Q:
釈先生、内田先生、はじめまして。
いつも、ご本やブログを楽しく拝読しています。
仏教では、人が“改宗する”ことは、どのようにとらえられているのでしょうか、教えていただきたく、投稿いたしました。
私は、カトリックの幼児洗礼者で、幼稚園から大学まで、カトリック系の学校に通いました。自分がカトリックの信者であることに対しては、かなり屈折したものを抱えてきました。それでも、「棄教」、「改宗」という選択肢については、あまり具体的に考えたことはありませんでした。それが、大学院で、社会学、民俗学、人類学などを通して、キリスト教と再会したことをきっかけに、クリスチャンであること自体への強烈な違和感や反発が内側から湧いてきました……。 「棄教」「改宗」も含めて、カトリックの信仰のことと、向き合う時期がきていると感じています。
ところで、2年ほど前から、仏教の本を自ら読みはじめました。釈先生、内田先生の本がきっかけとなり、最近は、吉本隆明さん、中沢新一さん、河合隼雄さんたちのお仕事からも学んでいます。そのおかげだと思うのですが、最近、宗教について、今までになかった感覚が二つ、芽生えてきました。一つは、信仰は、自分の意志で捨てたり選んだりできるのだろうか、という感覚です。
実は、一度だけ、お坊さまに相談したことがありました。そのときは、「あなたは改宗してはどうですか?」と割りとあっさりお答えをいただいてしまい、戸惑いました。相談したのは私の方なのに、「はい、わかりました」と改宗することに、急に違和感が湧いてきて、その上、自分が軽薄な人間に思えました。そして、もしかすると、改宗という事態が、ある人の人生のなかで起こる場合、それは起こるべくして起こるのであって、その人は、気づいたときには、もうそれを生きている、のではないだろうか、今の私のように迷ってしまううちは、まだ頭のレベルでチョコチョコと仏教を考えてるだけなのかもしれない、と、思いはじめました。
二つ目は、仏教とかキリスト教とか、どちらでもいいんじゃないのかな、という感覚です。よく、異なる宗教者の間で、行き着く先は同じです、とか言われていて、分かるような、でも納得いかない気持ちでいましたが、もしかして、本当に、そんなものなのかもしれない、という感覚が湧いてきました。幼児洗礼でしたので、遠藤周作さんがいうところの、「からだに合わない服を勝手に着させられて」、不自由な思いもしました。葛藤と無縁なところで生きている人を、軽やかでうらやましいと思ったり、冷徹にキリスト教批判できる人たちに憧れたりしてきました。
しかし、人生において宗教とはなんなのかを、人生の初期の頃から悩み考えるよう習慣づけられていたおかげで、私は、自発的に(敵知りたさに)、宗教を勉強し始め、親鸞さんやマザーテレサのような人生、ひいては、キリスト教というよりも、イエスという人そのものの人生との出会いに恵まれました。この私の歩いてきた道自体が、私にとってのクリスチャンの人生というか、宗教なのかとも思えてきました。
中途半端で苦しくても、なんとか生きていれば、あらゆる宗教の向こう側にあるものに繋がれるかもしれない、非宗教の境地が分かる日もくるかもしれないのだから、今を続けてて、いいのかも?と思えてきました。
釈先生が、持仏堂の6で、「浄土真宗の家に生まれたから、お坊さんになったのです」とコメントしておられましたが、それと似たようなことが、私にも起こっているのでしょうか。若い頃、人生の苦しみのなかで受洗した母が、娘の私にも幼児洗礼を受けさせた、だから、そのご縁は恵みとして受けとめて、わざわざ棄教、改宗しないで、いまのままで、好きな仏教も学び続ける、それでいいような気もしてきました。
そう思うなら、すっきりしていて投稿することないみたいなんですが、ここからが、今の本当の悩みです。学べば学ぶほどに、仏教が好きになり、仏教徒として生きる、ということに具体的な興味が湧いてきて、宙ぶらりの状態にやっぱり、決着をつけたい衝動に駆られるのです。たまにいく教会で、賛美歌を歌ったり、祈りの言葉を唱えるのには違和感はありません。小さい頃から馴染んでいて、呪文のようにでてきますし…。しかし、主イエスキリストを信じる云々という「信仰告白」だけは唱えることができず、とても惨めで、いたたまれない気持ちになります。自分が場違いな人間に思われます。
一方、習い始めて二ヶ月に満たないというのに、禅ヨーガをしているときの方が、無理がなく、心が自由なのです。こちらは自分からどんどん深めていきたいと思うのです。この気持ちと、上述してきたような二つの気持ちの間で、揺れて、困っています。このような私に、アドバイスをいただけませんでしょうか…。
(29歳 女性 ペンネーム sakura)
ええと、ひとつは、仏教で改宗をどう考えるか、ということですね。
比較宗教の視点から見ると、仏教は「改宗という事態」にそれほど重心をおいていないと言えるでしょう。ユダヤ教やキリスト教やイスラーム等に比べるとカテゴリーの境界性は緩やかです。
初期経典を読むと、他宗教(バラモン教やジャイナ教やアージーヴィカ教など)から仏教に改宗してくる人を歓迎してます。ただ、そのほとんどが出家者の場合であって、在家者には「別に改宗しなくても、仏教の教えを活用して生きていけばいいんですよ」と説いている場面もあります。
