Q:
崇教真光の初級研修を受けた私。私は救われたかったのか、すがりたかったのか・・・たぶんその両方だと思うのですが。
このような団体にかかわるのは2回目です。1回目は3年で足を洗いました。2回目は1年が過ぎようとしています。で足を洗うかどうか迷っています。
助言をいただければ嬉しいです。
(47歳・子供3人・夫あり)
A:
具体的な教団名が出ているので応答しにくいなぁ(笑)。
「足を洗う」って表現がいいですね。
崇教真光は、大本(教)から分離した世界救世教の分派です。手をかざして「浄霊」するところに特徴があります(この系統はみんな「手かざし」をやります)。個人的には、仏教の言説を恣意的に取り込む傾向と、「霊障」を強調するところが気になりますが…。
とにかく、すべての宗教は世俗の価値体系を破壊する力をもっていますので、そのことに対して自覚的であることが肝要です。この点に関しては、新しい宗教だから危険、伝統宗教だから安心というわけではありません。伝統宗教教団にも日常生活ができないほど「行ってしまっている」人はいます。逆に新しい教団にも、バランスのいい宗教的人格はおられます。
そもそも、世俗の価値を揺さ振ってこそ、「宗教」なんですよね。ですから宗教は必ず世間とは別の価値体系を提示します。仏教だと「出世間」と表現します。世間の価値体系から脱出するから救われるんです。
しかし、と同時に、宗教において大切なことは、日常へと還元する方向性を見失わないこと、これです。私はこれを「外部の回路を開きつつ、今ここを生きる」と表現しています。
迷っているなら、しばらく距離をとられたらどうでしょうか。その「迷い」は、日常への還元力からきているのかもしれません。
こんにちは。内田樹です。
一昨日会ったお医者さんが「医療は身体に悪い」ということをおっしゃっていました。
手術は身体に刃物を入れるわけですし、投薬も身体に異物を入れるわけですから、場合によっては「何もしない」というのがいちばん本人にとってよいということもあるのだけれど、なかなかそれではご納得いただけないのです、というお話でした。
それと同じように「宗教は身体に悪い」ということもあるのだろうと思います。
こんなことを書くと、釈先生がびっくりされるかもしれませんが、それを言えば「スポーツは身体に悪い」というのは間違いありませんし、「学問は身体に悪い」のの見本も掃いて捨てるほどいます。
つまり、人間がやることはたいがいが「身体に悪い」のです。
それでも「身体に悪いこと」を止められないのは、「身体に悪いこと」を経由しないと得ることの出来ない「身体にいいこと」があって、それを差し引きそろばん勘定すると、「いいこと」の方が多かった、ということがあるからでしょう。
ですから大切なのは「身体に悪いこと」がもたらす害毒を最小化して、「よいこと」を最大化する「さじ加減」を間違えないことだと思います。
釈先生が書かれているように「絶対安全な宗教」などというものは存在しません(「絶対に身体を壊さないスポーツ」とか「絶対にバカにならない学問」がないと同じように)。
その宗教経験を多産なものにするか不毛なものにするか、有害なものにするか有益なものにするかは、ご本人が決めることだと私は思います。
そして、宗教経験を豊かなものにするためには、十分な市民的・知的成熟が必要です。
「すがる」とか「足を洗う」という表現から推して、あなたには主体的に宗教にかかわり、そこから豊かなものを汲み出す能力があまり豊かに備わっているようには見えません(ごめんなさいね、率直すぎて)。ですから、あまり宗教にはかかわらないほうがいいかなと思います。
はい。