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2005年03月10日

非決定問題について

■ 年をとらないとわからないこと

ウチダくん、いそがしそうだけど元気ですか。
ちょっと間を空けちゃいましたね。
先週、箱根の雪の中で、ソニーの元常務で、プロジェクトXにも出ていた郡山さんを
囲んでセミナーをやっていたのですが、そのとき、彼がとてもおもしろいことを言っていました。
「年をとらないとわからないこともある」ということです。
で、ぼくが、それは何ですかと問うと
「年をとるとどうなるかってことは、年をとらないとわからないってことです」
っていう答えが返ってくる。
まあ、あたりまえって言えばあたりまえのことですが、
ぼくは自分も五十も半ばになって、この答えに妙に納得してしまいました。
この答えの妙味はそれこそ年をとらないとわからない。

ぼくは、自分のイマジネーションというものが結構使えるツールで人間にとって最も大切な能力の一つだと日ごろから思っているのですが、それでも、年をとったときの感覚ってところまでは、若いときのイマジネーションはとても届かないですね。
年寄りからは若さがなんであるかというのは経験済みのことですからよくわかる。しかし若さをそのままどんなに引き伸ばしても年寄りにはなれない。年をとるってことは、若さそのものへの否定なわけです。

若いってことは自分がやがて年をとるってことに思い至らないってことです。
まあ、ぼくたちは結構年寄りに憧れがあってはやくじじいになれないもんかなんて思っていたので例外かもしれませんね。
でも、普通は今日若ければ明日も若いと思っている。
そうじゃありませんでした?
これを何回繰り返すと自分が年寄りになるなんて誰も思わない。
ぼくはこういった問いを「非決定問題」って呼びたいんです。
マルクスではないですが、さなぎはそのままでは蝶にはなれない。
だけれどもある日、年をとるということがどういうことかが一瞬にして了解できる。

これは屁理屈ですが、実際、年をとってはじめて若さというものに対するイマジネーションが描けるわけです。
どんな若者もやがて年をとるということは頭ではわかっていても、自分が年をとるってことの意味は、そこまで行って見ないとわからない。
今日のお話は実はこのことと深い関係にあるとぼくは思っているのです。

■ 自分を勘定に入れるということ

せっかくウチダくんが具体的かつ緊急のビジネスの課題の方へ舵を切ってくれようと
しているのに、ぼくがまたここで前段のややこしい話に戻しちゃうかもしれません。

というのは先回のウチダくんのお手紙(とは言ってもメールですが)の言葉に思わず
反応してしまったからです。どこに反応したのかというと。

>「あなたのいう『言論の自由』の定義って、ちょっと違うんじゃないのかなあ」という
「原理」そのものについての批判や検証も「あり」ということじゃないと、「言論の自由」にはならないのじゃないかと思うんです。

というところです。
これは、チョムスキーにしてもサイードにしても、正しき人々に対して、ぼくがつねに
感じるちょっとした違和感の在り処を示唆してくれます。
「正しい言説」にはもれなく、「違和感」がついてくるというわけです。
で、この違和感がどこからくるのかについて、考えたいと思うのです。

「言論の自由」は人類最強の理念の一つだろうと思います。
これは「人間の平等」とか「人権」とか「環境」といったものと並ぶ、人類最強の理想であり、攻略不能な倫理でもあるわけです。
例えばアンケートで「あなたは言論の自由に賛成ですか。」と問えば百人が百人「そりゃ賛成だがね」と答えるしかないということです。
あのコクドの堤さんだって、社員は自由に発言していて、それが直接わたしのところへ届くなんて言っていましたからねぇ。

面白いのは、(と言っちゃ語弊があるでしょうが)そうであるにもかかわらず、言論はしばしばコントロールされているし(あるいは何となく自らコントロールしちゃうし、人類は結果においても機会においても平等であったためしはない。
人権は世界中のいたるところで踏みにじられており、環境は日々汚染と破壊の脅
威に晒されています。

理念としては最強だし、誰もがそれが何であるかわかったつもりになれるが、現実にはなかなかそれが実現できていない。
これっていったいどういうことなんでしょうかねということだと思います。
案外ここらに、人間と言葉の関係に潜む陥穽といったものがあるんじゃないかと思うのですが、なかなか難しい問題なんですね、これが。

丹頂鶴は、今や世界で二〇〇〇羽位しか生息していないそうです。
このままいくと朱鷺と同じように、この地球上からひとつの「種」が消滅するわけです。
これは非常に大変な、重要なことではありますが、さしあたりぼくには関係が無いとしかいいようがありません。
絶滅しないように、お祈りするだけです。
人類の平和、人権の尊重、人間の平等、言論の自由。これらは皆、そうありたいねと、希うことはできても、ではどこまで人間の欲望を制限してゆけば、これらのもの
を手に入れられるかということはよくわからない。
京都議定書を批准しない論理に、テクノロジーがこれらの問題を解決するというのがありましたが、ぼくには問題の捉え方が根本的に違うとしか思えませんでした。

