Q:京極夏彦さんの『鉄鼠(てっそ)の檻』に、坐禅と瞑想は違うと書かれていましたが、私には違いがよく分かりません。この二つについて説明して下さい。
(大学生Dさん)
A:京極夏彦さんは私も好きでよく読みます。『鉄鼠の檻』は禅をテーマにした連続殺人事件でしたね。読むと日本の禅仏教についてけっこう詳しくなります。
さて「瞑想」は仏教のみならず、さまざまな宗教において実践される行為です。また「瞑想」にはさまざまな手法があります。動きやポーズのバリエーションも数多いですし(歩き続けたり、鳥のマネをしたり、死体のように横たわる等々)、一点を凝視したり(密教で実践する阿字観などもそうですね)、ある言葉を唱え続ける瞑想もあります。また、イマジネーションを喚起する手順も多種多様です。中にはドラッグを使って瞑想する宗教さえあります。
これに対して坐禅は、坐って実践する禅那(ディヤーナ)の一種です。ディヤーナは静慮や定とも訳されるように、姿勢と呼吸を整え心を定めて静寂の中で瞑想します。つまり坐禅は瞑想のある一手法だということです。
また禅は中国ですごく発達し、ある意味単なる瞑想の手法ではなく、ひとつの宗教として完成している面があります。ですから、禅は瞑想という領域で捉えきることはできない大いなる体系という言い方もできます。生活すべてが禅である、とさえ表現されます。
いずれにしても、坐禅=瞑想とは言えない、ということになるでしょうか。