2005年11月06日

悪い兄たちが帰ってゆく

TFK22

■ 「懐かしさ」の幻影
『会社は株主のものではない』(洋泉社)拝受いたしました。
さっそくまず平川君の書いたところをそうだよそうだよと激しく頷きつつ読みました。
功成り名遂げて「ゴールデン・パラシュート」(読者のみなさんへの注:大金を儲けて早々とリタイアしてゴルフやらパーティ三昧の暮らしをすることらしいです)したあとの索漠たる心象風景・・・というところがなかなかいい味でした。
ハリウッド映画には、そういうつまらなそうな引退生活を送っている「元詐欺師」とか「元殺し屋」に昔の仲間が声をかけて「どうだい、また昔取った杵柄で一仕事やらないか」というところから話が始まる・・・というパターン、結構多いんですよ(『オーシャンズ12』とか『隣のヒットマン』とか)。
面白いのは、そういうオッファーをされた「パラシューター」のみなさんが、内心ではわくわくしているのに、表面は渋い顔をして「やだよ」と一応は断るところ。
ここで「えー、やるやる」というリアクションをしちゃうと、「パラシュートしたこと」そのものが間違った選択であったことを自分で認めることになってしまうので、そこだけは意地を張るんです。
『キル・ビル2』のマイケル・マドセンもそうでした。
また昔の骨折り仕事に戻るのかよ・・・やだなあと言いながら、いきなり「生き生き」してくるんですね、これが。
バーンアウトと死ぬほどの退屈さの間を往復するくらいなら、適度に刺激的で適度に暇な生活を過ごす方策を考えればいいのに・・・
アメリカの人はそういう折衷案みたいなものを考えるのが心底苦手みたいですね。
ま、それはさておき。
どういうシンクロニシティか「昭和33年の風景」についての映画についてコメントする仕事が来ました。
西岸良平さんの『三丁目の夕日』を映画化した『Always 三丁目の夕日』という作品です。
その映画を見て、とても不思議な気持ちがしました。
この映画のスタッフたちは監督をはじめぼくたちよりもはるかに若い世代で、そのほとんどはリアルタイムの昭和33年を知らない人たちです。
にもかかわらず、この映画にはディテールの時代考証的精密さに異常なまでの努力が投じられています。
その結果、この映画はリアルタイムで昭和33年を生きていた子供が、長じて映画を作った場合にも「たぶんこんな映画になったんじゃないか」というような映画に仕上がっています。
この情熱はどこから由来するのか、なんだか不思議です。
不思議と言えば、そもそも西岸良平の原作漫画も不思議なんです。
この漫画が『ビッグコミック』に連載開始されたのは、1974年のことです。
漫画の舞台である1958年の16年後。
その漫画を二十四歳のぼくはリアルタイムで読んでいたわけですけれど、そのときに「ああ、懐かしいなあ」と思いました。
それからさらに31年経って、この映画を見てぼくはまた「ああ、懐かしいなあ」と思いました。
そのときに、「これって、ちょっと変」と思いました。
1958年の東京の風景に対してぼくが1974年に感じた懐かしさと、2005年に感じる懐かしさが「同じ」というのは変でしょう。どう考えても。
「懐かしさ」というのが回想された時代との時間差の関数であるとしたら、1974年と2005年では31年分の経年変化があってしかるべきです。
それがない。
映画評は字数が短いので、十分には分析しきれなかったのですが、そこにぼくはこんなふうに書きました。

「もしかすると私が懐かしんでいるのは実在したものではなく、無時間的に浮遊している『国民的幻影』ではなかったのでしょうか?
そして、それが『幻影』だからこそ、その時代を経験したことのなかった若いフィルムメーカーたちも同じ密度、同じリアリティをもってそれを共有し得たのではないでしょうか?
そう考えなければ、この映画の細部にゆきわたる驚くべき時代考証的正確さを説明することは困難です。
おそらく私たちには『一度として所有したことのない過去を懐かしく思い出す能力』が備わっているのでしょう。この映画はそのような想像力が生み出したものだと私には思われます。」

