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2005年10月27日
TFK21 ぼくたちのベルエポック
■ ひとつの時代と自分自身の物語
ウチダくん、先日は一宿一飯失礼しました。
文芸春秋の撮影も、三宮の寿司も、おいしくて、面白い体験でした。
仕事でも、人間関係でも、何か、歳をとればとるほど面白いことが次々に起こってきますね。
気の持ちようってだって、言われそうですが少し違います。
若い頃から積み立ててきたものが満期になって戻ってきているような感じ、といえばいいでしょうか。
ぼくたちはお金を蓄えるってことからは、縁遠かったけれど、(典型的なフロー人間ですからね)功徳を積み立てるってことには案外熱心だったということです。
こうやって、書簡で定期的に意見を交換してはいますが、たまに、ウチダくんに会って、顔を見ながら話すのはまた、別の楽しみがあります。気使わなくていいしね。
「なんだ、ほとんど同じ事を考えているじゃないか」と思ったり、「いや、これは思いつかなかったな」といった発見があったり。
金銭フロー人間にとって、功徳のストックを分けてもらうってことでしょうか。
今日は、その時にお話した、自分自身の物語についてすこし、書いてみたいと思います。
ま、ちょっとまとめに入ろうかと。
ウチダくんもぼくも、ブログで書かれている自画像が、生身のものとはすこし違っていることをよく知っています。
そりゃ、四十年以上も、付き合っているわけだから、相手の生の肖像ってのは、ほとんど感覚的に刷り込まれている。
ブログに書かれている、お互いの自画像は、それぞれが、感覚的に理解しているものよりは、誇張された、戯画的なものになっているわけですね。
人間は誰しも、自分の無意識に影響を受けてものごとに過剰に反応するものだろうと思います。
この無意識の所在を、探りあてるためにフロイトは、心的外傷(トラウマ)という仮説を用いた訳ですね。
しかし、ぼくたちが書く自画像は、無意識ではなく、意識的にトラウマを作っているんじゃないかと思うことがあります。
意識的なトラウマとは形容矛盾ですが、それでも意識的に作った自画像というものがぼくに与える効果は、まさにトラウマと呼んでもいいかもしれません。
ウチダくんがよく言うように、この物語には現実変成力があるからです。
ぼくが作った物語。
それは、復興期の東京の場末の工場で、職工さんたちと油と鉄粉にまみれていた平川少年と、北海道から東京を目指した放浪の新興中産階級の夢の中で育った内田少年の物語です。
この物語の中で、ぼくは、内田少年の演奏するギーコギーコという雑音のバイオリンを懐かしく思い出しています。
ぼくたちが生れたのは、昭和二十五年。敗戦からわずか五年後の東京です。三島由紀夫ではないので、ぼくたちは生れた時のことは覚えていません。(ウチダくんは、ひょっとしたら覚えているかもしれませんが。)
記憶がどのあたりから、残存しているのかについては定かではありませんが、いくつかのシーンは鮮明に蘇ってきます。
もちろん、この記憶はその後の何十年かで修正され、作り直された記憶でもあるということです。
物語としての記憶の中に、とても印象の強いシーンがあります。
それは、子供の時に見た映画の中での台詞です。
ひょっとすると、テレビドラマだったのかも知れません。
高峰秀子だったか、あるいは他の女優さんだったのか、映画のタイトルが何だったのか、ストーリーがどんなものだったのか、つまびらかなことは、何も覚えていないのですが、ひとつのシーンだけは鮮明に覚えています。
それは、爪に火をともしながらも安寧を得た家族が、大正十二年の震災で、ばらばらになって、瓦礫の山の中で立ち尽くしているシーンです。
その時、この女優が勝気な台詞をつぶやくのです。
「これ以上は、悪くなりようがない。だから、案外気楽だ。これからは、よくなるだけだから・・・」
ぼくたちの多くは、昭和三十年代をひとつのベル・エポックとして記憶しています。何故、敗戦から十年を経た、未だ貧しい日本がベル・エポックとしてぼくの中で記憶されているのか。
考えてみると少し、不思議な気持ちがするのです。
ぼくの親父は、埼玉で後妻の子供として生をうけ、東京で一旗上げようとプレス工場をつくりました。
ぼくが生れた年としては、誰も記憶に留めないでしょうが、この年は朝鮮半島の三十八度線で、二つの異なる価値観が火蓋を切った年として、世界史の中に記憶された年でもあります。
ぼくの家は、その朝鮮特需のせいもあって、暮らし向きが見る見るよくなっていきました。
テレビ、自動車、冷蔵庫。
失うものが何もなかった家に、次々と電化製品が揃えられてゆく。でも、それが平川少年にとってのベル・エポックの記憶と結びついているわけではないということに、注意をしたいと思います。
どちらかといえば、持たざるものたちの集まりだった、近所の悪ガキたちが、やがて来るであろう生活格差や、教育格差といったものを想像することもなく、無邪気に平等な貧困を楽しんでいられたという、そのあっけらかんとした向日的な空気が、心地よかったのです。
