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2005年11月 アーカイブ

2005年11月05日

質問23 先祖のご供養はどうすれば

Q:

釈住職様、はじめまして。
どうしていいのか解らない事があります。
私は女で一人っ子です。しかも、今は嫁いでしまっているので、父親の代で終わってしまいます。うまく説明できませんが、祖母、父 伯父(父の弟)が健在です。祖父の田舎に、祖父と祖父の兄、ご先祖様が眠ってます。祖父以外の、ご先祖は実家の裏に土嚢で眠っており、祖父だけ、その近くのお寺で一人眠っております。←伯父が建てました。伯父は独身で子供がおらず、私が最後の子孫になります。が、先程も申し上げました様に、嫁いでしまっているので、今後、私はどの様にすれば良いのでしょうか?私が死んだら、私の子供が両方供養しないと駄目なんでしょうか?子供は男の子で、一人です。お恥ずかしいことに、うちの親たちはろくにお墓参りもしないので、何にも考えていません。本当はお墓のあるお寺の住職さんに相談すべきなんでしょうが、今、小さい子供を抱えており、遠方に行くことができないのと、相談に乗って頂いた場合の、お礼のしかたが解りません。それも併せて、無知で恥ずかしい質問だとは思いますが、解らないからと、放ってはおけないので、お教え願えませんでしょうか?
どうかよろしくお願いいたします。
(ペンネーム:おじいちゃん大好き。)

A:

兄弟・姉妹が少なくなった今日、こういう悩みを聞くことが増えてきました。
かつて、日本各地には「家を存続させるということは、祖霊を祀ることとイコールである」という宗教文化を見ることができました。亡くなった人は、きちんと祀られれば「個」が解体されて祖霊という「全体」へと一体化するわけです。祖霊になるまで祀るために子孫は「家」という形態を維持しなければなりません。祀られない御霊は鬼などになってしまうからです。人間にとって、子孫に祀ってもらえないことほどの不幸はない、そう考えます。つまり、「家」は単に生きている者のためにあるわけではなく、半分は死者のためにあるのです。そして死者を意識し、死者と対話し、死者の視線を感じながら生活する。まさに、ラフカディオ・ハーンが喝破したように、「死者とともに生活する文化」だったわけです。そのような宗教文化に立脚するならば、「おじいちゃん大好き」さん(いいPNですねぇ)の気がかりはけっこう大きな問題だということになります。 
ところが、仏教はちょっと違う視点を提供します。仏教では、生きとし生けるすべての存在はつながっている、と考えます。たとえば『歎異抄』の有名な一節に、「親鸞は父母の孝養のためにとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず(私、親鸞は亡き父母の追善供養のためには、一度だって念仏申したことなど、いまだかつて有りません)」というのがあります。「なぜなら、すべての生命はつながっているので、生きとし生けるものは私の父であり母であるからだ」というのがその理由です。だから、「おじいちゃん大好きさん」のご先祖やご両親と、嫁ぎ先のご先祖やご両親とをそんなに厳密に区別して考える必要はありません。たとえば、お仏壇に置く「過去帳」という帳面があるのですが、ご存知でしょうか。これなどはいろんな方々を書き込んでおまつりするのになかなか適した形態です。私が尊敬していた篤信のおばあちゃん(うちの近所に住んでおられました)などは、自分の先祖や血縁だけでなく、縁があった人たち(友人や知り合いなど)、さらには動物や虫にいたるまで、「過去帳」に名前を書き込んでおられました。
「おじいちゃん大好き」さんが(いいPNですが、長いぞ)どのようなポジションの死生観や宗教儀礼に立って取り組まれるのかによって、多少相違するでしょうが、「過去帳」のような形態を活用されて、私の先祖、夫の先祖、などという区別なく、ご縁があるさまざまな方々をおまつりされてはいかがでしょうか。そして「おじいちゃん大好き」さんのお子さんが、「自分は考え方が違う」ということで、そのやり方を引き継がなくても、それはそれでいいじゃないですか。お子さんご本人におまかせしましょう。
さて、遠いところにあるお墓の件。私自身は、「お墓はできるだけ合葬するのがよい」と考えております。家単位、個人単位で建てなくてもいいんじゃないか、という考えです。伯父さんがご存命の間は、お墓を管理してくださるでしょう。もし伯父さんが亡くなられれば、そのお墓は(ご実家の裏に埋葬してある方も含めて)「おじいちゃん大好き」さんのお家のお墓に合葬するとか、お近くのお寺に永代供養という形でお預けするなどされてはいかがでしょうか? 近年は、誰もおまつりされる方がいないお墓が増えていますので、そのような場合に対応してくれるお寺もけっこうあります。もしご宗旨が浄土真宗であれば、京都東山五条にある大谷本廟には全国のご門徒を合葬できるお墓もあります。他の伝統教団でも同じような形態があると思います。その意味で「おじいちゃん大好き」さん自身もおっしゃってるように、お手次のお寺にご相談されるのはよい方法です。きっと電話ででも懇切に対応してくださるでしょうし、こんな相談くらいでお礼はいらないはずです。
もっと、はっきりと「こうしろ」という指示を期待されておられるかもしれません。ご期待に沿えず、申し訳ないです。でも、オルタナティブな回路を提供することこそ仏教者の務めと考えておりますもので。決して言葉でごまかしているのではなく、誠実に応答させていただくと、こういう話になってしまうのです。ご寛容を。

