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2005年09月01日
さようならアメリカ、さようならニッポン
TFK17
■ 変われないアメリカと、ありえたかもしれないドイツ
「街場のアメリカ論」面白そうですね。
もっとも、ぼくの場合は、「職場のアメリカ論」になっちゃうんですが。
「アメリカ論」って、随分いろいろな人が書いているんでしょうね。ぼくは不勉強であまり読んでいないのですが。
アメリカの一般的なイメージって、どうなんでしょうか。
経済的な超大国であると同時に失業と貧困を抱えた国であり、様々な民族の集合体であり、先端技術の担い手であると同時に古臭いプロテスタンチズムの価値観を信奉し、世界の平和を謳いながら軍事的なヘゲモニーを手放さないといったように、非常に多様ですよね。
なんか逆説的ですが、アメリカ論はいつもこの多様さという紋切り型へ収斂していってしまうように思えます。まさに群盲象で、アメリカの多面性を論じ始めると、論じる人の数だけの、アメリカ像が出現します。それがアメリカだといってしまえばそれまでですが、それでは何も言ったことになりませんよね。
ウチダくんが書いていたように、アメリカを論ずる人たちがほとんどプロ・アメリカの人たちで、アメリカ追従、アメリカ礼賛の視点ばかりが目立って、本当の意味でのアメリカ批判というものには、なかなかお目にかかれません。ぼくが不勉強なだけかも知れませんが。
ウチダくんは、「欲望」というキーワードでこれを説明しています。
『アメリカ問題の専門家って、アメリカ文学研究者にしても、アメリカ外交の専門家でも、アメリカ史の専門家でも、アメリカン・ビジネスの専門家でも・・・要するに「アメリカを欲望している人」ですよね』
これは大変面白いご指摘だと思います。そして、ウチダくんの語法に倣って付け加えるなら彼らは自分の欲望については無意識的に見落とす。
批判という意味は、アンチということではなくて、自分の欲望を「こみ」でアメリカ的なものに向き合えるのかということだろうと思います。いや、社会や政治的な課題について考えるときに、自分の欲望といったものを勘定に入れなければ、それはどんなに詳細に論じようと、事実の羅列に過ぎないということです。歴史を学ぶということは、まさに「今ある歴史」が、なぜ「ありえたかもしれない歴史」に取って替わられたのかということについて学ぶことだろうと思います。それはまさに、自分の欲望の在り処を知るということに繋がるはずです。
ウチダくんはこれを、「歴史には無数の転轍点があり、そこでしばしば取り返し不能の分岐がなされるのですが、決定的局面で「キャスティング・ボート」を投じる人は、自分が決定のトリガーを引いたことをたぶん死ぬまで知りません」と書いています。ぼくは、この意見に深く同意します。ぼくたちは歴史を選択することはできない。しかし、ぼくたちの存在なしには、歴史もまたありえないわけです。そしてぼくたちの存在が否応無しに加担しているのが歴史であるわけです。
先日、ちょっとタイトルが気になって、「グッバイ・レーニン」を見ました。これが、大変面白い映画でした。ストーリーが秀抜なんですね。主人公は、アレックスと言う青年とちょうど東西のドイツ統一の時に意識を喪失していて、ベルリンの壁の崩壊を知らずに意識を回復した東ドイツの社会主義者であるお母さんです。息子は、母親がショックを受けないように、東ドイツの旧体制が、いまも続いているように画策し、演じ切ろうとする。そのお母さんが「あのピクルスが食べたい」なんて東ドイツにしかなかった瓶詰めを所望すると、息子はゴミを漁っても、それを手に入れようとしたりする。どこにでも、孝行息子はいるものです。しかし、街のいたるところに西側の影が現れる。窓からコカコーラの看板が見える。テレビからは否応なく、今のドイツが流れ込んでくる。そこで、息子は方針を変更して、西に東が糾合されたのではなく、逆に東側に、西側の住民が大量亡命してきたという一芝居を打つわけです。嘘のテレビ放送からのナレーションが秀逸でした。「人生には車やテレビなんかよりも大事なものがある、それに気付いた人々が陸続と東ドイツに流入してきています。」ありえたかもしれない、しかしありえなかったドイツは、滑稽ですが何か奇妙な魅力がありました。そして、このありえたかもしれなかったドイツを想像することで、ひとは自分の欲望が、どのような現実を選択したのかということに気付くのかもしれない。
