2004年12月31日
第三者、エロス、時間
The Vicious Brothers Are Back! No,2
2004年12月31日
平川さま
2004年もあと十数時間でおしまいというところまで来ました。
一年て、経つの早いですね。
窓の外では芦屋の街にしんしんと雪が降っています。
毎年、大晦日は篠山の春日神社まで『翁』を見に行くのですが、今年は行き帰りの道の凍結がちょっと心配です。
曇りかせめて雨になってくれるといいんだけど。
大掃除も片づき、年賀状も出し、年内のもろもろのイベントも終わり、のんびり机の前でキーボードを叩いています。
これが今年最後の仕事です。
最初から平川くんがドライブのかかった剛速球を投げ込んできたので、こっちも気合いを入れてご返事します。
まずは「第三者」論。
この「第三者」(le tiers)という概念は、ぼく自身のこのところ念頭を去らない主題の一つです(ほんとに)。
というのは、レヴィナス老師の「第三者」という概念がひじょうにわかりにくもので、レヴィナス研究者はみんなこの扱いに困ってきたからなんです。
平川くんはいきなり「どまんなか」に放り込んできたわけです。
でも、だからと言って、ここでいきなりレヴィナスやブランショから引用してがりがりと第三者論の専門的な議論に入るというのも、いささか野暮な話ですから、「対幻想」と「共同幻想」というもう少しこなれた術語を使って最初は話を始めることにしましょう。
対幻想と共同幻想はどこが違うのかというところからです。
エロティックな関係というのは、外形的にはたしかに「二人だけの閉じた世界」を構築しますし、「二人だけの閉じた世界」を構築して、そこで子犬みたいにごろごろじゃれ合っているのはなかなか愉しいものです。
でも、そのときにエロティックな欲望を駆動しているものの中には、共同的なのものがすでにかなり関与していますよね。
人間の性的欲望が目指しているのは、他の生物の場合のように、必ずしも種の再生産ではないからです。生物学的「欲求」以外に、ある種の社会的「欲望」が、人間の性的行動には必ず関与してしまいます。
性的嗜癖というのが誰にでもありますよね。「女王さまのハイヒールに踏みつけられたい」とか「お母さんのおっぱいに顔を埋めて泣きたい」とか、わりとヴァリエーションは貧しいんですけれど、これらの「個人的」な性的嗜癖が、既存の「権力関係」をなぞっていることは間違いないと思うんです。
完全に対等の性的関係って、ありえないでしょう?
絶えず入れ替わるにしても、性的局面では、どちらかが必ず「上位者」ですよね。
そして、「上位者」から「下位者」へ「贈り物」がなされ(「ムチでしばく」とかいう屈折した「贈り物」もありますけれど)、それに対して贈与を受けた側が反対給付をする、その贈り物に対してまた…ということの繰り返しがエロス的諸活動を通じて行われているわけです。
サルトルがサディコ=マゾヒズムの分析で指摘しているのは、マゾヒストというのは、「自分を権力的位階の下位者の位置に置くことを上位者に命じることができる」という一回ひねりの権力者だということでした。「ムチのしばき方がぬるい!」とか言って「女王さま」に「いじめ方」をリクエストできるらしいですから(見たことないから、想像ですけど)。
そこまで極端にならなくても、ふつうの高校生のデートでも、必ず一方が他方の「ご機嫌を取る」というかたちになりますよね。
「遅れて、ゴメンね!」
「なんだよ、またせやがってよお。今日はメシ奢れよな」
「何よ、いつもヒロシが遅れるのに、たまに早く来たからって、何いばってんのよ、バカ!あたし帰る」
「あ、ゴメン、帰んないで、メシ奢るから」
というような数秒間における権力関係の転倒などというのも珍しいことではありません。
こういう会話を横で聴いていると(聴くなよ)、エロティックな関係って、本人たちは自由きままにふるまっているつもりでも、実は世間一般の社会関係よりもむしろ徹底的に「構造化」されているんじゃないか、という気がしてきます。
