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2005年02月01日
言葉に対する敬意と慎み深さ
■ 言葉と立ち位置
小池昌代さんの詩、とてもいいですね。
まず、言葉というものについて根底的に考えた人なんだなということがわかります。
ぼくも、若い頃へたくそな詩をたくさん書きましたので、言葉というものに対する立ち位置についてはすこしは、考えてきました。
感覚的に言えば、それはまさに、「大初に言葉ありき」というその地点ににじり寄るということになるのだろうと思います。
大初の言葉の中には、未生の感覚、未聞の体験が眠っています。
言葉は、語られたものでも、書かれたものでも、それが第三者と分かちあえなければ、意味がない。いや、分かちあえてはじめて、単なる単語が意味として立ち上がってくるのだろうと思います。
こういった詩人的な感覚からすれば言葉を他者に届けるという、伝達的な言葉というものはあまりに暴力的で、威圧的に見えてしまいます。
言葉がそこに在る。
発話者と受け手には、言葉をはさんで攻守ところを変えるだけの時間が必要です。
そして言葉の重力を分かち合う。言葉が消える。感覚が立ち上る。
そういうプロセスが詩の力なんだろうと思います。
ちょっと、茫洋とした言葉論ですが、そんなことを考えさせてくれる詩でもありました。
ここで、詩の言葉の意味を詮索するのは、野暮だと思いますが、修辞的には
地球の中心が いまここへ
じりじりとずらされても不思議はない
というフレーズが、利いていますよね。この二行によって平凡な朝の、りんごの重さやてのひらの微細な感覚が、一挙に地球という普遍的で大きな物語に向かって開いてゆきます。そして、対比的に襲ってくるのは微細なものに対する愛情であるといったら、言い過ぎでしょうか。
それは別の言い方をするならば、言葉というものが、自分の内から外へ、他者へ、他処へ向かって発せられるものであると同時に、それを発するや否や、自分の内へ、中心へ向かって突き刺さってくるものでもあるという二重性を気づかせてくれるものだということです。
こういった言葉のもつ不思議な作用に自覚的であるという起ち位置を、ぼくは、「言葉に対する尊敬とつつしみ深さ」であると言っておきたいと思います。
言葉に対するつつしみ深さと尊敬は、人間が生きてゆく上で、大変大切な作法だと思うのですが、どうも昨今はそれが見失われているような気がしてなりません。デジタルな媒体に乗って(ぼくたちもふくめて)ひとはどんどん饒舌になってゆきます。
しかし、この饒舌には、言葉の肌理(きめ)というような重要なものがすっぽりと抜け落ちてしまいます。
言葉が一方的に他者へ向かうとき、それは命令、統御、訓致、非難、嘲笑、呪詛、欺瞞、詐術のための道具にならざるを得ません。
言葉もまた、武器として使われるようになったという意味です。
端的に言えば、言葉の使い方、作法が違っているよということです。
たとえば、「2ちゃんねる」に展開されている匿名の饒舌な言葉を思い浮かべてもいいかも知れません。
ここに徹底的に欠如しているのは、一方的、刹那的な言葉の使い方に対する内省だと思います。
内省って何だよ、と言われるかも知れません。
それは、言葉を発するまさにそのときに現れるためらい、恥じらい、逡巡、あきらめといったネガティブな心象であるといっても構いません。
他者に向けては、同意と承認を求め、同時に自分の内においては、その言葉に値する自己であることを問い直す。そのことが「恥じらい」とか「ためらい」という感覚が生まれてくる基底なのだろうと思います。
「2ちゃんねる」という匿名コミュニケーションの「場」についての評価をするほど、中味を見ているわけではないので、いまのところは、ああいうのがあってもいいとしか言いようがないのですが、韜晦というか、犬儒派的というか、その文体にぼくが感じた違和感は、表現の自由とか、匿名性の効用とか、実況性なんていうジャーナリスティックな言葉で説明できないものです。
一言で言えば、すいぶん言葉がやせ細って、軽くなっちまったということです。
ご存知のように、ぼくがビジネス論を書いたとき、真っ先にやろうとしたことも、ビジネスの言葉遣いについての考察ということでした。
ぼくたちぐらいの年齢になると、目が悪くなったり、腹が出たり、物忘れが激しくなったり(これはぼくは若い頃からですけど)と、ネガティブなことを実感することが多いのですが、言葉に対する感覚という点では、若い頃にはよく見えなかったことが、見えるようになったということだけは、確からしく思えます。
通俗的に言えば、「いやよいやよも好きのうち」なんていうことが、よくわかるようになったということです。
武器として使われる言葉。道具としての言葉。ものやことがらの名前としての言葉。そういった言葉は、同時にかれにそういった言葉を選ばせたものを否応なく伝えてしまいます。丸谷才一的な比喩で言えば、裏声ということでしょうか。