しかし、自分の欲望が試されないところでは、ありえたかもしれないアメリカについて想像するのは、難しい。
一般論では言えないのですが、アメリカについて語る人って、何かやはり、自分の欲望を無条件に肯定している人が多いですよね。無条件に肯定するということは、それが見えていないということと同義です。そして自分の欲望を棚に上げて、「アメリカではこうなっているんだ」みたいな説教を垂れるでしょ。アカデミアでもビジネスでも案外多いですよね。ぼくも時々やっちゃうんですよ。ちょっとばかり見知っているアメリカを例にとってね。でもこれはアメリカに名を借りた恫喝みたいなもので、この時点でこの言説は指南力を喪失していますね。
たとえば、インドとの関係で言うと、インドのすべてに耽溺してほとんどインド人みたいになっちゃう人っていますよね。ぼくらの友人の庄司くんなんかも、現地に棲みついて、バグワンの料理人みたいなことやっていましたけど、一度帰ってきたときに会ったら、こりゃもうインド人だよと思ったものです。それはもう、身体ごとインド人になっちゃってる。この手のひとたちは、インドについてあまり積極的に語りませんね。インドを欲望することの根底には、日本の消費文化、経済市場主義みたいなものに対する嫌悪というか絶望というか、日本の価値観に批判的なバイアスがかかる。そして、それ(消費文化)に加担している自己を変えるといったところから入る人が多いんじゃないかと思います。
このバイアスのかかり方が、アメリカの場合は反対になっているわけですね。日本は中途半端なアメリカで、もっとアメリカ化しなければ世界に乗り遅れると。
ある人は自らの欲望を捨てるためにインドへ渡る。そしてある人は自分の欲望に無自覚にアメリカを語るといったら、あまりに図式的すぎるでしょうか。
でも、ぼくは勝者としてのアメリカ礼賛者を見るといつもこんな気持ちになります。アメリカは経済、文化、科学、軍事の勝者であるから、アメリカ的なシステムは正しいんだよというふうに、聞こえるわけです。でも、これって論理的にはひとつ媒介功が抜け落ちていますよね。ひとり勝ちのシステムが正しいかどうかを判断するのは、自分たちの価値観だっていう。この媒介項に自分の欲望がすっぽり入ってしまえば、アメリカを礼賛するしかなくなるわけです。
■ 文化コンプレックスと経済ダーウィニズム
先だって、サン・マイクロシステムズというアメリカ西海岸の代表的なコンピュータ企業の日本法人の役員の方と、米国に本社をもつベンチャー企業が日本に進出する場合に、彼らが選ぶ日本人社長はみな似ているというお話をしました。
米国の会社は、日本側の代表を選ぶときに、所謂ヘッドハンターに依頼を出すわけです。そうすると、現地法人(この場合は日本法人ですが)の社長候補リストが作成され、そこから米国本社が書類選考するなり、面接するなりして社長を決定する。
ぼくは、この辺りの事情にはわりと詳しいのですが、米国本社が選ぶ日本の社長っていうのは、決まって英語がうまくて、プレゼンテーションの巧みな人間です。あ、それからMBAとか東大、東工大といった高学歴がこれに加わります。
これを揶揄して、「社長屋さん」なんて言っています。
アメリカ人経営者ってのは、日本のローカルオフィスの代表は、英語がうまくてプレゼンテーションがうまければ務まると思ってしまう。
日本で長くベンチャー企業をやっているぼくから見ると、この二つの能力は、営業部長、あるいはマーケティング部長には必須の能力かも知れませんが、社長に必要な能力とはとても思えない。
でも、そうはいっても、法人の代表であり、ローカルスタッフを雇い入れ、顧客と信頼関係を築き、持続的なビジネスを展開することがなければ、支社といえどもうまくいくわけはありません。ここのところを、アメリカ人は意図的と思えるほど簡単に見落としてしまいます。