エロティックな関係では、「常識も価値観もそれを『検算』する第三者」も「不在」と平川くんは書いていますけれど、むしろ「エロス的常識、エロス的価値観」が徹底的に構造化され内面化されているせいで、かえって「不可視のもの」になって、人間の行動を意識下において繋縛している関係ではないのでしょうか。
立教大学の大場助教授事件(のことですよね)は厳密には「心中事件」じゃなくて「殺人事件」でした(不倫関係にあった院生に妻との離婚を迫られた大場助教授が彼女を殺害し、親子四人で心中自殺したのです)。
不倫、離婚話のもつれ、殺人、社会的指弾を恐れての一家心中…というこの事件のプロセスは、ほとんどギリシャ悲劇のように、揺るぎなく構造化されています。
この「悪魔の装置」に一度絡め取られると、もう個人の自己決定とか主体的決断というものの余地がほとんどなくなってしまう。
エロティックな関係の特徴はその「抗いがたさ」のうちにあるのではないかとぼくは思います(吉本隆明が言っていたのは、たぶんそのことだと思います)。
仮説的に人間の幻想のあり方に「自己についての幻想」「エロス的幻想」「共同体幻想」という三つの水準を設けたとします。
これ実は、「自由度の差異」で階層化されているんじゃないでしょうか。
「私が私であることの不可避性」は私にはどうしようもありません。
仮に自殺というかたちで決着をつけようとしても、それは「私が私を殺す」ということですから、「事実としての私」は消滅させることができても、「事実としての私」を消滅させた「権能としての私」の方は不死性を獲得します(レヴィナスが「存在の瀰漫」と命名したのは、このような事況です)。
「エロス的関係における権力的な構造化」も、ほとんどぽんと出来合のシナリオを渡されたように進行し、個人の人格や識見でどうこうできる種類のものであるようには思われません(ぼくたちが性的次元において自己決定できるのは、「エロティックな関係から逃げ出す」という選択肢だけじゃないでしょうか)。
だとすると結局、私たちが主体性とか自由とかいうものをそこそこ発揮できるのは、「共同幻想」の領域だけ、ということになります。
つまり、「第三者がそこにいる」という原事実こそが、ぼくたちの主体性と自由を担保している。
ぼくはそんなふうに考えています。
レヴィ=ストロースの共同体論の基本は「コミュニケーション」ということでした。
これはもうあちこちで書いてきたことですので、繰り返すのは気が引けますけれど、ひとことで言えば、「人間は自分が欲するものを、他者に贈ることによってしか手に入れることができない」という命題に集約されると思います。
一人でいる人間は何も手に入れることができない。
これはそうですね。
エロス的他者も、親族も、ことばも、貨幣も、財貨も、サービスも、威信も、権力も、情報も…何も手に入らない。
二人だけでいる人間も、それほど多くのものは手に入れることができません。
とりあえずエロス的愉悦は手に入れることができますし、ことばも行き交いますし、多少の社会関係や情報も行き来します。
けれども、そこで交わされることばは限定された語の反復ですね(「愛してる」「愛してる」…)。
そこで生成しうる権力関係は、さきに見たとおり、「上位者・下位者」の相互的な入れ替えだけです。
そして、生物学の「鉄の法則」によって、エロス的経験を継続していると、たいへん高い確率で「第三者」が誕生する。
つまり、エロス的関係は、それだけで完結することのできない共同体の原基的形態であり、共同体への過渡であるということです。
人間はエロス的関係の準位にのみとどまることができない。
たぶん、そこで果たされる交換のコンテンツがあまりに「貧しい」から。
だから、コミュニケーションを富裕化するための不可避の「第三者」として、「子」が生み出される。
そして、「三角貿易」的な交換のプロセスが構築されることになります。
たぶん、ここにエロス的準位から共同体準位への決定的なテイクオフがあると思います。
