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2005年02月21日
常識と陰謀
■ 天下無敵のブロガー
こんにちは。
平川ブログ、アクセス増えましたね。
ぼくもそうですけれど、ポリティカルな話題について書くといきなりアクセス数が増えるんですよね。
たぶん「ミツバチのダンス」みたいに、「あそこのサイトでポリティカルな話題についての言及があります。ぶんぶん」というようなシグナルが発信されていて、それに感応して人々がやってくるんでしょうね。
それにしても、人間て「政治」がほんとうに好きなんだなあと思います。
どんな話題よりも「熱く」なりますからね。
正直言って、ぼくは政治的なブログって、左右を問わずあんまり好きじゃないんです。
なんていうのかな、「党派性」が嫌いなんです。
ぼくのいう「党派性」というのは「政治的に偏っている」という意味ではなくて(政治的に偏ってない人間なんてこの世いいませんから)、「衆を恃んで」、数で押してくるというやり口のことです。
政治って集団的なものなんだから「衆を恃む」のは当たり前だろうという人がいるかも知れませんが、ぼくはちょっと違うと思うんです。
ぼくも政治的は発言をときどきしますけれど、それは「衆を恃んで」の発言ではなくて、どちらかというと「衆を結集する」ための発言だと思っています。
私はこの政治的論件についてこう思います、その論拠はこれこれしかじか。同意見の方、いらっしゃいますか?意見が合う人がいるとうれしいです。
というのがぼくの政治的オピニオンの提示の仕方です。
「衆を恃む」政論家はこれとは語り口が違います。
彼らは自分と同意見の人間が(潜在的にではあれ)多数派であることを「自明」の前提として発言しますから、そこには「説得」というモメントが存在しません。
そんなことないよ、彼らだって典拠を示したり、数値を挙げたり、データを羅列したりしてるじゃないか、と言う人がいるかもしれませんが、それは論敵を「論破する」ためのもの、相手を追いつめ、孤立させ、叩き潰すために功利的に利用されているにすぎません。意見の違う人、立場の違う人を説得して、同意を取り付けるためにそれらの言葉は動員されているのではありません。
相手を黙らせるために動員されている言葉。
そういうのって、言葉の使い方としていちばん哀しいと思いませんか?
ぼくはそういう言葉の使い方をしている人を見ると、気分が重くなってしまうんです。
そういうことしているとほんと身体に悪いぜ、と思って。
とにかく、政治的発言には「仲間を糾合するための言葉」と「敵を殲滅するための言葉」の二種類があります。
どちらも「敵をなくす」というのが最終的な目標なわけで、その点では「同じ」と言ってもいいんですけど、アプローチが違う。
「天下無敵」という言葉がありますよね。
これを「天下のすべての敵を私は殲滅する」という挑発的な宣言だと思っている人が多いと思うんですけれど、本旨はそうじゃないとぼくは思っています。
「天下に敵なし」というのは、むしろ「みんな仲間」という意味だろうと思うんですよ。
そんなことできっこないだろうと怒る人がいると思いますけど、「主体」と「他者」という概念そのものを書き換えればできないことはないと思うんです。
まあ、これは話し始めちゃうとやたらに長い話になるので、始めたとたんに切り上げますけれど、ぼくはそういう意味で「天下無敵のブロガー」をめざしているわけです。
もちろん、ぼくのサイトにも批判的な書き込みやトラックバックをしてくる人はあまたいるわけですけれど、ぼくはそういう「反対者」を排除したり黙らせたりする気はないんです。
前に書きましたけれど、ぼくの解釈する「言論の自由」というのは
「言う人」は好きなことを言いたいように言う。
その適否については「聞く人」に判断してもらう。
おしまい。
というものです。
ほとんどの人は「言論の自由」というと前段だけを強調しますけれど、ほんとうにたいせつなのは、「その適否を聞く人が判断できる」ような場を確保するという後段の方だと思うんです。
■「言論の自由」が損なうもの
十年ほど前に、フランスやドイツで「歴史修正主義論争」というのがあったのを覚えていますか?
