Q:
聖書の「汝の敵を愛せよ」は、仏教的にはどう考えればいいのでしょうか?
聖書的にもよくわかってないのですが。
(Y原)
A:
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書)
キリスト教では「汝の敵を愛せよ」を軸とした隣人愛は、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれています。まさにこれに勝る愛の概念はないであろうと思われる「究極の愛」です。今後、どれほど人類の歴史が続こうとも、これ以上の愛はないでしょう。この一点だけでも、キリスト教が人類にもたらしたものははかりしれません。
さて、ここで語られている「愛」はアガペーの邦訳なのですが、よい訳とは思えません。「愛」はもともとあまりいい意味の用語ではなく、執着心を表します。もしアガペーに適合する日本語を探すなら、それは「慈悲」です。
そして「慈悲」はもちろん仏教の中心概念です。「慈悲」は「慈」と「悲」、二つの意味が合わさってできた理念です。「慈」はサンスクリット語のマイトリーを訳したもので、真の友と接するようにすべての生きとし生けるものを慈しむこと。「悲」はカルナーで、悲しみ苦しみうめく様です。ともに泣き、ともに苦しむ心を表しています。
また、仏教には「一子地(いっしじ)」という言葉があります。
「あたかも母が、おのれが独り子を、命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものたちに対して、限りなき慈しみのこころを起すべし」(『スッタニパータ』)
「平等心をうるときを一子地となづけたり
一子地は仏性なり安養にいたりてさとるべし 」(親鸞)
唯一のわが子に対するがごとく、慈悲の心を起こすということです。
こうして考えてみますと、キリスト教の隣人愛にしても、仏教の慈悲にしても、ほとんど実践不可能なものすごい覚悟が必要なことがおわかりでしょう。「そんなもん、実際にはできまっかいな」という気になりませんか? 確かに実行は困難ではあります。が、少なくともそちらへ向かって歩もう、という方向性をもつことは可能です。まるで水平線に向かって石を投げるがごとく、むなしく力及ばない行為ではあっても、その方向を向く。とにかく、まずは、身近な人に対して慈悲の心で接しよう。それが仏教の説くところです。
内田からもひとこと。
「汝の敵を愛せよ」の「愛」の意味について釈先生はお書きになっていましたので、私は「敵」の意味について書いてみたいと思います。
「敵」って何のことだと思います?
戦争とかサッカーの試合とか派閥抗争とかだと「敵味方」ははっきりしてますから、そういうものをベースにして敵という概念を考えがちですけれど、「敵」ってそういうものには限られないんじゃないですか?
例えば、一流のアスリートは専属のトレーナーとか栄養士とか通訳とか弁護士とかPRマンとかしたがえた「チーム」で行動しますね。
これは筋肉痛がしたり、栄養が偏っていたり、ことばが通じなかったり、契約関係でもめたり、メディアでスキャンダルが暴露されたりした場合に、実際にアリーナで「敵」とまみえるより前に、発揮できるパフォーマンスがあらかじめいちじるしく損なわれるということを意味しています。
ですから、こういう「チーム」を引き連れて、パフォーマンス発揮を阻害する要因をあらかじめ排除してアリーナに臨むアスリートと比べた場合、誰のサポートもなく、自分ひとりで全部処理しなければならないアスリートは、競技が始まるより前にすでに大きなディスアドバンテージを負っていることになります。
もし、「敵」というのを「パフォーマンスの最大化を阻止するファクター」というふうに機能主義的に定義すると、「敵」というカテゴリーには、「加齢」とか「ウイルス」とか「契約のもつれ」とか「家庭不和」とか「スキャンダル」とかいろいろなものがカウントされることがわかるはずです。
つまり、私たちが「敵味方」スキームでとらえて「敵」だと思っているものは、私たちのパフォーマンスの最大化を阻止する無数の要因のうちで、「私たちにいちばん近しい存在」のことなのです。
だって、そうでしょ?
同じルールに従って行動する、同じタイプの、同じ価値観の人間じゃないと、同じアリーナには立てませんからね。
私たちが因習的に「敵」と呼んでいるのは、私たちの行動と可能性を制約するもろもろのファクターのうちで、いちばん「与しやすい」ものなのです。
なにしろ言葉が通じるんですから。
あなたが敵だと思っているもの、それはあなたを不幸にしかねないさまざまな素因のうちで、おそらくもっとも無害なものである。
私は「汝の敵を愛せよ」ということばをそんなふうに解釈することもできるのではないかと思っています。
武道では「天下無敵」といいますが、これは「天下のすべての敵を殲滅したので、敵がいない」という意味ではありません。
「敵を作らない」ということです。
それはべつに「敵」にへいこらするとか、そういう意味ではありません。
「目の前にこういう阻害要因が出てきた」という事実を含めて「私」のアイデンティティを引き受けると、それはもう「敵」ではなくて、「私の一部」であるという自我イメージの切り替えのことを言います。
「私の一部」というか「私の欠点」というようなものですね。
そして、人間は「自分の欠点を愛する」ということについてはたいへん勤勉なものなのです。