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質問69・人間関係がしんどいのです

Q:
釈先生、内田先生へ
たぶん今までこういう質問はたくさんされてきたかな、とも思うのですが、 すいません、あえて質問させてください。
人間関係がしんどいのです。 どうやったら人とうまくやっていけるのでしょうか?
今まで、恥ずかしながら友達の一人も持ったことがないのです。 自分の世界が狭くて、自分でもこの息苦しさに気持ちが悪くなるのですが、まったく人と、心を通わすことができません。人の気持ちに共感する能力に欠けるのか、「協調性がないと」よく言われます。
いま、20歳なのですが、人間関係がほとんどなく、たいへんに苦しいです。「自分探し」ではないのですが、どうにか今の自分を変えて、人と接することができるようになりたいです。
これといった答えはないのかもしれませんが、なにか教えていただけたら嬉しいのですが・・・

A:
 人と関わるのがしんどくて、人と関われないのもしんどいのですね。それは身のおきどころがない苦悩だなぁ。行間からも、しんどさが滲み出ています。
 お会いしたことがないので、どの方向にアドバイスするのが適切なのかがよくわからないのですが、まずは、今の自分を変えるより先に、「人と関わってるほうがまだマシ」か「人と関わらないほうがまだマシ」のどちらかに重心をおくのが良さそうな気がします。
 例えば、「無理して人と関わるくらいなら、人と関わらない息苦しさのほうがまだマシ」というなら、せっかく人と接するのが苦手なんですから、とりあえずひとりでも生きていけるような方向に工夫してみるのはどうでしょうか。「人間関係がなくて苦しい」ということは「人間関係がないやつはダメ」という枠組みに苦しんでいる部分もあります(もちろん、誰かとつながるというのはそれだけで快楽ですから、つながれなければ苦しいんですが)。仏教では、(犀の角のように)きっぱりとひとりで生きていくことを勧めています。人間関係なしで生きていくほうがすばらしいというオルタナティブな枠組みもあるってことです。あるいは、誰にも知られず良い行いを続ける(例えば、街中のゴミを拾うとか)なんてのはどうでしょうか。人と関わらずして、いつの間にかあなたを変えているかもしれません(これ、内田先生の受け売りです)。
 また、「この息苦しさが続くくらいなら、人と関わるしんどさの方がまだマシ」というのであれば、どえらい田舎で暮らすのも一手だと思います。私もえらい田舎に住んでいるのでよくわかりますが、田舎では、もう、人と接触せざるを得ませんから。なにしろ、都市生活では、(その気になれば)人と接することを最小限にして暮らすことができますからね。自分を変えようとするよりも環境を変えようとするほうがてっとり早いかもしれません。
ところで、仏教の理念から言うと、「自分」というのは放っておいても、日日・時々刻々と変わっているということになります。これを読んでおられる最中にも、あなたは変わっているってわけです。逆に言えば、そもそも思い通りの方向へと自分を変えられるわけではありませんし、変われば好転するというのも怪しいものです。まあ、気楽に行きましょう。

こんにちは。内田です。

人間関係には「しんどい」関係と「お気楽な」関係が無限のグラデーションをともなって存在します。
質問された方の場合は、「お気楽な関係」というのがあまり経験ない、ということのようですね。
どうしてなんでしょう。
ちょっと、「しんどい関係」と「お気楽な関係」の差について考えてみましょう。

「しんどい関係」というのは、私がすること言うことについて、「だからお前は・・・なのだ」というふうに、きっぱりと決めつけられる関係です。
例えば、彼女とデートしているときに、ちょっと横を歩いている女の子を見たくらいで「もう、私のこと、愛してないのね」とか言われるとげんなりしますよね。
学者同士の議論なんかでも、人の名前とか、本の内容とかについて「え、それ何?」とか言ったりすると、「なんだよ、そんなことも知らないのか。そんな人間に・・・について語る資格はない」とか断定されると、とほほとなります。
断片的な事実に基づいて、「だからお前は・・・」というような全人格的な査定が下されるのって、とっても「しんどい」です。
「人間関係がしんどい」というのは、たいていの場合そこでの一挙手一投足がただちに「人格評価」につながる場合です。
その人の前だといかなる失態も失言も許されない関係って、間違いなく「しんどい」ですよね。
その逆に、「お気楽な関係」というのはどういうものかというと、私が何を言っても何をしても、「あ、そういうとこもあるんだ」というふうに寛大に受け止めてもらえる関係です。
個別的な失態や失言が全人格的な評価にただちに直結することのない関係が、「お気楽な関係」である、と。そういうふうに定義していいんじゃないかと思います。

そこで、話を逆から考えて、どういう人が「人間関係がしんどい」かというと、理屈としてはわかりますよね。
その人の一挙手一投足がすべて「人格の端的な表現であることになっている」人はしんどいですよ。
いかなる失態も失言も許されないわけですから。
でも、それってわりと「自分で自分に失態や失言を許さない」というご本人の傾向と関係ないですか。
つまり、あなたの「しんどさ」って、まわりの人の非寛容よりはむしろ、自分の自分に対する非寛容と関係しているんじゃないでしょうか。
いつもちゃんとしていないといけないと思っていると「しんどい」ですよ。
ときどき不始末をしでかしても、バカなことを言っても、「まあ、『そういうところ』を含めて私なんだし」という「自分に対する甘さ」があると、気楽ですよ。
ですから、あなたに必要なのは、他人との関係をどう構築してゆくかではなくて、実は自分との関係をどう構築するかじゃないかと私は思います。
自分の中にはいろいろな要素があります。
卑しいところもあるし、吝嗇なところもあるし、卑怯なところもあるし、猥雑なところもある。
でも、一方でプライドもあるし、人の苦しみを気遣う気持ちもあるし、正義感もあるし、ピュアなものに対するあこがれもある。
そういうのがぜんぶ「ごった煮」状態で人間というのはいるんだと思います。
そういういろいろな人格要素を含んだ「なんだかよくわからない人間」としての自分をとりあえず認めて、許して、できることなら愛してあげる、というところから始められたらいかがでしょうか。
「オレって、けっこういいやつだよな」と鏡の前で毎朝10回くらい繰り返し言い聞かせてみるのもかなり効果があります。
とりあえずは「他人にやさしく、自分に甘く」をスローガンにかかげてがんばってください。
というような「アドバイス」を読んで、「け、何言ってやがる」と鼻で笑ってもいいんです。
「そういうクリティカルな自分がけっこう好きなんだよな」というフォローが入れば。

コメント (2)

nazuna [TypeKey Profile Page]:

自分の基準が自分を切る刃になるって感じですかね。よく理解できます。

nazunaです。ときどきのぞいてコメントします。節談説教の研究会に参加したいのですがどうすればいいですか?羽塚さんや故武藤師とはメルトモでした。

(土曜日、守口で内田先生のお話を聞くつもりでしたが、風邪の悪化でいけませんでしたので残念!)

shaku [TypeKey Profile Page]:

nazunaさま
節談説教研究会にご興味があるとのこと。
では、nazunaさんのアドレスに連絡先等のメールを送りますので。
着かなかったら、再度こちらへご連絡ください。

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2008年01月17日 15:00に投稿されたエントリーのページです。

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