「私」が「あなた」に贈るものを「あなた」は「彼」に贈り、「彼」から「私」に戻ってくる。
そして、そのとき「彼」が「私」に贈ってくれたものは、「私」が「あなた」に贈ったものとは違うものになっている。
必ずそうなります。
これは「伝言ゲーム」と同じ構造ですね。
情報や伝達される時に必ず「汚れる」…それはどうしてだろう?という問いからサイバネティックスが始まったことは平川くんもご案内のとおりです。
伝言ゲームや「三角貿易」が示すとおり、中に「ワン・クッション」入るだけで、コミュニケーションをゆきかうコンテンツは一気に多様化する。
私たちが今でも「伝言ゲーム」を愛して止まないのは、このゲームが人間が共同体を立ち上げたときの原初の驚きを再演するものだからではないでしょうか。
ここまで来て、ようやく平川くんの次のような問題提起のとば口にたどり着きました。
長い前置きですみません(いつものことなんだけどね)。
平川くんはこう書いています。
「ぼくの言葉でいうなら、知的肺活量というのは、自分の価値観といったものを測定して、判断してくれる第三者をどれだけ、自分から離れたところに措定できるかということなのだろうと思っています。あるいは、そうした第三者の不在に耐えると言ってもよいかも知れません。別の言い方をするなら、共同体の中にではなく、外部に判断の規範というものを措けるかどうかということが、大変重要なことだろうと思うのです。」
平川くんが書いているとおり、「自分の価値観を測定し判断してくれる第三者をどれだけ自分から離れたところに措定できるか」ということ、これが人類が文明というものをそれなりに富裕化することができた一つの大きな転換点をなす発想だと思います。
人間たちは、自分が最初に送ったシグナル、贈与した「善きもの」が、自分からできるだけ遠い第三者を経由することによって、どのようにその形姿を変えて戻ってくるのか、その意外性と未知性のもたらす「ときめき」を愛することを止められなかったんでしょう。たぶん。
昨日ビデオで『ラブストーリー』という韓国映画を見て、思わずほろりと泣いてしまいました。
いい話なんですよ。
私のような劫を経たおじさんが泣けてしまう「話」というのは、どこかに人類学的な真理がきっちり書き込まれていて、それが琴線に触れるからなんです。たいていは。
『ラブストーリー』はある「贈り物」が世代をまたがって交換され続ける、という話です。
その贈りものは、はじめある男が少女に贈り、少女が少年に贈り、少年が少女に差し戻し、少女(もう大人の女)が少年(もう青年になっている)に贈り、そして、青年の息子が女の娘に返す、というしかたで一巡します。
やりとりされるものそれ自体はたいして価値のあるものではないのですが、それが手から手へと交換されるにつれて、そこには「物語」が付加されてゆき、しだいにその意味が深まってゆきます(同形の説話は「蛍のやりとり」や「傘のやりとり」の中でも反復されます)。
マリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で報告したトロブリアンド諸島の「クラ」という儀礼は、「ソウラヴァ」と「ムワリ」と名づけられた二種類の装飾品が交換される儀礼です。
この儀礼でいちばん大切なのは、それが退蔵されることなく、順々に持ち主を変え、「いつだれがそれを身に付け、どのような仕方で所有者が変ったのか」を語ることです。
交換のプロセスを語ることそれ自体が儀礼の目的なのです。
つまり、この装飾品の価値を担保するのは、それが蔵する物語、言い換えれば、そこに封印された「時間」なのです。
エロス的関係はおそらく本質的には無時間モデルなのでしょう。
だから、時間が動き出すと同時にエロス的関係は打ち切られる他ない(「時計を見る」「時刻を告げる」というふるまいがエロス的状況においてはしばしば致死的な効果をもたらすことは、平川くんが言及していた黒澤明の『素晴らしき日曜日』でも見られますね)。