ぼくは小津安二郎の映画が大好きなんですけれど、小津の映画に出てくる終戦直後の美しい湘南海岸や銀座の「若松」や北鎌倉の竹林なんか、ぼくは見たことがない。
にもかかわらず、ぼくはそこにはげしい「懐かしさ」を感じます。
でも、それがぼく自身の中に根拠をもつ懐旧の情であるはずがない。
おそらくは小津安二郎自身がそのような風景に注いだまなざしの暖かさにぼくが同調していることのこれは効果だと思うんです。
人間は他者の感動に感動することができる。
このことを指摘したのは『悲劇の誕生』のニーチェです。
ニーチェはギリシャ悲劇の「コロス」(合唱隊)の機能の分析を通じて、ギリシャ悲劇が描いている「劇的経験そのもの」には現代人はもう二度と触れることはできないけれど、劇的経験を追体験している古代ギリシャの観客の感動には感動することができるという卓見を述べました。
経験そのものは時代とともに風化し消滅する。けれども、ある経験を生きた人間の感動は無傷で継承することが可能だ、というのが『悲劇の誕生』の重要な主張でした。
ニーチェがいったい何が言いたくてこんなことを書いたのか高校生のぼくにはまったく理解が及びませんでしたが、この年になると「ほんとそうだよな、フリードリヒ」と言いたくなります。

■ 模造記憶と共同記憶

平川君は前便でこう書いていました。

「ぼくたちが書く自画像は、無意識ではなく、意識的にトラウマを作っているんじゃないかと思うことがあります。
意識的なトラウマとは形容矛盾ですが、それでも意識的に作った自画像というものがぼくに与える効果は、まさにトラウマと呼んでもいいかもしれません。」

「トラウマ」というのはフロイトの定義を勝手に言い換えると「それを言語化することができないという当の事実が主体を基礎づけている記憶」のことです。
平川君が書いているのは、その「それを言語化することができないトラウマ的記憶」を(それと知らずに)構築したのは実はおのれのトラウマ的基礎づけを渇望していた主体自身ではないか・・・ということだと思います。
これは洞見ですね。
存在しなかった過去の経験は「言語化できない」(当たり前ですよね、存在しなかったんだから)。だからこそ、それは「トラウマ」たりうる(人間というのは「思い出すことのできない過去の記憶を抱えている」というかたちでその人格を成り立たせているわけですから)。
だから、人間は「存在しなかった過去」を「思い出すことのできない過去」として記憶することになる。
なるほど。

大瀧詠一さんが前に言ったことですけれど、1960年代のはじめにリアルタイムでビートルズを聴いていた中学生なんかほとんどいなかった。にもかかわらず、ぼくたちの世代は「世代的記憶」として「ラジオから流れるビートルズのヒット曲に心ときめかせた日々」を共有しています。
これはある種の「模造記憶」ですね。
でも、ぼくはそういう「模造記憶」を懐かしむ同世代の人たちに向かって「嘘つけ、お前が聴いてたのは橋幸夫や三田明じゃないか」なんて言うことはないんじゃないかと思うんです。
記憶というのは事後的に選択されるものであり、そこで選択される記憶の中には「私自身は実際には経験していないけれど、同時代の一部の人々が経験していたこと」も含まれると思うのです。
含まれていいいと思うのです。
「潮来笠」と「抱きしめたい」では、後者の与えた世代的感動の総量が大であったために、結果的にぼくたちの世代全体の「感動」はそこに固着した。
ということで「いい」のではないかと思うのです。
自分が身を以て経験していないことであっても、同世代の中に強い感動を残した経験であれば、それをあたかも自分の記憶のように回想することができる。その「共同記憶」の能力が人間の「共同主観的存立構造」(@廣松渉)を支えているのではないかと思うのです。
「ベル・エポック」というのは事後的な呼称ですよね。
「ベル・エポック」を生きているときは、「今はベル・エポックだなあ」なんて誰も思ってやしません。「最近、けっこう楽しいなあ」と思っていても、人間は欲張りだから「来年はもっと楽しいだろう」と期待していて、今日のその日を感謝とともに生きたなんてことはない。
でも、その「より美しい年」であるべき「来年」に世界大戦とか大恐慌とか全体主義体制とかが出現してきてがっかりしている人間は、回顧的に「今にして思えばあの年こそは『美しい時代』だったな」「ほんとだね」というような共同主観的回想を共有するようになる・・・
そういう仕掛けではなかったのでしょうか。
「現代という時代について、その渦中にいるものが何かを知るということは原理的にできないことかもしれません。」と平川君は書いていますね。
ほんとうにそうだと思います。
でも、渦中にいるときは「現代の意味」がわからないんですけど、今から二十年後(まで生きてる可能性は低いですけど、ぼくたちの場合)の75歳の自分が回想している2005年がどんなふうに見えるかということは想像力の範囲だと思うんです。
変な話ですけれど、「現代の意味」はわからないけれど、「想像的に回顧された過去(としての現代)の意味」ならわかる、ということはあるように思います。
「人間の老成と、社会の衰退がパラレルに進行する時代」という平川君の形容は、おそらくそのようにして(今よりもっと老人になったぼくたちが)想像的に回顧している現代の描写じゃないかとぼくは思いました。
その感覚がぼくにはすごくよくわかります。

