を撮り、引き上げることにする。

 1000メートル以上の標高差を一気に下る。別に頭が痛くなったりはしていないのだけれど、何となくホッとする。先程は通り過ぎた分岐点の長い橋を渡る。橋の両側と中央には、銃を構えた人民解放軍の軍人が立っている。確かにここは軍事的には重要なポイントであるに違いない。何しろ、少なくともヤルツァンポ川の流域100キロに、橋はこれ一本しかないのだから。

 

 立派な道路を1時間も走った頃、道がさらに立派になる。いつの間にかラサ市内に入っていたのである。ラサの町は東西に長く広がり、目につく看板や表示はツェタン同様中国語が大きくチベット語が小さいが、ツェタンより明るくモダンな雰囲気。標高は3600メートル、ツェタンより200メートル程高い。

 車は一軒のレストランの前に停まる。その中華料理店の入口の前の歩道にだけ、チベット人がみやげものを並べている。観光客御用達の店なのだろう。再び大量の料理がテーブルに並ぶ。そろそろ中華料理にもうんざり。食事が済んで漢人の客が帰った隣のテーブルを見ると、さらに大量の食器が並び、食べ散らかした料理の多くが残っている。とんでもない奴らである。だからといってこちらが全部平らげられる訳ではない。デザートで出て来た西瓜がなぜかうまい。

 車でラサ市内を東へ進む。メインストリートは片側2車線プラス自転車や三輪タクシー用の1車線、それに幅の広い歩道から成っていて、やたら立派。ロータリーには巨大なモニュメント(金色の巨大な牛が2頭、それぞれポタラ宮とノルブリンカの方角に頭を向けている)が立ち、信号のない交差点では交通整理の警官が白い制服で台の上から車をさばいている。真直ぐの道の向こうには山々が見える。

 やがて左手に巨大な建造物が姿を現わす。ポタラ宮である。ついにやってきた。初めて目にすることのできたポタラ宮。

 しかし車はさらに進む。数ブロックして、車はラサでの宿、「日光賓館(サンライト・ホテル)」に到着。チェックイン。2つ星で、ツェタンのホテルと比べると、大分見劣りするホテルである。部屋は一階、窓の外では、別館の取壊しと新築工事中。部屋の設備も備品も、ちょっと悲しいものがある。テーブルの上には、お湯の入った魔法瓶が2本。(お湯は毎朝新しいものに替えられた。ラサの標高は3600メートル。このお湯が圧力をかけて沸かしたものかどうかは、わからない)

 とりあえず加藤君と近所の散歩に出掛けることにする。相変わらずの強烈な日射しで、顔に日焼け止めクリームを塗り、サングラスをかける。

 ホテルのある1ブロックを過ぎると、その向こうがチベット人街区になっている。低層の小綺麗な漢人ブロックを通って交差点を渡りチベット人区に入ると、雰囲気はガラリと変わる。白いレンガ造りの建物に黒い縁取りの窓が並ぶ典型的なチベット様式。奇妙な形のストーブやアルミ製の食器類、派手な模様の家具などが店の前に雑然と積み上げられ、チベット人達がたむろする。観光客はひとりもいない。その雰囲気、においは、8年前に歩いたカトマンドゥを思い出させる。(去年再度訪れたときには、ただの騒がしい町になっていたが)

 道の突き当たりに中国銀行があったので、ついでに両替えをする。散々待たされて1万円を754元に替える。さらに歩く。赤い肉塊をぶらさげた肉屋、得体の知れない揚げ物をしている店、小間物屋等々。観光スポットではなく、こうした普通の街をうろうろすることが、やはり何よりも面白い。文房具を並べた店で、学童用のノートを何冊か買う(9冊で6元)。漢人とチベット人の街区の境界になっている道を進み、大きく回り込んで、ホテルの方まで戻る。人民解放軍の軍人が門の横に立つラサ市人民政府、チベット自治区公安庁などの前を通り、ホテルの隣に見つけたスーパーマーケット「富隆超市」へ行ってみることにする。

 どこへ行っても(もちろん東京でも)スーパーマーケットは楽しいものだが、ここも例外ではない。いろいろな商品を物色するが、「西蔵自治区」製の商品はなかなかない。結局みやげ用にひまわりの種数袋と、ホテルの部屋で飲むための小袋に分かれたインスタントコーヒーを買う。