ロベール・フォーリソンというフランスの歴史家(と言っていいのかな)が「アウシュビッツにガス室は存在しなかった。ユダヤ人たちはチフスで死んだのである」という「学説」を発表して大騒ぎになりました。日本でも、それを翻案した書き物を『マルコポーロ』という雑誌が掲載して、国際的なユダヤ人団体の圧力で雑誌そのものがつぶれたことがありましたね。
ぼくはフォーリソンの本を読んだんですけれど、序文を寄せていたのがあのノーム・チョムスキーでした。
チョムスキー曰く。
「このフォーリソンという人物の主張が正しいか間違っているか、私にはわからない。なんだか間違っているような気もするが、『それは間違っているんじゃないの』と思う言説についても、それを公刊する権利を私はあえて擁護したいと思う。」
なるほどね、と思いました。
仮に自分自身がそれに反対する理説であっても、それが自由に公刊され読者に提示される権利を私は保護したいという態度は政治的にはたいへんに正しいのでしょう。
「私は私に反対する人間の言論の自由を擁護する」というのは、たしかに美しい言葉です。
でも、この場合は「ちょっと待ってね。いくらなんでも…」という気がぼくはしたんですね。
チョムスキーさん、ちょっとそれ「言い過ぎ」なんじゃないですかって。
「ユダヤ人の絶滅収容所は存在しない。なぜならユダヤ人の殺害を記録したナチスドイツの公文書が存在しないからだ」という議論の立て方は、「常識的に判断して」無理筋だと思うんです。
ぼくがチョムスキーに感じたのは、「いくらなんでも非常識な…」という感覚だったんですけれど、「理屈としては正しいけれど、なんか非常識」ということってありますよね。ぼくはこの「常識的に考えて…」という「行き過ぎた原理性に対する違和感」もまた言論の自由を生き残らせるためには不可欠のファクターではないかと思うんです。
チョムスキーの発言はたしかに「言論の自由」の原理に忠実なものです。でも、この「言論の自由についての原理主義」というのは、「言論の自由」の本質的な豊かさを蝕むもののようにぼくには思えたのです。
「言論の自由」というのは、ほんとうはチョムスキーが考えているほどに原理的・固定的なものではないと思うんです。
「あなたのいう『言論の自由』の定義って、ちょっと違うんじゃないのかなあ」という「原理」そのものについての批判や検証も「あり」ということじゃないと、「言論の自由」にはならないのじゃないかと思うんです。
チョムスキーの理屈で言えば、「私たちは言いたいことは、なんでも言う権利がある。それによって傷つく魂があろうと、破壊される美があろうと、踏みにじられる条理があろうと、言いたいことを言う権利は万人にある」ということになると思うんですけど、言論の自由のめざしていることって、そういうもんじゃないでしょう?
言論の自由っていうのは、そんなふうな硬直したごりごりしたストレスフルな原理じゃないと思うんです。もっと、風通しのよいものでしょう?
自由というのは、「自由でなければならない」というような拘束的な語法で語られるものじゃないと思うんです。
何て言うのかな。
チョムスキーは非常識じゃないかとぼくが思ったのは、たぶん彼の言葉に「愛」がないからなんですよ。
言葉に「愛がある」か「ない」かって、わかるじゃないですか。なんとなく。
チョムスキーの序文には「原理に対する誠実さ」はあるんですけれど、彼が擁護している当のフォーリソンや彼が適否の判断を委ねている当の読者たちに対する敬意や愛情は感じられないんです。
言論の自由の第二原則の「適否は聞く人に判断してもらう」という言葉づかいからもわかると思うんですけど、これは「判断してもらう」という語の「もらう」という敬語部分が実はたいせつなんですよね。
「もらう」は「言葉を差し向ける当の相手に対する敬意」の表れです。
読者に対する敬意が込められていないなら、いくら形式的に読者に適否の判断を委ねるかたちにしてあったも、それだけでは「言論の自由」は立ちゆかない。
ぼくはそう思うんです。
例えば、こういうテクストを書いているときに、ぼくはこれを読む人に対して、どれほどの敬意と信頼を寄せているだろうか…とときどき筆を止めて(キーボードの上に指を泳がせ、かな)考えるんです。
「慇懃無礼」という言葉がありますね。
でも、「愚見の当否のご判断は読者諸賢に委ねたい」というような言い方は形式的には敬意の表現なんだけれど、読者を愚弄するような薄ら笑いを浮かべながらそう書くことだってできるわけです。
だから敬意って、ことばの表層にあるものじゃないということはわかるんです。
じゃあ、どこにあるかというと…
対話性っていうのかな。
「ぼくにはよくわからないんだけど、あなたは、どう思いますか?」という問いかけが、外形的な修辞としてではなく、言葉の底流に、書き手の息づかいというか、立ち姿勢みたいなものとして存在する、ということがたいせつなんじゃないかと思うんですね。
ぼくは「対話の原理主義」とか「他者性の原理主義」みたいな風儀にどうもなじめないんです。
あるじゃないですか、ポストコロニアル批評とかポストモダン批評とか。「対話せねばならない」とか「他者と向き合わねばならない」とかいう口吻で説教するやつ。
あれって、何か「常識的に考えて」変でしょ?
