(その14・おまけ2)
【ニッポンの宗教について】
(その1)で、日本はキリスト教国とはいえません、と書きましたが、それでは仏教国か? といわれると、…微妙です。でもアジアの仏教国では、「日本も我われと同じ仏教国なのでしょ」と考えている人が多いように思えます。
さて、人間の欲望を満足させるためにテクノロジーは発達してきました。近代では「諦める」という態度は罪でさえありました。「諦めるな!キミには無限の可能性がある」「諦めなければ奇跡は起こる」と煽るのが近代でした。
でも、「諦める」ということは、すなわち「苦悩」を引き受けることです。「不合理」を受容することです。
このように「自分の欲望をコントロールしたほうが生きやすい」と教えてくれる文化を、大村英昭氏は、<鎮めの文化>と呼んでいます。
<鎮めストーリー>には、「執着を捨てる」という形態や、「何か大いなる存在によって無条件に許されていく」という形態があります。前者は仏教タイプ、後者はキリスト教・イスラームタイプです。
日本人の宗教性を支え、発達させてきた代表選手として、<仏教>と<神道>を考えてみましょう。
(1)目覚める宗教・仏教
仏教のアウトラインは持仏堂でさせていただいております。仏教の本線は、「心身のトレーニングによって、自分を起点としない認識が可能になる。それは苦を克服する道だ」という感じです。あらゆる現象を、自分の都合を交えずに観ることができたらブッダ(目覚めたひと、さとりをひらいたひと)です。
ところで、みなさん、年より若く見られるとうれしいですか? あ、やっぱりうれしいのですね。でも若く見られたいという心情は、「若いほうが良い」という価値観に基づいていますよね。そんな価値観に疑いはありませんか? その上、年相応に見られたくない、ということは「自己否定」でしょ。現状を否定しているわけですから。
(あっ、オレ、今、若く見られて喜んでいるぞ。ということは、今の自分をオレは嫌っているのかな)、と思うことはありませんか?
病気療養ではないダイエットだって「自己否定」です。今の自分を自分自身で受け入れられないということです。
「もっと細い私でないと、私は私を認めるわけにはいかん」と、いうことです。
自分では、自分を否定していながら、他人にちょっと否定されたら傷つく、腹立つ、というわけです。
―ラディカルでアナーキーな仏教思想―
仏教は心身をコントロールし、自分の都合を最小限にすることによって苦悩を克服するという宗教です。
最終的には、「自分」そのものという枠組みを取り払うところまで行きます。
そのためには、自分を構成するもの、つまり共同体とか所有物とか家族とかはないほうが理想的な環境ということになります。
「そんなやつばかり増えたら国がほろびるぞ」とか「これでは現実の社会問題は解決しないのでは」などとお感じになったあなた、その通りです。
シャカの国もほろんでしまうもんね。
仏教がオリジナルの形態で機能し続ければ、社会や国家など成立しないかもしれません。
―ポスト近代を生きる力としての仏教―
仏教は近代文明の展開にほとんど寄与しませんでした。
ということは、逆にいえば、近代社会が生み出す「私」の苦悩を解決するヒントがあるのではないでしょうか。
一応、ポスト近代において、仏教は世界の注目株だということはいえます。例えば、なんかエコロジーっぽいし。仏教は、自然の支配を目指した近代とは違って、人間も自然の一部として共生する方向性をもっています。非暴力ですしね。無抵抗というか。近代超克の思想は内包していそうです。
でも現実には、仏教者はどんどん少数派になっています。ヒンドゥーのほうが、大きいくらいですから。でも、<仏教>がもつ意味は人類にとって、大変大きいと思います。
(2)還元する力・神道(神祇)
<神道>は日本民族の間に自然に生まれ育った、伝統的な神祇信仰です。
もともと名称さえありませんでした。仏教が輸入されたので、区別するために名づけたようなものです。
<神道>に教義や教典といったものは、特にありません。『万葉集』には「かんながら(神道のこと)ことあげせぬ」とあります。「ことあげ」とは「理論化・体系化する」ということで、そんなことをしないのが神祇信仰だ、というわけです。
もちろん、布教活動も行いません。
これがいいでしょ。だいたいなんで、人に自分の信仰押し付けてくるのでしょうか。ただでさえ、「宗教の人」ははしっこ歩いて欲しいのに。訪問伝道だけはやめて欲しいなぁ。
そもそも「私が生きるためには神はなくてはならない」、「神なくして私が生きる意味はない」という人にとって、やはり神は間違いなく存在します。
「別にいなくてもいい」人には存在しません。信仰の対象となっている仏も同じです。
「私のために仏は存在する」といった親鸞の言葉は完璧に宗教の本質をとらえています。
でもその「神」や「仏」を人に伝えようとすれば、必ず欺瞞が生じます。
そもそもそんなこと伝道する必要があるのでしょうか。
一神教では伝道が本質的に組み込まれています。神道では伝道の概念はありません。
神道のように、【ただ「開かれた場」だけを用意し、受け入れ体制を備えておいて、求める人がいたら伝える。そして、歴史に淘汰され、本物だけが残る】ってのじゃだめでしょうか?
