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2005年01月22日

詩と反復

TFK2  その4 (2005.1.22)

■ ことばと経験

 ことばは自分の中から浮かび上がるのか、自分の外から到来するのか。
 これはなかなかむずかしい問題です。
 いきなり抽象的なことを口走ってしまいましたが、平川くんが引いてくれた安藤次男の詩の一節「そのころ私は、まだ海というものを知らなかったから投げることを知らなかったのだ」が僕たちに差し出した問題は、そのように定式化することができるかなと思いました。
 「自己と世界との落差」の経験において、僕たちは通常、「思いが言葉にならない」という言い方をしますね。
 もちろん、そういう経験はごく日常的なありふれたことだと思うのですが、それと同時に「言葉が到来したことによって、『思い』がそこにあったことを事後的に知る」という経験もまたあるのではないかと思います。僕はこちらの方がある意味ではずっと人間にとって根源的な言語経験ではないかと思うのです。

 平川くんに倣って、僕も美しい詩の一節を引いてみたいと思います。

  ところで
  きょうのあさは
  りんごをひとつ てのひらへのせた
 
  つま先まで きちんと届けられていく
  これはとてもエロティックな重さだ

  地球の中心が いまここへ
  じりじりとずらされても不思議はない
  そんな威力のある、このあさのかたまりである
  (「りんご」)

 これは僕たちの『東京ファイティングキッズ』をBSで「激賞」(って勝手に誇張していいのか)してくれた小池昌代さんの詩の一節です。
 僕は詩の解説ができるような繊細な感受性の持ち主ではないので、がさつに論理的なことを言いますが、「つま先まできちんと届けられていくエロティックな重さ」というような表現は確実にある種の新しい身体感覚をもたらすように思います。この数行の詩句は、それを読んだときに、手のひらからつま先を抜けて、地球の中心へ向かう、しっかりとやわらかい鉛直方向の力線を僕の中にすっと引きますから。そして、詩の力は、この「しっかりやわらかい鉛直方向の力線に貫かれる」感覚というのが、僕にとっては未知の身体経験だったということに存します。
 この詩の一節を読んだときに、僕の中で「そのような分節の仕方があるとは知らなかった仕方」で身体が分節されました。
 未聞の感覚が到来したわけです。
 まぎれもなく僕自身の身体感覚でありながら、それは「外部」から、「他者の言葉」から到来したわけです。他者の言葉が、僕の中の「そのようなことばをリアルに感じとることのできる潜在的能力」を賦活したのです。

 これについては三浦雅士さんがとても印象的な事例を引いていました。何度かうろ覚えで引用したんですけれど、いつもちょっとずつ不正確な引用だったので、今回は正確を期して。

 「乱暴な言い方をしてしまえば、古典は、暗唱できるまで朗読させればいいのである。丸暗記してしまったその詩や文章が、いつか突然、身に染みて分かるときがくる。それが言葉というものであり、文学というものだろうと思う。(…) 先人の詩や文章をそっくりそのまま真似るところから始まるのが文学だ。自分自身の考え方や文体が出てくるのは、そのはるか後である。楽器の練習や、スポーツの練習に似ている。いや、まったく同じだと言ったっていい。百人一首であれ、芭蕉の句であれ、はじめは何のことか分りはしない。だが、たとえばある春の日、久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ、という一首が口をついて出ることになるのだ。歌が分かるのはそのときであり、しかも同時に、春という季節が、桜という花が、分かるのである。」(『考える身体』、NTT出版、2000年、80頁)

 みごとに文学と身体、世界と言葉の関係を語っていると思います。
 受験勉強で丸暗記した和歌の一首が、なにかのときにふと口を衝いて出てきた。そんなときに、たぶん僕たちは「年を取ったので、歌の雅趣が分かるようになった」というような説明をするのだと思います。
 でも、そのときにはじめて「春」や「桜」が分かった、というのはなかなか言えないことです。「春」や「桜」は、僕たちがすでに経験的に熟知していると思い込んでいた事象だからです。
 このときの「分かる」は、僕たちがすでに知っている「春」や「桜」に新たに何かの情報を追加する、ということではありません。そうではなくて、どうして自分が「春」や「桜」についてある種の印象や感懐を「自明のもの」として身体化させていたのか、その理路に少しだけ照明が当たる…という経験ではないかと思うのです。