「さあ、対話をしましょう。対話によって、私たちの個別的な言説のイデオロギー性や臆断を乗り越えようではありませんか」というような言い方って、何か「常識的じゃないよ」ということですね。ふつうはそんなふうに言わないから。セックスする前に女の子に「さあ、エロス的合一めざして愛し合おうじゃないか」なんて言わないでしょう。ふつう。
相手に向かって言葉を発するときって、別に準備していた「正しい」台詞を読み上げるわけじゃなくて、その場でその場の空気に触発されて生成してきた言葉が口を衝いて出てくるわけじゃないですか。それが対話性というものだと思うんですよ。「対話とはかくあらねばならない」というような決めつけをして臨んでも、対話は少しも豊かにならないし、愉快にもならない。
じゃあどうするんだと凄まれても、こちらも正解を知っているわけじゃない。「だから、ま、常識的にね、総合的に判断をしてですね…もごもご」ということになるわけです。
「言論の自由」のいちばん根本にある知見というのは、「何が正しいのかわからない」ということですよね。
「そもそも『言論の自由』ということ自体、正しいのか正しくないのか、よくわからない」という「メタ・わからない」性が言論の自由の最良の質を担保しているんじゃないか、と。ぼくはまあそんなふうに思うわけです。
■複雑系としての人間社会
さて、ややこしい話はいずれまた蒸し返すとして、ビジネス論に行きましょう。
サラリーマンたちの愚痴の構造って、平川くんの言うとおりですね。
「現実はもっと悲惨で、救いがない」という現状認識があって、その現状は「自分は〈被害者〉である。どこかに自分の苦しみから受益している〈加害者〉がいるはずだ」というかたちで説明される。
ご指摘のとおり、この論法はマルクス主義的思考のうちに典型的に見られたものでした。
「社会の矛盾を一身に集成しており、そのせいで社会全体を解放することなしには自己解放しえぬもの」というのが「理想的被害者」としての「プロレタリアート」の定義ですが、その対極には当然のように「自分以外のすべての社会集団を利用し収奪することで受益している理想的加害者」が想定されていました。
この「被害者」の対極にはその陰画として「加害者」が存在するというのはある種の宗教的信憑にすぎないということは、十年ほど前に「複雑系」という概念が普及したあたりでみなさんも一応納得してもらえたと思うんです。
もとより平川くんには説明する必要なんかないんですけれど、「複雑系」というのは単純に言ってしまえば「入力と出力が一対一的に対応しているわけではない」システムのことです。
プリゴジーヌの「バタフライ効果」(北京で蝶が羽ばたきすると、それによって生じた空気圧の変化が太平洋を越えてカリフォルニアにハリケーンを起こす、というあれです)という絵画的な比喩で知られるように、「わずかな入力の変化が劇的な出力の変化を結果することがある」のが複雑系の特徴です。株式市場における投資家の行動から鳥の渡りまで、現実世界のほとんどすべての事象は複雑系です。
だから、「自分が悲惨な人生を送っている」という事実からは「その悲惨な人生から受益している人間がいる」という事実は演繹できない、というのが二十世紀以降科学的な「常識」に登録されたはずなんです。にもかかわらず、あたりを見渡して見ると、これを「常識」として日々ものごとを判断している社会人て、ほとんどいないんですね。ほんとに、こういうことこそ「常識だろ」と思うんですけど、「常識」って意外に「常識」とされてないんですね。
「受益者」というのを(むかしのマルクス主義が「ブルジョワジー」という概念に託していたように)人格的なものとしてイメージするのはさすがにいくらなんでももう無理なので、人々は「自分の苦しみから受益している〈社会構造〉」というものをイメージして、それをなんとかしろ、というふうに問題を整理しているわけですね。
でも、それって「人格」を「構造」と言い換えただけで、発想の本質はぜんぜん変ってないんじゃないかな。
「陰謀史観」というものをご存じだと思います。
フランス革命がありましたね、1789年に。そのとき特権を剥奪された貴族や僧侶たちの一部はイギリスに亡命するのですが、亡命先のロンドンのサロンに集まっては「どうしてあんなことが起きたんだ?」という議論に日々を費やしました。
どうして「あんなこと」が起きたのか分からなかったんです。
あれよあれよという間に、ブルボン王朝の瓦解というような「大事件」が起きたわけです。
古典的な線形方程式な思考をする人間は「出力としての大事件」には「入力としての大事件」が一対一的に対応しているに違いないというふうに推論します。
ブルボン王朝は巨大な権力システムですから、それを瓦解せしめるものは当然にもそれ以上の巨大な権力システムでなければなりません。
しかし、そんなものはフランス国内のどこを見渡しても存在しない。