工場の大人たちは、昼休みの庭で陽を浴びながらよく笑っていました。
粗末な衣服、質素な食事、粗悪な住環境に暮らしながらもその笑いには屈託がなかった。
「これからは、よくなるだけだから・・・」と誰もが思うことが許される時代であったのかも知れません。
人間の成長と、社会の発展がパラレルに進行する時代。
これをぼくは、ベル・エポックといっていいんじゃないかと思います。
ぼくはイタリアの貧しい漁村の不良少年たちを見ているように、自分の育った街の風景を思い出します。
そして、いまさらながら思えることですが、貧しさと、社会システムが健全に機能しているということは実はあまり矛盾しないことなんじゃないかと。
このことの意味を、高度経済成長とともに、自らの立身出世主義を重ね合わせて育った戦後の日本人は、ぼくも含めて看過してきたのではないでしょうか。
翻って見て、現代は、どんな時代なのでしょうか。
現代という時代について、その渦中にいるものが何かを知るということは原理的にできないことかもしれません。
しかし、それでも「これからは、よくなるだけ」という時代にぼくたちが生きているのではないということだけは、確からしく思えるのです。
だからといって、「これからは、悪くなる一方だ」という風にぼくは考えているわけじゃない。
ぼくは、つくづく身勝手な人間だと思うのですが、人間の成長と、社会の発展がパラレルに進行する時代が、ベル・エポックだとするならば、
人間の老成と、社会の衰退がパラレルに進行する時代というのも、大層、味わい深いものではないかと、思っているのです。
いま、成長期にある若い人たちに、これを受け容れよといってもそりゃ無理な相談です。
でも、ぼくは、そう思う。そう思えるように結構、自分の人生をやり繰りしてきたわけです。
じゃ、若い人たちはどのように考えたらいいのか。
ぼくは、それに関しては答えを用意することができません。
また、そのつもりもないのです。
乱暴な言い方かもしれませんが、それこそ自分で考えろよという他はないのです。
自分で考えろよ。
これが、ぼくのベル・エポックの物語です。
しかし、これはぼくとぼくの世代が作ってきた虚構でもあるのです。
市井の碩学、渡辺京二は、日本近代を生き生きと素描した『逝きし世の面影』の中で、
明治六年から四十四年までの長きにわたって日本に滞在したチェンバレンが、明治という近代化の過程のなかで、先行する江戸期の古き良き日本の「文明」に対して愛惜をこめて記した文章を紹介しています。
「古い日本は死んだのである。亡骸を処理する作法はただ一つ、それを埋葬することである。」
チェンバレンの目には、明治は「絵のような美しい」文明の亡骸の上に作られた楼閣として写ったのです。
ぼくたちもまた、戦後の成長期の日本を埋葬してきたのだろうと思います。
ぼくの言いたいのは、こういうことです。つまり、歴史は何度でも繰り返される。
一度目は悲劇であり、二度目は喜劇であるかもしれない。
しかし、どうであれ、埋葬するにはそれなりの「作法と礼儀」というものがある。
社会が成熟しきったあとからやってきたものたちのことをぼくたちは「あらかじめ失われた世代」と形容しました。
しかし、それはあくまでぼくたちが自分と時代の関係を述べてきたような物語として構築してきた文脈から見ての話です。
いつの時代にも、人間は先行する時代と無関係に孤立していることはできません。
ぼくたちがベル・エポックの物語を語るのは、失われた時代に対するぼくたちなりの埋葬の仕方なんだろうと思います。
昨今の「改革」ブームを見るにつけ、自分たちが関与してきた時代に対して、ただそれを野ざらしにしたまま「改革」を叫ぶ人々に対して、本当に失われたのは、「作法と礼儀」なのだと思わずにはおれないのです。
2005年10月13日
TFK20 負け方と貨幣と時間
■負け方の研究
平川君こんにちは。
ほんとに熱海あたりでのんびりしたいですね・・・って、来月は湯本で温泉麻雀じゃないですか(わーい)。
先般、「甲南麻雀連盟」という組織を立ち上げました(『ミーツ』の江さんも会員なんだな、これが)。
麻雀文化復活のための礎石となってですね、うちでごろごろ定期的に麻雀をやる予定です。
平川君もお断りもせず勝手に「甲南麻雀連盟・参与」に会員登録しておきました。へへへ。
今度大阪に来て一晩ゆっくりできそうなときには江さんも交えて芦屋で麻雀やりましょうね。
とりあえず、僕のほうは『街場のアメリカ論』と『知に働けば蔵が建つ』(それにしても、ひどいタイトルだな・・・)の二つを書き上げたので、年内は論文を二本書いて、校正をあと二冊片付ければいいはずです(希望的観測)。
それにしてもどうしてこんなにいろいろなところから仕事が来るんでしょうね。
先先週は読売新聞からポストフェミニズムについて、先週はNHKラジオから少子化問題についてご意見を訊きたいと言ってきました。
なんで僕に「そんなこと」を訊くんでしょう?
