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2005年06月29日
その14・労働と豊穣性
言葉と爆発
前便での平川くんの言葉でとくに印象的だったのは、次のところです。
「マスコミやブログに現れてきた言葉づかいを見ていると、一方的というか、ただ他者を攻め立てる言葉だったり、意味も無く雷同する言葉ばかりが目立ってきているよう思えます。でも、ぼくが聞きたいのは中間で揺れ動く言葉なんですけどね。」
この「中間で揺れ動く言葉」という表現はぼくにはとても肌触りのよいものでした。そういう言葉こそ「党派的な言葉づかい」の対極にあるものだろうと思います。
先週奥湯元のセミナーに講師として呼んでいただいて、「学びからの逃走、労働からの逃走」と題した講演を行いましたが、そのときに思ったことは、学びと労働について、ここでいわれたような「中間で揺れ動く」言葉で語ってみたいということでした。
結果的には何が言いたいんだかよくわからない支離滅裂なレクチャーになってしまってみなさんにご迷惑をかけてしまいましたけれど、この「わけのわからなさ」は「中間で揺れ動く言葉」の「税金」みたいなものですから、ご勘弁いただくしかありません。
「中間」という言葉は誤解を招くかもしれませんが、これは「ある党派的立場と別の党派的立場の中間」という意味ではありません。そうではなくて、「『語っている私』と『それを聴いている私』のあいだのなじみの悪さ」というようなものです。
党派的な言葉づかいの特徴は、語っている本人が自分自身の言葉をまるで切れ味の良い道具のようにすらすらと使っていることだと前に書いたことがありました。もちろん、道具と使用者のあいだにも「うまく使いこなせない」「手になじまない」というような齟齬はあるかも知れません。でも、そのときでも「道具を使いつつある私」の自己同一性が懐疑されているわけではありません。
それは「こんなポストにいたんじゃ私の本領は発揮できない」とか「こんなくだらない仕事では私の才能は実現できない」と思っている「私」が、自分の潜在可能性が「100%私のもの」であることを一瞬も疑っていないのと似ています。
ぼくが「中間」という言葉に託しているのは、そういうことではありません。
「道具と使用者」という二項対立だと、道具(言葉)も使用者(言葉を語る私)もあらかじめ実在物としてそこにあることになります。だから、問題はその二項間の「なじみの悪さ」の技術的な解消であり、「うまい言葉の使い方」さえ習得すれば道具は気持ちよく使いこなせる、ということになります。
でも、ほんとうはそういうんじゃないと思うんですよ。
先行的に存在するのは「なじみの悪さ」の方であって、その「なじみの悪さ」のもたらす運動が事後的に「道具」や「使用者」という項を仮象として結像するんじゃないか。
そんなふうにぼくは考えているわけです。
ああ、こんな説明じゃまるでわからないですよね。もうすこし続けます。
「なじみが悪い」状態は「なじみがよい」状態を志向します、絶対。「不安定な状態」が「安定状態」を志向するのと同じで。
このとき重要なのは「不安定な状態」が「安定した状態」を志向するのは安定状態を経験的に知っているからではない、ということです。「安定って、まだ経験したことがないけど、『そういうもの』があるような気がする・・・」というしかたで「不安定状態」は「安定状態」を志向する。そういうもんだと思うんです。
化学の現象で「爆発」というのがありますね。これをふつうの人は「安定した秩序が突如崩落して無秩序なカオスに陥ること」というふうに理解しているんじゃないかと思います。でも、逆なんですね。これが。
「爆発」というのは「化学的に非常に不安定な状態が一気に安定状態に回帰すること」なんです。
爆発現象を「爆発するもの」(爆薬)と「爆発させるもの」(工兵)の二項関係で考えると、どんな薬剤を何グラム使ったかとか、どういう機械的メカニズムを利用したかということが問題になります。
薬剤と機械に焦点化するわけです。
でも、化学的な意味での「爆発」からすれば、そんなことはどうでもいいことで(薬剤も機械も、爆発と同時にこっぱみじんに飛び散ってしまうんだから)。爆発にとっての問題は「非常な不安定な状態が一気に安定状態に回帰する」という現象そのものである以上、爆薬や爆破装置は、爆発さえすれば「なんでもいい」わけです。
言葉を使うというのも、それに似たことじゃないかと思うんです。
「なじみの悪さ」ということを言いましたけれど、「なじみの悪さ」は必ず「なじみのよさ」を志向し、臨界点まで達すると絶えられなくなって、爆発的な仕方で「なじみのよさ」を成就する(それもごく一時的なことにすぎないわけですが)。
言葉をもって語るというのは、そういう「小爆発」を絶えず繰り返してゆくプロセスじゃないか、と思うんです。
ぼくたちが言葉を連ねてこういうテクストを書いているのも、「みなさんにお伝えしたい教化的メッセージ」があらかじめ用意されていて、それを「メディア」を通じて宣布したいということではなく、むしろ、「自分が何をいいたいのかわからない」からこそ、言葉と自分のあいだの「不安定」や「不均衡」を臨界点までじりじりと押していって、どこかで「一気に安定状態に回帰する」ような「爆発」に巻き込まれるのを待望している…そういうことのように思えるんです。
