Q:
お堂が開いている内に。駆け込みです。
腹を立ててばかりいるのですが。それも実に下らない事に。ウチダヒャッケン先生も何かと癇癪起こしたようですが。怒りのパターンが似ているようです。
下らない事で家人を声を荒げて罵倒するなんて自分でもうんざりなのですが、止まらない。かえっていつも機嫌良くしてる人のが、胡散臭いと思います。
自分を改善したいわけではないのは困ったものですがせめて人にあたる事をやめる方策はあるやなきや。 駆け込み人より
A:
実は私、かなり短気な性分です。
そのことをよく知っている家人などは、私がお檀家さんなどに対して温厚な雰囲気で話をしていたりすると、後で「この偽善者」などとなじられたりします。大学の講義においても、かなり厳しく注意します。注意する、というより、暴れる、に近いときもあるので、学生が事務室に苦情を申し立てたことさえあります。ずっと体育会系だったんで、その体質がなかなか抜けないということもあるのですが。受講態度が悪い学生に対して怒ることができるのは講義に情熱がある証拠だ、などと勝手な理屈ももっていたんです。ところが…。
あるとき、ちょっとしたことさえ許せなくなっている自分に気づきました。
そうなんです、「腹を立てる」というのは、クセになるんですね。しかも、発火点が知らないうちにどんどん低くなってしまいます。怒りが怒りを誘発して、いちいち目くじらを立てるので、自分自身もえらく苦しくなってきます。自分の許容閾値がえらくせまくなっていることを自覚して、少々反省しました。というわけで、昨年からちょっと方針を変更して、あまり細かい注意をしないようにしております。いつまで続くかはわかりませんが。
仏教では「怒り」を三毒のひとつとして語ります。三毒とは人間の苦しみを生み出す三大原因のことです(ちなみに残り二つは「貪欲(過剰な欲望)」と「愚痴(ものごとのメカニズムがわからないこと)」)。ですから、古来、さまざまな「怒りをコントロールするトレーニング」が語られてきました。たとえば「観」という瞑想があります。「観」は「止」と違って、日常の活動をしながらでもできる瞑想です※。
どうやるのかと言いますと、自分の動きを心の中で(あるいは口に出して)実況中継するのです。
たとえば、子供がちらかしっぱなしのモノなどを「駆け込み人」さんが片付けているとします。その動作をいちいち言葉にして再確認します。「右手、本をつかみます、つかみます、つかみます…。右手、本をつかみました、つかみました…。今、息を吐いています、吐いています。吸いました、吸いました…」といった調子です。当然、当初はえらくゆっくりにしか動けません(笑)。でもそのうち、自分の全身の感覚が敏感になってくることを感じるはずです。そのように自分を観じていくトレーニングによって、「怒り」や「貪り」が起こりにくくなってくる、という仕組みです。
あるいは、かっとなったときに鏡で自分の顔をじっと見てみる、なんてのもお手軽な「観」かもしれません。
また、仏教に限らず、いろんな宗教で「もし、あなたが一週間後に死ぬとしたら、きっとつまらないことで怒鳴ったり悪態をついたりしないでしょ」ということを説きます。かつてテレビ朝日の「ニュースステーション」で、「最後の晩餐」という企画がありました。「もしあなたが明日死ぬとしたら、今晩何を食べますか」という問いに、ゲストが答えるというものです。これ、わりと面白かったです。
だいたいどの人もあまりたいしたものを食べたいと思わないみたいですね。「死んだ母の玉子焼き」とか、「子供の頃、疎開先で食べたイモ」とか、そんな話が多かったようです。これなども「死を思うトレーニング」のひとつです。
自分の死をリアルにイメージすれば、自分にとって本当は何が大切なのか、何がいらないものなのか、が浮かび上がってくるかもしれません。少なくとも、現状よりは寛容な人格へと展開することになると思います。まあ、しょっちゅう「死」について考えていたら社会生活ができなくなっちゃいますが、たまにそういうイメージトレーニングをやってみることも、「せめて人にあたる事をやめる方策」になるんじゃないでしょうか。
さらには、(「質問18」にもお話しましたように)「むかっ」とくる第一の矢は受けても、「怒鳴る」「まわりにあたる」という第二の矢は受けない、というセルフイメージを描いてください。
今は、つまらないことでも怒らずにはおれない自分、というセルフイメージを知らないうちに描いてしまっているはずです。だから、うんざりしているのに止まらない。そして、自分の「こうあるべき」という枠組みは正しい、と思っている前提を(これがあるからこそ、つまらないことで腹を立ててしまうわけですから)いったん保留することにします。「こうあるべき」を保留して、セルフイメージを変更するわけです。それが「忍辱(六波羅蜜のひとつ。くわしくは『インターネット持仏堂1』をお読みください)」へとつながります。「忍辱」の本質はトレランス(許容)です。相手を許す。怒らない自分を受け入れる。そのあたりにヒントがあると思います。まあ、ウチの家人に言わせると「あんたには言われたくない」ということになるのでしょうが。
※本来、「観」は「止」を前提として修せられるのですが、この場合はちょっとした日常への活用としてお話させていただいております。
※持仏堂開門延長のお知らせ:10月末で一旦閉門させていただきました持仏堂ですが、ご要望におこたえして延長させていただく運びとなりました。どうぞお気軽にご利用ください(釈)。