たしかにジャコバン派は革命後に一時的に権力を掌握したけれど、革命以前には王朝を転覆せしめるような実力も組織力も有していなかったし、その〈恐怖政治〉もきわめて脆弱な政治的基盤しか現に持っていなかった。
となるとそこから導き出される結論は論理的には一つしかありません。
それは、革命を起こしたのは、王政と同程度の実力と組織力を有する「不可視の政治組織」である、ということです。
ジャコバン派もプロテスタントもフリーメーソンもババリアの啓明結社も聖堂騎士団も、すべてはこの「不可視の政治組織」がコントロールしている。
という「物語」を作り上げることで、論理的には一件落着したわけです。
そして、この「〈表〉の統治が及ばない全世界のすべての個別的政治活動を〈裏〉で統御している不可視の政治組織=闇の世界政府」についてありとあらゆる流言飛語が飛び交うことになったわけです。
この発想法は〈ユダヤ人の世界政府〉から始まって、007号の仇敵〈スペクター〉、レーガン大統領の〈悪の帝国〉、ジョージ・ブッシュの〈ならずもの国家〉と連綿と語り継がれて今日に至っているわけです。
オレはこんなに必死に働いているのに、ちっとも愉しくない…という事実から出発して、直線的に「ということは誰かがオレの労働を収奪し、オレの苦しみから快楽を得ているということになる」という推論のレールの上を進んでゆく人間は今でも決して少なくありません。
でも、そういう人は「フランス革命のときの陰謀史観論者」から実はほとんど進化していない。
このような思考類型をとりあえず「線形的思考」というふうに呼んでみることにします。
平川くんがキャリアについて書いているように、キャリアというのは「事前には存在できない」ものですね。
まさに「ぼくの前に道はない」。
「社会が免許や学歴でわたってゆけると考える人の前に開けている社会ってのは、免許や学歴が幅を利かせている社会でしかない」という指摘はほんとうにその通りだよなと思います。
線形的思考をする人間は「未知」というファクターを排除します。
線形的思考の代表選手は「ラプラスの魔」です。
「私に宇宙の初期条件を開示せよ、さらば、この宇宙で未来に起こるすべてのことを私は言い当ててみせよう」と豪語したあの近代科学主義の悪魔です。
システムの初期条件が開示されれば、それから後に起こるすべてのことは予見可能である、というのがニュートン=デカルト的な静止的宇宙観でした。
でも、量子物理学以後、私たちはそのモデルがもう使えないということを理論的にも実験的にも熟知しているはずです。
線形的思考の根本的な難点は、「これから起こる変化」について精密な予測を立てる人は、その予測が精密であればあるほど、「これから起こる変化によって〈予見者〉自身も変化する」というファクターを勘定に入れ忘れるということです。
坂本九の『悲しき60歳』という歌を覚えていますか?
「見初めた彼女は奴隷の身、だけれどぼくには金がない…」というあれです。
で一念発起して「マネービル」(古いねえ)をしたムスターファ青年は刻苦勉励ついに奴隷の彼女を買い戻すだけの資産を蓄えるのですが、そのときは「今や悲しき60歳」になっていたわけです。
でも、この歌の悲劇性は、いつのまにか60歳になってしまって素敵な彼女ももう60歳の老婆となっていた…という種類の悔いに存するのではありません。
そうではなくて、若いときの欲望にドライブされて60歳までの人生を単線的に律したムスターファくんが、「60歳のガキ」になってしまったという悲惨さのうちにあります。
キャリアパス的思考のピットフォールというのはここだと思います。
18歳や20歳のときの幼い想像力が描いた「アチーブメント」とか「サクセス」の呪縛に未来をまるごと投じることのリスクを過小評価してしまうこと。
これに尽きると思います。
それは自分の未来の未知性、「自分がこの先どんな人間になるのかを今の自分は言うことができない」という目のくらむような可能性を捨て値で売り払うということに等しいのです。
複雑系としての社会には二つの側面があります。
「先がどうなるか正確に予見することはできない」ということ。
これはぼくたちにある種の無能感をもたらす場合があります。
もう一つは「わずかな入力の変化で劇的な出力の変化が生じることがある」ということ。
これは「レバレッジ」に行き当たりさえすれば、一人の力で宇宙全体さえ動かせるという多幸感をもたらす場合があります。
この無能感と多幸感の「あわい」を遊弋すること、それが複雑系としての社会を生きる人間のマナーだとぼくは思うのです。
と、話は唐突に終わりますが、続きをよろしく。
投稿者 uchida : 2005年02月21日 12:25
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