仏教において、近年の大きな改宗トピックスと言えば、インドのネオブディズムでしょう。アウトカーストの人々中心に数万人が一度に仏教へと改宗しました。カースト制度に苦悩する人たちが仏教の平等思想に共感したんですね。その流れは現在も続いています。
また、結婚の際にパートナーの宗教に合わせて改宗するというのは、世界中、多くの文化圏で見ることができます。例えば、日本仏教の場合においても、寺檀制度の名残があるので、「家の宗旨」に合わせるといった事情があります。これも一種の(無自覚的)改宗ですね。
さて、どのような宗教共同体においても「改宗してくれる」ことは喜びです (また「改宗される」ことほど宗教教団がいやがるものはありません)。ですから、その点は仏教教団も同様です。ただ、宗教というのは教団や共同体におさまらない部分がありますからね。そして仏教はその部分が比較的大きいと言えるんじゃないでしょうか。
もうひとつは、改宗に関するアドバイス、ですか。
う~ん、お話の内容を読む限りでは、今のところ改宗することもないんじゃないですか。
キリスト教にも、禅仏教みたいは部分もあるし、瞑想もあります。なにしろ人類史上最大規模の宗教ですからね、すそ野は結構広いんです。簡単に「仏教には合うけど、キリスト教はどうも合わない」とは言えないと思いますね。もう少しキリスト教のご縁の糸を手放さずにおいておいたらどうでしょう。
で、今のまま、しばらく仏教世界をさまよってもいいんじゃないですか。またキリスト教に戻るかもしれないし、居心地がいいのでそのままブッディストとして一生を送るかもしれないし。
また、sakuraさんに湧き上がってきた二つの感覚(「信仰は、自分の意志で捨てたり選んだりできるのだろうか」「仏教とかキリスト教とか、どちらでもいいんじゃないのか」)というのも、ごく自然な感覚であって決していびつなものではありません。そして、この二つの感覚と正反対の方向性(「信仰は自分の意思で決定すべきもの」「仏教、あるいはキリスト教でなければならない」)もsakuraさんの中にあるはずです。遠藤周作さんも「からだに合わない服を勝手に着させられて」と表現しましたが、他方「服にからだを合わせる」という方向性も捨てなかったでしょ。信仰告白だって、内面から表出されるという側面と、行為することによって内面が形成されるという側面があります。
二つの方向性に引っ張られる苦悩は、真面目に宗教と向き合えば必ず出てくる問題です。あまり考えないようなお気楽信者には起こらないジレンマなんですよね。その点、日本人クリスチャンはわりとそのジレンマを自覚しやすいと言えるでしょう。
あなたの場合は二律背反の正体がだいたい見えているわけですから、無自覚なダブルバインドじゃなく、自覚的二重拘束状態なのです。この自覚的ダブルバインドは、必ずあなたの人格を鍛錬しますから。
日本人クリスチャンは、ずっとこの二つのはざまに苦しんできました。それが日本人クリスチャンのすごいところでもあると思います。できればもう少し苦しんでください、わはは。
こんにちは。内田です。
僕も釈先生とまったく同意見です。
「改宗」とか「棄教」とか「背教」とか・・信仰というのは、そんなふうにデジタルに差異化できることではないと思います。
どんな宗教にもたくさん宗派や分派や異端がありますよね。
キリスト教にもカトリックのほかにプロテスタント諸派やアングリカン・チャーチやそのほか無数の宗派があります。
そのキリスト教そのものだってもとをただせばユダヤ教から派生したものですし。
イスラムだって、コーランにはアブラハムもイエスも出てきます。
原点にまで遡及すれば、どなたも「お隣さん」のようなものではないでしょうか。
ですから、同一宗教内部の「ちょっとした解釈の違い」とこちらとあちらの宗教の違いというのは、量的な差でしかないのではないか・・・と僕は思っています(手荒な断言ですけれど)。
というわけですから、sakuraさんは、「キリスト教カトリック内sakura派」というふうにご自分の宗教的立場をとらえたらいかがでしょう。
バチカンの教皇さまは多少むっとするかもしれませんけれど、キリストはぜったい怒らないです。
いや、ほんとに。
では、ますますご精進ください。
ご挨拶
「当山、インターネット持仏堂住職の釈徹宗です。ようこそのお参りです。
さて今般、研鑽・聞法のためしばらくお堂を留守にさせていただくことに致しました。
いつでもご自由にお参りくださって結構なのですが、応答の扉はいったん閉めさせていただきます。
みなさんから届いた〈問い〉のおかげで、いろんなことについて考えることができました。あらためて、『ああ、信仰や思想は違っても〈問い〉は共有できるんだなぁ』と実感できました。異宗教間でも、“生きること”“死ぬこと”“他者に寄り添うこと”への〈問い〉は理解し合えますから。
〈問い〉を投げかけてくださった皆様、お読みくださった皆様、お便りやお礼の言葉をくださった皆様、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。またお会いする日を楽しみにしております。」