オーバーアチーブとしての労働
講演で話そうとしたのは、「労働の本質は何か?」ということでした(また欲張ったテーマでしたね)。そのことをここしばらくずっと考えていたからです。
少し前のブログ日記に「仕事というのは本質的にオーバーアチーブである」と書いたら、サラリーマンたち(だと思うんですけど)からずいぶん反論が寄せられました。
ふざけるな、お前はこの資本主義の収奪システムを肯定するのか、
働いても働いても報われない不条理に死ぬまで耐えろというのか、というような古典的な言葉づかいでの批判だったので、ちょっと驚きました。
ぼくが書いたのはある意味常識的なことで、「労働者が創出する労働価値は原則として賃金より大である」というものです。
当たり前ですよね。そんなの『資本論』以来の常識ですから。
サラリーマンが働いて受け取る給料は「本質的に」彼が創り出したもろもろの財貨やサービスよりも少ない。
そうじゃないと、株主への配当とか、自社ビル建設とか、次なるプロジェクトへの先行投資とかできませんから。
創り出しただけのものを全部労働者に還元してしまったら、たしかに「収奪」はなくなります。けれども、それと同時に市場も交換も貨幣も、そもそも社会がなくなってしまいます。
支払われる賃金以上の価値を生み出す行為、それが「労働」の定義です。
そして、労働をするのは人間だけなんです。
動物は労働しません。だから剰余価値を生み出しません。
ライオンはお腹いっぱいになったら、横にトムソンガゼルの群れが来ても、どよんとした昼寝眼で眺めるだけで「おお、この機会にもう二三頭殺して、『取り置き』しておこう」なんて殊勝なことは考えません。
ビーバーは「なんだか今日は牙はキレがいいから、もう1個よけいにダム作って、となりのヤマダさんちにあげよう」と考えたりしません。
そういう「よけいなこと」をするのは人間だけです。
「よけいなこと」をして、「よけいなもの」を生み出すもの、それが人間です。
前に沈黙交易について書きましたけれど、交換の起源を、「海辺のひとたちは魚をたくさん獲りすぎ、山の人たちは野菜をたくさん採りすぎたので、それぞれ『あまりもの』を取り替えることにしました」というふうに説明するのはことの順逆が違っているように思います。
その説明だと、「とりすぎる」という行為がまるで「自然なこと」のように書かれているからです。
「自然にとりすぎる」ということは動物の場合には決してありません。資源が潤沢にある場合に、個体の生存に必要な以上の資源を環境から取り出すというような「変なこと」をするのは人間だけです。
「とりすぎ」というのは「生物の自然」ではなくて、「人間の異常さ」の指標なんです。
この「剰余労働」を動機づける内発的な動因はひとつしか考えられません。
「交換への欲望」です。
とりすぎた「から」交換するのではありません。交換したい「から」とりすぎたのです。
「とりあえず個体の生存にいますぐ必要ではないけれど手元にあるあまりもの」(例えば獲りすぎた魚)は、別の人が所有している、それとは別種の「あまりもの」(例えば採りすぎた野菜)と交換することができます。
「いずれ要るかもしれないけれど、とりあえず今は要らないもの」、
それが交換されるものの条件です。
この条件にはとてもたいせつな言葉が含まれています。
それは「とりあえず」という副詞です。
この副詞と同時に人類社会は未聞の概念を手に入れました。
それは「時間」です。
「とりあえず」というのは英語だとfor the time being ですね。語義通りに読むと、「時間が存在するために」。
時間と交換
ぼくはいまレヴィナス三部作の仕上げに「レヴィナスの時間論」というものをぽつぽつと書いているところなんですけれど、レヴィナスには「時間とは主体と他者の関係である」という有名なテーゼがあります。
「有名」だけど、いったい何を言っているんだか誰もうまく説明できない。
ぼくは最近このテーゼの意味がちょっとわかりかけてきたような気がしてるんです。
むずかしい問題を解く場合は、なんでもそうですけど、「話を逆にしてみる」わけです(「対偶証明法」というやつですね)。
つまり、「主体と他者の関係が成り立たないところに時間は存在しない」というテーゼを吟味して、それが成り立てば対偶が証明できるわけです。
いま話しているのは剰余価値と交換という話ですが、これは時間というファクターがないと成立しません。
「いずれ要るかもしれないけれど、とりあえず今は要らないもの」、
それが交換されるものの条件である、と上に書きました。
ここでは「いずれ」と「とりあえず」という時間にかかわる副詞が決定的な重要性を持っています。
このタイムラグの隙間に「交換」のただひとつの可能性が棲まっているからです。
無時間モデルだと「いずれ」とか「とりあえず今は」というような時間にかかわる副詞は存在しません。「要るもの」は需要がいつ発生するかにかかわらず「要るもの」です。
「要るもの」を他人に与えてしまうというのは、どう考えても理不尽です。
だから動物はそんなことをしません。
動物にないのは愛他主義や博愛精神ではなく、「時間」という概念なのです。
