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2005年01月11日

自由という神話、成長という物神

TFK3

二〇〇五年、あけましておめでとうございます。
今年は風邪で、寝正月でしたが、それでも年が改まるというのは何かうきうきした新鮮な気分になるものですね。
日本の正月は、善男善女が神仏に手を合わせるところから始まりますが、ことの始まりに祈りがあるというのもいいものだと思います。
ぼくは、会社の仲間と五日に恒例の神田明神初詣。一年の安寧をお祈りしました。

■ 自由の問題

さて、東京ファイティングキッズですが、風呂敷畳んどいてねとたのんだはずなのに、もっと大きな風呂敷ひろげて返してくれるところが、いかにもウチダくんですね。
これだからね。

考えさせられるところや、「目からうろこ」のご指摘が多々あった前便ですが、まずぼくがはっとしたのは次のようなところです。

>「第三者がそこにいる」という原事実こそが、ぼくたちの主体性と自由を担保している。

ふつうは、人間は自分自身と向き合っているときが一番自由を感じられるし、自然に振舞えると思っています。また、愛する人と二人でいるときはこころ安らかな時間に身をゆだねており、自分は自由を感じていると思っていることが多いかもしれません。
ウチダくんのご指摘はこういったふつうわたしたちが感じる主体性とか自由の概念を百八十度倒立させているわけです。
実はこれこそぼくがいいたかったことなのです。

人間が自由であり得るのは、自分たちが自然である、ノーガードでいられると感じることの対極のところにしかないのではないかということなのです。
撞着した言い方に響くかも知れませんが、不自由の中にしか自由は存在していないといってよいのかもしれません。

自分自身と向き合っているときは、確かに最も自然状態の自己を見つめているわけですが、そこには自分が自分から抜け出せる出口というものがないわけです。同時に、独白的な自己というものがほとんど、青年期の類型でしかないということも、業を経て誰にでも了解できる事実でもあるのですね。
青年期には、誰でもが大きな疎隔感を潜り抜けているわけです。ぼくも場合も自閉症的な時期がありました。周りからは、最も自閉症的なものから遠い、お調子者のように思われていたのかもしれませんが、やはり口数は少なくなっていたと思います。

外からは物静かで、クールに見えるかもしれませんが、こころの中はそれこそやり場のない過剰な感覚を持て余しているわけです。しかし、このやり場のない過剰な感覚を届ける相手との距離のとり方が良くわからない。何かしゃべればどうしようもなく、誤解されてしまう。しゃべったってしょうがない。だから押し黙ってしまう。

これは、考えてみれば当たり前のことかもしれませんが、自己幻想というのは無限のトートロジーという単純な循環以外のものではないわけです。

そもそも、自分の想念を第三者に対して働きかけるということなしには、人間は自由という概念を想起することができなかったはずです。自由の概念とは、まさに自分自身に対する荒唐無稽な想念と、それが第三者の存在によって社会化してゆくときに生ずる関係の落差そのものの喩だからです。第三者による視線というものがなければ、自由とか主体性というものはそもそも意味を持ち得ないということです。

安東次男は、これを実に美しい詩の言葉で表現しています。

私は信じられない小鳥の死骸を石のように握りしめたまま、暮れてゆく風景の中に茫然と立ちつくしていた。 そのころ私は、まだ海というものを知らなかったから投げることを知らなかったのだ。(「残雪譜」より)

安東の詩は、どのようにも読めるかもしれませんが、「海というものを知らなければ投げるということもまた知りえない」という詩句が暗喩として指し示すものは、まさに自己と世界との落差そのものであるとぼくは読んだわけです。
この落差の中にしか存在しないものを知ること。
これこそが、経験ということの意味なのではないでしょうか。あるいは、もし年齢を重ねるということに意味があるとすれば、それはまさにこの落差の経験を年ふるごとに重ねることであるとぼくは思っています。

■ 因果と反復

「反戦略的ビジネスのすすめ」でぼくは、ビジネスの要諦は「繰り返されること」であると書きました。
これは、何か特別な思想でも何でもなくて、ただ実際にビジネスをしてきた実感を言葉にしたものなのですが、最近、この繰り返されるということの意味の重さに、かえってこちらがたじろぐような光景に遭遇することが多く、これは何もビジネスに限ったことではない、非常に重要なことなのだと思うようになりました。

