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質問・53 本心って何でしょう?

Q:
初めておたよりします。人生相談的なものに相談するのははじめてで、すこし緊張しています。
先日、友人から、本心を言っていないと指摘されました。
思ってないことはなるべく口に出したくない、と思っているので、心外だったのですが、きっとそう友人に言わせしめる何かがあったのだとは思います。
でも、本心って、なんだろう?と思ったのです。
日々うずまく胸の内だか頭の中のどれを口に出せばいいのか、わかりません・・・
そうか、友人から何かのサインを読み取るべきだったのでしょうか。なんとなく、声の調子で、本音を言ってるとか言ってないとかわかるもんだと思っていたのですが、考えてみれば、確かめる術はないわけで、単なる思い込みかもしれませんね。
考えても仕方ないと思いつつ、迷走しはじめてしまいました。
他者に橋を架けるのが本当に難しいです。なにをご相談したいのかわからなくなってしまいました。すみません。
(ペンネーム エビコ 30歳)

A:
私も他者とのコミュニケーションがうまいわけじゃないので、おっしゃりたいことはだいたい理解できます。「思ってもいないことを口に出すのは抵抗がある」という姿勢も共感できます。
ええと、まず、エビコさんの友人はなぜそのような指摘をしたのか、友人の意図を二パターンほど考えてみました。
①私が望んでいるのはそんな関係じゃない、という希求。
②そんなことでいいのか、というあなたのコミュニケーション能力への苛立ち。
もしかしたら、まったく話が逸れてしまっているかもしれませんが(当事者しかわからないことっていっぱいありますから…)、一応この二つの場合を想定してお話しますね。今回は「本心とは何か」という問題はいったん保留しましょう。

①の場合、「エビコさんの友人はどのような関係を求めているのか」と「エビコさんがそのニーズに応えようとするのかどうか」ということがテーマとなります。
おそらく友人は、「弱みを共有できる」とか「共犯関係」といったものを求めていると思われます。だから、相手はあたりさわりのない話をするエビコさんに対して抗議したわけです。 
そこで、エビコさんがこの人と濃密な関係を望なら、自分の暴露話をしなければなりません。通常は隠しておくようなネタを披露しなければ弱みを共有する関係になりませんので。こちらが「弱み」を提供すれば、相手も暴露話を始める、というやりとりを行う過程を経て共犯関係は成立します。
エビコさんが、この友人とはそんな関係になりたくない、と判断するなら、相手がどう思おうとあたりさわりのない雛形トークに終始することです。そして、それは非難されるべき態度ではありません。
で、実は第三の道があります。それは、「本音じゃないのに本音トークにみせかける」というテクニックです。これ、大阪人がよく使う手法です。いわゆる「自虐的要素をもったネタ」を話すのです。大阪人は男性も女性も大人も子供も、この手法で距離感を縮めることをひんぱんにやります。「告白のようでありながら、あくまでネタ」、という高等テクニック(!?)。これもひとつの選択肢だと思います。

②の場合、お勧めポイントを今回は二つだけ。
ひとつは、エビコさんが発するメタ・メッセージの問題です。
相手は、エビコさんの言っていること(バーバル)だけじゃなく、その仕草・表情・手の動き・視線などからさまざまな情報を得ています(ノンバーバル)。そこで、話す内容ではなく、語調・話す速度・抑揚からノンバーバルの領域までを含めて、自分のコミュニケーション・スキルを一度点検してみるといいんじゃないでしょうか。メタ・メッセージの部分に注意してみると、たとえ発話しているメッセージは同じでも、相手が受ける印象はずいぶん違ってきたりします。
同時に、エビコさんも相手のメタ・メッセージを読み取る能力を高めなければならないということでもあります。これはご自身でも気づいておられる通りです。

もうひとつは、自己イメージの問題です。よく対人関係理論等で言うように、相手に自分を開放すれば、自分のことが良くわかるようになります。逆に言えば、自分のことを理解する領域が増せば、相手に開放する部分が拡大するということでもあります。もしかしたらエビコさんは自分のことが意外によくわかっていないのかもしれませんよ。あるいは自己イメージが未熟なのかも。
さて、では、どうすれば自己イメージが成熟するのか。ここで仏教の手法を活用します。
仏教の認識論では、私たちは自己イメージを対象に投影していると考えます。つまり、自分を理解するには自己点検もさることながら、他者の観察が大切だということです。なにしろ自分の投影なのですから。自分とよく似たタイプの人をじっと観察する。自分とまったく違うタイプの人をじっと観察する。「ああ、あの人、あの場面ではあのような行動をするんだ」「自分とは違うなぁ」「自分とよく似てるなぁ」などと、観察します。さらに、ときどき自分と違うタイプの人をマネてみるのも良いトレーニングです。やってみると、意外に「自分でもこういうのができるのか」とか「やっぱり、こういうのは向いてないなぁ」とか、いろいろと自分を知ることができます。
そして仏教では、さらに「なぜ私はあの人を自分と同じタイプ(違うタイプ)と判断したのだろう」という分析へと展開し、自他の虚構性に目覚めていくわけです。
まあ、「そして仏教では、さらに」という部分はひとまず措いておくとして、まずはこの二つを実践すると、エビコさんの対人関係の守備範囲はぐっと広くなります。