これは、アメリカにとっても日本にとっても不幸なことだと思います。郷に入れば郷に従えってことわざないんでしょうかね。Do as the Romans do なんてアメリカで通じるんでしょうか。勿論、使う人はいるんでしょうが、イスラムの国に侵入して、アメリカの民主主義を植えつけようなんて考えるアメリカ人には似合わない言葉ですよね。
アメリカは、確かに多様性の国ですが、多様なものの存在は否定しないけれど、それらはあくまでも、「その他いろいろ」の範囲であって、それが主流になるのは許せない。それが強者であってはならないという思い込みがあるような気がします。なぜなら、自分達こそが強者であるという強迫観念から抜け出すのは、簡単ではないからです。だって彼らは、強者であること以外のふるまい方を経験していないわけです。
さて、ここから先が問題なのですが、ヨーロッパの知性が自分達の知性そのもののあり方を否定して辿り着いたのが、文化相対主義だったと思います。この文化相対主義をやはりアメリカという国は認めたくない。フランス人やイギリス人もあまり認めているとは思えませんが、それでもその認めなさがアメリカの場合にはすこし異なっているように思えます。端的に言ってしまえば、ヨーロッパは築き上げた文化を否定しきれないという意味で、アメリカは文化がもともと「ない」という意味で、それを相対化することができない。いや、「ない」ことはないでしょうがそれは、本当の意味で相対的なものに過ぎない。しかし、覇権国家としては、文化は多様だが等価であるとは思いたくない。これは、アメリカにいるとよく理解できるような気がします。アメリカは自由の国で、世界の情報に誰でも自由にアクセスできるといいますが、実際にはテレビも新聞も、アメリカほど国外のニューズに無関心な国はないように思えます。ひとつには「アメリカ諸国連合@内田樹」がそれだけで閉じたひとつの世界になっているということもあります。同時にアメリカの持つ文化的優位性への信仰が、大陸にあまねくいきわたっているのかもしれません。この文化的優位性には何ら根拠はありませんよね。
アメリカは二十世紀で最も成功した国家なわけです。その帰結として、二十世紀を通じて、アメリカ人の心理に強く働いていたのは、社会ダーウィニズムだったと思います。適者生存です。これは論理的には原因と結果が逆さまになった思考ですが、最も成功した国家は、強者の論理が貫徹した結果であると信じたいわけです。
しかし、煎じ詰めてゆくとここに、アメリカの最大の弱点があって、その裏返しとしての経済、科学技術、軍事の優位性を強調しているように見えます。そういった意味では、情報の国家統制を行っている共産主義ととても似ていると言わざるを得ないのです。アメリカの場合は、自主規制っていうか、自分達が世界の中心だっていうバイアスが強くかかった結果としての自主規制ですが。
先だって、テレビで堺屋太一さんが、こんなことを言っていました。
「中国が近い将来、アジアの覇権を握り、米国の脅威になることは間違いのない事実かも知れませんが、それは経済的、軍事的な脅威になるということを意味しません。わたしは、中国はアメリカにとって文化的な脅威になるんじゃないかと思っています。」
まあ、だいたいこんなことを言っていたのですが、ぼくは面白い見方だなあと感心しました。
■ それで靖国なんだけど
どうも、最近、日本にもこの文化的な相対性といったことを理解できない、したくない人間が増えてきているように思えてしかたがありません。経済ダーウィニズムに毒されちゃったっていうか、勝ったやつが正しかったと短絡してしまう。
文明化された国と野蛮な国がある。善人と悪人がいる。正義のための戦いを断固として進める必要がある。テロリストと、テロリストを容認するならずもの国家がある。
こういった紋切り型のキャッチフレーズの根っこには、文化的な相対性への否定があります。これはある種の合理性なのですが、本当の意味では作為的な合理性というべきでしょう。そして、こういった作為的な合理性が決定的に、あるいは意図的に見落とすのは自分たちの合理性の前提は果たして合理的なものなのかという「前提への省察」です。つまり、文明とは何を意味するのか。善悪とは何か。こういったものがはじめからあることにして、議論するというのはある意味で宗教だといってもいいように思います。