そして、共同体というのはそこに「第三者を経由するために要する遅延」というかたちで「時間」という未知のファクターをもたらしきたすことによって、一気に自由と主体性の可能性を押し広げたシステムではないか、そんなふうに思います。
この第三者論はまだまだ続きそうですね。
では、よいお年をお迎え下さい。
悪い兄たちが帰ってきた Tokyo Fighting Kids Return No1
2004年12月23日
内田さま
ウチダくん、お久しぶりです。
東京ファイティングキッズの再開ですね。
前回の最後は、「今日の話は昨日の続き、今日の続きはまた明日」でしたね。
その明日が来るまで丁度一年間が経過したわけです。
その間にぼくたちの個人的な日常も、日本の状況も、世界情勢も大きく変化しましたが、その変化が何を意味しているのかまだ判然としません。
まあ、ぼくは最近では変化はすれども成長せずといった世界観にとらわれていますので(なんのことやら分かりにくいと思いますが、どこかで説明できると思います。)、明日は今日より、よくならなくてはいけないとも思わないのですが。
ぼくたちはすでに五十余年生きてきたわけですが、事実としても、実感としても今日が、昨日よりよくなったとはとても言えないだろうと思っています。
けれども、諸行無常とあえて言うまでもなく、変化だけは確実にやってきます。
今回の対話では、その辺りを「検算」する意味も含めて、前回の話題を、もう少し掘り下げてゆければいいんじゃないかと思っています。
■コミュニケーションにおける第三者の視線
さて、「昨日の続き」のその後の口上は、いわずもがなの「提供は参天製薬、声とアイデアは大橋巨泉、前田武彦、それとわたくし富田恵子」でした。今の若い人たちは、ご存知ないでしょうが、ぼくたちの年代ではかなりの人がこの番組を聴いていたのではないかと思います。
前回の終了時、内田くんが私信で、「おお、平川もあれを聴いていたのか」と書き送ってくれましたが、実に数十年を経て当時の共同性の在り処の一端を確認したわけです。
この番組は、おそらく早熟な若者たち、あるいは早熟に憧れている若者たちにとっては新しい消費のかたちを覚える端緒であったように思えます。新しい消費とは何か。ひとことでいえば、それは「知識消費」と呼んでよいものだろうと思います。
巨泉も前武も、ひとつの来るべき文化人の典型をよく体現していました。芸事や遊びに通暁し、政治的な発言も躊躇しない。スポーツの世界や芸能界といった憧れの世界に対して右手を挙げて入場できるプレミアムパスをもっている特権的な文化人であり、同時に庶民の生活感覚も理解できるといった万能選手でした。その後、放送作家という人種がテレビの世界で活躍したわけですが、戦後復興の経済、生産者重視の産業構造がようやくひとつの役割を終えて、新しい消費中心の生活が生まれてくるという時代のパラダイムの変換がかれらを後押ししたと言えるだろうと思います。
かれらは、まさに時代の半歩先をぼくたちの眼に見える形で体現しているロールモデルであったわけです。
ところで、巨泉と前武の掛け合いはそれはそれで、おもしろかったのですが、やはりぼくたちがこの番組に引き寄せられたのは、富田恵子の相槌にあったのではないかと思っています。
当時は、ほとんど意識していなかったのですが、今思い出すと、この「第三者による同意と承認」が実にさりげなく、会話の合間に挿入されていて、ぼくたちは巨泉や前武の聴衆であると同時に富田恵子の同意にシンクロナイズしているという、かなり巧妙な構造をもっていたんだと、納得できるのです。しかもその第三者は、優しい声のお姉さんだったわけですね。しかし、自分たちに理解と承認を与えてくれる第三者がいつも身近にいるとは限りません。
■ 共同体のあいまいな主体
さて、これだけの前ふりをネタにして新しい東京ファイティングキッズを始めたいと思います。
前回は、「対話」という形式で政治、経済、文化、そして私的な問題について意見を交換したわけですが、ぼくも内田君も、お互いの声と同時に、この「対話」が公開されるということを十分に意識していたと思います。第三者の目というものを常に意識しながら、お互いがお互いに語りかけるというかなり不思議な経験をしていたのだと思います。
