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2008年01月 アーカイブ

2008年01月08日

質問68・施しって何?

Q:
はじめまして。結婚10年目で、出産を機に、少々収入のあった「兼業主婦」から専業主婦になりました。ふだんは赤子との動物的ごろごろ生活を楽しんでいます。
が、たまに夫の言動に「食わせてやってる」風な気配を感じると(たいていこちらの勘違いなのですが)、途端に怒り心頭に発してしまいます。(その後、生きてるのがちょっと嫌になります)
ああもう、家を出てひとりでサバサバと生きようかしら。食器を洗う手をふと止め、中空を凝視したりして。(そんなのフィクションだと薄々わかっているのに)
どうも「施し」を受けるのが苦手なようで、似たタイプのひとと青天井のプレゼント合戦になったり、おばちゃん特有の「ここは私が払うから」「いや私が」も毎度毎度。
ひとに奢られるくらいなら奢りたい、借りを作るくらいなら貸しっ放しでありたい、夫に養われるくらいならヒモでも養いたい。
自分でもしょうもないなあと思うのですが、最良の伴侶を得ても、最良の書物(内田さんのを筆頭に)を得ても、なかなかどうにもなりません。
恵んでもらっても「ありがとう」を言うどころか、「俺がお前に善いことをさせてやったのだ、礼を言われるのはこっちだぜ」と傲然と胸を張るというスペインの乞食を見習いたい、ような、やっぱりそれは嫌なような……。
お坊様がお布施をもらうときは、どのようななおきもちなのでしょうか。
(セニョーラ・34才女性)

A:
 おもしろい人だなぁ。こういう人とめぐり会って、ヒモになるのもいいかも………。
あ、いやいや、と、とりあえず、私も「どうも施しを受けるのが苦手で」というのはわかる気がします。坊さんは元手がいらないからいいなぁ、とお考えのみなさん。他者からの施しで生活するというのは、これはこれで、なかなかしんどいことなのです。
 本来、仏教の「布施」は、何も金品だけではありません。相手にやすらぎを与えるのも、慈愛あふれる言葉を使うのも、お布施です。布施は、布施をする側の「行」「功徳」ですので、布施をする側・布施を受ける側、双方とも等位でなければ成立しません。また、布施を受ける側は、しばしば“田んぼ”に喩えられます。布施する側が功徳という苗を植えるための田(福田<ふくでん>といいます)なんですね。インド文化圏に行くと、布施を受ける側がいばっているというシーンはしばしば見受けられます。セニョーラさんが例に挙げたスペインの乞食と似たような理屈もよく聞かされます。
 セニョーラさんは、与える側と受け取る側との格差が耐えられないんですね。等価交換じゃないと等位の関係ではなくなりそうな気がしますか?
きっと、節度があって、たしなみがいい方なんだろうと推察しますが、ちょっと意地の悪い見方をすると、セニョーラさん自身、人に何かしてあげた場合、無意識的に優位へとポジショニングする傾向があるのかもしれませんよ。だから、逆の立場がイヤなのかも。
私などは、「動物的ごろごろ生活」なんて、すごくいいと思いますが。

 さて、お尋ねの「どんな気持ちでお布施をいただくのか」ですが、それはやはり「とてもありがたいお気持ちをいただいた」と感じます。まあ、毎日のことなので、ときどき「当たり前」のような気になったりして、反省することもありますが…。
 私は、セニョーラさんと同じで、どうも施しを受けるのが苦手なタイプなのです。ですから、余計に、大切に使わせていただこう、と感じます※。ほんとです。

 というわけで、他者からの贈与を、飄々と、そしてありがたくいただけるようなパーソナリティをお互い目指していきませんか。
なにしろ、私たちは関係性の中でしか存在し得ない、そう仏教では説いております。つまり、「私は誰の世話にもなっていない」てな感覚こそ警戒しなければならないということです。どんな存在も全部つながっていると考えれば、なにも一回一回その人と等価交換しなくても、どこかで誰かに返せばいいという気になれます。

※ちなみに浄土真宗では、金品を施与する行為は自らの「布施行」とは考えません。もちろん、僧侶への御礼や報酬でもありません。「仏様へのお供え」「聞法の場である寺院等の維持」という意味づけがなされています。現在の宗教法人法とは相性がいい意味体系かも!?

