Q:悪人正機(悪人正因)の基礎知識を教えてください。
(チカさん)
A:おお、わざわざ「悪人正因」を括弧に入れているところを見ると、『インターネット持仏堂』を読んでくださいましたね。まいどありがとうございます。
「悪人こそが救われる」というのは浄土真宗の専売特許ではありません。たとえば敬虔なクリスチャンに悪人正機の話をすると、すんなり共感してくれます。真宗もキリスト教も弱者の宗教性を大切にしますからね。ご存知のようにイエスは「貧しいもの・弱い者・苦しんでいる者こそ幸いである。なぜならその人こそ神の国に近いのだ」というようなことを語っています。これらはよく宗教的逆説性と表現されます。信仰が深くなればなるほど、自らの罪意識が深くなるからです。
さて浄土仏教では、「善人(=強者)は自分の力でできると思っているので、傲慢のワナに落ちているのだ」と考えます。この「傲慢さ」によって、仏の慈悲からより遠くに身をおいてしまうのです。それに対して悪人の自覚をもっている人は、仏の救いを求めます。だから、悪人こそが救われるのですね。そのことを本書では、「悪人を救うという願いを聞いて、まさに私こそ悪人であったと知らされる目覚め」と表現してみました。
ところで「悪人正機」という立場を、平安から鎌倉期における社会的状況でとらえる視点もあります。当時、悪人とは非差別者・非抑圧者を指す場合があったからです。親鸞聖人もそのことは視野に入れておられ、猟師や漁師や商売人など今まで悪人とされてきた人々へ心を寄せていろいろなことを語っています。「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり(道端にある石ころのような私たち)」という『唯信鈔文意』の文章は有名です。鎌倉時代の百科辞典である『塵袋』には、「悪人とはエタ・非人のこと」と書いてあるらしいです(@河田光夫)。悪人正機の教えは、そのような従来の宗教・仏教が相手にしない傾向にあった人々にとって、信心の軸を形成して生き抜く力となったことでしょう。
コメント (2)
> 「善人(=強者)は自分の力でできると思っているので、傲慢のワナに落ちているのだ」と考えます。この「傲慢さ」によって、仏の慈悲からより遠くに身をおいてしまうのです。それに対して悪人の自覚をもっている人は、仏の救いを求めます。だから、悪人こそが救われるのですね。
うーーーん。私は勝手に、小此木啓吾氏が世の中に広く紹介したところの、小此木氏曰く、古澤平作氏がフロイトに論文で提出したところの「阿闍世コンプレックス」のような話なんだろうなぁと思ってました…。
実際に父殺しを実行した殺人者が「悪人」かと。
いつでもつねにすでに、宿命的に、予め、息子は父親を殺してしまっている。
生まれる前から息子は父を殺すさだめとして生まれてくるという。
しかしながら、もちろん論理的には、もしも仮に救いがあるのであるとすれば
(これは仮定です。あるいはもっと正確には信仰の問題です。つまり実体として仏がいるかどうかは分かりません。分からなくても信仰の問題なので議論としては成り立ちます)、
であれば、人はもう既に仏に救われている…ことにはなりますね。
自我とは(自己)意識。
意識とは反省的意識。
反省的意識とは罪の意識。
罪の意識とは、本当は自分ではどうにもできなかったことをあたかも自分の自由意志で選択したかのような幻想であると考えることもできると思います。
親が死んでしまった。
合理的に考えて、それは自分が自分の自由意志に基づく選択として殺したわけではなくても、それでも、人はみな何故か罪の意識を覚える。
そのときには、別に自分の自由意志での判断は何もしていなかったにも拘わらず、何故ああしたのか(何故しなかったのか)と後から反省する。
人間は、実際には自分は全く判断しておらず、従って実際に起きたこと、結果に対して、自分の判断は全く関係ない(←なにしろ人はいつでもそもそも何も判断していませんから)にもかかわらず、
ある結果が出てから(もともとは理由なく出た結果ですから「結果」という日本語は変ですが)、事後的に、あとから、本当は自分の意志が関与していなかった結果に対して、後づけで…
自分が何々したからだ(しなかったからだ)と何でもかんでも自分がやったことの結果であると考えるという仕方でしか考えられない構造になっているのでしょう。
言い換えれば、人間は、自分が宇宙の全てを支配していると思うようにできている。
そう思わないと世界が自分にとって意味のあるものとして現象しないし、世界の中での自分の意味や価値が見いだせないからでしょう。
しかしながら、親が死んでしまうというようなことに対しては、人間のこのような普通の考え方は無理ですね。
何故ならば、自分が殺したからだという自分による自分に対する理由付け、意味づけをすることになるわけですが、それは耐え難い理由付けになります。
自分が宇宙の中心であるという幻想を抱き続けたいのであれば、そういう理由付けを受け容れるしかありませんが、そのような理由付けは受け容れがたい…。
つまり、親が死んでしまうというようなことは、人間には思考不可能なことがらになると考えられます。
そのような状況に直面したときに、人間は自分が宇宙の中心であるという幻想を多少なりとも諦めざるを得なくなるものと思います。
投稿者: theotherwind | 2008年02月09日 21:54
日時: 2008年02月09日 21:54
少し別の観点から考えてみました。
もしも仮に阿弥陀仏が存在しないとすると、私は赦されない。(天上天下、唯我独悪。宇宙の中で唯一、悪人なのは自分。)
しかしながら、実際には私は生きているので、赦されてあると考えることができる。
よって、阿弥陀仏は存在する。(ないし現実にはどこでもない場所にある。この世ではない場所にある)。
ということではないでしょうか?
但し、もしもそういうことであるならば、ちょっと危険はあるのかも知れません。
というのは、人間というものは、なかなか、宇宙で自分だけが悪人とは思いにくいわけで、一般化しがちです。
自分だけが悪人なわけではなく、稲とか魚、鶏とか豚とか牛など、他の生命を奪わなければ生きていけないというのは、自分だけではなく、人間一般の実存的条件であるという具合に、一般論になりがちな傾向があると思います。
我がこととして、自分だけで受け止めるというのは大変に難しいことです。
そうなってしまいますと、
阿弥陀仏が存在しなければ、全てが赦されない
という、全く違った命題にすり替えられてしまいます。
さらに、この命題をひっくりかえして、
阿弥陀仏が存在すれば、全てが赦される
という命題が立ってしまう可能性すらあります。
( a) 阿弥陀仏が存在しなければ、全てが赦されない、
という命題から、
( b)阿弥陀仏が存在すれば、全てが赦される
という命題は、
本当は出てこないとは反論できると思います。
何故ならば、
命題bでは阿弥陀仏が存在するということが、直接的に既に分かっていることになってしまっていますが、
元の命題aでは、直接的には分かっておらず、仮に、阿弥陀仏が存在しないと仮定してみると…と、
否定の働きによって間接的にしか証明されていません。
否定の動きの中にしか証明がないわけです。
そういう反論が可能であるということは分かるのですが、ここで私が危険と言っているのはそういう意味ではなくて、実際問題として、人間は易きに流れがちなので、命題bのようなことは、実際にはおこりがち…という、論理とは違うレベル、実際には…という次元です。
投稿者: theotherwind | 2008年03月10日 14:25
日時: 2008年03月10日 14:25