2005年11月08日

質問24 声の力について

Q:
お経はこぶしのきいた“ええ声”で読める方がいいのですか?
(京都・「カオリとマリ子」)

A:
お、岡けん太・ゆう太ですな。カオリさんとマリ子さんは実際に「ええ声~っ」のお経を聞いたことがありますか? なかなかのもんですよ。機会があれば、ぜひ一度聞いてみてください。
「お経を読む」という行為は、お経に書かれている思想性よりも、儀礼的要素が強いわけですから、見事な読経を聞くと全身が震えるほど宗教性が揺さぶられます。そもそも演歌などの「こぶし(小節)」は読経の節回しからきています。そしてこの読経の節回しはアジアの広範囲で確認できます。先日、モンゴル僧の「倍音声明(響きを重視した声明)」を聞きに行ってきたのですが、それはそれはありがたかったです。
お経は仏教の思想書であると考える人にとっては、ええ声であろうが汚い声であろうが、あまり気にならないのかもしれません。でも、宗教における儀礼の重要性を大切にしたいと考えている私にとっては、こぶしのきいたええ声での読経は憧れです。なにしろ、私、先天的に音痴なのです。ゆえに、ええ声でお経を読む人に対してインフェリオリティ(劣等感)コンプレックスがあります。
昔、法然上人のお弟子さんで、住蓮坊や安楽坊という人などは、ものすごくええ声のお坊さんだったそうです。それで、この人たちがお経を読むと、その美しさに感動して大勢の女性が入信したといいます。いやぁ、ほんと、私からみれば夢のような話です。

以上、釈住職のお答えでした。内田からもひとこと。
「声の力」ってほんとうにあります。
来週の『現代霊性論』のネタのひとつなんで、ここであまり書いちゃうと来週話すことのネタがなくなっちゃうので、「さわり」だけ。
人間がどうして「声帯の振動」を主たるコミュニケーション装置に採用したのか?という問いを考えたことがありますか?
筒井康隆のSFに『関節話法』というのがあります。
肘や首の関節をコキコキ鳴らすことでコミュニケーションをする星の話。
これは「あり」ですね。
可能性としては。
実際に「手話」というのは、かなりの正確さでメッセージを伝えることができますし、視覚的な記号表象だって使い勝手は抜群です。
ではどうしてあえて「声帯」を使うようになったのか?
「声帯」というのも、実は変な言い方なんですね。だって、「声」というのは気管の通過音や口腔内の空気振動をコミュニケーションにつかうようになった後でできたことばですから。
「縄文時代の世田谷区民」というか「ビートルズって、髪型、ビートルズ・カットですね」みたいな「あとからできたもので前からあったものを指称する」さかさまなことばづかいです。
それは、口腔の空気振動を受け取った人の身体が、振動にダイレクトに「共感」するときに「あること」が起こる・・・ということを動物としての人間は太古から熟知していたからだと思うんです。
で、何が起こるかというと・・・
その話はまた来週。

おしらせ

「教えて!釈住職」の質問受付期間は当初10月末までとしておりましたが、質問殺到のため、とりあえずしばらく延長することに致しました。
11月に入りましたけれど、どうぞ遠慮なくご質問お寄せ下さい。

