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(その14・おまけ1)

途中で止まったままになっております「宗教について」の続きです・・・。

 

 

【世界を動かす宗教】

十九世紀から二十世紀の世界を動かしたのは、ご存知のように、キリスト教国でした。よく「先進国の中でキリスト教国でないのは日本だけ」と言われます。まあ、そろそろ中国をを加えなければならないのかもしれませんが。

また、「キリスト教がものすごく力をいれながら失敗したのは日本とインドだ」ともいわれます。同じ東アジアでも韓国では成功しています。

確かに日本はキリスト教国とはいえません。

でも私は、キリスト教が、よく言われるほど、土着していないとは思いません。もはや「天」の概念より、「神」の概念のほうが一般的じゃないですか。「天」は日本がずっと制度を取り入れていた中国の軸となる宗教的概念です。

教育関係や倫理観などもかなりキリスト教化していますし、ものすごくゆっくりですが、土着しているように思えます。

そして、なにより資本主義や民主主義はキリスト教理念がつくりあげたものですから。

つまり、現在の先進国(と呼ばれている国)は、すべてキリスト教文明で運営されているわけです。

それなのに、私たちはあまりにもキリスト教について知らなさすぎる…。その本質的なところがわかってないから、自分が抱える苦悩の正体がつかめないのかもしれません。

 

(1)近代文明をつくり上げた人類最大の宗教:キリスト教

キリスト教とは、「イエスを神の子と信じ、メシア(救世主)と信じる=<福音(ゴスペル・エヴァンゲリオン)>」という制度宗教です。ユダヤ教の中で、ナザレのイエスという人物を「メシア」だと考えた人たちのグループです。

ユダヤ教では、「メシア」が現れるのを待っていたのです。でもみんなが待っていたのは、ダビデやソロモンのような「メシア=ユダヤの王」だったのです。

イエスという人は、そのような政治的期待には応えませんでした。だから、メシアが現れたといううわさに期待したユダヤ民衆の大部分は、イエスの話を聞いてがっかりしました。

彼が説いたのは、「神への信仰」を軸とした「愛と許し」の実践だったからです。

おそらく、たとえこれから人類の歴史がどれほど続こうとも、「あなたの敵を愛しなさい」という隣人愛を超える愛の概念はありえません。まさに究極の愛です。

ということで、初期からキリスト教は「政治と宗教」とを分けて考えていました。これはイスラームとは大きく違う点です。

文化的にはずっと各上だったイスラームには「近代」は生まれず、キリスト教が「近代」を創造しリードし続けたのはこのためでしょう。

実際、キリスト教国がいち早く「世俗化」すなわち「宗教解体」に取り組むことができました。

キリスト教には、「普遍」や「絶対」という概念があります。

なんといっても、これがすごく大きい特徴です。「普遍」や「絶対」は、造物主でありすべての人類に共通の唯一なる<神>が存在するからこそ生まれる概念なのです。

この「普遍」や「絶対」という概念があるからこそ、キリスト教国は世界のあらゆるところに自分たちの理念を押しつけて回ったのです。

ですから、たとえ世俗国家になったとはいえ、中軸の<神>や<信仰>を、代用品である「理性」・「ヒューマニズム」・「自由」・「正義」・「平等」などに置き換えているだけで構造は同じです。

また、「(唯)一神教」は異質を支配する力がこの上なく強い、ということも注目です。キリスト教がもつ「統一規格」への志向性もうなずけます。

かくして「近代」が伝道されていったことはご存知の通りです。資本主義も社会主義や共産主義も、キリスト教の変種だと見ることだって可能ですから。

 

(2) 誇り高きイスラームという生き方

この、世界をリードし続けた<近代>から<ポスト近代>への移行にNO! という道を模索しているのが、イスラーム社会です。

今や、世界を揺さぶる波にまでなりつつあります。

現在のイスラーム・アラブ諸国を見ると、近代文明やポスト近代社会へのあこがれと反発というコンプレックスがよくわかります。

そして、このイスラームがもっている問題意識は、私たちの「生きる力」に大きなヒントを与えてくれそうです。

イスラームとは、「ムハンマドを最後の預言者とし、神に絶対服従する生き方」です。最も完成された一神教、といわれますが、キリスト教的な<宗教>という概念には当てはまりません。日常生活から、法律や政治や経済に至るまで、「神の意思」を基軸とした<イスラーム>というスタイルがある、と考えなければなりません。

日本への影響は、ごくわずかです。隣接するところに拡大していくので、遠隔地の日本へは伝播しにくいですね。

意外かもしれませんが、ムリに伝道しないんですよ。

でもたとえ日本への伝道に力を入れたとしても、政治・経済・法律から生活全般にわたって関わるという点は、日本文化には受容しにくそうです。アラビア語じゃないとダメな部分も多いですし。全然リメイクの余地がないもの。