■ 自分たち自身を弔うために

時代を弔うための「作法と礼儀」について平川君は書いていますけれど、ぼくたちが今生きているこの時代を正しく弔うためには、想像的に死ぬ必要がある、そんなふうにぼくは思うんです。
この「想像的に死ぬ」ことでリアルタイムを回想形で語る力をしてぼくたちは「歴史意識」とか「歴史感覚」というふうに呼んでいるのではないでしょうか。
この数日司馬遼太郎のエッセイ『以下、無用のことながら』を寝しなに読んでいるんですけれど、ここに収録された司馬遼太郎の「弔辞」はどれもとてもいい味です。
そのときに司馬遼太郎という人は、そのつどの現在を過去回想形で語る知的習慣を持つ人だったんじゃないかなと不意に思いつきました。
この人の書くものすべてにゆきわたっている広々とした風通しのよさは「想像的に死んだ人間」のエクリチュールに固有のテイストなのかも知れません。
今書いているこのような文章を推敲するときにも、ぼくたちは今書きつつある自分とは別の境位からテクストを読んでいる読者を仮構しているわけですが、その想像的読者は「二十年後のぼくたち」のような気がするのです。
そんな気、しませんか?

この往復書簡のタイトルは「悪い兄たちが帰ってきた」というものです。
この「帰ってきた」という過去形にぼくはつよく惹かれるものを感じます。
英語でタイトルをつけるときにぼくはthe vicious brothers are back と現在完了形の訳語をつけましたけれど、ほんとうは are back (and gone) だったのかも知れません。
「悪い兄たち」は「もういない」。
その想像的に先取りされた不在が「悪い兄たちの帰還」に固有のリアリティをもたらすということではなかったのでしょうか。

11月1日付けで江編集長も『ミーツ』を去りました。
「悪い三兄弟」が来たときと同じように砂塵の彼方に駆け去る時刻がきたようです。

投稿者 uchida : 20:26 | コメント (0)

2005年10月27日

TFK21 ぼくたちのベルエポック

■ ひとつの時代と自分自身の物語

ウチダくん、先日は一宿一飯失礼しました。
文芸春秋の撮影も、三宮の寿司も、おいしくて、面白い体験でした。
仕事でも、人間関係でも、何か、歳をとればとるほど面白いことが次々に起こってきますね。
気の持ちようってだって、言われそうですが少し違います。
若い頃から積み立ててきたものが満期になって戻ってきているような感じ、といえばいいでしょうか。
ぼくたちはお金を蓄えるってことからは、縁遠かったけれど、(典型的なフロー人間ですからね)功徳を積み立てるってことには案外熱心だったということです。
こうやって、書簡で定期的に意見を交換してはいますが、たまに、ウチダくんに会って、顔を見ながら話すのはまた、別の楽しみがあります。気使わなくていいしね。
「なんだ、ほとんど同じ事を考えているじゃないか」と思ったり、「いや、これは思いつかなかったな」といった発見があったり。
金銭フロー人間にとって、功徳のストックを分けてもらうってことでしょうか。
今日は、その時にお話した、自分自身の物語についてすこし、書いてみたいと思います。
ま、ちょっとまとめに入ろうかと。