 極端な言い方をすると、万葉時代から現代に至る日本人にとっての春体験、桜体験の「全史」というものがあって、その末端に僕たちは連なっているわけです。その長大な「感受性の系譜」がたしかに自分のうちにも潜在的に身体化されているのを感じる。そういうことではないかと思うのです。
 「春霞」や「秋霖」や「牡丹雪」を僕たちは、ただの自然現象として経験することができません。それらはただの自然現象でありながら、僕たちにとってはそのつどすでに文学的表象として内面化されている。

 そんなことないよ、若い連中は万葉も古今も知らないんだからという反論がありうるかも知れませんが、そうでもないと思います。
 タランティーノの『キルビル』のラストのユマ・サーマンとルーシー・リューの決闘シーンは藤田敏八監督の『修羅雪姫』の「本歌取り」なのですが、ここには『忠臣蔵』や『憂国』やさらに古くは能楽『巴』以来の「白雪の上に飛び散る鮮血」を審美的に感知する文学的感受性がたしかに伏流していました。タランティーノはそれと知らぬうちに、「雪と血」にまつわるわが国の伝統的な美的表象を継承した。僕にはそんなふうに思えました。

 そのように非主題的に伏流し、なかば身体的に分節されてはいるけれども、いまだ輪郭のたしかならざるものだった「何か」が、他者の言葉の到来によって、表象として立ち上がる。そういうことって、あるように思います。
 それは喩えて言えば、知るはずのない外国語で話しかけられたときに、自分がとっさにその「自分が知るはずのない外国語で受け答えしている」ことに気づく…という経験(なんて、ふつうありませんけど)に似ているのではないかと思うのです。
 「え?僕って、こんな言葉が話せたの?」という驚愕。
 それが言葉の本質的な意義における「文学的経験」ではないか、僕にはそんなふうに思えるのです。
 他者の言葉の到来によって、世界と自己が未聞の仕方で分節されたとき、自分がそのような表象を理解できるとは知らなかったような種類の表象の「使い手」としての自分に出会う…文学とは、このような経験のことではないのでしょうか。

■作られた伝統の創造的コピー
 
 この世界分節の順逆の転倒について、最近読んだ中でいちばん印象的な言葉は次のようなものです。

 子曰(のたまわ)く。述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。(『論語』述而篇)

 いきなり『論語』でびっくりされたでしょうが、ちゃんと話をつなげますからご心配なく。 

 この一節を白川静先生は次のように解釈されておられます(っていきなり敬語になる。どうも白川先生だけにはつい敬語を使ってしまうんですよ。どうしてだろう。それにしても今日は引用が多いな)。

 「孔子はみずからの学を『述べて作らず』(述而)といったが、孔子においては、作るという意識、創作者という意識はなかったのかも知れない。しかし創造という意識がはたらくとき、そこにはかえって真の創造がないという、逆説的な見方もありうる。たとえば伝統が、形式としてあたえられるとき、それはすでに伝統ではないのと同様である。伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる。そしてそれは、個のはたらきによって人格化され、具体化され、『述べ』られる。述べられるものはすでに創造なのである。しかし自らを創作者としなかった孔子は、すべてこれらを周公に帰した。周公は孔子自身によって作られた、その理想像である。」(白川静、『孔子伝』、中公文庫、2003年、70頁)

 白川先生の『孔子伝』は諸星大二郎の『孔子暗黒伝』と酒見賢一の『陋巷に在り』の「原作」です。
 でも、考えてみると、すごいですよね、文化勲章受章者で、世界最高の甲骨文・金文研究者の書いた本が才能豊かな漫画家と小説家をはげしくインスパイアするくらいにスリリングであるというのは。

 それはさておき、この御年94歳になる老学究が上で述べられていることは、ニーチェが『悲劇の誕生』でギリシャ悲劇について述べたことに深く通じていると僕には思われます。でも、ここでまたニーチェを引用して…ということになるといったい何十枚の論文になるか分かりませんので今日のところは止めておいて。
 で、どうしてこの一節を引用したかというと、それは平川くんが提起した「繰り返す」ということに主題にまっすぐ関連しているからです。

 平川くんはこう書いていました。

「ぼくたちがふつう、自分の独創であると思っていること。
自分に固有の悩みや、喜びであるとおもっていること。
こういったことは、実はいつか、どこか過去のある時間の中で、自分たちの知らない誰かによって既に体験されたことであるに違いありません。
同時に、将来の、誰か自分たちの知らない人間によって繰り返されることになるはずです。
人間のまわりに生起する出来事なんていうものは、それほど独自でもなければ、多様でもない。それらは、必ず既にあった出来事の繰り返しであるわけですね。そして、だからこそ、この繰り返しには個人を、類へと送り返すことができるのだろうと思うわけです。」