それを言葉遣いの背後にある、見えない欲望といっても良いかもしれません。
そして、今の時代というもののひとつの特徴は、自分が言葉を発するときに、その発話者が自分の見えない欲望に対して、もっとも無自覚になってしまったということなのだろうと思うわけです。
業を重ねて、渡世を渡ってきたものには幾分かはその欲望が透けて見えるようになっているものです。
よくわかる、というのは、一つの言葉というものが、ただの道具や感情のはけぐちであるのか、それとも自分でも良く見えない欲望にたじろぎながら選ばれたもの(供物といってもよいかもしれません)であるのか、その辺りについてわかるようになったということだろうと思います。
ウチダくんがどこかに書いていましたが、高橋源一郎さんが、三行読めば、作品の良し悪しを判定できると言うのも、こういった言葉の背後の見えない欲望と書き手の立ち位置の関係が透けて見えるということなんじゃないかと思うわけです。
■ ゲームはすでに始まってはいたけれど
ウチダくんは、「創造者ではなくて、祖述者である自己規定」について大変示唆深い考察をしてくれました。
そして、その理由としてとてもわかり易い比喩を使ってくれたと思います。
『「自分が起源である」「自分が新しく始めるんだ」ということにしてしまうと人間
は「力」が出ない。
そうではなくて、「ゲームは私が到着する前からすでに始まっていた」ということ
にして、私は「起動者」ではなく「パスする人」であると自己規定すると、なんだか
フットワークがたいへんよろしくなる。』
この話を伺っていて、ぼくは一つのことを思い出しました。
(これって、まさにベイトソンだね。)
そのお話ってのは、こういうものです。
以前、テレビで大江健三郎が「レナードの朝」という映画について、印象に残るお話をしたのです。
大江氏にとってはは、お子さんのこともあって、この映画のひとつひとつのシーンがたいへんに切実なものであっただろうと思います。
ウチダくんは、この映画見ましたか。
映画は、デ・ニーロとロビン・ウイリアムスという当代アメリカを代表する名優の火花を散らす演技が見ものだったのですが、これが実話であるということが、単なるエンタテイメントとは異なった感興を作り出していました。
映画の舞台は、パーキンソン病の患者のいる病院で、眠ったきりの患者や、意識が混濁した患者からは、未来があらかじめ失われてしまっています。
そこに、ロビン・ウイリアムス演じる精神科医が当時、禁じ手であった医薬の投与を行います。
そして、一瞬の奇跡が起こります。
眠り病の患者たちが、つぎつぎと覚醒してゆきます。
しかし、その覚醒は長くは続かず、患者たちは一瞬の覚醒の後、また永い眠りに入る。
この映画を見て大江健三郎は、とてもおもしろいことを言ったのです。
ぼくたちの人生もまた、この患者と同じである。ぼくたちの前にも後ろにも長い眠りがある。生きているということは、暗闇の歴史の中で、そのときだけボッと明かりがついているような感じだ。だけど、この明かりは長い歴史を通して、点いては消え、消えては点く。そういったバトンタッチが行われている。ぼくたちの点けた明かりが前の世代の明かりを継承している、ぼくたちの消滅後に、また誰かが明かりをつける。こう考えると何か救われる感じがする。
だいぶ前のお話なので、本当にこんなことを大江氏が言ったかどうか自信がないのですが、ぼくはこのように記憶しました。
大江氏のキーワードは「救い」だと思います。ぼくは、このお話から、「敬意」という感情のよって来たるところのものを教わったように思います。
敬意という感情は、人間のあらゆる感情のなかでも、大変説明の難しいものです。
それは、目の前の人間に対する、愛情でもないし、ましてや自分より優れた人間に対する敗北宣言でもない。
対幻想のなかにもなく、共同幻想のなかにも存在しえない、ふしぎな感情です。
敬意は、上下、敵対、共同といった空間的な理解のなかには生まれてこない。
たぶん、長い時間というファクターを入れないと、敬意のよってきたるところのものが良くわからない。
いや、よくわからないが、そのわからなさの中に自分が投ぜられているという気づきがなければ、敬意もまた生まれてこないのではないでしょうか。
当今の思考の型を見ていると、どうもこの時間に対する配慮が極端に欠如しているように思えます
それは、人間があまりに「効率」に支配されたために、白か黒か、損か徳か、速いか遅いかといったことにスティックしてしまった結果なのではないか。
どうしたら、こういったフェテシズムから自由になれるのだろうか。
ウチダくんの「師の卑小なコピーという起ち位置」についてぼくは、こんなことを考えたのでした。
ではまた。
投稿者 uchida : 2005年02月01日 17:08
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