質問・56 言い返すことができません
Q:
私は、怒ったり、言い返すことができません。基本的に物わかりがいいと言うか、どんなにことを言われても自分なりに解釈したり消化することができるタイプだからでしょうか。しかし、最近になって、本当に許せないと感じる場面に遭遇しながら、その時の感情や、相手の言い分が間違っていると思う理由、どちらも表現することができない自分に気づきました。自分は相手の言い分を理解することで相手のルールを知り、はじめて同じ土俵でつきあえると思っていたのですが、内田先生がブログで
「相手が緊張して運動精度が最低になっている状態で、自分だけがリラックスして身体を使うことができる人間がいたとしたら、彼がしているのはメカニカルで流れ作業的な『虐殺』にすぎない」
と書かれていたのを拝見し、わたしが理不尽な理由で不快な思いをさせられているときに、それに甘んじる必要はないのではないかと思い始めました。しかし、自分からそれを打開するアクションが瞬時に見つけられません。他人の人格を否定し、不快にすることが一種の虐殺であるのなら、不快になりかつ言葉を発することを止められている自分に、この世の秩序を取り戻すためにできることは「いま自分は不快である」ということを発したうえで、かつ、相手を快にさせる戦略をとって、初めて二人は同じ舞台に立つことになるということになります。しかし、私は自分の不快を知らしめることが建設的な話し合いをもたらすプロセスはまったく想像できず、またおなじ土俵にたった後にどう戦えばよいのかもわかりません。つまり、怒ったり、言い返すことができません。しかし、そもそも怒ったりすることにそんなに意味があるのだろうか?にこにこして生きながら、周りの人間を虐殺して優越感に浸っているばかものたちを何とかするにはどうしたらよいのでしょうか。無視して、このエネルギーを別の創造的なことに充てた方がよいのでしょうか。
(ペンネーム m)
A:
内田先生のブログに触発されたとのことで、ここは内田先生に応答をお願いいたしましょう。私からは少しだけお話させていただきます。
本当にmさんが「どんなにことを言われても自分なりに解釈したり消化することができるタイプ」であれば、まったく別の手立ては必要ありません。これに優る手立てはないからです。でも、どこか忸怩たる思いがあるということは、実は消化し切れてないからなんでしょうね。「自分なりに解釈して消化できる」ことと、「相手と衝突したくない」「戦って自分が傷つきたくない」「とりあえずその場を穏便に済ませる」ということとは、違います。私の経験から言うと、自己愛傾向の強い人の中には、やたら物わかりのいい人がいたりします(mさんがそうだと言ってるわけじゃありません)。
「完全に自分で消化できる」という菩薩さまのような人以外は、(mさん自身も語っているように)「私は不快だ」という意思表示は必要です。この意思表示はある程度トレーニングが必要です。まずは、自分なりの意思表示フォームを1~2パターン作ってみてください。何度かトレーニングを重ねれば可能です。
例えば、仏教では「通じ合えない人とは同座するなかれ」と言いますので、まずはその場から離れる(これも不快の意思表示)というのも一手です。その後は、できるだけその人に近づかないようにしましょう。
あるいは、相手の言うことが理不尽に感じたら、「どうもうまく通じてないようです」「私の思いを誤解してますね」と宣言し、最初に戻って相手とのやりとりをやり直すのも一手。もしmさんが本当に相手を理解しようとしていたのに、不快な状況へと至ってしまったのであれば、もう一度トレースすることによって、必ずmさんのペースになります。なぜなら、それまで相手を理解しようとしていたからです(ひどいトートロジーだ~)。
パターンがいくつか身についたら、組み合わせもできそうですね。話を最初に戻そうとしたら(これ自体、ちゃんとした不快の意思表示になります)、相手が拒否したので、席を立った、とか。合わせワザね。
瞬時に怒ったり言い返したりできないのは、mさんの特性ですし、ある意味mさんの強味でもあります。こういう人は長期戦のほうが向いていますし、オリジナルのフォームさえもっていれば、たいてい自分のペースに持ち込むことができます。
というわけで、今後、mさんが身につけるべきものは「ねばり」です。瞬時に怒ったり言い返したりできなくても、何度もやりとりの始点に戻って出直し、相手の論理齟齬や論理飛躍を衝く。たとえ相手が怒っても苛立っても、何度もトレースをくり返す。これがmさんの特性を生かす手法じゃないでしょうか。もしかしたら、mさんが望む「いま自分は不快であるということを発したうえで、かつ、相手を快にさせる戦略」に成り得るかもしれません。
こんにちは、「相手を死ぬほど不快にさせる達人」であるウチダです。
この能力は残念ながら、後天的に身についたものではなく、先天性のものですので、mさんがこれからどれほど努力されても体得は不可能であろうかと思います(というふうに「出会い頭に相手を不快にさせる」ことがmさんにはなかなかできないでしょう?)
私はいわば「人を不快にさせる」のプロですので、相手が私をどのように不快にしようとしているのかをかなり早い段階で察知することができます。
相手が私を不快な目に遭わせようと企むのは、ほぼ100%の確率で私が彼/彼女を快な目に遭わせたことの結果ですので、私としてはそれがどれほどの程度のものかだいたい想像がつきます(なにしろ私がやったこととの等価交換なんですから)。
想像するだに恐ろしいので、ソッコーで逃走です。
というわけで、私は「私を不快にさせそうな人」を見ると、遠くからでも逃げ出すことにしております。
とはいえ、立場上、そういう人と顔を合わせてあれこれとお話などをしなければならない場合などもあります。
そういうときはひたすら作り笑いをして「神さまどうか時間が早く経ちますように」と念じております。
それに、考えてみれば、私の天才をもってすれば、相手が私をどのように不快にさせようと試みても、それは私が彼/彼女を不快にさせた不快さには遠く及ばぬであろうことは火を見るよりあきらかですから、下を見ながら静かに「勝った」と思うことにしています。
『ダイハード』の中でテロリストの一人が怒り狂って家具を蹴飛ばすのをみて、人質になっていたジョン・マクレーンの妻はにっこり笑って「あら、ジョンはまだ生きているんだわ」とつぶやく場面があります。
「どうしてわかるの?」と隣の人質に訊かれた彼女は、「だって、人をあれほど怒らせることのできる人間なんてジョン以外にいないもの」と答えます。
いい話ですね。