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2005年10月27日

TFK21 ぼくたちのベルエポック

■ ひとつの時代と自分自身の物語

ウチダくん、先日は一宿一飯失礼しました。
文芸春秋の撮影も、三宮の寿司も、おいしくて、面白い体験でした。
仕事でも、人間関係でも、何か、歳をとればとるほど面白いことが次々に起こってきますね。
気の持ちようってだって、言われそうですが少し違います。
若い頃から積み立ててきたものが満期になって戻ってきているような感じ、といえばいいでしょうか。
ぼくたちはお金を蓄えるってことからは、縁遠かったけれど、(典型的なフロー人間ですからね)功徳を積み立てるってことには案外熱心だったということです。
こうやって、書簡で定期的に意見を交換してはいますが、たまに、ウチダくんに会って、顔を見ながら話すのはまた、別の楽しみがあります。気使わなくていいしね。
「なんだ、ほとんど同じ事を考えているじゃないか」と思ったり、「いや、これは思いつかなかったな」といった発見があったり。
金銭フロー人間にとって、功徳のストックを分けてもらうってことでしょうか。
今日は、その時にお話した、自分自身の物語についてすこし、書いてみたいと思います。
ま、ちょっとまとめに入ろうかと。

ウチダくんもぼくも、ブログで書かれている自画像が、生身のものとはすこし違っていることをよく知っています。
そりゃ、四十年以上も、付き合っているわけだから、相手の生の肖像ってのは、ほとんど感覚的に刷り込まれている。
ブログに書かれている、お互いの自画像は、それぞれが、感覚的に理解しているものよりは、誇張された、戯画的なものになっているわけですね。
人間は誰しも、自分の無意識に影響を受けてものごとに過剰に反応するものだろうと思います。
この無意識の所在を、探りあてるためにフロイトは、心的外傷(トラウマ)という仮説を用いた訳ですね。
しかし、ぼくたちが書く自画像は、無意識ではなく、意識的にトラウマを作っているんじゃないかと思うことがあります。
意識的なトラウマとは形容矛盾ですが、それでも意識的に作った自画像というものがぼくに与える効果は、まさにトラウマと呼んでもいいかもしれません。
ウチダくんがよく言うように、この物語には現実変成力があるからです。

ぼくが作った物語。
それは、復興期の東京の場末の工場で、職工さんたちと油と鉄粉にまみれていた平川少年と、北海道から東京を目指した放浪の新興中産階級の夢の中で育った内田少年の物語です。
この物語の中で、ぼくは、内田少年の演奏するギーコギーコという雑音のバイオリンを懐かしく思い出しています。
ぼくたちが生れたのは、昭和二十五年。敗戦からわずか五年後の東京です。三島由紀夫ではないので、ぼくたちは生れた時のことは覚えていません。(ウチダくんは、ひょっとしたら覚えているかもしれませんが。)
記憶がどのあたりから、残存しているのかについては定かではありませんが、いくつかのシーンは鮮明に蘇ってきます。
もちろん、この記憶はその後の何十年かで修正され、作り直された記憶でもあるということです。

物語としての記憶の中に、とても印象の強いシーンがあります。
それは、子供の時に見た映画の中での台詞です。
ひょっとすると、テレビドラマだったのかも知れません。
高峰秀子だったか、あるいは他の女優さんだったのか、映画のタイトルが何だったのか、ストーリーがどんなものだったのか、つまびらかなことは、何も覚えていないのですが、ひとつのシーンだけは鮮明に覚えています。
それは、爪に火をともしながらも安寧を得た家族が、大正十二年の震災で、ばらばらになって、瓦礫の山の中で立ち尽くしているシーンです。
その時、この女優が勝気な台詞をつぶやくのです。
「これ以上は、悪くなりようがない。だから、案外気楽だ。これからは、よくなるだけだから・・・」