ウチダくんもぼくも、ブログで書かれている自画像が、生身のものとはすこし違っていることをよく知っています。
そりゃ、四十年以上も、付き合っているわけだから、相手の生の肖像ってのは、ほとんど感覚的に刷り込まれている。
ブログに書かれている、お互いの自画像は、それぞれが、感覚的に理解しているものよりは、誇張された、戯画的なものになっているわけですね。
人間は誰しも、自分の無意識に影響を受けてものごとに過剰に反応するものだろうと思います。
この無意識の所在を、探りあてるためにフロイトは、心的外傷(トラウマ)という仮説を用いた訳ですね。
しかし、ぼくたちが書く自画像は、無意識ではなく、意識的にトラウマを作っているんじゃないかと思うことがあります。
意識的なトラウマとは形容矛盾ですが、それでも意識的に作った自画像というものがぼくに与える効果は、まさにトラウマと呼んでもいいかもしれません。
ウチダくんがよく言うように、この物語には現実変成力があるからです。

ぼくが作った物語。
それは、復興期の東京の場末の工場で、職工さんたちと油と鉄粉にまみれていた平川少年と、北海道から東京を目指した放浪の新興中産階級の夢の中で育った内田少年の物語です。
この物語の中で、ぼくは、内田少年の演奏するギーコギーコという雑音のバイオリンを懐かしく思い出しています。
ぼくたちが生れたのは、昭和二十五年。敗戦からわずか五年後の東京です。三島由紀夫ではないので、ぼくたちは生れた時のことは覚えていません。(ウチダくんは、ひょっとしたら覚えているかもしれませんが。)
記憶がどのあたりから、残存しているのかについては定かではありませんが、いくつかのシーンは鮮明に蘇ってきます。
もちろん、この記憶はその後の何十年かで修正され、作り直された記憶でもあるということです。

物語としての記憶の中に、とても印象の強いシーンがあります。
それは、子供の時に見た映画の中での台詞です。
ひょっとすると、テレビドラマだったのかも知れません。
高峰秀子だったか、あるいは他の女優さんだったのか、映画のタイトルが何だったのか、ストーリーがどんなものだったのか、つまびらかなことは、何も覚えていないのですが、ひとつのシーンだけは鮮明に覚えています。
それは、爪に火をともしながらも安寧を得た家族が、大正十二年の震災で、ばらばらになって、瓦礫の山の中で立ち尽くしているシーンです。
その時、この女優が勝気な台詞をつぶやくのです。
「これ以上は、悪くなりようがない。だから、案外気楽だ。これからは、よくなるだけだから・・・」

ぼくたちの多くは、昭和三十年代をひとつのベル・エポックとして記憶しています。何故、敗戦から十年を経た、未だ貧しい日本がベル・エポックとしてぼくの中で記憶されているのか。
考えてみると少し、不思議な気持ちがするのです。
ぼくの親父は、埼玉で後妻の子供として生をうけ、東京で一旗上げようとプレス工場をつくりました。
ぼくが生れた年としては、誰も記憶に留めないでしょうが、この年は朝鮮半島の三十八度線で、二つの異なる価値観が火蓋を切った年として、世界史の中に記憶された年でもあります。
ぼくの家は、その朝鮮特需のせいもあって、暮らし向きが見る見るよくなっていきました。
テレビ、自動車、冷蔵庫。
失うものが何もなかった家に、次々と電化製品が揃えられてゆく。でも、それが平川少年にとってのベル・エポックの記憶と結びついているわけではないということに、注意をしたいと思います。
どちらかといえば、持たざるものたちの集まりだった、近所の悪ガキたちが、やがて来るであろう生活格差や、教育格差といったものを想像することもなく、無邪気に平等な貧困を楽しんでいられたという、そのあっけらかんとした向日的な空気が、心地よかったのです。
工場の大人たちは、昼休みの庭で陽を浴びながらよく笑っていました。
粗末な衣服、質素な食事、粗悪な住環境に暮らしながらもその笑いには屈託がなかった。
「これからは、よくなるだけだから・・・」と誰もが思うことが許される時代であったのかも知れません。

