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2005年08月22日

歴史の中のif と「ナカとって主義者」

TFK2 その16
■歴史にifがあって何か問題でも?
やっと夏休みになりました。
朝起きて、今日は何をするんだっけ?と考えたときに、どこにも行かなくていい、誰にも会わなくていいと思うと、ほんとうに「ありがたい」と思います。
で、この数日はずっと『街場のアメリカ論』の書き直しをしています。これは前にお話ししましたけれど、去年大学院の演習でやったものです。その前の年に『現代日本論』という演習を担当しました。もともとぼくが担当するような科目じゃないんですけど、担当の先生が一年間留学でいなくなったので、一年だけぼくがピンチヒッターをやったのです。
そのときに、現代日本のいろいろなトピックを取り上げて、自由気ままなディスカッションをしたのですけれど、一年やってわかったのは、日本は「アメリカの影」だ、ということでした。
「アメリカの影」だけじゃ意味不明ですけど、言い換えると、現代日本人が国際社会の中で「日本人は何ものであるか」を考えるときに、「アメリカ人から日本人はどんなふうに見えるだろうか」という問いを経由したかたちでしかナショナル・アイデンティティを立ち上げられないのだということです。
そのことがが骨身にしみて実感されたのです。ペリーの浦賀来航以来、実に150年間にわたってそうなんですよね。
なぜ、日本はナショナル・アイデンティティの隣接項としてアメリカを選ぶことになったのか?それはいつまで続くのか?そのことが気になって「アメリカ論」をやることにしました。アメリカ論といっても、教師も院生も聴講生も、アメリカ問題の専門家なんて一人もいないんです。でも、それでいいというか、「それが」いいんじゃないかと思いました。
というのは、今回のテーマは「なぜ日本人はアメリカを欲望するか?」という問いが中心になっているからです。
アメリカ問題の専門家って、アメリカ文学研究者にしても、アメリカ外交の専門家でも、アメリカ史の専門家でも、アメリカン・ビジネスの専門家でも・・・要するに「アメリカを欲望している人」ですよね。彼ら自身が「アメリカを欲望して」おり、かつ英語運用能力が高かったり、アメリカの大学院で学位を取っていたり、アメリカのエスタブリッシュメントの中に友人知己が多くいたりというかたちで「アメリカを欲望したことの効果として受益している」としたら、彼らは「日本人がアメリカを見る目にはどのような心理的バイアスがかかっているか?」という問いはあまり意識したくないんじゃないでしょうか?
「日本人はなぜアメリカを欲望するのか?」という問いに適切な回答が与えられた場合、それによって欲望がさらに亢進するということはあまりないですね。ふつうは、「なるほどね」と納得しちゃうと、「憑きもの」が落ちたように、やけつくような欲望が霧散してしまう・・・ということが起きたりするものです。でも、仮にそのように適切に欲望の構造が解明されてしまった場合にアメリカ問題専門家は、彼らが現在享受している社会的威信や影響力にいささかの翳りが生じることになります。アメリカ問題を論じるシンポジウムとかセミナーとか、あるいは大学教員のポストとか、アメリカ問題本の執筆依頼とか・・・そういう切ないくらいにリアルな特権が歴然と減少する。自分がある問題を適切に解明すると、自分自身が今書きつつあるようなテクストに対する社会的需要がなくなるという場合、そこに知的リソースを惜しみなく注ぎ込む人がいるでしょうか?
