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2007年03月 アーカイブ

2007年03月13日

質問・53 本心って何でしょう?

Q:
初めておたよりします。人生相談的なものに相談するのははじめてで、すこし緊張しています。
先日、友人から、本心を言っていないと指摘されました。
思ってないことはなるべく口に出したくない、と思っているので、心外だったのですが、きっとそう友人に言わせしめる何かがあったのだとは思います。
でも、本心って、なんだろう?と思ったのです。
日々うずまく胸の内だか頭の中のどれを口に出せばいいのか、わかりません・・・
そうか、友人から何かのサインを読み取るべきだったのでしょうか。なんとなく、声の調子で、本音を言ってるとか言ってないとかわかるもんだと思っていたのですが、考えてみれば、確かめる術はないわけで、単なる思い込みかもしれませんね。
考えても仕方ないと思いつつ、迷走しはじめてしまいました。
他者に橋を架けるのが本当に難しいです。なにをご相談したいのかわからなくなってしまいました。すみません。
(ペンネーム エビコ 30歳)

A:
私も他者とのコミュニケーションがうまいわけじゃないので、おっしゃりたいことはだいたい理解できます。「思ってもいないことを口に出すのは抵抗がある」という姿勢も共感できます。
ええと、まず、エビコさんの友人はなぜそのような指摘をしたのか、友人の意図を二パターンほど考えてみました。
①私が望んでいるのはそんな関係じゃない、という希求。
②そんなことでいいのか、というあなたのコミュニケーション能力への苛立ち。
もしかしたら、まったく話が逸れてしまっているかもしれませんが(当事者しかわからないことっていっぱいありますから…)、一応この二つの場合を想定してお話しますね。今回は「本心とは何か」という問題はいったん保留しましょう。

①の場合、「エビコさんの友人はどのような関係を求めているのか」と「エビコさんがそのニーズに応えようとするのかどうか」ということがテーマとなります。
おそらく友人は、「弱みを共有できる」とか「共犯関係」といったものを求めていると思われます。だから、相手はあたりさわりのない話をするエビコさんに対して抗議したわけです。 
そこで、エビコさんがこの人と濃密な関係を望なら、自分の暴露話をしなければなりません。通常は隠しておくようなネタを披露しなければ弱みを共有する関係になりませんので。こちらが「弱み」を提供すれば、相手も暴露話を始める、というやりとりを行う過程を経て共犯関係は成立します。
エビコさんが、この友人とはそんな関係になりたくない、と判断するなら、相手がどう思おうとあたりさわりのない雛形トークに終始することです。そして、それは非難されるべき態度ではありません。
で、実は第三の道があります。それは、「本音じゃないのに本音トークにみせかける」というテクニックです。これ、大阪人がよく使う手法です。いわゆる「自虐的要素をもったネタ」を話すのです。大阪人は男性も女性も大人も子供も、この手法で距離感を縮めることをひんぱんにやります。「告白のようでありながら、あくまでネタ」、という高等テクニック(!?)。これもひとつの選択肢だと思います。

②の場合、お勧めポイントを今回は二つだけ。
ひとつは、エビコさんが発するメタ・メッセージの問題です。
相手は、エビコさんの言っていること(バーバル)だけじゃなく、その仕草・表情・手の動き・視線などからさまざまな情報を得ています(ノンバーバル)。そこで、話す内容ではなく、語調・話す速度・抑揚からノンバーバルの領域までを含めて、自分のコミュニケーション・スキルを一度点検してみるといいんじゃないでしょうか。メタ・メッセージの部分に注意してみると、たとえ発話しているメッセージは同じでも、相手が受ける印象はずいぶん違ってきたりします。
同時に、エビコさんも相手のメタ・メッセージを読み取る能力を高めなければならないということでもあります。これはご自身でも気づいておられる通りです。

もうひとつは、自己イメージの問題です。よく対人関係理論等で言うように、相手に自分を開放すれば、自分のことが良くわかるようになります。逆に言えば、自分のことを理解する領域が増せば、相手に開放する部分が拡大するということでもあります。もしかしたらエビコさんは自分のことが意外によくわかっていないのかもしれませんよ。あるいは自己イメージが未熟なのかも。
さて、では、どうすれば自己イメージが成熟するのか。ここで仏教の手法を活用します。
仏教の認識論では、私たちは自己イメージを対象に投影していると考えます。つまり、自分を理解するには自己点検もさることながら、他者の観察が大切だということです。なにしろ自分の投影なのですから。自分とよく似たタイプの人をじっと観察する。自分とまったく違うタイプの人をじっと観察する。「ああ、あの人、あの場面ではあのような行動をするんだ」「自分とは違うなぁ」「自分とよく似てるなぁ」などと、観察します。さらに、ときどき自分と違うタイプの人をマネてみるのも良いトレーニングです。やってみると、意外に「自分でもこういうのができるのか」とか「やっぱり、こういうのは向いてないなぁ」とか、いろいろと自分を知ることができます。
そして仏教では、さらに「なぜ私はあの人を自分と同じタイプ(違うタイプ)と判断したのだろう」という分析へと展開し、自他の虚構性に目覚めていくわけです。
まあ、「そして仏教では、さらに」という部分はひとまず措いておくとして、まずはこの二つを実践すると、エビコさんの対人関係の守備範囲はぐっと広くなります。