ご参拝はこちらまで  →jibutsu@tatsuru.com

2005年11月18日

質問25 腹ばかり立てているのですが・・・

Q:
お堂が開いている内に。駆け込みです。
腹を立ててばかりいるのですが。それも実に下らない事に。ウチダヒャッケン先生も何かと癇癪起こしたようですが。怒りのパターンが似ているようです。
下らない事で家人を声を荒げて罵倒するなんて自分でもうんざりなのですが、止まらない。かえっていつも機嫌良くしてる人のが、胡散臭いと思います。
自分を改善したいわけではないのは困ったものですがせめて人にあたる事をやめる方策はあるやなきや。   駆け込み人より

A:
実は私、かなり短気な性分です。
そのことをよく知っている家人などは、私がお檀家さんなどに対して温厚な雰囲気で話をしていたりすると、後で「この偽善者」などとなじられたりします。大学の講義においても、かなり厳しく注意します。注意する、というより、暴れる、に近いときもあるので、学生が事務室に苦情を申し立てたことさえあります。ずっと体育会系だったんで、その体質がなかなか抜けないということもあるのですが。受講態度が悪い学生に対して怒ることができるのは講義に情熱がある証拠だ、などと勝手な理屈ももっていたんです。ところが…。
あるとき、ちょっとしたことさえ許せなくなっている自分に気づきました。
そうなんです、「腹を立てる」というのは、クセになるんですね。しかも、発火点が知らないうちにどんどん低くなってしまいます。怒りが怒りを誘発して、いちいち目くじらを立てるので、自分自身もえらく苦しくなってきます。自分の許容閾値がえらくせまくなっていることを自覚して、少々反省しました。というわけで、昨年からちょっと方針を変更して、あまり細かい注意をしないようにしております。いつまで続くかはわかりませんが。
仏教では「怒り」を三毒のひとつとして語ります。三毒とは人間の苦しみを生み出す三大原因のことです(ちなみに残り二つは「貪欲(過剰な欲望)」と「愚痴(ものごとのメカニズムがわからないこと)」)。ですから、古来、さまざまな「怒りをコントロールするトレーニング」が語られてきました。たとえば「観」という瞑想があります。「観」は「止」と違って、日常の活動をしながらでもできる瞑想です※。
どうやるのかと言いますと、自分の動きを心の中で(あるいは口に出して)実況中継するのです。
たとえば、子供がちらかしっぱなしのモノなどを「駆け込み人」さんが片付けているとします。その動作をいちいち言葉にして再確認します。「右手、本をつかみます、つかみます、つかみます…。右手、本をつかみました、つかみました…。今、息を吐いています、吐いています。吸いました、吸いました…」といった調子です。当然、当初はえらくゆっくりにしか動けません(笑)。でもそのうち、自分の全身の感覚が敏感になってくることを感じるはずです。そのように自分を観じていくトレーニングによって、「怒り」や「貪り」が起こりにくくなってくる、という仕組みです。
あるいは、かっとなったときに鏡で自分の顔をじっと見てみる、なんてのもお手軽な「観」かもしれません。
また、仏教に限らず、いろんな宗教で「もし、あなたが一週間後に死ぬとしたら、きっとつまらないことで怒鳴ったり悪態をついたりしないでしょ」ということを説きます。かつてテレビ朝日の「ニュースステーション」で、「最後の晩餐」という企画がありました。「もしあなたが明日死ぬとしたら、今晩何を食べますか」という問いに、ゲストが答えるというものです。これ、わりと面白かったです。
だいたいどの人もあまりたいしたものを食べたいと思わないみたいですね。「死んだ母の玉子焼き」とか、「子供の頃、疎開先で食べたイモ」とか、そんな話が多かったようです。これなども「死を思うトレーニング」のひとつです。
自分の死をリアルにイメージすれば、自分にとって本当は何が大切なのか、何がいらないものなのか、が浮かび上がってくるかもしれません。少なくとも、現状よりは寛容な人格へと展開することになると思います。まあ、しょっちゅう「死」について考えていたら社会生活ができなくなっちゃいますが、たまにそういうイメージトレーニングをやってみることも、「せめて人にあたる事をやめる方策」になるんじゃないでしょうか。
さらには、(「質問18」にもお話しましたように)「むかっ」とくる第一の矢は受けても、「怒鳴る」「まわりにあたる」という第二の矢は受けない、というセルフイメージを描いてください。
今は、つまらないことでも怒らずにはおれない自分、というセルフイメージを知らないうちに描いてしまっているはずです。だから、うんざりしているのに止まらない。そして、自分の「こうあるべき」という枠組みは正しい、と思っている前提を(これがあるからこそ、つまらないことで腹を立ててしまうわけですから)いったん保留することにします。「こうあるべき」を保留して、セルフイメージを変更するわけです。それが「忍辱(六波羅蜜のひとつ。くわしくは『インターネット持仏堂1』をお読みください)」へとつながります。「忍辱」の本質はトレランス(許容)です。相手を許す。怒らない自分を受け入れる。そのあたりにヒントがあると思います。まあ、ウチの家人に言わせると「あんたには言われたくない」ということになるのでしょうが。
※本来、「観」は「止」を前提として修せられるのですが、この場合はちょっとした日常への活用としてお話させていただいております。