−よごれたらきれいに−
もともと日本各地で自然に発生した宗教儀礼や信仰が、<仏教>という異物が入りこんだために、その異物と融合されて出来上がったのが<神道>です。
ですから、固有の宗教思想があるわけでもありません。もともとは、神社などの建造物や様式もありませんでした。
それじゃ、何があるのか。それは、ただ原理だけがあったのです。
どんな原理かといいますと、「よごれたらきれいにする」ということです。
<神道>はすごくきれい好きな宗教です。いつもクリーニングを心がけている。
「よごれ」とは、<ケガレ>です。<ケガレ>には「血」に関する<赤いケガレ>と、「死」に関する<黒いケガレ>があります。「出産」に関する<白いケガレ>を分けて考えるときもあります。
そしてケガレたら、きれいに。<禊>や<祓い>で、ケガレを浄化します。
浄化方法は、火を使ったり、水を使ったり、塩を使ったりします。
このようにもともと<ケガレ>は、一時的な状態です。「気枯れ(=気というエネルギーが枯渇している状態)」や、「毛枯れ(=毛は農作物)」などの語源が考えられますが、すべてはまたもとのニュートラル状態へと還元されていくのです。
そう、この<還元力>こそ神道の本質ではないでしょうか。
日本には原罪の概念はありません。かといって、性善説というわけでもない。つまり、人間の本性は白紙状態であるという生命観です。
この白紙に汚れがつけば、きれいにする。だから、常にニュートラルに還元しようとする力が働くのです。
−カミとは「ただならぬもの」−
<神道>の「カミ」は、アブラハム宗教がいう創造主、唯一絶対である「神」とは別物です。
日本のキリスト教団が、Godを「神」と和訳したことはやはり結果的には弊害のほうが多いのではないでしょうか。
新井白石は、語源的な意味から「カミ」は「上」であると主張しました。また本居宣長は、「カミ」とは「尋常ならずすぐれて徳のあるもの」と解釈しました。
「とんでもないくらいスゴイもの」という感じでしょうか。ですから、「火」とか「水」も「カミ」でありうる。とんでもなく強かったヤツとか、すげえ大きな仕事をした人とか、カッパなどの妖怪でも、「カミ」。
<神道>の「カミ」は、大別すると山や木などの「自然現象を神格化した自然神」と、出産や家など「人間生活に大きく関わっている生活神」、そして英雄や聖人などの「人間が神格化した人間神」に分けることができます。
「ああ、唯一絶対なる神、とかいうのはイメージできないけど。そんなカミならわかる」という方は多いのではありませんか。
−ハレの状態:マツリ−
<祭り>は神道にはかかせない要素です。カミを招いて、接待をしたり、交流したりします。
祭りは<ハレ>です。「ハレの日」や「晴れ着」の<ハレ>です。「張れ(=ケガレとは逆に、エネルギーが満々と放出される)」でもあります。
<ハレ>も<ケガレ>も、非日常の一時的状態である点は同じです。また、日常へと還元していくのです。
−「性」の力−
<神道>には、ヒンドゥーのような性器信仰が見られるます。「陰陽神」や「道祖神」などです。
<神道>はセクシュアリティに寛容な宗教です。産霊(ムスビ)という概念があって、生産・出産・生殖・性交などは神秘の力だ、と考えるからです。
『古事記』や『日本書紀』を見てみると、かなりインセスト・タブー(近親婚や近親相姦のタブー)が薄弱であることがわかります。
日本の神祇文化において、抑圧が強くないのは、性に関することだけではありません。もともと戒律らしきものが希薄なのです。
世界的に見て、どう考えても宗教性が豊かで信仰深い日本人。その日本人が宗教的要素の中で、最も苦手なのが「戒律」なのです。これはデータなどではっきりでています(逆に「儀礼」とかは得意)。
本来、さまざまな戒律が発達している仏教でさえ、日本人の手にかかれば解体されてしまうのです。
この話、もう少し続きます…。