カナさん、こんにちは。ウチダです。
そうですか。施されるのが苦手なんですか。
ぼくもそうです。
大学院生のころ、修論を書いている間、バイトを全部止めて朝から晩まで本を読んでいた時期がありました。そのときは妻のバイトが唯一の収入だったんです。
そのとき、ちょっとした口げんかをしたときに、「誰に食わせてもらってると思ってるの」と一度言われたことがあり、これにはけっこう傷つきましたね。
ああいう言葉ははずみでも口にするものではないですね。
そういうことで優位性を誇示されたりすることが一度でもあると、もう一生涯二度と他人には食わせてもらわんぞと変に力んじゃうんです(『風と共に去りぬ』のスカーレットみたい)。
ですから、今でも人におごってもらうのはあまり得意じゃないです。
でも、三宅安道先生にはよくご飯をごちそうしてもらいます。
これは三宅先生の誘い方がたいへんナイスだからです。
「ウチダ先生、カルマ落とし手伝ってくださいよ~」と言ってくださるのです。
そう頼まれると、こちらも「う~ん、そうですか。先生、カルマだいぶたまってるようですしね。わかりました。ここはひとつ無理をしてでもスケジュールを空けて、カルマ落としのお手伝いをいたしましょう」という展開になるのであります。
これは「施す」側が「施される」側が気分よくなるように、こまやかな配慮をしているということですね。
つまり、施しにおいてたいせつなのは、「施される側」の心構えではなくて、むしろ「施す側」の心構えだということです。
それがただしい骨法を踏まえていないと「施し」が祝福のではなく、呪詛になってしまう可能性があります。
贈りものをされたせいで生きることが不自由になるような贈り物と、贈り物を受け取ったことでより生き方が楽になる贈り物と、贈り物にはたぶん二種類があるのです。
贈られた人が贈られたことでより自由になり、気分がよくなり、生き方の選択肢が増えるような、そういう贈り物をすることが、贈り手には要求されるのだと思います。
ですから、「いかに気分よく人に物を受け取ってもらうか」の手際の洗練は人間的成熟のひとつの指標であるとも言えます。
気がついたら、ふっと受け取っていた。
そういう「贈り上手」な人間がほんとうの「大人」だと思います。
そういう大人に私はなりたいです。

2008年01月17日

質問69・人間関係がしんどいのです

Q:
釈先生、内田先生へ
たぶん今までこういう質問はたくさんされてきたかな、とも思うのですが、 すいません、あえて質問させてください。
人間関係がしんどいのです。 どうやったら人とうまくやっていけるのでしょうか?
今まで、恥ずかしながら友達の一人も持ったことがないのです。 自分の世界が狭くて、自分でもこの息苦しさに気持ちが悪くなるのですが、まったく人と、心を通わすことができません。人の気持ちに共感する能力に欠けるのか、「協調性がないと」よく言われます。
いま、20歳なのですが、人間関係がほとんどなく、たいへんに苦しいです。「自分探し」ではないのですが、どうにか今の自分を変えて、人と接することができるようになりたいです。
これといった答えはないのかもしれませんが、なにか教えていただけたら嬉しいのですが・・・

A:
 人と関わるのがしんどくて、人と関われないのもしんどいのですね。それは身のおきどころがない苦悩だなぁ。行間からも、しんどさが滲み出ています。
 お会いしたことがないので、どの方向にアドバイスするのが適切なのかがよくわからないのですが、まずは、今の自分を変えるより先に、「人と関わってるほうがまだマシ」か「人と関わらないほうがまだマシ」のどちらかに重心をおくのが良さそうな気がします。
 例えば、「無理して人と関わるくらいなら、人と関わらない息苦しさのほうがまだマシ」というなら、せっかく人と接するのが苦手なんですから、とりあえずひとりでも生きていけるような方向に工夫してみるのはどうでしょうか。「人間関係がなくて苦しい」ということは「人間関係がないやつはダメ」という枠組みに苦しんでいる部分もあります(もちろん、誰かとつながるというのはそれだけで快楽ですから、つながれなければ苦しいんですが)。仏教では、(犀の角のように)きっぱりとひとりで生きていくことを勧めています。人間関係なしで生きていくほうがすばらしいというオルタナティブな枠組みもあるってことです。あるいは、誰にも知られず良い行いを続ける(例えば、街中のゴミを拾うとか)なんてのはどうでしょうか。人と関わらずして、いつの間にかあなたを変えているかもしれません(これ、内田先生の受け売りです)。
 また、「この息苦しさが続くくらいなら、人と関わるしんどさの方がまだマシ」というのであれば、どえらい田舎で暮らすのも一手だと思います。私もえらい田舎に住んでいるのでよくわかりますが、田舎では、もう、人と接触せざるを得ませんから。なにしろ、都市生活では、(その気になれば)人と接することを最小限にして暮らすことができますからね。自分を変えようとするよりも環境を変えようとするほうがてっとり早いかもしれません。
ところで、仏教の理念から言うと、「自分」というのは放っておいても、日日・時々刻々と変わっているということになります。これを読んでおられる最中にも、あなたは変わっているってわけです。逆に言えば、そもそも思い通りの方向へと自分を変えられるわけではありませんし、変われば好転するというのも怪しいものです。まあ、気楽に行きましょう。