はい、釈先生いつもながら希望のもてるアドバイスでしたね。
こんにちは、ウチダです。
この質問は私にとってもひとごとではありません。
というのも、私もまた人からしばしば「ウチダは本心を語らない」と言われることがあるからです。
けれども、それは決して「本心を語ってくれ」という方向には向かいません。
なぜでしょう?
それも当然で、常日頃から「私の話の半分は嘘です」と広言している上に、「私は邪悪な人間である」とカミングアウトもすませているからです。
そんな人間が「本心」を語った場合、その災厄はどれほどの範囲に及ぶことになるでしょう。
どれほどの数の人々が私の吐き出す「歯に衣着せぬことば」に生きる意欲を失うほどに傷つくことでしょう。
というわけですので、人々は「ウチダは本心を語っていない」という事実認知に続いて、しばしば(というかつねに)「お願いだから、今後も本心を語らないでくれ」という遂行的懇願へと移行するのであります。

ということからおわかりのように、釈先生もお書きになっていましたけれど、問題は「メタ・メッセージ」の発信の仕方にかかわるのです。
「メタ・メッセージ」というのは「メッセージの読み方を指定するメッセージ」のことです。
たとえば、「私は嘘つきだから、私の言うことは信用しない方がいいよ」といわれたらエビコさんはどうしますか。
「あ、そうなんだ。この人嘘つきなんだ。じゃあ、今後はあまり信用しないようにしとこ」と思いますよね。
ふつうそうですね。
でも、それだとこの「嘘つき」がこの場合に限って正直なことを言ったことになり、「私は嘘つきである」という本人の言明と矛盾することにはなりませんか?
「クレタ島人のパラドクス」というやつですね。
でも、これは「嘘つきの言うことは、これからあまり信用しないことにする」という解釈で正解なのです。
というのは、「自分が発信しているメッセージの解読の仕方に関するメッセージは、解読されるメッセージより上位にあるので、メッセージの内容に拘束されない」というルールがあるからです。
これじゃ、わかりにくいですね。
要するに、「メッセージの解読仕方についての指示において、人は決して嘘をつかない」ということです。
どうしてか知りませんけれど、これは経験的に真理なんです。
例えば、「あなた、浮気してるでしょ!」と妻に突然指摘された夫が「な、なにを言うんだ、突然に・・・そんなこと、してるわけないじゃないか。はは」とあたふたした場合、この「な、な」という台詞の噛み方や額に浮かぶ冷や汗やあらわな動悸などはすべてが彼のしどろもどろな発言が虚偽を述べていることを露呈させていますね。
この「驚愕」をあらわす身体記号の全体がメタ・メッセージなんです。
だから妻はそれを見て「あ、浮気してるんだ」とちゃんと理解しちゃうのです。
よく「かまをかける」ということを女性はされますよね。
あれは実際に語られることば(メッセージ)を受信するためではなく、どんなふうなノン・バーバルな身体記号(メタ・メッセージ)を発しながらことばを語るか、それをチェックするためにしているんです。
おお、テリブル。
メタ・メッセージにおいて嘘をつけるのは天才的な嘘つきだけですが、そのような人間は通常私たちの日常生活には出現しません(スパイ活動とか、株の仕手戦とか、そういうことばかりしているのですぐわかります)。
というわけで、私からのアドバイスはもうだいたいおわかりですよね。
お友だちはエビコさんに「あなたはメタ・メッセージの出力が弱い」と言ったのです。
ことばははっきりしていて、論旨明快なのだけれど、「それを言うことによって何を言いたいのか」が相手によくわからない。
だから、かりにエビコさんの発したメッセージが整合的で真情あふるるものであっても、謎めいて、狙いの知れないもののように相手には聞こえる、ということが起きるのです。
エビコさんに必要なのは、メタ・メッセージをちゃんと発信するということです。
「浮気夫」の場合のように、きちんと「あたふたする」ということですね。
妻にそう問い詰められた夫が「は?何ですか?キミはまた奇矯な言動をされますね」というようなことを遠い目で、白々とした表情で言われたら、妻だって立場がないですよね。
メタ・メッセージの発信法を具体的にお示しいたしましょう。
ここまでの私の書いた文章の中にいくつか「メタ・メッセージ」がちりばめてあるのがわかりましたか?
たとえば、十行ほど上の、「これじゃ、わかりにくいですね」というのは典型的なメタ・メッセージです。
「これじゃ、わかりにくいですね」という言明は、私とエビコさんと(今この書き込みを読んでいる釈先生やフジモトさんまで含めて)すべての人が「うん、わかりにくいよ」とうなずいて、誤解の余地なく共有できるメッセージです。
これがメタ・メッセージ。
メタ・メッセージを読んでいるとき、発信者と受信者は「同じプラットホームの上」にいます。
そういうことば(じゃなくて表情や口調やみぶりでもいいんですけど)をどれだけ対話の場に差し出すことができるか。
それがたいせつなんだと思います。
お友だちが「本心」ということばで言おうとしていたのは、その「ふたりで共有できること」じゃないかと私は思います。
はい。