韓国映画「ラブストーリー」は、ぼくも見ました。
ウチダくんと同様、ほろりとしてしまったわけです。
「猟奇的な彼女」もそうですが、韓国の映画シーンには、恋愛の中に主人公たちの手の届かない場所にある時間の神秘を見出す、といった物語の基本の形がとても丁寧に描かれているように思えます。
恋愛が自分たちの知らないものとの出会いであり、発見であるという感覚を、日本映画は、どこかに置き忘れてきたように思えてなりません。
ウチダくんのみごとな分析を読んで、自分が何故、ほろりとするのかについてよく理解できました。
「贈り物」が世代をまたがって交換される。交換の度に新しい物語が付け加えられる。交換されるものは何だって構わないのですね。
そして、贈与が想像の範囲を超えて、思わぬ時、思わぬ場所から返礼される。
ここに、人類学的な真理が隠されているのかどうかは、ぼくにはよくわからないのですが、すくなくともここには人間の心理の深層には、願い、希望、祈りといったものが埋め込まれているのだと思わせるものがあります。
ぼくは、ここにも、繰り返されるということの不思議な効果を見ないわけにはいきませんでした。

ぼくたちがふつう、自分の独創であると思っていること。
自分に固有の悩みや、喜びであるとおもっていること。
こういったことは、実はいつか、どこか過去のある時間の中で、自分たちの知らない誰かによって既に体験されたことであるに違いありません。
同時に、将来の、誰か自分たちの知らない人間によって繰り返されることになるはずです。
人間のまわりに生起する出来事なんていうものは、それほど独自でもなければ、多様でもない。それらは、必ず既にあった出来事の繰り返しであるわけですね。そして、だからこそ、この繰り返しには個人を、類へと送り返すことができるのだろうと思うわけです。
いや、そのように思うことで、人間は倣岸から自由になれるのだろうと思います。

それにもかかわらず、ぼくたちは自分の身の回りに起こっている出来事について、あたかもそれが、自分に固有の、一回限りの出来事であるかのようにおもいなす。
ここが、面白いところです。
しかし、今現実に生起している事実が、一回限りであり、自分に固有な出来事であり、自分の独創であると考えることで、人間は多くの人類学的な叡智から学ぶという大切な姿勢を忘れてしまうのだろうと思います。

このことが、人間というものは、成長するものである。世界は、野蛮で貧困な状態からより、文明化し、裕福で余裕のある文化的な状態へと成長してゆくものであるといった経済成長史観へと人間の思考を導いたと言っては飛躍し過ぎでしょうか。
ぼくには、それがひとつづきの思考の帰趨に思えるのです。
日本でも、世界でも、この成長ということ、つまりは過去を不断にリセットしてゆくという発想からなかなか自由になれない。
ことに、まだ耳に新しいニューエコノミーとか、成長を最大化するという名目の新自由主義的なものの見方に接するとき、その思考の根幹のところに、過去の不断の清算といった倣岸を感じざるを得ないのです。

前にご紹介しましたが、クライヴ・ハミルトンというオーストラリアの経済学者が、実に示唆に富んだ本を書いています。
それはGrowth Fetish というタイトルで、「経済成長神話からの脱却」と翻訳されています。
西側社会では過去五十年の間、驚異的な経済成長を続けてきました。ところが、実際の生活実感としては、豊かさがそれに比例して増したとは誰も考えていません。
たしかに、マスで見れば貧困は現象しています。
しかし、これによって世界の問題を解決してきたといえないことは、現在のアフガニスタンやイラクの状態を見るまでもありません。

ところが、経済成長を信奉するという点においては、右翼も左翼も、いまをときめく、新古典派の経済学者も、ケインズ派もリカード派も、マルクス主義者でさえも、経済成長の優位性だけは疑ってこなかったわけです。
あるいは、ダーウィニズムもこれを後押ししたかも知れません。
ハミルトンの着想は、そもそも経済成長は、意味があるのかと根源的な問いをたてたところにあります。ただ、経済成長しなくてはならないというフェテェシズムがあるだけだと。

このハミルトンの着想の元には、意外なことにアダム・スミスやジョン・スチュワート・ミルが百五十年以上も前に、人間の条件と国家の発展を探索するというテーマを掲げていたという事実があります。
JSミルは言っています。
「どのような究極の一点に向かって、社会はその工業的な進歩をつづけているのだろうか。進歩が止まったとき、どのような条件がととのえば進歩が人類のもとから去っていくと期待できるのだろうか。」

今で経済学のどの学派のページの中にもはこのような知性が見当たらなくなってしまいました。
ぼくには、もしここで百八十度方向性を切り替えられる国があるとすれば、それは日本ではないだろうかというかすかな希望を持っているのです。
その意味でも、もう一度繰り返されるということの意味をじっくりと考えてみたいと思っているのです。

投稿者 uchida : 2005年01月11日 10:17

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