 7時、夕食へ。ポタラ宮近くの中華料理店へ連れていかれる。例によって例のごとし。突然、レーズンやバターがたっぷり入ったペストリーが食べたくなったりする。料理は相変わらずだが、食後の西瓜がうまい。

 このレストランには大きなみやげもの屋が隣接している。あれこれ見て回って、絵はがきを2組、ポーチをふたつ(あとでよく見たらMADE IN NEPALだった)、それにお経のテープを購入(計80元)。タンカやシルクのカーペットを眺めるが、今回はこういう高価なものには手を出さないと決めていたので、平常心でいることができる。

 ホテルに戻る頃には、さすがに暗くなっている。バスタブにお湯をためようとするのだが、なかなかお湯にならない。昼間はあんなに晴れていたのに、夜中には雷鳴が轟いてちょっと驚く。

 

第5日 ポタラ宮で五体投地する

 

 午前7時起床。寒い。夜中に大雨が降り、地面に水たまりができている。トイレに行って、トイレットペーパーの幅があまりにも狭いのにたじろぐ。5、6センチしかないのである。

 9時半ガイド嬢が迎えにくる。ホテルには朝食がとれる施設がないので、近くの食堂に朝食を食べに入る。地元の人でいっぱいの活気がいい感じである。おかゆに、甘い具と辛い具の2種類の包子、油条。味も量もちょうどで、満足。

 

 さて、いよいよ今回の旅のメインイベント、ポタラ宮見学の時がやってきた。

 車に乗り込む。ポタラ宮が近づいてくる。ガイドブックに書かれていたように正門から入り、標高差100メートルの階段を延々と登っていくのかと思いきや、車は宮殿の横手から裏に回り込み、石造りの参道をぐんぐん登っていく。結局、それだけで全体の3分の2の高さをクリアしてしまった。

 かつてはチベットの宗教と政治の中枢として機能していたポタラ宮は、その部屋数1000ともいわれる巨大な建築物であり、東西に360メートル、高さは115メートルに及ぶ。7世紀に始まったポタラ宮の建設は、17世紀ダライ・ラマ5世の時代に本格化し、完成したといわれる。現在一般に公開されているのは、基礎部分に乗ったかたちの白宮ポタン・カルポと、それに隣接する紅宮ポタン・マルポという最も上層の部分のみである。見どころの全ては紅宮の9から12階にある。裏から入ったところが、既に紅宮の最下層である9階であった。

 天井は高いが狭くて暗い回廊に並ぶ、仏陀を始めとする様々な偶像の前を多くの巡礼者達が、手にした袋から灯明にバターを足しながら参拝して回る。バターの燃える鼻にツンとくるにおいが充満し、派手な装飾を施された巨大な偶像が、幾つも幾つも灯明の明かりに浮かび上がる。歴代のダライ・ラマのミイラを納めた巨大な霊塔(高さは14メートル)、その殆どは金で覆われ、トルコ石や瑪瑙などの宝玉が象眼された立派なものである。この階の中央は、ダライ・ラマの法座のある広間、西大殿になっている。太い柱が何本も立つ3階分の吹き抜けになった空間で、周囲の壁にはびっしりと細密な壁画が描かれている。上方の窓からの光で、全体がぼんやりと明るい。法座は、一段高い立派なもので、ここだけは90元を払って記念写真を撮る。

 3階分の独立した構造物であるこの広間を取り囲む回廊の形をとった10階から12階は、回廊に面して入り口を持つ幾つもの部屋から構成されている。1世から13世まで全てのダライ・ラマの像、さらに多くの偶像、金属製の立体曼陀羅などが並び、そうした部屋の周囲は、天井までびっしりと経典が収蔵された棚になっていたり、信者から寄進された小さな仏像が並んでいたりする。どこを見回しても、床以外、空白というものがない。そこで奇妙な絵を発見。方眼に仕切られた正方形のひとつひとつの升目に文字が書かれている。縦横斜めに読むことのできるクンサン・コルロというもの。仏教美術とロジックの合体である。

