Q:
ひとの色気って何ですか?色気がないので困っています。
(あくまで匿名希望・29才女性)
A1:
アオヤマ先生からのご回答:
内田樹先生の長屋で、いつも髪を振り乱しているアオヤマと申します(ペコリ)。
ピーターは夜と朝の間に~と歌いましたが、アオヤマは三十路と四十路の間におります。団鬼六先生あたりなら、まだまだ小娘とおっしゃるかもしれませんが、いろんな意味で脂ののりだした30代。関西で言うなら、ツバス →ハマチ →メジロ →ブリとなる出世魚になぞらえると、20代がツバス、30代がハマチ、40代がメジロ、50代がブリといったところでしょうか。それ以上になると、これまたいろんな意味で煮ても焼いても食えない…と言うか、見ているだけでお腹一杯ですよね。いや、魚の話ですが。
さておき、色気ってなんでしょう。大衆色気論のオーソリティである『アサヒ芸能』でいうと、「えっちなことを妄想させて下半身をうずうずさせる性的フェロモンみたいなもの」でしょうか。おそらく釈先生から仏教においてのありがたく為になるお話がでると思いますので、アオヤマは大船が風を避けてくれた後ろを付いて回るはしけのように、カジキのおこぼれを狙うコバンザメのように、もそもそと無責任に放銃してみたいと思います。てか、果たしてアタリ牌なのか?って感じですが…。
と言いながら、実はアオヤマは色気がどういうものかそんなに深く突っ込みたい気はありません。なぜなら、色気の効用はぶっちゃけで言うと「do」か「don't」という単純至極な気がするからです。生物学上では重要ですが、人生においては最重要でもないし。しかし、この色気をめぐる世界となると、アオヤマにも興味があります。色気の効用のシンプルさに対し、色気を取り巻く世界は複雑怪奇で意味不明で興味津々。それはおそらく色気というものが、文字通り気配というか「気」なので、目にも見えないし実体もない。だからこそ、激しい攻防戦(なんの?)や悲喜こもごもが誘発されるワケではないかとドキドキわくわくします。
例えば、大阪でいうと北新地のような夜の街になぜオッちゃんは惹きつけられるのでしょうか。それは、そこに何もないからです。いや、キレイなおネエちゃんはいます。が、しかし、考えてみてください。八百屋にお金を持っていけば、大根や人参に交換してくれます。マクドナルドに行けばシェイクやチーズバーガーにお金が換わる。けれども、北新地にお金を持っていっても、その何十分の1かの(いや、何百分の1の場合もありますが)ブランデーやピーナッツに換わりますが、その残りの大半は何にも変わらない。いや、楽しいお喋りや合唱に換わるというオッちゃんもいるでしょう、ほら、そこのアナタです。けれども、それもご機嫌な気分であり、その気分は単なる実体のない時間です。ご機嫌な気分は「いつかお金が女の子の肉体に換わるかもしれない」という仮定に基づいています。けれども、この際(どの際なんだろう)はっきり言いますが、それはもはや仮定ではなく妄想です。残念ですが。
さて、北新地で一番値段が高いのは、レミーマルタンでもええ鮨屋から出前してもらった上にぎりでもありません。それは、隣に座って楽しいと思う、そして下半身をうずうずさせる、女の子から発散される色気に包まれた実体のない時間です。なぜならば、先ほど申しましたように、それはもはや妄想のような(仮)の十乗のような時間であり、その物語は何人たりともきちんと数値化することはできません。いえ、本当はそんな意味不明な時間を数値化できる権利を持っている人がいます。それが「ママ」なのです。ママがアナタは5万といえば5万。もし吉田さんは2万、といえば2万。理論もへったくれもありませんし、全く理不尽な話です。しかし、ママというのは、ミダス王のように触れるものみな「金(カネ)」に換えることができます。だから、みんなヘルプから口座持ちを目指し、チーママとなりママを目指すワケです。えーと、専門用語がわからない人は「乱れ髪アオヤマブログ」に直接質問しにきてください。或いは、会社のブチョーさんに尋ねたら嬉しそうに教えてくれて、運が良ければ社会見学に連れて行ってくれるかもしれません。
話が逸れましたが、さらに不思議なのは、こうした夜の街では高級品だから高値が付くというよりも、高額品だから高級品と認識される。例えば、「座って5万」という高い値が付くクラブなどでは、商品(女の子)そのものがどうであれ、その高い請求書によって、オッちゃんたちにとっての値打ちが上がる。バッグなら、革が良質で縫製も丁寧で…とそのバッグそのものの材料費や工賃などがあって定価が決まる。普通はこういう論理ですが、北新地のクラブは逆で、ママが座って5万の店を営業したいという目論見があって、それに適当に見合わせた商品(女の子)と飾る空間(フロア)が用意される。これは、似て非なる構造に私には思えます。そして、さらにその核となる商品価値というのは「色気」という実体不明なものに裏打ちされている。もー、なんだかなーです。
ていうか、アンタの話がなんだかなーで「色気」の説明になっていないじゃないか、と「あくまで匿名希望」さんはお怒りになっているかもしれません。そして、アオヤマの話はワケがわかんないしどうでもいい話ばかりじゃないか、と思われるかもしれません。しかーし、アオヤマが言いたいのは、色気なんてそんな結構どうでもいいもんなんじゃないかということです。もし、お困りの理由が生殖のことであるならば、色気以外にもまだまだ手はありますし、生殖のことでないならば、差し迫った危機ではないように思われます。
そして、繰り返し申し上げたように、色気というのはこれこれこうしたもの、ではなく、それを色気と感じる人がいれば色気となるという正体不明のものですから、「あくまで匿名希望」さんには本当はあるかないかはわからないものである、ということです。だから、あると思えばある。100人のうち99人はないと思っても1人があると思えば「あくまで匿名希望」さんの色気は実在するのです。