フェミニズムや少子化問題の専門家なんて、「それで飯を食っている」方々がいくらだっているわけです。
素人の僕に意見を訊きたいというのは、「専門的知見」ではなくて、「素人の常識」が訊きたいということだと思うんです。
それだけ「素人の常識」とメディアで語られている言説のあいだに温度差があるということなのでしょうか?
あるいは、僕に何かを言わせに来るメディア関係者は(平川君が言うように)闇の中で「同じ敵に向かって撃っている」らしい遠い銃声を聞き当ててここまで来たのかもしれません。
もしそうだとすると、これまでずいぶん間遠にしか聞き取れなかった「闇夜の銃声」がだんだんかたまってきたのかもしれませんが、まあ、これも希望的観測ですね、きっと。
フェミニズムについてはブログに少し書きましたけれど、「死に水を取る」思想家が名乗り出てこないとまずいんじゃないかということを話しました。
「棺を覆いて定まる」と言いますけれど、思想は最後にその功罪について総括をする当事者が必要です。
「喪主」は当事者じゃないとダメなんです。
評論家みたいな人が「フェミニズムはね・・・」なんて言っても総括にはならない。
イズムの現場でこれまでやってきて、イズムから贈り物も受け取ったし、えらい迷惑も蒙ったけど、そのイズム抜きには今語りつつある自分がありえないようなかたちでコミットした人間しか「喪主」にはなれない。
僕はそう思うんです。
きちんとした「喪の儀礼」を執行しさえすれば、思想の最良の部分は生き残れる。後世の人々がその余沢を受け取ることができるし、いつまでも感謝される。
でも、それを怠ると思想は「生き腐れ」になってしまう。
フェミニズムの「死に水」を取る人がどうして出てこないんだろう、ということをそのときには話しました(記事にはなりませんでしたけれど、当然にも)。
「思想の死に方」についての真剣な吟味って、あまりする人がいないけれど、とてもたいせつなことだと僕は思うんです。
エマニュエル・トッドが『帝国以後』で「アメリカをどう死なせるか」が喫緊の国際社会の課題であると書いていました。
アメリカの没落は世界的な規模の災厄のトリガーになりかねません。でも、アメリカの没落の趨勢はもはやとどめられない。
だとしたら、「どうやったら、アメリカの没落がもたらす災禍を最小化するか」というプラクティカルな問いに焦点化すべきだとトッドは書いていました。
クールな考え方です。
僕はこういう発想は重要だと思います。
「・・・はもう古い」とか「・・・はもう終わった」というように決め付けてなにごとかを語ったつもりでいる人が僕は大嫌いなんですけれど、それは「それまで生きて呼吸してそれなりに生を享受し愉悦していた<もの>が<弔われぬ死>を迎えるときにもたらす災禍」を顧慮していない発言だと思うからです。
フェミニズムについても、「もう古い」とか「終わった」とかいう決め付けをする人たちがこれからわらわらと出てくるでしょうけれど、そういう付和雷同的な断罪の言説には僕はつよい警戒心を抱いています。
思想史に(プラスマイナスいずれであれ)大きな変化をもたらした運動と理説には、それが頽勢の局面のときにこそ、それにふさわしい敬意を示すべきだと僕は思うんです。
ラジオでしゃべった少子化についての僕の意見もそれとたぶん同じ問題設定だったように思います。
日本が縮んでゆくという後退局面で遭遇する可能性のあるリスクをどうやってヘッジするかというプラクティカルな問いを立てる人はほとんどおらず、どうやって「盛り返すか」ばかり議論が集中している。
それはつきつめると、「負け戦をどう戦うか」という問いを真剣に考える知的習慣がなくなってしまったことに起因するのではないでしょうか。
「頽勢」局面というか、「後退戦」というか、そういうしんどい局面をそれなりに生産的かつ愉快にやり過ごすふるまい方についてもう少しまじめに研究した方がいいんじゃないかと僕は思います。
黒澤明の『七人の侍』の最後で、志村喬演じる勘兵衛が生き残った七郎次(加東大介)に向かって「今度も負け戦だったな」とつぶやくシーンがありますね。
