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その9(2003年12月1日)

 

内田 樹から釈先生へ

 

釈先生、どうも間狂言をありがとうございました。おかげでだいぶ「休息」をとることができました。感謝致します。

 

さて、釈先生に振っていただきました「日本人の宗教性」という論件について、私もいろいろと考えていることがありますので、いささか管見を述べさせて頂きたいと思います。

 

新渡戸稲造は近代欧米の人々の倫理をキリスト教が基礎づけているとしたら、日本人の道徳心を担保していのは「武士道」であると考えた、という話を釈先生は二度引いていますけれど、私もこの指摘はたいへんに重要な考想を含んでいると思います。

 

釈先生は宗教を「制度宗教」「自然宗教」「市民宗教」の三つのカテゴリーに分けて、自分を「無信仰」だと思っている日本人たちの多くは(ウチダを含めて)「市民宗教」の無意識的な実修者ではないかと書かれています。

ご指摘のように、私も外国で「仏教徒か?」と問われるといつも即答に窮します。

内田家の菩提寺は山形県鶴岡にあり、そこの「内田家累代の墓」には曾祖父母、祖父母、父や伯父たちの遺骨が収められています。

私もいずれそこに収まって曹洞宗のお坊さんから戒名を頂いて「成仏」させていただく予定です。

しかし勤務先はプロテスタントの大学で、ここでは教授会の開会に際して、チャプレンが「神様が私どもの議するところを御心にかなうようにお導き下さること」を祈祷し、私どもも唱和して「アーメン」とつぶやくのであります。

もちろん入学式卒業式などはキリスト教の礼拝のままに賛美歌とパイプオルガンの響きのうちに執り行われるのです。

一方私が稽古しております合気道は、開祖植芝盛平先生が大本教の信者で、出口王仁三郎師の側近の一人であった関係から、神道の影響が少なくありません。稽古の中で祝詞の一部を唱えることもありますし、「天の鳥舟」という神話的な名をもつ呼吸法も行われています。もちろん道場の正面には神棚があって、道場の出退場時に神棚に向かって座礼をします。

ですから、わが合気道部の合宿のときは、お稽古では神道の儀礼を行いながら、お稽古のあとにご飯を食べるときは「食前の祈り」を唱えて、ちゃんと「アーメン」と言ってからお箸を手にし・・・というシンクレティズムが実践されているわけです。

 

これをして「無宗教」ということはできません。むしろ、ごらんの通り日本的シンクレティズムは「過宗教」というべきなのかもしれません(仏教徒と神道信者をたすと2億人になるというのは大笑いですが)。

 

私はこういう宗教的な態度を悪いものだとは思いません。

ここに伏流しているのは、「世界と存在を超えるもの」に対するディセントな構えです。

違う言い方をすれば、私たちは「世界の創造に遅れてきた」という自覚です。

「ヨブ記」の中で「主」が告げるように、人間の人間性の核心にあるのは「私は私の起源に先んじて何であったかを知らず、死後に何であるかを知らない」という覚知であると私は思います。

喩えて言えば、「どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた」というのが人間の立ち位置だと思います。

このときに、「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルール」があるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。

レヴィナスはこの「私には知れないルール」のことを端的に「善」と名づけています。

「善」という言葉は通常は、世界内部的な価値基準であると考えられていますね(その典型が『道徳の系譜』や『善悪の彼岸』のニーチェです)。

レヴィナスの「善」概念はニーチェのそれとはまったく違います。

「善きもの」とは何か?と言う問いをレヴィナスは立てません。

「善きもの」とは存在者を超えるもの、存在者を存在せしめた当のもの、「存在するとは別の仕方」のものです。

存在者であり、有限者である人間が「存在とは何か?」「無限とは何か?」という回答不可能な問いを「立てることが出来た」という事実そのものをレヴィナスは「贈り物」ととらえました。

ですから、レヴィナスにおいて、「被造物である」とは「贈り物をすでに受け取ってしまった」という「贈与についての絶対的遅れ」を意味しています。

多くの人類学的研究が教えているように、人間は贈与に対して「反対給付」の義務を払拭することができません。

レヴィ=ストロースによれば、むしろ「反対給付義務から逃れることのできないもの」というのが種としての「人間」についての究極の定義なのです。

ですから、信仰とはこの「決して完済しえない被贈与感」のことであり、「善」とは「私が存在するという当の事実を私自身は基礎づけることができない」という覚知をもたらす契機といううに言い換えることができるだろうと思います。

 

話がややこしくなりましたが、私は釈先生が引用してくださった、「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師の歌の話をしているのです。

 

この歌には宗教性の二つの条件が書かれています。

ひとつは「なにごとのおわしますか」を「知らない」という人間の側の知的節度が表明されていること。

その「私を超えるもの」に対する「絶対的なビハインド」が「かたじけなさ」という実に含意のある言葉で表現されていることです。

 

「かたじけない」(忝い、辱い)とは「恥ずかしい」「恐れ多い」「過分の恩恵や好意を得て、身にしみてありがたい」といった複雑な含意をもつ言葉ですが、「神に対して絶対的に遅れていること」の人間的感情をひとことでこれほどみごとに表す言葉を私はほかに思いつきません。

 

釈先生は「おかげさまで」という挨拶に主語がないことを宗教性の重要な指標として示されていましたが、私もその通りだと思います。

「感謝をしたいのだけれど、誰に感謝してよいか分からない。なぜなら、『誰に感謝してよいのか分からない』という事実こそが人間が『世界の創造に遅れて到着したこと』の証拠であり、その事実に対して人間は『感謝したい』と思っているのである」という順逆のねじれた仕方で人間の人間性=宗教性は構成されているからです。

 

ですから私は「誰に対して、どのように感謝してよいのか、私には分かっている」と言い募る人間を「宗教的な人間」であるとは思っておりません(こんなこと書くと、世界中の宗教家にケンカを売るようなものですが)。

「私はどうしてよいか、わからないので、とりあえず手近のものをいろいろ集めて感謝の意らしきものを表してみました。どーも、 不細工ですみません」という祈りの儀礼に対する「恥じらい」が宗教の純良さを担保するものではないかと私には思えるからです。

 

ですから、日本人が制度宗教を苦手とするのは、その根本に「これが『ワンアンドオンリー』の完全なる宗教儀礼であって、これだけやっとけばもうザッツオーライ」という考え方そのもののうちに「神への不敬」を感知するからではないかと思います。

 

自分自身を顧みて思うのですが、私はかなり宗教的な人間だと思います(そうじゃなければ、ユダヤ教思想家の本を25年も研究し続けたり、神道系の武道を30年も実修したりはしないでしょう)。でも、特定の宗教団体に所属して、そこが実定的に定めた礼法「だけ」を守ることに対しては強い抵抗を感じるのです。

「かたじけなさ」を表明するためには、合掌し、お灯明をあげ、線香を焚き、賛美歌を歌い、聖書を読み、お経をあげ、瞑想をし、和歌を詠み・・・もう「できることは何でもやっちゃう」というのが人間の信仰心のほんらいの姿ではないでしょうか。

 

レヴィ=ストロースは「手近にあるものをなんでも使ってものを作ること」を「ブリコラージュ」と呼び、それを「野生の思考」の一つの特徴として挙げています。

その意味では、私は宗教的には「野生の人」なのかもしれません。

 

武士道と宗教の関連について、もっと書くつもりだったのですが、紙数が増えすぎましたので、また次回に。

 

では

 

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