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2005年10月19日

質問18 座禅の意識状態について

Q:
数年前、世間と交わらずに自室で座禅をしていて、ある程度成果が出たのですが、未だに蒙昧で、色んな怨恨が頭から去りません。
そういうものなのでしょうか?
それと明らかに座禅の影響であると思うのですが、日常生活で不意に帳が降りるように、瞼が閉じて頭に何らかの抑制的な力が加わるのですが、そういうことは既に知られていることなのでしょうか。座禅の意識状態が日常のそれに身体的な影響を与えるということについて御意見を賜れると幸いです。
(ちなみに今は社会の一員として過ごしております。)

                    (山田山男さん 26歳 男)

A:
ここはまず禅師にご登場願いましょう。私が何かとご教示いただいているN禅師です。

S(釈)「山田山男さんは、数年前から自室で坐禅をしているがいろんな怨恨が頭を去らない、と相談されていますがいかがでしょうか」

N「喝ーっ! 何のために坐禅をしているのか!『何のために』を忘れろ!!」

S「は、はあ、どうもすみません(うぇ~ん、山田のおかげで怒られちゃったよ~。)」

N「坐禅の状態で自己規制が弱まると、それまで抑制されていた負の感情が湧き上がる事が予想されますな。この質問はそれと近いものかもしれませぬ。その場合は、むしろ、お念仏がよろしいのではないですかな。」

S「釈尊が『仏教を学んだ者と学ばなかった者との違いは何か。仏教を学んだ者は第二の矢を受けないのだ』とおっしゃっておられます。山田さんがおっしゃるように怨恨の思い(第一の矢)は湧き出るものの、そこから次のステップ(第二の矢)である『復讐してやる』とか『何かで憂さ晴らしをしてやる』といった情念は少しずつコントロールされていくのではないでしょうか」

N「ふむふむ、そんなところじゃろう」

S「もうひとつ、この方は日常生活で不意に帳が下りるような感覚等が現れるようですが、こちらはいかがですか?」

N「わしの目にはそんなけったいなシャッターなどついておらんのでわからん」

S「は、はあ、はあ、そうですよね(うう、禅僧とのコミュニケーションは難しいのだ…)」


N「ま、そんなことが起こっても全然不思議ではない。しかし、『日常生活と坐禅では、心の使い方が逆になる』ということを知っておく必要はあるな」

S「私も禅によって、日常生活の光景がすべてひっくり返って、このまま社会適応できなくなるのでは、という不安に陥ったことがあります。でもそんなのは生理現象であって、当然起こりうるのだ。捨てておけ。ときちんと指導されたので大丈夫でした。これをなんかものすごい神秘体験と勘違いするとおかしな方向に行ってしまいますよね」

N「その通り。人間の認識などええ加減なものじゃからな」

S「禅を通して認識の枠組みが揺さぶられると、身体にもさまざまな影響がでる。しかし日常を一歩も離れていないと自覚することが肝要、ですね」

N「本来で言えば、坐禅への疑問は、坐禅をしながら、禅僧に直接尋ねるべきである。自己流の禅もいいが、その手のトラップに足元をすくわれるのでは、ドラッグの体験と大差ないわい。おまえさんも、知らないことは『知らない』ということが、質問者に全うから応じることになるということを忘れんほうがいいな」

S「お、恐れ入りました。肝に銘じます…(ううっ、山田ぁ…、お前のおかげで…)」

投稿者 uchida : 2005年10月19日 09:36

コメント

引きこもり禅をやっていて、アウグスティヌスや道元、親鸞、柳生宗矩などの、宗教的体験を語った書物が唯一の手引きでした。普段、世間的には全く座禅については伏していて、床に付ける踝が変色していることを人に聞かれるくらいです。
先日のことですが、S禅師の仰る「日常生活と座禅では、心の使い方が逆になる」という言が想起されることがありました。
自分が主に座禅をしていたのは、大学を中退してフリーターになってからで、その後、就職に失敗して、世間との接触がない状態で入れ込むこととなります。
その後、色々あって、力仕事をすることになるのですが、「悟り」とか宗教的な色々についてはどうでもよくなった状態ですね。
その後資格を得る目的で入った真宗系の大学に置きまして、先生の講義を受けることとなり、一度諦めた色々を社会の中で学び、自らの所見を述べる機会を頂けた一方で、自分の境遇の変化から本気でそれに取り組むことに抵抗を感じるという、ジレンマもあったという訳です。「山田山男」もその辺りに起因していると思われます。「断念することは、得ることである」だったか、うろ覚えですけど、ハイデガーか何かであったかと…。
これから、「第一の矢」を受けても、それが何だか分からないような、腑抜けたおっさんになりたいと思っています。
入学式と前後して、大学の掲示板で、授業の担当講師が先生であるのを確認した際、「阿弥陀に愛されてる」と調子に乗ったものでした。

投稿者 daiaku [TypeKey Profile Page] : 2006年01月14日 00:58

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