 ポタラ宮で最も神聖な場所とされる聖観音堂パクパ・ラカンは、7世紀にソンツェン・ガムポ王が築いた王宮の遺構である。その本尊は一本の白檀から造られた菩薩像。パドマサンバヴァの足型などもある。ここを守る老僧は日本語ができると聞き、少し言葉を交わす。このお堂は高いところにあり、お堂に上がるために狭い階段が3本並んでいる。中央の階段は、ダライ・ラマ専用。階段の下に屋上からの光が射し込む明るいスペースがあり、五体投地している信者もいる。といっても完全にうつ伏せになるのではなく、うずくまって頭を地面につけるという簡易版。やってみることにする。額、口元、胸の前で合掌し、地面に両手をついて頭もつける。背中のリュックがずれて、後頭部にぶつかる。

 ダライ・ラマにまつわる日用品等を展示した小さな博物室があり、10元払って入る。食器類、衣服、真珠でつくられた小さな曼陀羅、楽器、経典等々、なかなか面白い。

 12階の中央、ダライ・ラマの法座の広間のちょうど真上が、休憩室になっている。何故この位置なのか。とりあえず並んだ椅子に腰をおろし、中国煙草「紅河」を一服。

 そのあと、紅宮の屋上に10元払って上がる。幾つも立ち並ぶ金色の屋根の位置は、ダライ・ラマの霊塔のそれぞれに対応している。チベット民俗衣装を着て写真を撮るという店が、漢人の観光客に受けている。下を見下ろすと、ポタラ宮前広場と、それを中心に整然としたラサの町並みが広がる。正面町並みの向こうにヤルツァンポ川の支流であるラサ川、そのさらに向こうにはすぐに山々が迫る。ダライ・ラマ14世は、まだここにいた頃、よく望遠鏡で町の様子を眺めていたといわれるが、彼が見ていたのは、決してこのような風景ではなかった。よく見ると広場には、五星紅旗が翻っている。

 きた道を引き返し、紅宮から白宮へ。白宮の中を通り、内庭デヤン・シャルに出る。ここは毎年大晦日にダライ・ラマのために舞踏劇が催されたところである。そこのトイレにはいる。さすがポタラ宮、壁には装飾が施され、仕切りこそないが床の穴の横には木製の手すりがついている。鍵型に曲がった通路を通り、正面の長い石段をゆっくり降りる。誰もいない。

 百数十メートルを下って門から外に出る。みやげもの屋が幾つか並んでいる。そのうちのひとつのかなり立派な店に入り、あれこれ物色する。結局娘に耳飾りと腕飾りを550元で購入。

 まるで天安門広場のようなポタラ宮前広場へ行く。ポタラ宮の全体が眼前に広がる。改めて実感が湧く。やっとやってきたチベット。ここに立っているのが信じられない。

 

 近くの、昨日も来た中華料理店で昼食。もう大量の料理を残すことにも、何も感じなくなってきている。相変わらずデザートの西瓜がうまい。隣接するみやげもの屋で、加藤君が、シルクの小型カーペットを2枚、520元で購入する。

 いったんホテルに戻る。近くの商店で煙草やミネラルウォーターを仕入れ、スーパーマーケットにも寄る。

 

 4時、再び出かける。チベット人区の中央にある、ジョカン寺へ。

 広い通りの両側にみやげもの屋が2重になった、つまり計4列になっているところをぶらぶらと歩く。総じてチベットでは店の呼び込みなどがあまりしつこくないので助かる。一軒の店でペンダントヘッドを値切る。といっても言葉は全く通じない。電卓で数字のやりとりをするのである。ここを通り抜けると、広場。その正面にジョカン寺がある。様々な伝説に彩られた最も神聖な寺院であり、ソンツェン・ガムポ王のふたりの王妃が協力して建立したといわれる。吹き抜けの中庭を囲んで幾つもの部屋が何層にも重なる複雑な構造の寺院である。入口周辺には、信者向けにタンカやヤクバターを売る店が並ぶ。

 門をくぐると石畳の中庭。その周囲にバターの灯明が燃える金属製の小さなカップがずらりと並び、熱気がすごい。地面はバターでヌルヌルしている。例によって中庭に面して入口のある部屋が幾つも並び、仏像が安置されている。本尊12歳の釈迦牟尼像が安置された部屋の前では、何人もの信者が五体投地をしている。歓喜堂、薬師堂、観音堂と部屋は幾つも幾つも続き、どれが何やら、何を見たのか、正直いって何が何だかわからなくなってしまう。