「とりすぎ」という行為は無時間モデルで考えた場合には起こりえないものです。
でも、人間はここに「時間」というファクターを介入させることによって他の霊長類と分岐しました。
時間的な表象形式を用いると、「とりあえず今は要らないもの」は「要らないもの」にカテゴライズすることが可能になるからです。
「とりあえず今は要らないもの」は一時的に誰かに貸し与えることができます。
例えば、ぼくの普通預金口座に現金が1億円あったとします。
一日家で原稿書きをしているとしたら、手元に置いておく必要があるのは食費と雑費でまあ3000円くらいで十分。クリーニング屋さんや新聞の集金が来ると困るから、予備にもう1万円くらいあった方がいいかもしれません。
一年のほとんどはその程度の手元資金で生きていけるわけです。
ということは、1億の預金のうち9600万円くらいは「とりあえず要らない」。これを誰かに貸して上げてもさしあたり困らない。
もちろん、「そのうち要るようになる」可能性はあります。でも、「いつまでたっても要るようにならない」という可能性もあります(ぽっくり死んでしまうとかすると)。
とりあえず今は要らない。
その貨幣は誰かに「与えられ」、交換の場に投じられます。
「与える」は「失う」とは違います。
「与える」というのは、人間的な意味においては、「そのうち別のかたちで戻ってくる」ということを意味しています。
「同じもの」が少したつとそのまま戻ってくるというのではありません。
そんなことじゃ面白くもなんともありませんからね。
そうではなくて、人間が剰余価値を作りだして、交換を行ったのは、「与えたもの」が「別のかたち」で戻ってくるということのもたらす「わくわく感」に感応したからではないかと思うのです。
あるものを「与える」。それに「応答」するものがある。それは「与えたもの」とは違うものである。違うのだけれど、「応答」である以上は、つながりがある。
「生み出したもの」と「生み出されたもの」の間に「へその緒」のようなものがある。
同一であるけれど同一でないものが時間差をはさんでつながること。
それが交換ということの本質ではないかとぼくは思うのです。
応答と繁殖性
レヴィナスは「豊穣性」(fécondité)という言葉を使って、親子関係を説明したことがあります。すごくわかりにくい概念で、これまでさまざまな誤解曲解を受けてきたのですが、ぼくはこれはもしかすると労働と時間のことを述べているのではないかと思っているのです。
レヴィナスはこう書いています。
「子どもとの関係、つまり〈他者〉との関係は権力性ではなく、豊穣性であり、絶対的な未来あるいは無限の時間とかかわりを持つことである。(…)豊穣性において、同一物の反復という不快は停止し、私は他のものとなり若返るにもかかわらず私の意味、私の歩む方向を決める自体性はこの自己放棄のうちで失われることはないのである。」(『全体性と無限』)
すごい。これだけじゃ、ぜんぜんわからないですね。
ぼくなりに言い直します。
親子関係というのは「親である私」が子どもを(道具のように)所有するということではなく、また親が「私の代理物」である子どものうちに自分が果たせなかった希望を託すというようなことでもなく、子は親と「別のものだけれど同じもの」として無限に継続されてゆく。
親は子どもを生み出します。その意味で子どもは親の「生まれ変わり」です。親の目から見ると、子の中にはまぎれもなく「私」がいます。それは私の子どもであり、他の誰かが「私の子どもだ」と言ってきても、きっぱりと「違うよ、私の子どもだよ」と言うことができるくらいに「私」とむすびついている。
でも、それは「私の変容態」(「子どものときもっと勉強していたら…の私」とか「あのとき酒さえ呑んでいなければ…の私」とかいうもの)とはまるで違います。
子どもは私がこの世に「与えた」何かが「別のかたち」をとって回帰してきたものです。
それは私とは別のものなんだけれど、それがここまで戻ってきたのは、最初に私がその生成の「きっかけ」を与えたからです。
親子関係というのはそういう意味で「交換」の原型じゃないかとぼくには思われるのです。
それはジャズのインプロヴィゼーションで、「ピアノであるフレーズを出したら、サックスから別のフレーズが戻ってきた」というのとたぶん本質的には同じものだと思うんです。
これらのすべてに共通するのは「私が与えたものがいささかの時間差をともなって別のかたちで戻ってくる」という構造です。
この「交換の構造」がおそらくすべての人間的営為の根本にあるんではないかと思うんです。それによって、人間は時間とか他者とかエロスとか記号とか貨幣とかいったもろもろの「人間的なもの」を手に入れた。
そんなふうに思うんです。
ずいぶん大風呂敷になってしまいましたが、だから無時間モデルの等価交換形式で労働や学びについて語る人は人間の本性について致命的な誤解をしているのである、という話をしたかったんですよ、セミナーでは。
でも、無理ですよね。こんなわかりにくい話を「揺れ動く言葉」でいきなり振ったんでは。
江さんだって泣いてるだろうな、こんなわけのわからない話を長々とされて。
平川くん、このあとをなんとか軟着陸させてください。