しかし、よく考えてみると、この第三者の視線というものがなければ、コミュニケーションというもの自体がうまく成り立たないことがわかります。
通常考えられているように、対話というものは、二人だけの閉じた世界の中での出来事ではありませんよね。
もちろん、二人だけの閉じた世界というものが無いわけではありません。
エロティックな関係というのは、まさに「世界は二人のために」といった閉じた関係であり、二人はそれこそ世界の中心で愛を叫んじゃう権利を保有しているわけです。そこでは常識も価値観もそれを「検算」する第三者が不在であるといったことが、重要なポイントなのだと思います。誰にも、エロティックな関係に対して、それが不道徳であるとか、人倫にもとるだとか、アブノーマルだとか言う権利はないわけです。再三の引用で気が引けるのですが、吉本隆明がこの関係を「対幻想」という言葉で相対化したのはご存知だと思います。吉本の創見は、この対幻想下における価値判断や常識というものが、共同体におけるそれと倒立した関係になっているというところに眼をつけたところにあります。
当時、有名私立大学の教員が女子大生と心中事件をおこすということがあり、これに対して、吉本は自分もそういった関係(対幻想というエロティックな関係)の中に入れば、そうしたかもしれないといった意味のことを述べていました。彼のコメントは当時の先進的な心理学者や道徳家、知識人の発言に見られた「倫理観の崩壊」とか「教員や女子大生の精神病理分析」といった近代主義的な見解を遥かに抜き去った見事なものだと思ったものです。
いや、話が逸れてしまいました。共同体の中での第三者とは誰かという問題について考えているところでした。
ひとことで言うなら「検算」の最終審級はどこにあるのかという問題です。あるいは、最終審級の不在といってもよいのですが、いきなり、こなれない言葉でそれこそ第三者になかなか理解することの難しい話ですが、要は正しさとは何か、それを誰が判断するのかということです。価値とは何か、それを誰が判断するのかといっても構いません。
たとえば、オウム真理経という現象を考えてみたとき、かれらは麻原彰晃という稀有な詐欺師を中心にひとつの共同体を形成していたわけですが、かれらの価値観はいわゆる体制のそれとはまったく倒立した関係になっていたわけです。
あるいは、911以降のアメリカのマスメディアに起こった大政翼賛的な動きなどについても、もう一度原理的に考えてゆかないとよく解けない問題があると思っています。
ある時点で、アメリカのメディアは、マッカーシーの時代へフィルムを巻き戻したような事態が起こっていたと思います。なぜ、このようなことが起こるのか。まずは、その問題から考えてゆきたいと思っています。
なぜなら、これは同時に戦後日本における「会社」と「個人」の関係を考えることと同じことだと思うからです。(ここでようやく、『ミーツ』編集部のリクエストに接続されましたね。)
「会社」というものを考えるとき、そこで働く個人から見たときに、これがいったい何であるのかということは、それほど優しい問題ではありません。よく会社にこき使われて捨てられたなんていうことを言いますが、会社は当然ながら人間ではないので、この糾弾は、こき使って捨てた誰かを指しているわけです。
しかし、もし社長のヒラカワの奴にこき使われたということになれば、それは個人的な怨恨でしかなくなってしまいます。そういうこともあるかも知れませんが、おそらく、会社にこき使われたというのは、その会社の経営者を指すのではなく、現在の日本の会社システム、あるいはそれを可能にした日本というシステム全体を指しているのだろうと思うわけです。
あの野郎、俺をいいようにこき使いやがってということなら、話は簡単なのですが、会社における被害者の言明は、つねにわたしは捨てられた。わたしは騙された。というように、受動態で語る他はないようなものです。そこでは常に加害者の顔はあいまいなものでしかありません。なぜ、そうなるのか。
