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2005年02月11日

キャリアという自己商品化

ミーツの江さんが青い顔しているって?
そりゃそうでしょうねぇ。
砂塵の荒野から馬に乗ってやってきた「悪い兄たち」が、いきなり、茶店にわらじを脱いで、
昼間っから酒飲くらって、のんびりと詩論だものね。
こいつら、いつになったら動き出すんやろか...。
雇ったはずの用心棒の先生は一向に働いてくれない。
看板に偽りあり。羊頭狗肉。馬耳東風。蛙の面にしょんべん。
「先生!頼みますよ。」
「わかった、わかった、皆まで言うな。でもまず茶を一杯」
これは頼んだ相手が悪かったとあきらめてもらうしかないですね。
(ごめんね。江さん!)

■ 職場の地獄

というわけで、ここらですこし、メタフィジカルなところから降りてきて、現在のビジネス状況に関して、問題になっているらしいことを俎上に上げてみたいと思います。

実は、ぼくもウチダくんに倣って、ブログというものを作ってみました。最初は、なんだか、自分の日記を毎日公衆の面前で書くなんていうのは、気恥ずかしいというか、露出趣味というか、嫌だったのですね。
それでも、ブログがインターネットの世界で、見る間に増殖し、いったいこれって何なんだということで、半年ぐらい前に実験的にふたつの無料ブログサイトにホームページを作ってみたわけです。
最初の数週間は、毎日20とか30のアクセスで、なんか張り合いねぇなぁって思っていたのですが、このところ急激にアクセスが増えてきて、たまにポリティカルな発言なんかをすると、賛否両論あいまみえるって具合で、アクセスが1000を突破したりする。
妙なもので、こうなると毎日書かないと何か、善意の第三者を裏切ってしまうような心持ちになって、書くことが何もなくても義務感に突き動かされてつい、コンピュータに向かってしまう。
おもしろいもんですね。
まあ、ウチダくんのブログは毎日7000を越えるアクセスがあるってことで、これに比べればかわいいものなんですが、それにしても、歴史上このような形でひととひとが繋がってゆくなんていう経験は無かったわけです。インターネットという発明自体は、確かに画期的だったのですが、それをこのようなツールに育てたのは世界中のユーザーで、この使われ方は発明のインパクトを遥かに凌駕していると言わねばなりません。

そのブログ中で、ぼくの反戦略的ビジネス論に関して、今の会社の状況はお前が言っているような悠長なものではない。努力や辛抱なんかするだけ無駄である。現実はもっと悲惨で、救いがないんだ。毎日やりたくもない残業をやらされ、時間外には飲みたくもない酒をのまされ、馬鹿な上司に安月給でこき使われて、捨てられる。まあだいたいこんなことをいう方たちが出てくるわけです。

よくはわからないのですが、たぶん団塊の世代の最後の方、四十後半ぐらいに結構このような感慨を懐いている人がいる。
俺は救われるのかと思ってお前の本を買ったのに、やたら横文字や引用ばかりで、役に立たない。本代を返してもらいたいくらいだ。
まあ、こんな反応があったわけです。

まあ、それだけだったら、ぼくはスルーしちゃうんです。
いや、それはご自分で考えてくださいということです。
不満居士はいつの世も、活性化の原動力ですからね。

自分が被害者である。どこかに加害者がいるはずであるという語り口は、ぼくたちは十分に経験してきているわけです。ちょっと大げさに言えば、そこに戦後の左翼運動のもっとも脆弱な論理を見てしまうわけです。ひとの言説の説得力の度合いを、どれだけ社会から虐げられた存在であるのかによって測定する。そこにあったのは、プチブルである自己を、革命運動によって超克してゆくという奇怪なロジックでした。しかし、自らがプチブルであったぼくたちがこの論理の脆弱性を克服してゆくのは、案外難しいことでもあったわけです。そこに出てきたのが自己否定というものでした。

しかし「てめえらなんぞに、おれの苦しみがわかってたまるかよ」という恫喝に対して、学生左翼も、文学青年もたじろいでしまうなんていうことがあったのだと思います。しかし、こちらも長年人生をやっていると、いろいろなことがわかってくる。被害妄想的な言説の背後にある欲望や甘えも見えてしまうようになる。
俺たちはそのあたりのことは、承知しているよ。
体験済みのことだよということですね。

しかし、まあ、ぼくは社長しかやったことがないし、好きなことしかやってこなかったので、実際のところがよくわかっていないのかも知れない。ということで、現実はそんなにひどいんですか、昔よりひどくなっているのですかって、ブログを通じて聞いたわけです。そうすると、何人かの信頼できる書き込みをする方たちが、確かに今の職場はひどくなっている。意識的な人間ほど痛い目を見ているみたいな観察を送ってくれた。
で、まあひょっとするとこれはパーソナリティの問題なのではなくて、ビジネス社会における構造的な問題なのかと考えてみました。
しかし、これを経済市場主義、市場万能主義の進展による、労働抑圧の進化であるなんていうような社会学的な説明しても、しょうがないじゃないかと、ぼくは思っているわけです。