ご存知のように、イスラームの人たちは、現在のアメリカ経済を中心とした世界を統一規格化しようとする動きに、抵抗しようとしています。

私たちは、無抵抗に近代文明を受け入れてきましたが、ムスリム(イスラーム教徒)たちは近代文明そのものに懐疑的です。

決して、イスラームの近代化が遅れているわけではありません。一時期、イスラーム諸国も近代化を目指し、ある程度のレベルまできていたのです。

でも結局、近代からポスト近代への移行を拒否し、さらには世俗国家になることに背を向け宗教国家の再編という方向を選択しました。中には、エジプトやトルコのように、政教分離で運営している国もありますが。

イスラームはもう一度自分たちの生き方を取り戻そうともがいています。当然、近代文明およびポスト近代へのあこがれも強くあるようです。なぜなら、近代は「欲望肯定システム」だからです。

やはりムスリム(=イスラム教徒)だって、便利で楽な生活をしたいと思っているのです。

ただ彼らは宗教体系によって自我が支えられています。「はたしてこの行動はイスラムの教えに沿っているのか? イスラムに反してはいないか?」ということをすごく気にするのです。

例えば、世界の経済学者がこぞって「失敗するに決まっている」と考えていた「イスラム銀行(=利子が一切ない銀行。でも資金運用して利益を分配する)」の成功はとても興味深いものです。

ムスリムたちは、安定した利子を得ることよりも、「利子はいけない」という『クルアーン』の教えに従っていることに対する安心感を選ぶのです。

これは政教分離を基盤とする近代システムの根幹そのものに否(いな)を突きつけようという姿勢の現れなのです。

ムスリムたちは、「イスラームこそが宗教の最終形態だ」と自負しています。「宗教に関しては、自分たちは最高峰にいる」、「しかもこれは借り物などではなく、我々のオリジナルだ」という強さをもっています。

実際、「神」に支えられる自我ほど強いものはありません。これには勝てない。

やはり、唯一神教(モノシイズム)がキリスト教国やイスラム諸国における人々の自我を強固にしているのは間違いありません。

 

(3)宗教は社会よりもデカイ

持仏堂にもでてきました「イサク奉献」に代表されるように、宗教は本質的に「社会」という体系には納まりきらない<不合理>を宗教は内臓してます。つまり、宗教領域は社会の領域より大きいわけです。社会さえ超える体系をもつ宗教という領域であるがゆえに、「宗教によって成り立った自我が一番強い」のです。

でも宗教は強いだけに、あぶない。これもみなさんご存知の通りです。

たしかに、古今東西のあらゆる宗教は、人間の幸せを追求してきました。しかし、「宗教が人間を幸せにする」というのは、宗教の一面でしかありません。特定の人々が、「宗教」の名のもとに「幸せ」を追求することで、それ以外の人々とのあいだに葛藤を生みだすという側面も宗教にはある、ということを認識しておくべきでしょう。

社会問題や金もうけをしたら「ニセモノの宗教」だと判断するよりも、どんな宗教にも光と影、薬と毒の両面性があると考えておいたほうが適切だと思います。

ですから、ある意味、日本のように「宗教を笑える」ほど成熟した宗教性であるということは、幸せなことです。

「宗教こそが、最後まで譲ることができない最後の一線」という状態では、宗教を笑うわけにはいきません。それどころか、宗教がもつ暴力装置が動きだすのです。人類にとって、宗教による暴力システムは最強である、ということは歴史が語る通りです。

 

(4)「鎮め」の方向性と「還元力」

<宗教>は、「社会と異なる価値体系」をもち、「不合理」と直結しているがゆえに、根源的な生命力が呼び起こされます。また行動や行為に意味を与えるという点において、強い自我を形成します。

つまり、方向が少しずれると、反社会的になるということです。

<宗教>による「生きる力」と、「暴力」は紙一重です。

そこで、<宗教の力>を「鎮め」の方向へと機能させることを提案します。<宗教>は「煽る」方向への力と、「鎮める」方向への力をもっています。

「煽る」への推進力によって、社会変革や自己変革が生まれます。

逆に、「鎮める」方向への力は、身心をコントロールする機能を果たします。

現代において、<宗教の力>が必要であるとするなら、後者の機能ではないでしょうか。

すでの述べましたように、近代は「煽る」装置でした。またポスト近代は、「もう煽られないよ」とばかり、「私の領域」を確保することばかりになってしまっています。

<宗教の力>で「鎮められていく」ことによって、身心をコントロールすることの重要性を再認識することが必要であると思われます。

また、<宗教>という非日常体系をもつ世界に「行く力」ばかりが注目されますが、そこから「戻る力」も重要です。<制度宗教>には、ちゃんと「日常に戻る力」システムがあります。いわばこの「還元力」こそ、社会生活のバランスを失わない力です。

「日常へと還元する」力があるからこそ、私たちは「社会と異なる価値体系」や「不合理」を「生きる力」にすることができるのです。

 

                       次回、「ニッポンの宗教」です…。

 

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