ここに、共同性というものの大きな陥穽があると思うのです。
■ 知的肺活量とは何か
オウムの若者たちについてはすでに様々な分析が発表されています。そのほとんどは、なぜかくも利発な若者たちが、大量殺人にいたる犯罪者となったのかという、まあ常識的な反応を解読する試みであったと思います。とくに、理科系の優秀な学生が主要なメンバーに多かったことも、専門バカが一般常識の欠如ゆえに詐欺師にころりと騙されるのだという俗論が多くの紙面を飾ったことは記憶に新しいことです。
あるいは、こんな特別な例を持ち出さなくとも、ベスト&ブライテストと形容されたアメリカの東部エスタブリッシュメントたちが、泥沼のベトナムで敗北してゆくといった知性の迷走といった例は、国際政治の中を見渡せばいくらでも見つけられます。
オウムの若者たちは、ひとりの詐欺師にころりと騙されたのか。アメリカは戦争プランナーに国全体が騙されたのか。そんな単純なことではないだろうと思います。それは、ドイツがヒトラーに騙されたわけではないのと同じです。国家であれ、宗教団体であれ、あるいは会社であれ、共同体と言うものはその内部にひとつの絶対的な正義というものを作り上げます。いや、正義が作られたときにそれは共同体となるのだといってもいいだろうと思います。「正義」という言葉自体がすでに、共同体を前提としているわけです。こととき、メンバーのひとりひとりはまさしく、共同体の正義によって思考や行動が支配されており、同時にメンバーのひとりひとりがその正義の担い手でもあるという同義反復的な世界の中に閉じ込められているわけですね。この同義反復的な世界の生成こそが共同体を共同体たらしめている条件であるのだろうと思います。人間は、いかにしてここから自由になれるのか。
ウチダくんはこれに対してさすがに、するどい分析をしていましたね。
>それは彼らに知識が足りなかったからでも、知性に欠陥があったからでもないと私は思う。そうではなくて、あるフレームワークが失効してから、次のフレームワークを自力で再構築するまでの「酸欠期」をノンブレス(息継ぎなし)で泳ぎ抜くだけの「知的肺活量」が彼らには不足していたからである。(東京ファイティングキッズ「まえがき」より)
ウチダくんは、このノンブレスで泳ぎ抜く力を、知性のタフネスという言葉で説明しました。そしてそのとおりだと思うのですが、ぼくはこれは実は、大変微妙な言い方だと思っているのです。そして、大変に重要なことが含まれているのですが、自分に対してなかなかうまく説明できない問題でした。
このことについて、すこしご説明したいと思います。
共同体の最小単位は、家庭です。そこでは父親や母親の価値観が、そのまま共同体の価値観となるわけです。血縁共同体ですね。もうすこし、共同体のフレームを広げると、町内会だとか、商店会のような地縁共同体が現れてきます。ここでは、町会長とか、商店会長なんていう人がその共同体の規範を体現しています。さらにこれを拡大すると、学校や文化サークル、あるいは会社といった理念や目的を靭帯とする幻想共同体が現れてきます。人間の成長とは、ある意味で身近な共同体からより大きな共同体へと、段階的に脱皮してゆくことなのかも知れません。
ぼくの言葉でいうなら、知的肺活量というのは、自分の価値観といったものを測定して、判断してくれる第三者をどれだけ、自分から離れたところに措定できるかということなのだろうと思っています。あるいは、そうした第三者の不在に耐えると言ってもよいかも知れません。
別の言い方をするなら、共同体の中にではなく、外部に判断の規範というものを措けるかどうかということが、大変重要なことだろうと思うのです。しかし、これは共同体の内部にいる人間にとっては、至難のわざといわなければなりません。いや、共同体というものが、まさに判断の源泉そのものであるという性格のものですから、外部に判断の規範を措くということ自体がひとつの論理矛盾であるわけです。