 建物の周囲をマニ車(経文の納められた円筒で、表面に「オム・マニ・ペメ・フム」の文字が浮き彫りになっている。これを右廻りに一回まわすとお経を一回読んだことになる。携帯用もある)の行列が取り囲んでいる。面白がって回しながら歩いてみるが、これが結構な重労働で、途中でリタイア。屋上まで上がり、休憩所で一服する。寺の僧が数人、中庭を見下ろして何か言っている。

 そこを出て、ジョカン寺の周囲を取り囲むバルコル(八角街)を歩く。マニ車や経典などの仏具、仏像入れ、トルコ石や銀細工のアクセサリー、服や靴、布、帽子、笛、ミキサー、スパイス、様々な日用品から金歯まで、ジョカン寺へやってきたチベット人達を相手にした店が二重になっていつまでも続く(建物の1階が店になっていて、その店がさらに前に屋台を出している)。8年前のカトマンドゥによく似た雰囲気、におい。外国人観光客の姿は少なく、いろいろな民族衣装にマニ車を回しながら右廻りに歩く人々で、通りはあふれかえっている。

 ここは、ラサの他の地域とは全く異なるチベット人の領域であり、ここだけが、ラサの中で、かつての中国侵攻前のラサの姿をかすかに残している場所なのかもしれない。しかし今となっては、広くて立派な道路、あちこちに掲げられた赤い地に黄色の文字の中国語のスローガン、漢人の店やレストランの並ぶラサにあって、ここはあたかも、1942年のワルシャワ・ゲットーさながらである。チベットの人達は、この現状を、一体どのように考え、認識し、了解しているのだろうか。1959年の大暴動以降、ラサでは何回もの暴動が起き、反政府デモが繰り返されてきた。1997年には爆弾テロも発生している。穏やかな表情でバルコルを歩くチベットの人達の胸の中には、どのような激情が潜んでいるのだろう。

 その後、また別の中華料理店へ。日の光の差し込む明るい午後8時のレストランで、主に野菜中心にたくさん食べ残す。

 

第6日 拉薩百貨店のカフェテリアでなごむ

 

 また夜に雨が降ったらしく、寒い。遠くに見える山が頂上付近に雪をかぶっている。

 昨日と同じ食堂で、同様の朝食をとる。包子の種類が昨日と違う。

 車でラサ市内西方にあるノルブリンカへ。ここは、歴代のダライ・ラマの夏の離宮として知られているところ。他には見られないたくさんの木々、緑あふれる公園のあちこちに幾つもの建物が点在している。1959年には反中国の大暴動が起こり、ダライ・ラマ14世を守るために多くの民衆がここを取り囲んだ。中国軍はノルブリンカを砲撃。しかし、その時既にダライ・ラマは、密かにインドに向かって出発していた。

 ケルサン・ポタンという建物を見学した後、タクテン・シギュ・ポタンへ。前庭に噴水を配置したこの建物は、ダライ・ラマ14世が生活していたところ。謁見室には宝玉で飾られた金色の玉座、寝室には小さめのベッド。居間にはロシアから贈られたラジオや電蓄がある。謁見室には、三方の壁一面に、細密な絵と文章によってチベットの歴史が描かれている。しかしその最後の部分、ポタラ宮に座すダライ・ラマ14世の両側に並ぶのは毛沢東と周恩来。いささか鼻白む。

 本人のバスルームは公開されていないが、替わりに母親のバスルームを見ることができる。タイル貼りのバスタブに木の便座のついた完璧な西洋式便器と、妙に近代的なのが面白い。

 外の木立の中のベンチでひと休み。近くにあったゴミ箱は、何故かパンダのかたちをしている。チベットにいるという感じがしない。煙草を吸う。

 出口へ向かう途中にあったみやげもの屋で、絵葉書と、迷った末に、古いチベットの経典の1ページを305元で購入。チベット仏教の経典は、通常細長い紙に木版刷りされたものを束ねてある。これはチベット紙に刷られた大判のいちまい。チベット文字が美しい。