人間の成長と、社会の発展がパラレルに進行する時代。
これをぼくは、ベル・エポックといっていいんじゃないかと思います。
ぼくはイタリアの貧しい漁村の不良少年たちを見ているように、自分の育った街の風景を思い出します。
そして、いまさらながら思えることですが、貧しさと、社会システムが健全に機能しているということは実はあまり矛盾しないことなんじゃないかと。
このことの意味を、高度経済成長とともに、自らの立身出世主義を重ね合わせて育った戦後の日本人は、ぼくも含めて看過してきたのではないでしょうか。

翻って見て、現代は、どんな時代なのでしょうか。
現代という時代について、その渦中にいるものが何かを知るということは原理的にできないことかもしれません。
しかし、それでも「これからは、よくなるだけ」という時代にぼくたちが生きているのではないということだけは、確からしく思えるのです。
だからといって、「これからは、悪くなる一方だ」という風にぼくは考えているわけじゃない。

ぼくは、つくづく身勝手な人間だと思うのですが、人間の成長と、社会の発展がパラレルに進行する時代が、ベル・エポックだとするならば、
人間の老成と、社会の衰退がパラレルに進行する時代というのも、大層、味わい深いものではないかと、思っているのです。
いま、成長期にある若い人たちに、これを受け容れよといってもそりゃ無理な相談です。
でも、ぼくは、そう思う。そう思えるように結構、自分の人生をやり繰りしてきたわけです。
じゃ、若い人たちはどのように考えたらいいのか。
ぼくは、それに関しては答えを用意することができません。
また、そのつもりもないのです。
乱暴な言い方かもしれませんが、それこそ自分で考えろよという他はないのです。
自分で考えろよ。

これが、ぼくのベル・エポックの物語です。
しかし、これはぼくとぼくの世代が作ってきた虚構でもあるのです。
市井の碩学、渡辺京二は、日本近代を生き生きと素描した『逝きし世の面影』の中で、
明治六年から四十四年までの長きにわたって日本に滞在したチェンバレンが、明治という近代化の過程のなかで、先行する江戸期の古き良き日本の「文明」に対して愛惜をこめて記した文章を紹介しています。
「古い日本は死んだのである。亡骸を処理する作法はただ一つ、それを埋葬することである。」
チェンバレンの目には、明治は「絵のような美しい」文明の亡骸の上に作られた楼閣として写ったのです。
ぼくたちもまた、戦後の成長期の日本を埋葬してきたのだろうと思います。
ぼくの言いたいのは、こういうことです。つまり、歴史は何度でも繰り返される。
一度目は悲劇であり、二度目は喜劇であるかもしれない。
しかし、どうであれ、埋葬するにはそれなりの「作法と礼儀」というものがある。

社会が成熟しきったあとからやってきたものたちのことをぼくたちは「あらかじめ失われた世代」と形容しました。
しかし、それはあくまでぼくたちが自分と時代の関係を述べてきたような物語として構築してきた文脈から見ての話です。
いつの時代にも、人間は先行する時代と無関係に孤立していることはできません。
ぼくたちがベル・エポックの物語を語るのは、失われた時代に対するぼくたちなりの埋葬の仕方なんだろうと思います。
昨今の「改革」ブームを見るにつけ、自分たちが関与してきた時代に対して、ただそれを野ざらしにしたまま「改革」を叫ぶ人々に対して、本当に失われたのは、「作法と礼儀」なのだと思わずにはおれないのです。


投稿者 uchida : 21:26 | コメント (0)