 読み比べて見て、平川くんも白川静先生の「述而」解釈とのあまりの符合にびっくりしているのではないでしょうか。
 先端的なビジネスの場にずっといた平川くんがその経験的知見をまとめてみたら、『論語』と同じ結論になってしまった。
 そこで述べてられているメッセージの内容(「あらゆる独創的知見は先賢のことばの繰り返しである」)そのものを、そのメッセージを発信している平川くんのことばが、孔子のことばを繰り返しているという事実が遂行的に実現しているわけです。

 「創作者ではなく、祖述者である」という自己規定こそが人間の創造力を解錠するという逆説については、僕も平川くんと同意見です(ということは、白川先生、孔丘先生とも同意見ということですね)。
 でも、それだと「天が下、新しきことはなし」という言い古された俚諺のままで話が落ちてしまいかねません。
 話はもう少し複雑なような気が僕にはするのです。

  孔子が理想とした周公の礼治というのは、白川先生によると孔子が作り上げた「ヴァーチャルな政治的伝統」でした。というのは、孔子の時代には周公の事績についての古典学的な資料は存在しなかったからです。魯国に伝わっていたのは、周公の治績についての、ぼんやりとした口承のフォークロアだけでした。
 孔子はそのかろうじて継承されてきた民間伝承を素材にして、「理想的な古代の徳政」という「物語」を作り上げ、その「創作されたオリジナルのコピー」というポジションを選択したのです。このトリッキーな位置取りこそが、実は、すべての「伝統」の骨法ではないかと僕は思うんです。

 タルムードの伝説的賢者ラビ・エリエゼルはその師についてこう語っています。
 
 「もしすべての海がインクで、すべての湖沼に葦が生え、天と地が羊皮紙で、すべての人が文字を書く術を知っているとしても、彼らは私が師から学んだ律法のすべてを書き尽くすことはできないだろう。一方、律法はそんなことをしても大洋に筆の先をひたして吸い上げたほどもその水量を失いはしないだろう。」

 ラビは自分の師が保有していた圧倒的な知について証言しています。大洋にも比すべき宏大な知識を伝える師、それを葦の穂先ほどの容量を以て受け止めようと努める後代の弟子たち…しかし不思議なことに、タルムードはラビ・エリエゼルの知恵と徳については多くの逸話を残していますが、ラビを圧倒したはずの「その師」については何も伝えていません。
 ラビ・エリエゼルは「その師」を(孔子が周公を「創造」したように)やはりいくぶんかは「創造」したのではないでしょうか。そして、その師の「卑小なコピー」というかたちで自分の立ち位置を定めたのではないでしょうか。

 伝統というのは、どうも「そういうもの」のように僕には思われます。
 レヴィナスがその師モルデカイ・シュシャーニについて熱く語るときも、ラカンが「フロイトに還れ」と獅子吼するときも、あるいは近くは三島由紀夫が「断弦の時」の向こう側なる「天皇」について語るときも、彼らがおのれをその矮小なる継承者の地位において渇仰している「伝統」には、彼ら自身の作り上げた「修辞的誇張」がいくぶんか加わっているように思われます。

 そういうものだと思うんです。
 「自分が起源である」「自分が新しく始めるんだ」ということにしてしまうと人間は「力」が出ない。
 そうではなくて、「ゲームは私が到着する前からすでに始まっていた」ということにして、私は「起動者」ではなく「パスする人」であると自己規定すると、なんだかフットワークがたいへんよろしくなる。
 原理的な説明をするにはちょっと時間がかかりそうですけれど、実感的にはみんなうなずいて、「そう、そうだよ」と分かってくれるんじゃでしょうか。
 だからこそ、「おのれ一身の立身や栄達」というモチベーションと「平天下治国家」というモチベーションでは、圧倒的に後者の方が個人の潜在能力の解発には有利だということになるのでしょう。
 孔子は、「自分は創造者である」と宣言するより、「自分は模倣者である」と宣言する方が創造的事業の達成には有利であること、「これは私がはじめて言うことである」よりも、「これは多くの先賢が述べてきたことの繰り返しである」という話型を借りる方が、自分の個性的見解をより適切に述べられるということに気づきました。
 二千五百年前から分かっていたことなのに、いま改めてそれを聴くと、驚くほど新鮮に響くのはどうしてなんでしょうね。

投稿者 uchida : 2005年01月22日 16:22

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