Q:
釈住職さま/内田先生
こんにちは。いつも、楽しくwebを拝見させて頂いている者です。
早速ですが、最近自分でもコントロールできないことがあり、ここへ投稿させていただこうと思いました。私は、1年くらい前から何となく、牛肉、豚肉、鶏肉、魚の全てが「食べ物」ではなく、「生き物」に見え、料理をするのがつらくなってきました。
もちろん、以前ほどではなくとも食べてはいるのですが、食べるときも出来るだけ何も考えないようにしなければ、つらくなります。また、痒いから「ごめん」と言いながら蚊もパチンとやるし、ゴキブリが出たら、ゴキブリほいほいを置くのですが、その全てに罪悪感を覚えてしまいます。殺さなくてもいいように、できるだけ我が家から遠ざかってくれるのを祈るばかりです。
どうして自分がこんな気持ちになるのか、また、自分に何が起きているのか、よくわかりません。アドバイスを頂ければ、とても有難く、どうぞ宜しくお願いいたします。
(ともまや/女性)
A:
ああ、「できるだけ我が家から遠ざかってくれ」ってのがいいですね、ははは。
ジャイナ教徒になれば、あなたに合った生活ができるかもしれません。かなり厳密に「殺生」を避けて暮らしている人が多いですから。ジャイナ教は、仏教と同時期に成立した、とても興味深い宗教ですので、ここで詳述したいところですが…。ま、それはまたの機会に。
あなたに何が起きているのか、いただいた情報だけでは推測することはできません。殺生への抵抗感は、「かわいそう」というレベルから、「自らの実存」という位相、あるいは「病的な嫌悪」に至るまで、かなり振り幅がありますから。
今、とりあえず言えそうなのは、あなたが言う「生き物」と「食べ物」という概念あたりにヒントがありそうだ、ということです。なにしろ、現代人は「生き物」が「食べ物」へと移行する現象を目の当たりにする機会が少ないので、その線引きに対して鈍感になっていると言われています。ともまやさんは、その鈍さに反応しているのかもしれません。
そもそも人類は長い間、「生き物」が「食べ物」へと移行する際に「儀礼」が必須だと考えてきました。なんらかの宗教儀礼を通過することによって、「生き物」が「食べ物」へと転換されるのです。通過儀礼は、状態を変化させる機能をもつのです。例えば、合掌して「いただきます」と口称することだって、(もっとも手軽で身近な)移行のための「儀礼」です。「ごめん」と言いながら蚊を殺すのも、ともまやさんなりの儀礼かもしれませんね。
レストランで食事する際、「なぜお金を支払っているのに『いただきます』と言わなきゃいけないのか」と言った子どもがいたそうですが、この子どもにちゃんと説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか。
というわけで、「生き物」を「食べ物」へと移行させるために、なんらかの宗教儀礼を行うことをお勧めします。いろんな宗教や宗派の「食前の言葉」「食後の言葉」がありますから、お好みのものを使ってみるのも良いでしょう。それを料理の前や、食事の前に唱えるんです。
例えば、天台宗では「我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵により此の美わしき食を受く。謹しみて食の由来を尋ねて味の濃淡を問わじ。謹しみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。いただきます」と食前に唱えます。食後は「我今此の美わしき食を終りて、心豊かに力身に満つ。願わくは此の心身を捧げて己が業に勤しみ、誓って四恩に報い奉らん。ごちそうさまでした」と口称します。私が子どもの頃は、浄土真宗もこれを称えていました。
今、浄土真宗では、「み仏とみなさまのおかげにより、このご馳走をめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」「尊いおめぐみにより、おいしくいただきました。おかげでご馳走さまでした」と言っています。だいぶ簡単になったなぁ。また、禅にも有名な「五観の偈(げ)」があります。キリスト教も食事の前にお祈りします。いろいろと調べるのもおもしろいかも。
儀礼を行うことによって、「生き物が食べ物になることは決して当たり前ではない」「私は他者の生命を奪って生かせていただいている」などを実感できるに違いありません。
いずれにしても、純白の生き方などありません。他者を傷つけ、他者の恵みで、はいつくばって生きて行くのです。そのことを自覚するためにも、また大きな生命のつながりと連鎖に思いをはせるためにも、宗教儀礼に注目してみるのはいかがでしょうか。
こんにちは。内田です。
「食べ物」は「生き物」だというのはほんとうにそうなんだと思います。
ぼくたちがふだん食べている生物はだいたいどれも微量の毒物を含んでいるんですけれど、それは毒を含んでいないとほかの動物に食べられてしまうからなんです。
ジャガイモなんか青酸出してるんですからね。
まったく毒性のない生物はすぐに食べられて絶滅してしまうので、種の保存のために毒を出しているんだそうです。
そういう毒性のあるものじゃないとある程度までの大きさには成長できないんです。
だから十分に栄養をためこむことのできたタフでワイルドな生物だけをぼくたちは選択的に常食しているわけです。
なんか泥棒の上前をはねる泥棒みたいですけれど、それにしても人間てまことにタフでワイルドな生き物だと思いませんか?
人間が地上でおそらくもっとも貪欲な食性をもつ生物だということは間違いありません。
そういう自意識をもつことはとてもたいせつだと思います。
ともまやさんはそのように「罪深い」生物種であることの意識がちょっと人より強いんだろうと思います。
でも、この「貪欲な食性」のうちに人間の本質があるのではないかとぼくは思っています。
ぼくたちは現に思想や学術について、「噛み砕き」「飲み込み」「消化吸収する」という食事の比喩を用いますよね。
これは比喩じゃなくて、食性と知性というのは実は同一構造をもっているからだと思うんです。
ぼくの場合は「うまく噛み砕けないもの」「うまく飲み込めないもの」「うまく消化吸収できないもの」につよく惹きつけられますが、それは知的向上心ともいえるし、「悪食」ともいえるし「貪欲」ともいえます。
「なんでも食べられる生物種になりたい」という強い欲望が人間を地上最強の種にした重要な原動力の一つだったとぼくは思います。
「理解する」という動詞は世界中どこでも「つかむ」「飲み込む」「食べる」「一体化する」「同化する」という動詞で置き換え可能です。
ですから、ともまやさんが今「どうしてなんでしょう?」というふうに質問をしてきて、「うまく噛み砕けない」問題を「消化吸収」しようとされていること自体が、実は「なんでも食べられるようになりたい」という生物的な始原的衝動のひとつの変奏なのではないかとぼくは思うのです(猫とかゴキブリとかはそういう欲望を持ちませんからね)。
だから、気にしないでね(といって片付くことではないですが・・・)