Q:
お経はこぶしのきいた“ええ声”で読める方がいいのですか?
(京都・「カオリとマリ子」)
A:
お、岡けん太・ゆう太ですな。カオリさんとマリ子さんは実際に「ええ声~っ」のお経を聞いたことがありますか? なかなかのもんですよ。機会があれば、ぜひ一度聞いてみてください。
「お経を読む」という行為は、お経に書かれている思想性よりも、儀礼的要素が強いわけですから、見事な読経を聞くと全身が震えるほど宗教性が揺さぶられます。そもそも演歌などの「こぶし(小節)」は読経の節回しからきています。そしてこの読経の節回しはアジアの広範囲で確認できます。先日、モンゴル僧の「倍音声明(響きを重視した声明)」を聞きに行ってきたのですが、それはそれはありがたかったです。
お経は仏教の思想書であると考える人にとっては、ええ声であろうが汚い声であろうが、あまり気にならないのかもしれません。でも、宗教における儀礼の重要性を大切にしたいと考えている私にとっては、こぶしのきいたええ声での読経は憧れです。なにしろ、私、先天的に音痴なのです。ゆえに、ええ声でお経を読む人に対してインフェリオリティ(劣等感)コンプレックスがあります。
昔、法然上人のお弟子さんで、住蓮坊や安楽坊という人などは、ものすごくええ声のお坊さんだったそうです。それで、この人たちがお経を読むと、その美しさに感動して大勢の女性が入信したといいます。いやぁ、ほんと、私からみれば夢のような話です。
以上、釈住職のお答えでした。内田からもひとこと。
「声の力」ってほんとうにあります。
来週の『現代霊性論』のネタのひとつなんで、ここであまり書いちゃうと来週話すことのネタがなくなっちゃうので、「さわり」だけ。
人間がどうして「声帯の振動」を主たるコミュニケーション装置に採用したのか?という問いを考えたことがありますか?
筒井康隆のSFに『関節話法』というのがあります。
肘や首の関節をコキコキ鳴らすことでコミュニケーションをする星の話。
これは「あり」ですね。
可能性としては。
実際に「手話」というのは、かなりの正確さでメッセージを伝えることができますし、視覚的な記号表象だって使い勝手は抜群です。
ではどうしてあえて「声帯」を使うようになったのか?
「声帯」というのも、実は変な言い方なんですね。だって、「声」というのは気管の通過音や口腔内の空気振動をコミュニケーションにつかうようになった後でできたことばですから。
「縄文時代の世田谷区民」というか「ビートルズって、髪型、ビートルズ・カットですね」みたいな「あとからできたもので前からあったものを指称する」さかさまなことばづかいです。
それは、口腔の空気振動を受け取った人の身体が、振動にダイレクトに「共感」するときに「あること」が起こる・・・ということを動物としての人間は太古から熟知していたからだと思うんです。
で、何が起こるかというと・・・
その話はまた来週。