2007年03月26日

質問54・正しい作法って

Q:
釈先生、いつも深く頷きながら拝読させてもらっています。
テレビでよく目にする有名占い師さんが、ずっと指南してきた「正しい神社へのお参りの作法」が間違っていたというニュースを読みました。その方は、男性は「二礼、二拍手、合掌、一礼」で、女性は「二礼、合掌、一礼」といい、「男性と女性のお参りのやり方は異なる」とのこと。女性は拍手をしないものだと多くの女性ファンが信じたそうです。でも、音を立てない拍手は“忍び手”で、葬儀の際の作法だとか。
そこで思ったのですが、「自信を持って間違った」作法での参拝は、どうよくないのでしょうか。宗教における「正しい作法(儀礼)」の大切さって、なんですか?
(練馬区 七星 27才)

A:
ふむふむ、細木数子さんの拍手に関する知識が間違っているという件ですね。各地の神社関係者から抗議が出ているそうです。細木氏やその他マスコミに登場している民間宗教者に関しては、内田先生とのセッション「現代霊性論」で詳述しています(民間宗教者というカテゴリーの定義もその中で話しています)。「現代霊性論」は、いつか文章化され、読んでいただける機会があるのではと思われますので、今回は後半の部分に中心に考えてみます。

宗教において、儀礼は非常に重要な構成要素です。教義・教団と並んで、三大要素のひとつに数えられることも多いです。それぞれの教団や宗派や流派では、それぞれが独自の儀礼体系を構築しています(教団や宗派に特定されていない部分は、その土地その地域の習俗・習慣に沿って出来上がっています。実は宗教儀礼においては、この部分がかなり大きいのですが、それはおいときまして…)。つまり、「正しい宗教儀礼」とは、同じ流れの中に属する人たちの間で共有されている了解事項だということです。ある意味、茶道や華道の作法と同じです。そして、その儀礼体系に沿った行為をするがゆえに、同じ共同体の一員として存在することができます。儀礼やエートス(行為規範)は共同体のバインドなのです。バインドと言っても、それは決して、現在の目に見える共同体だけではありません。これまでその儀礼を行ってきた数限りない死者と、これからもその儀礼を行うであろう数限りない人たちとつながることです。同じ不可知の様式を行為することによって、幻想は共有され、時空を超えたつながりが維持されるわけです。これまでも、そしてこれからも、つながっていく、そしてそれを私は受容し身体化していく…(儀礼は受容性を成熟させる機能を有します)。正しい作法の大切さ、とはそういうことです。ということは、その流れに属さない人には何の意味もないんですね。それが宗教儀礼の特性です。

さて、「自信を持って間違った」作法での参拝がどうよくないか、ということでした。古代インドのブラフマニズムのように、儀礼執行こそがその宗教を支えているというようなタイプの場合、自信があろうがなかろうが、儀礼を間違うのは(その宗教においては)「悪」です。でも、現代社会に生きる多くの宗教では、儀礼を間違うという現象自体をそれほど敵視することはありません。ですから、多くの場合、「よくない」かどうかは、宗教儀礼に対する態度や姿勢によって判断されるということになります。
例えば、流派で催された正式なお茶会に、まったく作法を知らない人が飛び込んきたらえらい迷惑なヤツであることは間違いありません。真面目に礼法を守ろうとしている人にまで迷惑がおよんでしまいます。儀礼はその場にいる全員の行為で成り立っているんですからね。しかし、礼法を知らないことへの自覚と、儀礼がいかに大切であるかがきちんとわかっている人は、たとえその場での正しい儀礼がわかっていなくても、まわりに迷惑をかけることはありません。「儀礼」のカナメが身についているからです。
私は、儀礼への畏敬をもって行為する人が、誤った知識によって「自信を持って間違った」作法で参拝することは非難されるべきではないと思っています(たぶん、そういう人は「儀礼に対するおかしな自信」を持たないとは思いますが)。そうじゃなくて、正しい作法をきちんと知ろうとするモチベーションは低いくせに、ちょっとした情報に振り回されている人が「自信を持って間違った」作法で参拝するのは、「鈍感な人だなぁ」と思います。ちょっと不明瞭な区別と思うかもしれませんが、これは、意外に現場ではすぐにわかります。宗教的身体性が成熟している人は、ちょっとくらい間違った作法でも美しく見事ですからね。