※持仏堂開門延長のお知らせ:10月末で一旦閉門させていただきました持仏堂ですが、ご要望におこたえして延長させていただく運びとなりました。どうぞお気軽にご利用ください(釈)。

2005年11月28日

質問26 どうしてあれが「のど仏」?

Q:
喉のあたりにある骨のことを、なぜ「喉仏」と呼ぶのでしょうか?
変声期の頃、いきなりゴロゴロ出てきますよね。あれ。
一般的な男性諸氏の場合には、ぼこっと、ふぉっと、喉が、腫れあがるかのように大きくなることもあるようですが、ともあれ、「なぜに仏?」というのが、最近ますます信心深くなっているわたしの疑問です。

匿名希望

A:
匿名希望って…。「NAGAYA」見ればすぐわかっちゃうんですが…。
でも「最近ますます信心深くなっている」なんて、いい感じ~。
「のど仏」って、欧米じゃ「アダムのリンゴ」とか言いますよね。確か、咽頭にある左右の翼状とその前方にある突起状の「軟骨」を併せて「のど仏」と言うのが、いつしかのどの隆起を「のど仏」というようになったのではなかったでしょうか。このあたりは、機会があれば、同じNAGAYAの住人であるドクター佐藤に聞いてみます。
今まで、何度か火葬したお骨を拾う「お骨上げ」に立ち会っておりますが、確かに咽頭部の骨がきれいに「仏さまが華座にお座りになっているような形」に残るときがありますよ。「おお、まさに、のど仏!」と感心したことが数度あります。
というわけで、「咽頭部分にある仏像(座像)のような形をした軟骨」=「のど仏」から、のどの隆起を「のど仏」というように転化した、というのが私の仮説です。間違っているかも。

以上釈先生からのご回答でした。
ドクター佐藤にはただいま問い合わせ中であります。少々お待ちを(ウチダ)

はい、お待ちどうさまでした。そのドクター佐藤から専門的コメントがありましたので、コピペさせていただきます。ドクター、せんきう。

釈先生、大家の内田先生こんにちは。佐藤です。
「のど仏」の事ですけど、正式には「甲状軟骨」といいます。
さて、「甲状軟骨をどうして『のど仏』というようになったか」ということですが、正直に申し上げてよくわかりません。わたしは生きている人間、それもとびきり生臭い方が専門でございまして、尊い仏様のことはあまり存じ上げないのです。でも、医者というのは学校の先生と同じで、あまり大手を振って「ぼく、それわかりませーん」とは言えない因果な商売であります(って、どうどうと言ってますけど)。そこで、こっそり調べてみました。
『ステッドマン医学大辞典改訂第5版』(メジカルビュー社)をあたりますと、「のど仏」という項目はありませんでした(あたりまえですね)。大学の図書館で調べるのも途方もない作業になりそうなので、インターネットで検索をかけてみました。そうしたら、いろいろ分かってきました。ひとつは、釈先生がおっしゃっるように、甲状軟骨が仏様のお座りになっている姿に似ていることから来ているという説があるようです(さすが!)。
もう一つ興味深く思った名前の由来は、軸椎(Axis, 第二頸椎)が前から見るとやはり、結跏趺坐(けっかふざ)した仏陀に似ていることから、舎利の中のそれを、喉の骨と信じたという説があるようです(『骨の逸話』(国分正一東北大整形外科教授)より。
(http://www.ortho.med.tohoku.ac.jp/honenoitsuwa/hone_axis.html)
 少しでもお役に立ったら嬉しいのです。それでは失礼します。

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