こんにちは。内田です。

人間関係には「しんどい」関係と「お気楽な」関係が無限のグラデーションをともなって存在します。
質問された方の場合は、「お気楽な関係」というのがあまり経験ない、ということのようですね。
どうしてなんでしょう。
ちょっと、「しんどい関係」と「お気楽な関係」の差について考えてみましょう。

「しんどい関係」というのは、私がすること言うことについて、「だからお前は・・・なのだ」というふうに、きっぱりと決めつけられる関係です。
例えば、彼女とデートしているときに、ちょっと横を歩いている女の子を見たくらいで「もう、私のこと、愛してないのね」とか言われるとげんなりしますよね。
学者同士の議論なんかでも、人の名前とか、本の内容とかについて「え、それ何?」とか言ったりすると、「なんだよ、そんなことも知らないのか。そんな人間に・・・について語る資格はない」とか断定されると、とほほとなります。
断片的な事実に基づいて、「だからお前は・・・」というような全人格的な査定が下されるのって、とっても「しんどい」です。
「人間関係がしんどい」というのは、たいていの場合そこでの一挙手一投足がただちに「人格評価」につながる場合です。
その人の前だといかなる失態も失言も許されない関係って、間違いなく「しんどい」ですよね。
その逆に、「お気楽な関係」というのはどういうものかというと、私が何を言っても何をしても、「あ、そういうとこもあるんだ」というふうに寛大に受け止めてもらえる関係です。
個別的な失態や失言が全人格的な評価にただちに直結することのない関係が、「お気楽な関係」である、と。そういうふうに定義していいんじゃないかと思います。

そこで、話を逆から考えて、どういう人が「人間関係がしんどい」かというと、理屈としてはわかりますよね。
その人の一挙手一投足がすべて「人格の端的な表現であることになっている」人はしんどいですよ。
いかなる失態も失言も許されないわけですから。
でも、それってわりと「自分で自分に失態や失言を許さない」というご本人の傾向と関係ないですか。
つまり、あなたの「しんどさ」って、まわりの人の非寛容よりはむしろ、自分の自分に対する非寛容と関係しているんじゃないでしょうか。
いつもちゃんとしていないといけないと思っていると「しんどい」ですよ。
ときどき不始末をしでかしても、バカなことを言っても、「まあ、『そういうところ』を含めて私なんだし」という「自分に対する甘さ」があると、気楽ですよ。
ですから、あなたに必要なのは、他人との関係をどう構築してゆくかではなくて、実は自分との関係をどう構築するかじゃないかと私は思います。
自分の中にはいろいろな要素があります。
卑しいところもあるし、吝嗇なところもあるし、卑怯なところもあるし、猥雑なところもある。
でも、一方でプライドもあるし、人の苦しみを気遣う気持ちもあるし、正義感もあるし、ピュアなものに対するあこがれもある。
そういうのがぜんぶ「ごった煮」状態で人間というのはいるんだと思います。
そういういろいろな人格要素を含んだ「なんだかよくわからない人間」としての自分をとりあえず認めて、許して、できることなら愛してあげる、というところから始められたらいかがでしょうか。
「オレって、けっこういいやつだよな」と鏡の前で毎朝10回くらい繰り返し言い聞かせてみるのもかなり効果があります。
とりあえずは「他人にやさしく、自分に甘く」をスローガンにかかげてがんばってください。
というような「アドバイス」を読んで、「け、何言ってやがる」と鼻で笑ってもいいんです。
「そういうクリティカルな自分がけっこう好きなんだよな」というフォローが入れば。

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