 昼食まで時間があったので、もう一度バルコルに行ってもらう。加藤君とふたりで、ジョカン寺の正面へ。入口の左側に専用のスペースがあり、多くのチベット仏教の信者達が五体投地を繰り返している。この信者達に混じって正式な五体投地をするのはさすがにはばかられる。しばらく眺めてから、バルコルへ。店をのぞきながら右廻りでゆっくりバルコルを一周。この道で五体投地をしている人を何人か見る。

 満足して待機していた車に戻り、昼食へ。その後いったんホテルに引き上げる。

 

 3時半、ラサの北の山麓にあるセラ寺へと向かう。

 ラサの市街を抜けると、突然、道は未舗装でこぼこに変わる。両側は巨大水たまりと、巨大ゴミ捨て場。その正面、岩山にへばりつくように、チベット仏教第一の派閥ゲルク派最大の寺院であるセラ寺が見えた。幾つもの建物の集合体であり、近付くと確かにその規模の大きさがわかる。

 セラ寺は修行場であり、顕教密教それぞれを学ぶ学堂の建物が木々の多い境内に点在している。その中心である学堂チェ・タツァンは現在修理中。雑然とした中を見て回る。本尊である馬頭観音は狭い小部屋の奥、その手前に深い凹みがある。信者に混じって列に並び、この凹みに頭を突っ込んで礼拝する。僧が売っているセラ寺特製お守りを買う(5元)。加藤君は、そこでやはり売っていたタルチョを一枚購入。

 河口慧海の記念碑のあるという建物に行ってみるが、閉まっていて入れない。有名な僧達の問答も、本日はやっていないとのこと。背後の山の岩に描かれた仏画を見たいと思ったが、その標高差を考えてやめておく。この山を登ったその向こうは、鳥葬場であるという。

 

 時間があるので、どうしようかと考えた末、車で走っているときに見つけた百貨店に行ってみることにし、車で送ってもらう。ポタラ宮近くの「拉薩百貨店」は2階までしかないが、ガラス張りの立派な建物。いろいろな商品が並んでいて、それだけで面白い。CD、お茶、カーペット、飴、暗い色の多い洋服、靴、それにやたら服務員がたくさんいるスーパーマーケット。中国の建国50周年でつくられた中国内の少数民族をテーマにした巨大な切手シートを55元で購入。カフェテリアを見つけてコーヒーを頼む。一杯8元。ガラス越しに外の街を見ながらコーヒーを飲み、煙草を吸う。今回の旅で、こういうことができたのは初めて。久し振りにリラックスした気分である。

 歩いてポタラ宮前広場へ。夕方の強烈な日光がたまらない。広場を一周し、改めてポタラ宮を眺める。広場に面した一角に階段のある大きな建物がある。ラサ唯一のディスコである。

 道に戻り、三輪タクシーをつかまえ、ホテルに戻ることにする。決して体重の軽くない男ふたりを乗せて、やせたチベット人のおじさんが必死にペダルを漕ぐ。ホテルに到着。何しろ言葉が通じないので、ノートとペンを渡して料金を書いてもらう。30元。あとでガイドブックを見たら、三輪タクシーの相場は2、3元と書いてあった。

 

 迎えが来て夕食へ。チベット最後の夜は、チベット料理。チベット人区の中の、キレー・マッド・ヤク・レストランへ行く。広い店内に客はひと組のみ。チベットの酒チャンで乾杯のあとは、まずバター茶。塩味の濃いミルクティーといったところで意外に飲みやすいと思ったが、だんだんうんざりしてきて3杯が限度。その間に次々と料理が運ばれてくる。ヤクのチーズは口あたりもよく食べ始めはいいのだが、そのうち口の中が動物園のようになってしまい、それ以上食べられない。しかしツァンパは甘い味付けがしてあっておいしく、全員の分を食べてしまう。その他チベット餃子のモモ、ヤクの腸詰め、カレー、揚げた肉、じゃがいものバター炒めなど、どの料理も独特のくせがあってなかなかの味。ネパールのチベット料理のように洗練されていない分、雰囲気がある。