そんな人はあまりいないような気がします。
だから、ほかのことならいくらでもお任せしていいんですけれど、「なぜ日本人はアメリカを欲望するのか?」という論題はできたらアメリカ問題の非専門家がやる方がいいんじゃないかなとぼくは考えたわけです。もちろん、ぼく自身を含めて今の日本にアメリカに対する欲望や、アメリカとの利害関係をまったく持たない人間なんかいるはずがないので(例えばぼくの場合なら、「フランス語履修者の激減」というかたちでけっこうリアルに英語帝国主義に苦しめられているわけで)、「中立的な第三者」というような視点を不当前提するわけにはゆきません。でもまあ、自分の思考や感覚に入り込んでいる「対アメリカ欲望」の腑分けに興味をもっている人間の方が、そうでない人間よりはこういう仕事には向いているのかなと考えて、不肖ウチダが大ネタで「アメリカ論」を展開したわけであります。
 最近はそんな仕事をしてます。
そのときに平川君のヴァレリーの引用を拝読して、けっこう「来ました」。
「人間の手になる作品についての判断を損なう多くの誤りは、それらの発生状態に対する奇妙な忘却によるものである。人はしばしば、作品が前から存在していたわけではないことを忘れてしまう。」
歴史というのはほんとうにそういうものだと思うんです。
ぼくたちはいまある制度や文物を「それが今存在する以上は、存在すべき必然性があったのであろう」というふうに必ず「必然性」を上積みして評価してしまいます。でも、この「上積み」の値幅がどうも大きすぎるような気がするんですよ。
「たまたま」ということってあるでしょう?ほんとに「たまたま」ということって。
「歴史にイフはない」というのはよく口にされる言葉です。
ぼくが歴史の話を始めて、勝手な思弁を暴走させているとしばしばこの言葉で饒舌を遮られます。
もし慶応三年に坂本龍馬が京都近江屋で横死していなかったら、明治のエートスというのはずいぶん違うものになっていたであろう、とか高杉晋作が明治末年まで生きていたら、山県有朋が長州閥を仕切って日本陸軍をあのようなものにすることはできなかったのでは・・・というようなことを口走ると、「ウチダくん、歴史に『if』はないよ」と話を切り上げられてしまう。
でも、平川君、「if」というのは、ひとりの人間がその場にいるかいないかで状況は変わるということについて、つまり個人に託された現実変成能力を信じる人間にとってはつい口を衝いて出る言葉じゃないかと思うんです。
「誰がやっても同じだ」とか「オレなんかいなくても、何も変わりゃしないよ」とかいう言葉がぼくは嫌いです。そういうことを言う人間は、自分の歴史への干渉力を控えめに評価しているように見えますけれど、実は「責任」を負う気がないんだと思うんです。
道路にゴミが落ちていますね。そういうときに、「オレがこんなところで空き缶一個拾ったって、世界のゴミが減る訳じゃない」というようなことをいう人間て、ぼく嫌いなんです。
いいから、黙って拾えよ。キミが一個拾えば、確実にゴミは一個減るんだから。
ゴミの話じゃなくて、例えば政治的にカタストロフィックな状況で、「オレ一人が正論吐いたって、もうどうにもならんよ」と言ってシニカルに頬をひきつらせるやつがいますね。あれも嫌いなんです、ぼくは。
「まず隗より始めよ」という言葉があるじゃないですか。
いま、与えられた状況でできることから始めるというかたちでしか歴史にはコミットできないし、自分のなしていることの有限性を熟知している人間のコミットメントだけが有限性の枠を超えてゆく。ぼくはそんなふうに思っています。
歴史には無数の転轍点があり、そこでしばしば取り返し不能の分岐がなされるのですが、決定的局面で「キャスティング・ボート」を投じる人は、自分が決定のトリガーを引いたことをたぶん死ぬまで知りません。
「歴史におけるif」を語るというのは、今ここにあるように世界があるのとは違う仕方でも世界はありえたという想像力の使い方です。その「起こりえたけれど、起こらなかった出来事」について、「それはどうして起こらなかったのか?」ということを考えるのはたいせつなことだと思います(これは「白銀号事件」のときのシャーロック・ホームズの推理法ですね。「あの晩、なぜ犬は鳴かなかったのか?」)
そういう推理を一度もしたことのない人間が「世界は今あるようになるべきだったのである」とまるで永遠の真理であるかのように言うのを聞くと、ぼくは深い違和感を覚えるのです。

■極論の人、ナカ取る人
 このところ平川君がブログ日記で郵政民営化について書いていることを読んで、いつも深く納得しています。特に先日のブログ日記にはわが意を得た感がしました。平川君はこう書いています。