あの侍たちは勝四郎(木村功)を除く全員がそれまで仕官できなかったか、仕官した先の主家が滅ぼされたか、いずれにせよ負け続けてきた人々なわけです。
その中でずっと「ていねいに」負け続けてきたこの二人は「負け方」に味があるというか、奥行きがあるんですね。
「敗北の美学」とかそういうものではなくて、節目節目のふるまい方にぴしっと筋が通っているせいで、「負けた」ということが彼らの人間的価値を少しも損なっていない。
「きれいな負け方」とか「勝ちを譲るスマートネス」とか「負けた相手に花道を用意する気遣い」とか、そういう派生的なマナーも含めて、「正しい負け方」の研究というか評価というか、そういう論件への知的リソースの投資について、現代人はもう少し真剣になるべきじゃないかと思います。
■時間が貨幣なら・・・
平川君のインタビュー本、すごくおもしろそうですね。楽しみにしています。
それについて平川君が書いてくれた中で、松本大さんという人についてのコメントに強く興味を惹かれました。
平川君はこう書いていました。
「ぼくのいうわからなさは、そのコンテンツのわからなさとすこし違う。
金融の世界での日本的なしがらみに対して、いろいろ批判を加えているのだけど、そういった批判を通して、何がおっしゃりたいのかという、メタレベルのメッセージがよく見えてこない。
それは、たとえば理想的なシステムキッチンについて詳細に論じられた論文を読んでいるような分からなさなんです。語られている内容は理解できても、それで、著者が何を言いたいのかがよくわからない。」
言いたいこと、すごくわかります。
その「わからなさ」は「時間の概念から解き放たれ」た無時間モデルに基づく「常識」から語りだされることばに固有の「わからなさ」だという平川君のフレーズが「どきん」と来ました。
ほんとにそうですよね。
資本主義について、最近面白いことを発見したんですけど、それに関係するかもしれないので、ちょっと書きますね。
「資本主義の精神」と言えばマックス・ウェーバーですけれど、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を最近読み直してみたら、ウェーバーがベンジャミン・フランクリンの著作から次のような箇所を引用していることに気づきました。
「時は貨幣であるということを忘れてはいけない。一日の労働で十シリングをもうけられる者が、散歩のためだとか、室内で懶惰に過ごすために半日を費やすとすれば(・・・)五シリングの貨幣を支出、というよりは抛棄したのだということを考えねばならない。」
「貨幣は生来繁殖力と結実力をもつものであることを忘れてはいけない。貨幣は貨幣を生むことができ、またその生まれた貨幣は一層多くの貨幣を生むことができ、さらに次々と同じことが行われる。(・・・)一頭の親豚を殺すものは、それから生まれる一千頭を殺し尽くすものだ。」
「支払いのよい者は万人の財布の主人であることを忘れてはいけない。約束の時期に正確に支払うことが評判になっている者は、友人がさしあたって必要としていない貨幣をすべて何時でも借りることができる。」
「信用に影響を及ぼすなら、どんな些細な行いにも注意しなければいけない。午前五時か夜の八時に君の鎚の音が債権者の耳に聞こえるならば、彼はあと六ヶ月構わないでおくだろう。」
僕が気がついたのは、この引用箇所がすべて「貨幣と時間」の関係にかかわるものだということです。
「時は貨幣である」というのは、時間には資本主義的な尺度に照らして大きな価値があるのだからその価値を最大化せよという教えであるわけですが、それは裏返して言えば、「時間には時間固有の価値はない」と宣言しているということです。
「時は金である」というのは、「時間は貨幣を度量衡にして計量できる」ということですよね。
この時間の「他者性」をすっぱり捨象したという点にこそ「資本主義の精神」の精髄はあったのではないでしょうか。
ウェーバーはこの引用を受けて「資本主義の精神」を次のように描き出します。
