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質問61・水子の祟りってあるんでしょうか?

Q:
始めまして。お忙しいところ恐縮ですが質問です。
実の母親と全くそりが合わないことについて、フウチで占ってもらったところ「二人の性格上の相性もありますが、見えない世界の話で言うと、お母さんの水子たちがあなたたちの仲を悪くするようあおっているのです。この水子があなたの人生に大きな影響を与えています」と言われました。
母親から水子はいないと聞いていましたが、占い師によると、着床前流産という本人も無自覚の流産による水子が三人もいるとのことです。その水子たちの生まれ出なかった悲しみ、私に対する嫉妬が怒りに代わり、私の人生に悪い影響を与えているそうです。そして、今まで気がついてあげられなかったことに対する謝罪と、成仏して早く生まれ変わってくださいという祈りが供養となるようです。
この占いを真に受けるかどうかは別として、水子なんて寝耳に水の話だし、私の人生が今まで考えたこともないような存在に大きな影響を受けていた可能性があるなんて、にわかに受け入れ難いのです。仏教における水子とはどういう存在なのでしょうか?そして、水子供養の心のあり方について・・・この納得いかないもやもやした気持ちをどこに向けていいかわかりません。どうか良いお導きを下さいますようお願いいたします。
(37歳・シングル)

A:by釈
私はさまざまな宗教形態を観察して「ああ、人間って、本当におもしろいなぁ」と実感するのが好きなので、さまざまな宗教形態に対して一面的な批判はめったにしません…。でも、こういうことを言う占い師は嫌いです(なんと素朴な意見!)。「着床前流産」などと小賢しい理屈を持ち出すあたり(古典的な手法なんですけどね)、すごくイヤなので、できれば一生会いたくない人です(仏教では、そういう人には近づくなと説きます)。
ご質問の「仏教における水子とは」に対しては、前回お話しましたように、別に特別な存在ではありません。すべての生命はつながっているので序列はない、と仏教では考えます。ですから、仏教では水子のタタリや霊障といった概念ははっきりと否定します(ちなみに、現在流布している「水子の祟り」や「水子の霊障」などといったストーリーは1970年代あたりから超常現象ブームとともに創作されたもので、意外と最近の虚構です)。 
とはいえ、この手の話は反証も不能なので、一度でも耳にしてしまえば、どこか引っかかるんですよね(だから悪質なんですけど)。あなたも、占い師の言説の影響で心身のバランスを崩しかけているかもしれません。まずは、あなたとお母さんとの関係を分析するところから始めましょう。あなたが漠然ともっている「実の親子であれば、~だろう」という枠組みの点検をしなければなりません。
とにかく、ここは、(この占い師に腹が立ってしまっている)私よりもずっと人格者である川上牧師に再度ご登場願いましょう。

A:by川上盾牧師
「生まれかわり」という思想を持たないキリスト教では、いわゆる「水子供養」ということは基本的にはいたしません。神さまのもとに召された赤ちゃんに平安を祈り、見送った家族の悲しみに慰めを祈ることはありますが、それは一種の葬儀であり、「供養」とは異なるものです。神さまは、「呪ったり、祟ったり、そういうことをしない代わりに供物を要求する存在ではない」と信じてますので、「水子の祟り」といったことを語ることもありません。人が遭遇する悲しみや辛い出来事を、「誰かの祟りじゃ!」と不安を煽ることはせず、時間はかかってもその出来事を受けとめられるように、神の導きを祈ります。
自分ではどうにもできないような「いやな状態」を、誰か他の人のせいにして理由付けしたいと願う気持ちは、誰もが持っているものなのでしょう。だから「水子の祟り」的な言説が影響力を持つのだと思います。でも、そうやってすべてを「だれかのせい」にしてすますことができるんでしょうかねぇ…。
発端は、お母さんと「そりが合わない」ということですよね? そういうことって、世の中にたくさんありますよ。僕も実の父親(同じ仕事をしています)とそりが合ってるかというと、合わないと感じることの方が多いです。「互いに愛し合いましょう」なんて信者さんの前で語ってる牧師同士であっても、現実にはそりの合わない親子だったりします。すべての親子・家族が中睦まじく愛し合う…というのは確かに理想的ですが、現実にはそうはいかないのが私たちの世の中です。
これが他人であれば、関わりを切ったり無視したりすることも可能でしょうが、家族の場合はしがらみが断ち切れないので、余計そのことが重荷に感じてしまうのでしょう。家族だからこそ抱いてしまう憎しみや苛立ちといったものもあると思います。これは深層で抱いている愛情の裏返しなのかも知れません。「愛しているから腹が立つ、期待しているから非難する」ってことです。
いっそのこと、「そりが合わない」という事実を、「あってはならない状態」と考えるのではなくて、「そこから始めるしかない現実」とひとまず割り切って、受け入れてみてはいかがでしょう。「親子って、そういうもんだよ...」ということですね。そこを常態として受け入れてしまえば、案外お母さまのステキな面も見えてくるかも知れません。僕の父も「そりの合わないオヤジ」ですが、それなりに尊敬できる部分を感じることも今はできます。「親子」って、そういうもんじゃありません? 自分ではどうすることもできない苦境に立たされたとき、クリスチャンがしばしば口にする「おまじない」の言葉があります。
 “Let it be”。
「すべてはみこころのままに...」とも訳せる言葉ですが、「なるがままに」「なるようになれ」といった意味にも解せます。「この状態から何とか抜け出さねば...!」といった焦りにも似た気持ちから解放されたとき、きっと「水子の祟り」は気にならなくなるはず...!?

   “Let it be” P.マッカートニー
   私が苦しみに出会う時 聖母マリアが現れて
   知恵に満ちた言葉をかけてくれる
   “Let it be”
   暗闇の中に包まれてしまう時 彼女は私の前に立ち
   知恵に満ちた言葉をかけてくれる
   “Let it be”
   すべてはみこころのまま なるがままに 
   知恵ある言葉をつぶやいてごらん
   “Let it be”

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2007年08月25日 11:16に投稿されたエントリーのページです。

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