「大きな政府と小さな政府のどちらを選ぶんだと問われれば、俺は、『そうねぇ、中ぐらいがいいんじゃないの』とあいまいに答えるしかない。
 とぼけているわけではない。
 大きな政府は息苦しいだろうし、小さな政府は弱肉強食のゼロサム社会を加速させるに違いないと思うからである。」
政治的言説は必ず「極論」になります。これはぼくたちは骨身にしみて知っていることですね。ある個別的論点について具体的なある政策的提言をしたとします。その提言そのものは、「まあ、そういう考え方もありかな」というような妥当性の範囲内にあったとしても、その提言を論理的に無矛盾的に展開してゆくと、どこかで「それは無理筋でしょう」というところまで突き抜けてしまいます。
例えば、身体加工はどこまで許されるかというときに、ピアッシングやタトゥーくらいは「まあ、許容範囲かな(オレはやんないけど)」という判断を下せるとしても、「では」というので、「おしゃれ」のために指を切り落とすとか、舌を二枚におろすとか、ワイヤーを口の端からつきだして「猫顔」にするとか(これ全部ほんとうの話です)いう身体加工も「あり」か、と問われると、「それは『やりすぎ』でしょう・・・」と言わざるを得ません。性器切除や造膣手術で性転換する人の自己決定権を認めるのが政治的に正しいとすごまれても、「そういうのは、ちょっとどうかと思うんですけど・・・」と歯切れが悪くなる。
この「いや、理屈ではそうだけどさ、ちょっと、それは・・・」という感覚ってけっこうたいせつなんじゃないかとぼくは思うんですが、その「理屈ではそうだけど・・・ちょっと」という言葉がなかなか聞き届けられない。
オール・オア・ナッシングってそんなにいいものなんでしょうか?ぼくにはどうもそんなふうに思えません。
「郵政民営化によるメリットはこのへんで、デメリットはこのへん・・・じゃ、ナカとって」というのが「三方一両損」の大岡裁き以来の日本の「調停の王道」だったと思うんです。この「ナカとり名人」のような人がまあ日本では伝統的に「保守本流」というところに居座っていたわけですね。
「ナカを取る」ということは言い換えると「達成すべき理想像がない」ということです。「ヴィジョンがない」ということは(平川君の言葉を使えば)「指南力がない」ということですし、武道的に言えばつねに「後手に回る」ということです。だから、左右両翼の「理想論」の間で、「ナカ取って」主義者たちは「理念がない」「政治哲学がない」「国際社会にむけて発信すべきメッセージがない」という嘲罵を浴びてきた。でもその代償として、彼らは戦後60年間、権力と財貨と情報をそれなりに占有してきたわけです。
刻下の日本の危機というのは、ある視点から言うと、この「ナカ取って主義」の没落というかたちを取っているのではないでしょうか。「ヴィジョンなきナカ取って論者」よりも、「クリアーカットな極論」を語る人間の方が旗色がよいんです。「わけのわからないことをもごもご言う人間」には、昔はそれなりの「芸」というか存在感というか迫力があったと思うんです。だいたい調停役の人は「これからオレが言うことを、黙って『うん』と呑んでくれるとまず約束して欲しい」というようなめちゃくちゃな交渉をするわけですが、そういうやり方がそれなりに有効であったということは、論理の不整合を人格的な厚みが補償していたからだと思うんです。
その「人格的厚みによる論理的不整合の補填」という戦略が、どこかで機能しなくなってきた。今はもう「国士」とか「フィクサー」とか「キング・メーカー」といわれるような人はいなくなりましたね。それは政策決定プロセスが合理化されて、そういう政治的機能が必要なくなったということではなく、そういう政治的機能を担えるだけの度量のある人間が払底しつつあるということではないかと思うんです。体系的な政治思想に準拠してではなく、「そんへんは許容できるけれど、このへんはちょっとなあ・・・」というようなアバウトな身体感覚を規矩として政治判断をすることのできる「太い」人間がいなくなってしまったような気がするんです。
そのことを最近ホットな論件である靖国問題でもすごく感じるんです。高橋哲哉の『靖国問題』と小林よしのりの『靖國論』を読み比べてみて、どうしてこの人たちは「対立者をもふくめて日本を代表しうるような論」の水準を探そうとしないのだろう・・・とちょっと暗い気持ちになってしまいました。
この件について、ちょっと平川君のご意見も聴いてみたいと思っています(来月の朝日新聞に書くことになってるんで)。ご意見お聞かせください。
ではでは

投稿者 uchida : 11:31 | コメント (0)