 やがてチベット舞踊が始まる。例によっていい感じである。食事せずにこの舞踊だけ見に来た漢人のグループが写真を撮りまくる。何種類かの舞踊の最後は、予想通りヤク・ダンス。ふたりひと組でヤクの毛皮のぬいぐるみをかぶった踊り手が、踊りながら客席を回って愛嬌をふりまくのである。しかし客が少ないので、ちょっと寂しい。

 チベット最後の夜はこうして更けていき、カタ(祝福を招く白い布)を首に掛けられて、レストランを出る。

 

第7日 カレ・シュ(さよなら)、チベット

 

 6時半にガイドがやって来て、ホテルをチェックアウト。車に乗ってクンガ空港に向かう。チベットともお別れである。暗い中、車は時速80キロでひた走る。やがて徐々に空が明るくなってくる。途中立ち小便1回。1時間半走って、車はようやく空港に到着。

 チェックインし、出発ロビーへ。最初は人の少なかったロビーも、時間が経つにつれ人が増えて騒々しくなっていく。その殆どが、漢人の旅行客のようだ。

 9時半発の中国西南航空成都行きは、結局1時間遅れで、クンガ空港を離陸。

 

 この後、成都で広州行きの飛行機に乗り継ぎ、広州の白雲賓館に一泊。ホテルの1階にある妙に立派なレストランで、ビールを飲みながら鶏の唐揚げ、大根餅、韮饅頭、春巻、ちまきなどを食べ、大満足(ふたりでたった83元)。部屋に戻って朝までぐっすりと眠る。チベット滞在中の睡眠の浅さは、やはり高山病の症状のひとつだったのだと納得する。翌日は蒸し暑い広州の越秀公園や友誼商店を歩き、日本エアシステムの午後の便で関西国際空港、羽田空港と乗り継ぎ、家に帰着。

 

 

 かくして念願だったチベットへの旅は終わった。

 空気の薄い、高地の荒々しい自然の有り様は、想像していた通りだったし、絢爛たる装飾に彩られたチベット仏教の存在感と人々の敬虔な信仰の実体も、思い描いていた通りのものだった。過酷な環境と宗教の出会いが、チベットに類い稀なる精神の王国を築き上げたのだ。しかし、実際にチベットを旅すると、そうしたチベット特有の自然と文化の全体の前提となっているのが、現在では中国の支配であるという事実を、否応なく受容せざるを得ない。

 ラサの立派な道路と小綺麗な町並みは言うまでもなく、ポタラ宮を始めとする寺院の多くが修復され、あるいは現在も修復中である。人民解放軍の制服が至るところで見られ、全ての官公庁の入口は、直立不動の衛兵によってガードされている。あるときなど、車で移動中に延々と続く数十台の軍用トラックの列とすれ違ったこともある。

 中国による支配は、宗教に対する抑圧から始まった。かつて北京を訪問したダライ・ラマ14世との会談の中で毛沢東は、青年ダライ・ラマに向かってにこやかに語ったという。「宗教は、毒です」と。しかし、チベットをチベットたらしめているものこそが、宗教なのだ。河口慧海が求めたように、仏教の純粋に昇華したかたちがチベット仏教であるとするならば、チベットの存在意義は、ひとえにそこにある。宗教に対する中国の抑圧は、一時に比べて緩やかになっているといわれるが、破壊され略奪されたものが戻ることはない。

 囲い込まれ管理された上での宗教に、どれ程の意味があるのかは、よくわからない。しかし少なくとも、チベット仏教の頂点であるダライ・ラマがポタラ宮の法座に座っていない現在の有り様が、チベット仏教だけでなくチベットそのものにとって不幸な状況であることに間違いはない。

 それでも、強烈な日射し、どこまでも青い空を背景に連なる山々はあくまでも美しく、精緻な仏画は鮮やかで、ジョカン寺で五体投地しマニ車を回しながらバルコルを歩く人々の表情は、とても穏やかだった。同じ地上にこのような風景があり、同じ時間にこのような人々が生きている。その事実を思うだけで、頭がくらくらしてくる。

 

 私は、かつてポタラ宮を見た。私はいつかまた、ここに立ってポタラ宮を見るだろう。だがその時、チベットはどのように変貌してしまっているだろうか? 

 そしてその時の私とは、一体誰のことなのだろうか?