確かに、ここのところの十年は、終身雇用性を前提とした雇用システムが、なかば意図的に、なかばやむなく崩壊し、変わって自己責任、労働市場の流動化、それに伴う、成果主義、能力主義といった労働思想が台頭してきたことは事実です。こういったアメリカグローバリズムの進展を日本の企業社会は否応なく受け入れているわけです。それが、人を幸せにするシステムではないとは、言いやすいことですが、多少格差が広がっても、平均点を引き上げるという方向は今後も変わらないように思えます。これは、経済成長神話がなくなるまで、続くと思います。

で、じゃあどうすりゃいいだよということなんだと思います。

■ キャリアアップとか差別化の意味するものは、自己の商品化ということ

上の問題をぼくは、すこし別の角度から考えた方がいいんじゃないかと思っています。最近、新聞、テレビ、週刊誌などでは、やたらとキャリアアップだとかキャリアパスなんて言葉が出てきます。
大学までも、キャリアデザインなんて学部が、大手を振って受験案内に登場する。

ぼくたちの頃は、「手に職をつけなさいよ」なんて、言われたものです。
で、この手に職をつけるってことと、キャリアアップってことは、似ていてまったく非なるものだろうと思います。

最近は大学に通いながら、職業訓練校に通うなんてことが随分あるそうで、ダブルスクールなんて言うんだそうです。これは、まあ大学で教わることは社会に出たら役に立たない。実践的な知識は、訓練学校で学ぼうという防衛戦略なんだろうと思います。
尤も最近では大学もこの「市場ニーズ」を先取りして、実学優先、社会ですぐに使える法律だとか、コンピュータだとか、語学だとかを教える学部があちこちに出来ているわけでウチダくんもブログに書いていた東京都の大学なんていうのは、大学全部が職業訓練校みたいな風になった。

ぼくなんかは、ビジネスの現場から見ているので、この「市場ニーズ」なるものが、いかにいい加減で、あやしい者であるのかは、身体に刷り込まれているわけです。
で、ここにはふたつの思い違いがあると思っています。
ひとつは、
キャリアというものを見につける方法なり、学というものがあるということ。それを学べば未来を決定できるということです。ここには、未来ということに対する決定的な誤解があるのですが、それについては後ほどお話できればとおもいます。
もうひとつは、
社会は、そういったキャリアの護符(免許とか学歴だね)を、大変ありがたがっているということ。そして、それが就職に大変優位に働くということです。
このふたつは、どちらも、まったくあてにならない信憑なのですが、結構今の賢い若者たちの心理に食い込んでいるんですね。

まずは、キャリアですが、まさに字義のとおり、キャリアとは事後的に獲得されたスキルなり、経験の堆積を指しています。社会に出るということは、実は「免状」も、「学歴」も関係ないということを思い知らされるということです。ぼくたちの翻訳会社もそうでしたよね。英検だとか、TOFLEだとかいろいろあったけど、こういったものは仕事には使えないもんだってのは、はなから分かっていた。むしろ、過去にどういった仕事を何年やってきたのかということが、翻訳をするためのバックボーンになるのだということが自明のことだったわけです。
ぼくは、学生の頃水泳をやっていたのですが、上達するのはカナズチだった奴です。スイミングスクールの先生と話をしたことがあるのですが、かれもまったく同じことを言っていました。武道だってそうですよね。器用な奴ほど、わかったつもりになって早く潰れてしまう。不器用だからこつこつと努力をしていると、いつの間にか見違えるようになっている。でも、そこに至る近道はないんですね。
キャリアは事前には存在できないという当たり前のことが、わからなくなっているだろうと思います。

もうひとつの、社会がそれをありがたがるってことですが、これはそう考えるひとの社会観そのものを反映しているわけです。社会が免許や学歴でわたってゆけると考える人の前に開けている社会ってのは、免許や学歴が幅を利かせている社会でしかない。
もちろん、そういった社会ってありますよ。(ほんとは、ほとんどないんだけどね)
だから、キャリアパス的なものを選択したってことは、すでにそういったつまらない社会をも選択したということに気づいて欲しいわけです。
無時間モデルで、急げは急ぐほど、ことの順序が逆転するという傾向が出てきます。

武道を長年やってきた、ウチダくんやぼくには自明のことなんだけど、基本と応用の関係は、よく誤解されるんですね。大学や、訓練校でやっているのはあくまでも基本です。それが、どんなに高度で、複雑なものであっても、基本は基本です。
社会ってのは、まさに応用です。基本と応用というものが、通常は応用が基本の上位にあると考えられているようですが、違いますよね。
これは、同じものを異なる位相からアプローチしてゆくということだろうと思います。で、基本から応用に入るときにもっとも大切なことは、何ごとも基本どおりにはいかないものだと気づくことなわけです。つまり、これまで学んできたことをいったん、解体するという作業が必要になるってことです。
逆に、応用から基本に入るという作業も必要なことであるわけです。

おっと、つらつら書いていたら長くなりすぎましたね。
基本と応用の違い、そしてそれがどのように、今の労働状況につながってくるのかについては、次回にまた続きを書きます。
もちろん、ウチダくんが先に答えを出してくれちゃっても構いません。
では。

投稿者 uchida : 2005年02月11日 08:26

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