いま、世界を見渡してみればいたるところに非平和、人権の蹂躙、絶対的不平等、
言論の弾圧が横行していることがわかります。
しかし、こういったものをどうやって解除していくか、どこからどこまでが戦争で、どこからが平和なのか、どこまでが言論の自由で、どこからが作法やしきたりなのか、なかなか簡単には分別できないやっかいなものであることもすぐにわかるはずです。

世界をうんと単純化したければ、世界にはこういった理念を毀損したいという邪悪な
意思が働いており、いまのところそういった加害勢力が優勢であるがために理想
が実現できないといえばいいわけです。つまりよき人々と邪悪な人々が戦ってい
るという構図ですね。何か、世界には「ならずもの国家」と「フリーダムの伝道国」があるというおなじみの構図です。
でも、世界は百人の村じゃないわけです。

もうひとつは、もともとこういった理念は、実現できないものであり、実現不可能であるがゆえに、欠損的理想としてのポジションを保持できているのだというものです。
この場合ぼくたちが要請されているのは、最強の理念というものが、ぼくたちの個人的な欲望や理念といったものとどういった関係にあるのかということを知るというこ
とだろうと思います。

ぼくは後者の考え方でいいのではないかと思っているのです。
いや、世界を正邪の対立と考える宗教的な世界観そのものを解体してゆかない限り、世界から紛争や戦争は無くならないといってもいいんじゃないかと思っています。
あるいはウチダくんも書いていたように、複雑系の中では、このボタンを押せば自由が出てくるなんていうリニアな世界は何処にもないということかもしれません。
そういった偏狭なナショナリズムを解体するには、迂遠なようですが、ぼくたちじしんが決定不可能性とか、実現不可能性といった場所に立つ必要があると言うことだろ
うと思います。

そこでもう一度百人が百人賛成の理念は何故実現できないのかと問うてみたいのです。
答えは、結論から言ってしまえば、それはこういった理念は「自分を勘定にいれない」理念だからということになります。
自分を勘定に入れないところでは、人間は何でも言うことが可能です。しかしその言説は遂行的なレベルでは何の指南力ももたない。以前書いたことがあるのですが、人は自分でそれを信じていなくても信仰を告白することが可能だし、自分を勘定に
入れることは、言葉と社会を繋ぐ蝶番のような役割であるとぼくは思っているのです。

正義の理念は、一見遂行的な課題のように見えるのですが、自分を勘定に入れない限りそれが、遂行的な課題には成りえませんよね。
腹の底では、なんだこのやろうと思いながら、「俺を批判するのは自由だ」なんて言っても、ただの欺瞞としか響かないわけです。
自分を勘定に入れた言葉が、普遍的な正義の言葉へ成長してゆくにはまさに、そこに「命がけの跳躍」があると言えるのかもしれません。

ぼくは、人間というものはだれもが他者の自由をコントロールしたい、他者を差別したい、他者より優位に立ちたいといった欲望を自分の内部に棲まわせている存在だと思います。あたりまえですよね。欲望ってそういったものですから。
そして、そういった欲望を無化しようとして努力するとすればそれは、出家するか、あるいは自殺するかしかないわけです。しかし、こういった欲望を自らのうちに飼ってい
るからこそ、それとは反対の概念も立ち上がってくることができるとぼくは考えています。

「言論の自由」「人権の尊重」といった理想的な理念を単なる理想的な原理から、現実変容の力に変えてゆくという発想には、こういったことに対してイノセントである自分をつくりあげるという前提が必要になります。しかし、イノセントからファンタジーは作れても、リアリティのある世界を作り上げることはできない。
なぜなら、社会の負担すべき有責性の一端が自分の内部にも存在している、あるいは自分はその有責に対する加担者のひとりであるという自覚のないところでは、自
由を弾圧したり、尊厳を毀損したりすることのリアリティーは、存在しようが無いという他はないからです。

ちょっといい加減な、観念的な言い方になるかもしれませんが、理念というものが現実的であるためには、その理念に対立する欲望が込みになったかたちでのメタ理念を作り上げなくてはならないのじゃないかと思うのです。
(わかりにくいでしょ。でも、ウチダくんにはわかっちゃいますよね。)
それは今のところ、ぼくたちには決定不能のこと、非決定の場というものがあるということを知るという以外には無いというしかないのですが。

投稿者 uchida : 10:33 | コメント (0)