人間は必ずどこかに、判断してくれる人を求めるものです。幼児期の両親から、青年期のスポーツ選手や文学者にいたるまで、具体的な身近な何かに寄りかかりたいと思うわけです。しかし、どこかでそういった判断は、実はだれもしてくれないのだということに気づくことが必要なのだろうと思います。
いつの頃からか、ぼくはそのように思えるようになりました。青年期の疎隔感というのは、そういったもたれかかるものの不在に対する最初の「気づき」なのだろうと思います。そして、それが「単独に耐える」、つまりは肺活量を鍛える端緒なのではないかと思います。
共同体を立ち上げる、あるいは共生の道を探るというのは、大変結構なことなのですが、ここのところを間違ってはいけないのだろうと思います。
その意味では、最終審判の基準を「お天道様が許さねぇ」といった具合に、審判がどこにいるのか、だれなのかわからない無限の遠点に措いた日本の庶民の知恵はなかなかのものだったのじゃないかと思います。
何だか最初から図柄が鮮明ではない風呂敷を広げてしまいましたが、これをうまく畳む作業、よろしくお願いいたします。
解題:The Vicious Brothers Are Come Back
『聖風化祭』という同人誌をつくっていた大学生のころ、平川くんはそこに詩と詩論を、私は身体論や表現論を書いていた。
私は「物語」と「身体」のかかわりについて考えていて、平川くんは「ことば」のもつ現実変成の力について考えていた。
そう書くと、30年経っても、あまりかわりばえのしないことがわかってしまう二人なのであるが、そのときに平川くんが寄せた詩の一編のタイトルが「悪い兄たちが帰ってきた」というものであった。
私はこの短いことばのうちにこんな風景を一瞬見た。
古代の中東の荒野のようなところに細々と立つ幕舎がばたばたと風にあおられている。
そこから顔を出した少年が、ふとまぶしい目をして地平線を見ると、はるかな蜃気楼の中を「悪い兄たち」が荒馬を疾駆させてこちらへむかってくる姿がゆらゆらと見える。
「いよいよ『父』との命がけの戦いが始まる」
そう想像すると、少年は急に動悸が激しくなってくる・・・
まるでダーウィン=フロイトの「原父殺し」の情景のようだけれど、たぶんこの「悪い兄たちが帰ってくる」という図像は、私たちのDNAの中に残っている、遠い遠い人類が始まったころの記憶に遡る「元型的なイメージ」の一つのような気が私にはする。
そういう「つよいことば」を探り当てることができるかどうか、詩人の資質はそこにかかっている。
「つよいことば」というのは、集合的、無意識的な準位で読む人にふれることばである。
それはただ一行の、場合によってはただ数語であることもある。
けれども、長い歳月をかけて、読み手の身体の骨や肉のうちに食い込んでしまう。
このフレーズを書き付けたとき、平川くんはまさかそれから30年後に、私たちが共著で本を出し、その続編を「わかいやつらにばあんと説教してやってください」という江編集長の懇望によって、『ミーツ』に連載することになるなんて、想像していなかった。
けれども、私たちはまるで魅入られたように、カッサンドラの予言を成就するかのように、「悪い兄たちが帰ってきた」という詩句にふさわしい政治的状況に投じられたのである。
おそらく、「つよいことば」には遂行的な力がある。
装飾的なことばや、比率が美しいことばや、みごとな階調を保つことばがある。
それらをもし「空間的なうつくしさ」というならば、その一方に、装飾的でも、均衡的でもないけれど、何かを創りだしてしまうことばがある。
それが「つよいことば」だ。
レヴィナスは、時間の中でしか、その意味が検証できないことばのことを「預言」と呼んだ。
30年前に平川くんはそのような意味で「預言的」な一行を書いた。
そして、「ことば」には現実変成の力があるかという自らに向けた問いに、自分自身を「賭け金」において回答してみせたのである(おお、なんて詩的な人生なんだ)。