最後に、アオヤマから一言アドバイス申し上げるならば…
「ないと思うな思えば負けよ~」(美空ひばり『柔』調でお願いいたします)。
A2:
い、色気ですか…。なんでそんなこと、私に聞くのでしょうか、この人は。この手の応答は、内田先生が抜群の切れ味を持っておられるのですが…。
ん?「色気」っていうくらいですから、「気」に色がついているんですよね。ああ、そんならわかります。確かに「気」に色がついている人はいます。それはいくら朴念仁の私でも、感じます。
この場合の「気」というのは、その人の醸成する雰囲気や、身体的な知性や、言語の使い分け、立ち振る舞いなどなど、さまざまな要素を指します。そのような要素を含めて、自ら発している「気」に意識的な人と、鈍感な人がいますよね。鈍感な人は、やはり「気」に良い色はついてないように思えます。
仏教では、三業(さんごう)といって「身業(身体的営為)・口業(言語的営為)・意業(精神的営為)」の三要素への意識を重視します。そのあたりから類推して、おそらくこの三つの要素を過剰にすれば「気」に若々しい「色」がつき、抑制すれば「気」に深みのある「色」がつくんじゃないでしょうか。大雑把な話で申し訳ないですが。
いずれにしても、自分自身の「気」に対して意識的であることが大切でしょう。私たちは、知らず知らず周囲に悪い連鎖を起こすことも稀ではありませんから、そのあたりのコントロールが必要です。つまり、自分を構成する要素とその連鎖に対して意識的じゃない人は、色気がないということですよね、きっと。あら?ということは、<あくまで匿名希望さん>のように、色気について「ないから困った」と意識し始めた時点で、すでになんらかの色合いが香りだしていることも考えられますねぇ。セクシャリティに直結するような色気かどうかは別にして(あはは)、<匿名さん>は、わかる人にはわかるといった類のマニア的色気が出てるんじゃないですか。
A3:
え~と、こんにちは。ウチダです。
釈先生が「ウチダがこういうことには詳しい」とおしゃっておりますけれど、これは釈先生の勘違いでありまして、私はこういう方面のことはぜんぜんわかりません(北新地のバーも銀座のバーも行ったことないし)。
というのも20代のころ、一度だけ新宿のちょっと凄いバーにお金持ちのおじさんに連れて行ってもらったことがあって、そのときの経験がトラウマとなっているのです。
このバーはママが一人馬蹄型カウンターに入っているだけの小さなお店でしたけれど、そのママの「術」が凄いんですね。
私はもちろん端っこの方に場違いに座って、「んじゃ、水割りください」みたいにおどおどしていたわけですが、このママが「にっこり」笑うんですね。その笑顔が「彗星の尾」のようにすうっとカウンターの上をゆっくり消えてゆくんです。
ママが向こうを向いて立ち去ってもまだ「ほほえみ」だけが残っている。
その「笑み」が「・・・気になるのは、あなただけよ」と言ってるわけですね、これが。
他のお客のお酒をつくり、話し相手をしているときも、必ず定期的に私の方に視線を戻して、「待っててね」というシグナルを送ってくるんですね。「このお客さんの相手を終えたら、すぐそっちに行くから、帰らないでね」というメッセージがほとんど「ふきだし」になって出てくるわけですね。
いや~、私はぼおっとなってしまいました。
もう、このままこのママと(おっと韻をふんでしまった)どこか遠くの街へ逃げてしまいたいと思ってしまったほどでした。
そのとき、私を連れて行ってくれた件のおじさんがにやにやと私の様子を見ているのに気がついて、ようやく我に返りました。
たぶん私の目は「ハート型」になっていたんでしょうね。
このママとはそれから半年くらいしてから、別のところでばったり会いました。
すっぴんだったので、私はまるで気がつかなかったんですけれど、「ウチダさん、でしょ?」と言われて「え・・・と、どこでお会いしましたっけ?」と不得要領な受け答えをしてしまいました。
驚くことに、まるでふつ~の「おばちゃん」でした。
そのときにはじめて「術」の世界の奥の深さを知ったのでした。
というわけで、質問の<あくまで匿名希望>さんにお答え申し上げますが、「色気」は技術です。
技術である以上、天性ひとにすぐれた方もおられるでしょうし、努力によって後天的に体得することも可能です。
そして、マニュアルもあります。
今日は一つだけヒントを差し上げましょうね。
それは「私はすでに求愛者に囲まれていて、ちょっと困っているんだけれど、でも、どうしてもっていうなら、あなたを選ぶことにやぶさかではないのよ」という「圧倒的にそっちが有利な状況設定」をまるで「あなただって、そんなことはわかってるわよね?」という自明の前提として話をスタートするということです。
色気は美醜とも知性とも感受性とも、ぜ~んぜん関係ありません。
タクティクスです。
はなっから圧倒的に自分に有利な初期設定で「おはなし」を始めてしまう断固たる非現実性のことです。
もちろん、そのタクティクスにひっかかる人がぜんぜんいない場合には「関係妄想」とか「統合失調」とか蔭で言われるリスクはつねに伴うわけですが・・・
なんとなくアオヤマさんの結論と似てますね。
コメント (1)
釋せんせの慄きもよろしいが内田せんせのタクティクスも面白いですね。でも、私としては自他の境界が脳内で崩れている状態を「色っぽい」というのではないかと。
その意味で親鸞さまって「色っぽい」と思うのですが…?
投稿者: nazunayh | 2007年02月21日 12:04
日時: 2007年02月21日 12:04