ぼくたちの多くは、昭和三十年代をひとつのベル・エポックとして記憶しています。何故、敗戦から十年を経た、未だ貧しい日本がベル・エポックとしてぼくの中で記憶されているのか。
考えてみると少し、不思議な気持ちがするのです。
ぼくの親父は、埼玉で後妻の子供として生をうけ、東京で一旗上げようとプレス工場をつくりました。
ぼくが生れた年としては、誰も記憶に留めないでしょうが、この年は朝鮮半島の三十八度線で、二つの異なる価値観が火蓋を切った年として、世界史の中に記憶された年でもあります。
ぼくの家は、その朝鮮特需のせいもあって、暮らし向きが見る見るよくなっていきました。
テレビ、自動車、冷蔵庫。
失うものが何もなかった家に、次々と電化製品が揃えられてゆく。でも、それが平川少年にとってのベル・エポックの記憶と結びついているわけではないということに、注意をしたいと思います。
どちらかといえば、持たざるものたちの集まりだった、近所の悪ガキたちが、やがて来るであろう生活格差や、教育格差といったものを想像することもなく、無邪気に平等な貧困を楽しんでいられたという、そのあっけらかんとした向日的な空気が、心地よかったのです。
工場の大人たちは、昼休みの庭で陽を浴びながらよく笑っていました。
粗末な衣服、質素な食事、粗悪な住環境に暮らしながらもその笑いには屈託がなかった。
「これからは、よくなるだけだから・・・」と誰もが思うことが許される時代であったのかも知れません。

人間の成長と、社会の発展がパラレルに進行する時代。
これをぼくは、ベル・エポックといっていいんじゃないかと思います。
ぼくはイタリアの貧しい漁村の不良少年たちを見ているように、自分の育った街の風景を思い出します。
そして、いまさらながら思えることですが、貧しさと、社会システムが健全に機能しているということは実はあまり矛盾しないことなんじゃないかと。
このことの意味を、高度経済成長とともに、自らの立身出世主義を重ね合わせて育った戦後の日本人は、ぼくも含めて看過してきたのではないでしょうか。

翻って見て、現代は、どんな時代なのでしょうか。
現代という時代について、その渦中にいるものが何かを知るということは原理的にできないことかもしれません。
しかし、それでも「これからは、よくなるだけ」という時代にぼくたちが生きているのではないということだけは、確からしく思えるのです。
だからといって、「これからは、悪くなる一方だ」という風にぼくは考えているわけじゃない。

ぼくは、つくづく身勝手な人間だと思うのですが、人間の成長と、社会の発展がパラレルに進行する時代が、ベル・エポックだとするならば、
人間の老成と、社会の衰退がパラレルに進行する時代というのも、大層、味わい深いものではないかと、思っているのです。
いま、成長期にある若い人たちに、これを受け容れよといってもそりゃ無理な相談です。
でも、ぼくは、そう思う。そう思えるように結構、自分の人生をやり繰りしてきたわけです。
じゃ、若い人たちはどのように考えたらいいのか。
ぼくは、それに関しては答えを用意することができません。
また、そのつもりもないのです。
乱暴な言い方かもしれませんが、それこそ自分で考えろよという他はないのです。
自分で考えろよ。

これが、ぼくのベル・エポックの物語です。
しかし、これはぼくとぼくの世代が作ってきた虚構でもあるのです。
市井の碩学、渡辺京二は、日本近代を生き生きと素描した『逝きし世の面影』の中で、
明治六年から四十四年までの長きにわたって日本に滞在したチェンバレンが、明治という近代化の過程のなかで、先行する江戸期の古き良き日本の「文明」に対して愛惜をこめて記した文章を紹介しています。
「古い日本は死んだのである。亡骸を処理する作法はただ一つ、それを埋葬することである。」
チェンバレンの目には、明治は「絵のような美しい」文明の亡骸の上に作られた楼閣として写ったのです。
ぼくたちもまた、戦後の成長期の日本を埋葬してきたのだろうと思います。
ぼくの言いたいのは、こういうことです。つまり、歴史は何度でも繰り返される。
一度目は悲劇であり、二度目は喜劇であるかもしれない。
しかし、どうであれ、埋葬するにはそれなりの「作法と礼儀」というものがある。

社会が成熟しきったあとからやってきたものたちのことをぼくたちは「あらかじめ失われた世代」と形容しました。
しかし、それはあくまでぼくたちが自分と時代の関係を述べてきたような物語として構築してきた文脈から見ての話です。
いつの時代にも、人間は先行する時代と無関係に孤立していることはできません。
ぼくたちがベル・エポックの物語を語るのは、失われた時代に対するぼくたちなりの埋葬の仕方なんだろうと思います。
昨今の「改革」ブームを見るにつけ、自分たちが関与してきた時代に対して、ただそれを野ざらしにしたまま「改革」を叫ぶ人々に対して、本当に失われたのは、「作法と礼儀」なのだと思わずにはおれないのです。


投稿者 uchida : 2005年10月27日 21:26

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