Q:お経って本当に功徳があるの?お坊さんは意味が分かって読んでるの?
(大阪府在住Kさん)
A:はいはい、ありますよ、功徳。それは、じゃーん、「お経を読めたというその行為自体が功徳」なのです。これは決してずるい逃げ口上ではありません。日ごろ過剰な欲求に振り回されている私が心静かに読経し、仏様のお徳を讃えることができた。これが功徳でなくてなんでありましょうや。
さて、お坊さんは意味が分かってお経を読んでいるのか、というご質問ですが…。お坊さんは仏教思想やご自分の宗派に関する教義などを一通り勉強しますので、おそらくみなさんそこそこは分かっていると思われます(あくまで想像)。ただ、精密な解釈となると、専門に勉強している学僧さんでないと分からないでしょうね。
また、お経は単に仏教の思想を書いたものというだけではなく、仏教儀礼の重要な要素ですので、ただ意味が分かれば良いというものでもないと私は思います。お経に抑揚をつけたり、旋律に乗せて読むことそのものも大切な宗教性です。学生の頃にスイスで世界の宗教者たちが集まる会議を見学したことがあるのですが、そこで日本から来た浄土宗のお坊さんたちが大勢で『往生礼讃(おうじょうらいさん)』を勤行されたのです。その場にいた世界各国さまざまな宗教者たちがみんな、そのあまりに美しい声明に滂沱の涙を流すのを見ました。言葉や意味を超えて宗教性が揺さぶられることがあるんだな、って実感しました、はい。
コメント (4)
初めまして。
「お経を読めたというその行為自体が功徳」ということを私なりに考えてみました。
私の考え違いかもしれませんが、お経を読むことは何かその外部にある他の目的(たとえば何らかのご利益が得られるですとか、修行になるですとか)のための手段ではないということになるのではないかと思いました。
たとえば、売ってお金にするために釣りをするのであれば釣りはお金を儲けるという釣りという行為の外部にある他の目的のための手段にすぎませんが、趣味として釣りをする場合には、ただ釣りをするという行為そのものが楽しいからするのであって、釣りをするという行為それ自体が自己目的的な活動と考えることもできると思います。
お経を読むことができた、そのような経験が与えられたということそれ自体をエンジョイし、お経を読ませていただけたという経験を歓ぶということではないかと思いました。
もしもそうであるならば、「功徳」という日本語の意味として、仮に、自らが何かの行為(たとえばお経を3000回読む、呪術を行う、修行する、五重の塔を寄進するなどなど)を行うことによって、神仏からご利益を得るというようなことをイメージするのであれば、そのような意味においては、結局、お経には功徳はない、ということになるのではないでしょうか…。
そもそも私の思い違いなのかも知れませんが…。
投稿者: theotherwind | 2008年01月21日 19:37
日時: 2008年01月21日 19:37
ふと、仮に、お経それ自体に内属した意味がなかったとしても、それでよいのではなかろうか…と思いました。
表現が難しいのですが、人間は、他人に認めて欲しい、承認して欲しいものであるという仮説を立てることができます。
しかしながら、人間は、また、この世にひとつだけの、固有の私、というものがあるのではないかという疑いを捨てられないものではないかと考えることもできます。
実際にはみな、お互いに、どんぐりのせいくらべかもしれませんが、だからこそ、自分は他の誰とも違う、かけがえのない自分であると思いたいというようなことがあると思うのです。
この二つは原理的に矛盾してしまいますので普通に考えると人間は満足することはできないようにも考えられます。
本当の私というようなものがもしも、他人に理解してもらえるようなものであれば、それは、一般的なので、定義上、他の誰とも交換できない、かけがえのない私というものではないことになるからです。
本当の私というものが、私にだけ固有なものであれば、定義上、他人には理解できないはずです。
もしも他人に理解されるようなものであれば、それは私にだけ固有なものでは有り得ません。
よって、ひとつだけの私があると思いたいが、しかしならがら、そのような私を他人に認めて欲しいというのは普通に考えると原理的に無理なようにも思われます。
すると人間が普通に話す言葉というのは、結局、「あなたは、私がxな人間であると思っているのだろうが、それは違う」ですとか「あなたはyな人間だが、私は違う」ですとか、要するに、この世に実在する、外在する他の全てのものを否定する運動になると思われます。
本当の私ですとか、自分がこの世に生まれた理由ですとか、自分がこの世に生まれたときに与えられたが実現していない価値ですとか、何かそのような、言えないこと、言葉にならないこと、そのような虚無、空、の周囲をドーナツ状に言語が旋回することになります。
あれでもない、これでもない、……を死ぬまで続けていくと、このような否定の働きによって、「ほら、言語化できないものがある」、正に言語化できないそのことによって、この世のどこにもない場所に、本当の私がある…というような幻想(実際には空虚、無と考えられますので幻想と言ってみました)、が得られる仕組みになっていると考えられます。
で、このように言葉を話すという行為とは異なる、話す(?)行為としてお経を読むということがあって良いのではないかと思いました。つまり、お経について、そのお経の著者の意図(何が言いたくてお経を書いたのか)ということをあまり気にしないで、コーラスが美しいとか、みんなで一緒にお経を詠んでいたら法悦境ですとか、そういういわば無意味であってもかまわないのではなかろうかと思った次第です。
投稿者: theotherwind | 2008年02月03日 22:01
日時: 2008年02月03日 22:01
> 普通に考えると人間は満足することはできないようにも考えられます。
他人に本当の自分が認められるという満足が得られない正にそのことが、
他の誰にも理解されることのない(言葉というのは原理的に一般的なので、一般的な言葉では語り尽くされることのない過剰な)本当の私が、
この世にはどこにも存在しない正にそのことが、どこでもない場所にあることの
証明になっていると考えることができますので、
満足しない正にそのことで、人間の欲望は解消されている
ということは言えると思います。
投稿者: theotherwind | 2008年02月05日 07:05
日時: 2008年02月05日 07:05
> みんなで一緒にお経を詠んでいたら法悦境ですとか、
後から思えば、方法論に、便利、不便、向き、不向き…のようなことはあるかも知れないと思いました…。
狂喜乱舞しながらお経を称えまくっていたら、幻覚・幻聴が生じて、異常行動を取ってしまった(崖からジャンプしてしまった)というようなことがあるのであれば、不便な方法、あるいは、その人に不向きな方法であったということも有り得ると思いました。
その意味では、誰でも何でも(どんな方法でも)良いかどうかは断言はできないと思いました。
投稿者: theotherwind | 2008年02月05日 07:10
日時: 2008年02月05日 07:10