Q:
教えてください。
仏教では煩悩なんてことを言いますね。煩悩の中には「欲望」があるんですよね。その「欲望」と、「祈り」や「願い」とは違うものなのですか?
好きな人に会いたい、大事な人の病気が治って欲しい、商売繁盛家内安全天下泰平。
色んな願い事があり、色んな事を祈りますが、それらの元を辿れば、すべて自分の欲から出ているものではないでしょか?
祈りも願い事もすべては「欲望」ではないのですか?
私には今、願い事があります。願いが叶って欲しいと思っています。自分ではどうしようもないので、仏や神にすがって叶えて欲しいとお願いしたいのです。
「欲するものは手に入れられる」とか「強く願えば、願いは叶う」とか言う人がいます。本当でしょうか?
強く願う程、欲望を増大させているような、いけない事をしているような気になってしまいます。
(ペンネーム・みかずき・女・40歳)
A:
仏教の語る「煩悩」とは、悟りへの道を妨げるものを指します。ですから、「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように」とか、「すべての世界が平和でありますように」といった、自己中心的でない願いや祈りは煩悩ではありません。
そもそも煩悩とは、文字通り「私を悩み煩わせるもの」ですから、苦悩を生み出す原因です。心身の平安と静寂をもたらすものは煩悩とは呼びません。つまり祈りや願い事はすべて欲望(欲求)である(欲求と欲望の違いは『インターネット持仏堂』をごらんください)ということは可能でしょうけど、すべてを煩悩とするわけではありません。そしてその判断基準は、自我を起点としたお願いかどうか、ってことです。
「強く願えば欲するものは手に入れられるというのは本当か」と問われれば、「本当ではありません」と応えざるを得ません。もちろん、強く願えば手に入れることができる可能性は飛躍的に上がるでしょう。でも、どうしようもないことは、やはりどうしようもない(ひどいトートロジーやなぁ)。生きるということはそのような解決不能の苦しみを引き受けていくことである、それが仏教の知見です。みかずきさんが、「強く願う程、欲望を増大させているような、いけない事をしているような気になる」という感性は、すごく仏教的だと思います。そのリミッターがある限り、みかずきさんは大丈夫です。
さて、現在、みかずきさんには、どうしてもかなえたい願い事がおありのようです。そこで、それがかなうかどうかはともかく、それをかなえようとするプロセス自体を楽しむ、というような方向へと転換してみてはいかがでしょうか。ちょうど、タイムレースから、お散歩へと転じるようなイメージです。
もしかしたら、すごく深刻な願いで「なに気楽なことを言っとるんじゃ」とお怒りかもしれませんが、自分自身の認識を転換するところから仏教は始まりますので、私が応答するとどうしてもこのようになります。
ウチダからもひとこと:
ペンネーム、うっかり「みずかき」と私は読んでしまいました。
わお、なんというシュールなネーミングだろうと感動したのですが、「みかずき」だったんですね。
私の師匠は「ウチダくん、強く望んだことは実現するよ」とおっしゃっておられましたので、それを聴いてからはずっとなにごとも「強く望む」ようにしております。
「強く」というよりは「具体的に」ということなんですけれど。
例えば、ぼくはいま合気道の道場が欲しいと思っているのですけれど、ただ「道場が欲しい」と念じるだけではなくて、具体的に道場の間取りとか、年間行事予定とか、稽古指導の分担表とか考えています。
すると、まわりの門人たちもだんだんその気になってきて「先生、道場のロッカーに私物を置いてもいいですか?」とか「車停めてもいいですか?」とか具体的なことを訊くようになってきました。
こうなると道場ができることはもはや既成事実で、あとは「いつ」という時間の問題だけ、というふうに思えてしまいます。
そうなると、今度は道場ができたあとに起きるさまざまなやはり具体的な問題(固定資産税の支払いとかトイレの掃除は誰がするのか、とか)のことを考え出すようになります。
そんなを考えているうちに、何となく「道場があるのも善し悪しだわな」というような気分になるから不思議です。
つまり、欲望が実現された状況を細部まで具体的に想像しているうちに、欲望そのものがいつのまにか鎮静してしまう。
「好きな人と会いたい」にしてもそうです。
「好きな人」と仲良くなるプロセスを具体的に細部にわたり想像しているうちはけっこうわくわくしますが、やがて新婚の日々も去り、十年経ち三十年経ち、ともに白髪の生えるころに縁側で渋茶を飲んでい老夫婦の会話などを微細にわたって想像していると、「まあ、いろいろあったけれど、この人じゃない人とだったらまた別の人生があったかも・・・」などと考え、やけつくような欲望も気づくと消え失せている・・・というようなことがあります。
具体性を欠いた「記号的な欲望」は危険なものですが、「具体的細部まで熟知された欲望対象」はそれほどの実害をもたらすことはありません。
こういう想像力の使い方はあまり薦める人がいませんが、すぐれた欲望鎮静作用があると思います。