はい、釈先生いつもながら希望のもてるアドバイスでしたね。
こんにちは、ウチダです。
この質問は私にとってもひとごとではありません。
というのも、私もまた人からしばしば「ウチダは本心を語らない」と言われることがあるからです。
けれども、それは決して「本心を語ってくれ」という方向には向かいません。
なぜでしょう?
それも当然で、常日頃から「私の話の半分は嘘です」と広言している上に、「私は邪悪な人間である」とカミングアウトもすませているからです。
そんな人間が「本心」を語った場合、その災厄はどれほどの範囲に及ぶことになるでしょう。
どれほどの数の人々が私の吐き出す「歯に衣着せぬことば」に生きる意欲を失うほどに傷つくことでしょう。
というわけですので、人々は「ウチダは本心を語っていない」という事実認知に続いて、しばしば(というかつねに)「お願いだから、今後も本心を語らないでくれ」という遂行的懇願へと移行するのであります。

ということからおわかりのように、釈先生もお書きになっていましたけれど、問題は「メタ・メッセージ」の発信の仕方にかかわるのです。
「メタ・メッセージ」というのは「メッセージの読み方を指定するメッセージ」のことです。
たとえば、「私は嘘つきだから、私の言うことは信用しない方がいいよ」といわれたらエビコさんはどうしますか。
「あ、そうなんだ。この人嘘つきなんだ。じゃあ、今後はあまり信用しないようにしとこ」と思いますよね。
ふつうそうですね。
でも、それだとこの「嘘つき」がこの場合に限って正直なことを言ったことになり、「私は嘘つきである」という本人の言明と矛盾することにはなりませんか?
「クレタ島人のパラドクス」というやつですね。
でも、これは「嘘つきの言うことは、これからあまり信用しないことにする」という解釈で正解なのです。
というのは、「自分が発信しているメッセージの解読の仕方に関するメッセージは、解読されるメッセージより上位にあるので、メッセージの内容に拘束されない」というルールがあるからです。
これじゃ、わかりにくいですね。
要するに、「メッセージの解読仕方についての指示において、人は決して嘘をつかない」ということです。
どうしてか知りませんけれど、これは経験的に真理なんです。
例えば、「あなた、浮気してるでしょ!」と妻に突然指摘された夫が「な、なにを言うんだ、突然に・・・そんなこと、してるわけないじゃないか。はは」とあたふたした場合、この「な、な」という台詞の噛み方や額に浮かぶ冷や汗やあらわな動悸などはすべてが彼のしどろもどろな発言が虚偽を述べていることを露呈させていますね。
この「驚愕」をあらわす身体記号の全体がメタ・メッセージなんです。
だから妻はそれを見て「あ、浮気してるんだ」とちゃんと理解しちゃうのです。
よく「かまをかける」ということを女性はされますよね。
あれは実際に語られることば(メッセージ)を受信するためではなく、どんなふうなノン・バーバルな身体記号(メタ・メッセージ)を発しながらことばを語るか、それをチェックするためにしているんです。
おお、テリブル。
メタ・メッセージにおいて嘘をつけるのは天才的な嘘つきだけですが、そのような人間は通常私たちの日常生活には出現しません(スパイ活動とか、株の仕手戦とか、そういうことばかりしているのですぐわかります)。
というわけで、私からのアドバイスはもうだいたいおわかりですよね。
お友だちはエビコさんに「あなたはメタ・メッセージの出力が弱い」と言ったのです。
ことばははっきりしていて、論旨明快なのだけれど、「それを言うことによって何を言いたいのか」が相手によくわからない。
だから、かりにエビコさんの発したメッセージが整合的で真情あふるるものであっても、謎めいて、狙いの知れないもののように相手には聞こえる、ということが起きるのです。
エビコさんに必要なのは、メタ・メッセージをちゃんと発信するということです。
「浮気夫」の場合のように、きちんと「あたふたする」ということですね。
妻にそう問い詰められた夫が「は?何ですか?キミはまた奇矯な言動をされますね」というようなことを遠い目で、白々とした表情で言われたら、妻だって立場がないですよね。
メタ・メッセージの発信法を具体的にお示しいたしましょう。
ここまでの私の書いた文章の中にいくつか「メタ・メッセージ」がちりばめてあるのがわかりましたか?
たとえば、十行ほど上の、「これじゃ、わかりにくいですね」というのは典型的なメタ・メッセージです。
「これじゃ、わかりにくいですね」という言明は、私とエビコさんと(今この書き込みを読んでいる釈先生やフジモトさんまで含めて)すべての人が「うん、わかりにくいよ」とうなずいて、誤解の余地なく共有できるメッセージです。
これがメタ・メッセージ。
メタ・メッセージを読んでいるとき、発信者と受信者は「同じプラットホームの上」にいます。
そういうことば(じゃなくて表情や口調やみぶりでもいいんですけど)をどれだけ対話の場に差し出すことができるか。
それがたいせつなんだと思います。
お友だちが「本心」ということばで言おうとしていたのは、その「ふたりで共有できること」じゃないかと私は思います。
はい。

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2007年03月13日 15:51に投稿されたエントリーのページです。

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