では、今回の細木氏の場合も知識が間違っていただけで非難されるべきではないのでしょうか? いえいえ、そうではありません(結局、この話になってしまった…)。
宗教儀礼は、同じ流れの中でこそ機能するのですから「このように参拝するのが、細木教の信者の作法だ」というのであれば、非難されるべきではありません。信者の人が、その作法を守るというだけの話です(実際、神社本庁は今回の騒動をそのように対応するようです)。問題は、これが神道における正しい参拝礼法だと一般的に敷衍して語ったことにあります(ちなみにこういうことを言うのは細木氏に限りません。結構、たくさん見かけます)。この態度は、「先達と同じ(不可知の)身体行為を手順通りに行う。そして、それはその宗教の根幹に関わる」ということへの無神経、「宗教儀礼は同じ幻想を共有している共同体の中でしか機能しない」という宗教儀礼行為の本質がわかっていないこと、等に起因すると思われます。
それにしても、この番組を制作しているスタッフは、宗教に対していったいどんな考えをもっているのか…。首を捻りすぎて「エクソシスト」のリンダ・ブレアみたいになりそうです(そんな番組の宗教情報を真に受ける人もどうかと思いますが)。

神道の場合は、どうすれば神と交感できるのか、どうすれば神とうまく共存していけるのか、という試行錯誤の結果、整理された様式です。さまざまな体系・地域・土俗の流れをいっしょくたにしてしまい、自分の見解による儀礼を喧伝することは、宗教体系や宗教的人格を踏みにじる大変ひどい行為なのです。この件は、「予言がはずれた」という類の問題とは質が違います。まずは「私の言うことは、細木教の中でしか機能しません」ということを明言する態度が誠実な宗教者だと思われます。また、細木教などない、自分は個人的知見を説いているのだ、というスタンスであれば、なおさら体系化された宗教の儀礼について語るべきではないでしょう。
 
短い文章の中で言い尽せないもどかしさから、悪文になってしまいました。少し意図が伝わりにくいかもしれません。ご寛容を。

こんにちは。ウチダです。
宗教儀礼というのはたいへん興味深い論件で、釈老師とはこのテーマについて一度ゆっくり話してみたいなあと思っておりましたので、老師の上記解釈を伺って「ふむふむ」と深く頷いたことでした。
ぼくも老師とまったく同じ考えで、宗教儀礼の本質は「人間は神を崇敬する仕方や、死者たちを鎮魂する仕方を、ほんとうはよく知らない」という「無知の自覚」に根差すものだと思っています。
もし、「私はただしい神の崇敬の仕方を知っている」という人がいたとしたら、その人は「正しい作法」によって神を喜ばせ、「間違った作法」によって神を怒らせることができると考えていることになります。
だとしたら、神さまはその人の挙措ひとつで笑わせたり怒らせたり、自在に「操作可能」であるということになります。
「人間が自在に扱えるもの」に「神威」を認めることができるでしょうか?
崇敬というのは、「どのように崇敬の気持ちを示してよいのか、私にはわからない」というかたちをとって表現されるものです。
ふだん私たちだって言いますよね。「お礼の申し上げようもありません」て。
英語だってフランス語だって同じ言い回しがあります。
Je ne sais comment vous remercier. I don't know how to thank you.
「感謝の意」は「感謝の意を表する仕方を知らない」という文型を迂回することでしか表することができません。
信仰についても同じことだと思います。
神を崇敬する気持ちは「神を崇敬する気持ちを表する仕方を知らない」というおのれの無知の覚知によってしか基礎づけられない。
ぼくはそういうふうに考えています。
ですから、「こうやってお参りするのが正しい」というようなことを断定的に言える人は「私は神の気持ちがわかる」とか「私は死者からの要請が聞こえる」と言っているわけで、そういう人には儀礼に必要な敬意がいささか足りないような気がします。
老師がおっしゃっていることを少し敷衍すると、宗教儀礼というのは「神を前にしてどうしていいかよくわからないので、おどおどしているようす」そのものを記号化した身振りではないかと思います。
ですから、「正しい作法」とは「正しい作法って、何だろう?」という疑問をもつこと、つまり七星さんがいまされていることそれ自体であるというのがぼくの考えです。

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