実は、高橋哲哉も小林やすのりもぼくは読んでいません。いや、読む気がしないんですよ。靖国の問題は、すぐれて政治的な課題だと思います。政治的という意味は、起源や本質よりも、遂行性や効果に比重を持つ問題だということです。
勿論、宗教儀礼であるわけですから、その起源、本質といったものが問題にならないわけはありませんよね。
でも、問題の比重はやはり政治的なところにあるだろうと思います。
ぼくは、毎日靖国神社の前を通って会社に通っています。そして、この神社の前を通るときに、他の神社の前を通るときとどんな心理的な違いがあるのかを自分で考えて見るのです。そうすると、不思議なことに、靖国にはあまり宗教的な、あるいは古代的なものを感じないんですね。何かそれは作られたもの、作為なんだと思えてしまう。反対に、家の近くに浅間神社があるんですが、その前を通るときは何となく敬虔な気持ちがわいてきます。そこに何が祀られているのかについて、委細を知るわけではないのですが、なにか古代的なものに触れたような気持ちになるのです。
だから何なんだと言われると困るんで、すこし丁寧に説明したいんですが、紙幅が尽きちゃいました。だから、今度。
では。
投稿者 uchida : 2005年09月01日 10:03
コメント
東京ファイティングキッズが帰ってきた。ワクワク。
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「このバイアスのかかり方が、アメリカの場合は反対になっているわけですね。」私がアメリカというクニに対して持っている嫌悪感をこの言葉が言い当てている。という気がします。アメリカに好ましい個人たちが居ないわけではない。けれど、クニとしては「国家」の醜悪さをカリカチュアライズしたような…
めかしのことを言うと、昔のアメリカがくれたという「第9条、第24条」については感謝しなければならないと思っている。とくに、ベアテ・シロタ女史には。
近頃これを返品したがる人たちが居る。贈与に見合う返礼ができない借財感が怨霊として祟るという受け取り方?
謝意を表する対象としてのアメリカ人の名を上げてみると?私の場合筆頭はカート・ヴォネガットJr.だ。思いつくまま挙げていくと、スティーブン・J・グールド、オリバー・サックス、ルイ・アームストロング、ナット・ヘントフ、レイチェル・カーソン、キュブラー・ロス、レイ・ブラッドベリ、スーザン・ジョージ、アーサー・ビナード、マーク・トゥウェイン、スティーブン・フォスター、エルヴィス・プレスリー、スーザン・ソンタグ、ポール・ニューマン、ワイアット・アープ、アーシュラ・ル・グイン、シオドーラ・クローバー、アルフレッド・クローバー、そうイシこそが原アメリカ人だ。シッティング・ブル、ジェロニモ(二毛次郎は小松左京の日本アパッチ族)、だんだんしまらなくなってくる。ようするに、アメリカ人で無知な私が知っているほどの大物はあまり居ないということだろうか?あ、チョムスキー、サイード、カシアス・クレイ(モハメッド・アリ)。
ヘミングウェイあたりになると「?」だもの。
スポック博士もいまどう評価すべきか、ちょっと「?」だ。
*
ジョン・ホルト。"How Children Fail", "How Children Learn"はいい本だった。
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ビリー・ザ・キッドはオンダーチェの『ビリー・ザ・キッド全仕事』の種として。またヴォートランの『パパはビリーズキックを捕まえられない』の題名のもととして…
*
ダグラス・マッカーサーは、"I shall return."と言い残してフィリピンの基地を放棄したことによって、基地がフィリピンを守るためにあるのでないことを明言した人として、アメリカの負の部分を明示する人として忘れられないが…彼の父はnative americanを大量に殺戮したことで勇名をはせた人だそうな。
*
つまんないことをながなが書いてごめんなさい。tatsuru.comだけに寄生するコメント依存症のものでごさる。もう寝ます。おやすみなさい。
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