質問68・施しって何?
Q:
はじめまして。結婚10年目で、出産を機に、少々収入のあった「兼業主婦」から専業主婦になりました。ふだんは赤子との動物的ごろごろ生活を楽しんでいます。
が、たまに夫の言動に「食わせてやってる」風な気配を感じると(たいていこちらの勘違いなのですが)、途端に怒り心頭に発してしまいます。(その後、生きてるのがちょっと嫌になります)
ああもう、家を出てひとりでサバサバと生きようかしら。食器を洗う手をふと止め、中空を凝視したりして。(そんなのフィクションだと薄々わかっているのに)
どうも「施し」を受けるのが苦手なようで、似たタイプのひとと青天井のプレゼント合戦になったり、おばちゃん特有の「ここは私が払うから」「いや私が」も毎度毎度。
ひとに奢られるくらいなら奢りたい、借りを作るくらいなら貸しっ放しでありたい、夫に養われるくらいならヒモでも養いたい。
自分でもしょうもないなあと思うのですが、最良の伴侶を得ても、最良の書物(内田さんのを筆頭に)を得ても、なかなかどうにもなりません。
恵んでもらっても「ありがとう」を言うどころか、「俺がお前に善いことをさせてやったのだ、礼を言われるのはこっちだぜ」と傲然と胸を張るというスペインの乞食を見習いたい、ような、やっぱりそれは嫌なような……。
お坊様がお布施をもらうときは、どのようななおきもちなのでしょうか。
(セニョーラ・34才女性)
A:
おもしろい人だなぁ。こういう人とめぐり会って、ヒモになるのもいいかも………。
あ、いやいや、と、とりあえず、私も「どうも施しを受けるのが苦手で」というのはわかる気がします。坊さんは元手がいらないからいいなぁ、とお考えのみなさん。他者からの施しで生活するというのは、これはこれで、なかなかしんどいことなのです。
本来、仏教の「布施」は、何も金品だけではありません。相手にやすらぎを与えるのも、慈愛あふれる言葉を使うのも、お布施です。布施は、布施をする側の「行」「功徳」ですので、布施をする側・布施を受ける側、双方とも等位でなければ成立しません。また、布施を受ける側は、しばしば“田んぼ”に喩えられます。布施する側が功徳という苗を植えるための田(福田<ふくでん>といいます)なんですね。インド文化圏に行くと、布施を受ける側がいばっているというシーンはしばしば見受けられます。セニョーラさんが例に挙げたスペインの乞食と似たような理屈もよく聞かされます。
セニョーラさんは、与える側と受け取る側との格差が耐えられないんですね。等価交換じゃないと等位の関係ではなくなりそうな気がしますか?
きっと、節度があって、たしなみがいい方なんだろうと推察しますが、ちょっと意地の悪い見方をすると、セニョーラさん自身、人に何かしてあげた場合、無意識的に優位へとポジショニングする傾向があるのかもしれませんよ。だから、逆の立場がイヤなのかも。
私などは、「動物的ごろごろ生活」なんて、すごくいいと思いますが。
さて、お尋ねの「どんな気持ちでお布施をいただくのか」ですが、それはやはり「とてもありがたいお気持ちをいただいた」と感じます。まあ、毎日のことなので、ときどき「当たり前」のような気になったりして、反省することもありますが…。
私は、セニョーラさんと同じで、どうも施しを受けるのが苦手なタイプなのです。ですから、余計に、大切に使わせていただこう、と感じます※。ほんとです。
というわけで、他者からの贈与を、飄々と、そしてありがたくいただけるようなパーソナリティをお互い目指していきませんか。
なにしろ、私たちは関係性の中でしか存在し得ない、そう仏教では説いております。つまり、「私は誰の世話にもなっていない」てな感覚こそ警戒しなければならないということです。どんな存在も全部つながっていると考えれば、なにも一回一回その人と等価交換しなくても、どこかで誰かに返せばいいという気になれます。
※ちなみに浄土真宗では、金品を施与する行為は自らの「布施行」とは考えません。もちろん、僧侶への御礼や報酬でもありません。「仏様へのお供え」「聞法の場である寺院等の維持」という意味づけがなされています。現在の宗教法人法とは相性がいい意味体系かも!?
カナさん、こんにちは。ウチダです。
そうですか。施されるのが苦手なんですか。
ぼくもそうです。
大学院生のころ、修論を書いている間、バイトを全部止めて朝から晩まで本を読んでいた時期がありました。そのときは妻のバイトが唯一の収入だったんです。
そのとき、ちょっとした口げんかをしたときに、「誰に食わせてもらってると思ってるの」と一度言われたことがあり、これにはけっこう傷つきましたね。
ああいう言葉ははずみでも口にするものではないですね。
そういうことで優位性を誇示されたりすることが一度でもあると、もう一生涯二度と他人には食わせてもらわんぞと変に力んじゃうんです(『風と共に去りぬ』のスカーレットみたい)。
ですから、今でも人におごってもらうのはあまり得意じゃないです。
でも、三宅安道先生にはよくご飯をごちそうしてもらいます。
これは三宅先生の誘い方がたいへんナイスだからです。
「ウチダ先生、カルマ落とし手伝ってくださいよ~」と言ってくださるのです。
そう頼まれると、こちらも「う~ん、そうですか。先生、カルマだいぶたまってるようですしね。わかりました。ここはひとつ無理をしてでもスケジュールを空けて、カルマ落としのお手伝いをいたしましょう」という展開になるのであります。
これは「施す」側が「施される」側が気分よくなるように、こまやかな配慮をしているということですね。
つまり、施しにおいてたいせつなのは、「施される側」の心構えではなくて、むしろ「施す側」の心構えだということです。
それがただしい骨法を踏まえていないと「施し」が祝福のではなく、呪詛になってしまう可能性があります。
贈りものをされたせいで生きることが不自由になるような贈り物と、贈り物を受け取ったことでより生き方が楽になる贈り物と、贈り物にはたぶん二種類があるのです。
贈られた人が贈られたことでより自由になり、気分がよくなり、生き方の選択肢が増えるような、そういう贈り物をすることが、贈り手には要求されるのだと思います。
ですから、「いかに気分よく人に物を受け取ってもらうか」の手際の洗練は人間的成熟のひとつの指標であるとも言えます。
気がついたら、ふっと受け取っていた。
そういう「贈り上手」な人間がほんとうの「大人」だと思います。
そういう大人に私はなりたいです。