「われわれがこの『吝嗇の哲学』に接してその顕著な特徴として感ずるものは、信用のできる正直な人という理想であり、わけても自分の資本を増加させることを自己目的と考えることが各人の義務であるとの思想である。」(マックス・ウェーバー、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、梶山力他訳、岩波文庫)
ウェーバーは「貨幣と時間」に関する箇所だけを選択的に引用しておきながら、「時間には時間固有の価値がない」こと、つまり資本主義は時間の未知性・他者性を捨象したところに成立するということは言い落としています。
ウェーバーの代わりに、ウェーバーの「言いたかったこと」を僕が言うというのもちょっと態度がでかいですけれど、ウェーバーが言いたかったのは、そのことじゃないかなと思うんですよ。
でも、アメリカ的資本主義はどうして無時間的かについて、ウェーバーはちゃんとヒントをくれています。
アメリカの資本主義は「無時間的」というよりはむしろ「無歴史的」なんです。
というのは、フランクリンがこんなお金のことばかり気遣う文章を書いていた十八世紀のペンシルヴァニアは(ウェーバーによると)「貨幣の不足のためだけでややもすれば物々交換に逆転する恐れさえあり、大規模な産業的経営はほとんど影もなく、銀行といえば僅かにその萌芽しかみられなかった」くらいに資本主義が未発達だったからです。
これって、変でしょう?
資本主義が未発達である場所に、それどころか貨幣さえあまりゆきわたっていない社会で、「貨幣の哲学」が体系化され、「資本主義の純粋精神」が理念的完成を見たんですよ。
もちろん、それ以前も有史以来商業も商人たちも存在しました。
でも、彼らは「資本主義の精神」を体現してはいませんでした。
「資本主義の精神」は単なる「金儲けの思想」とは違います。
ひさしくローマ教会はキリスト教徒には利子を取ることを禁じていましたし、そもそも営利を自己目的とする生き方は「恥ずかしい」ことであるという意識は商人たちの中にも伏流していました。
ですから、富裕な人々は死んだときに莫大な寄進を教会にして、来世の平安を購おうとしたのです。
「このことはまさしく当事者自身が自分たちの行為を道徳外的な、或いはむしろ反道徳的なものと考えていたことを明白に示している。」とウェーバーは書いています。
お金をもうけるのは「いいことだ」というあっけらかんとした資本主義の「精神」はかなり日付の新しいもの(もしかすると18世紀末あたりの生まれ)だということになります。
ウェーバーを信じるなら、そういうことです。
どうしてそういうメンタリティが18世紀のアメリカに登場したのか、どうしてそれが今やあまねく世界を席捲するものとなったのか、これについては時間をかけて考える必要があると思います。
ひとつ思いつくのは、「時は金である」というのは、平川君が書いていた「円周率は3でいいじゃないか」という切り捨て方に深いところで通じているのではないかということです。
アメリカという社会の特徴は、「私たちがいまその中で生きている制度はどのような起源をもつものか私たちは知ることができないし、この制度がいつどのような仕方で終わるのかを予測することもできない」という過去と未来の不可知性を認めようとしない点にきわだっているように思います。
僕たちがその中に投じられ、その中で生きているシステムは「とりあえず」のものに過ぎません。
資本主義は「とりあえず」時間的表象形式の中でだけ存在するものを認めようとしない。
岩井克人さんが書いていたように、貨幣は必ずいつかは紙くずになります。それは「とりあえず」流通しているという事実以外にいかなる担保も持っていない。
でも、誰もそのことに気づかないふりをすることで市場経済は機能している。
「とりあえず」って英語ではfor the time being って言うんですよね。
「資本主義の精神」は for the time being 「時間が存在する限り」をfor the money being 「貨幣が流通する限り」と言い換えることによって、時間をみごとに捨象したのではないでしょうか?
TFK19 非同期的なむすびつきと見えない時間
■見えないものが見えてきた
ウチダくん、こんにちは。
なんだか、お互いに随分オーバーアチーブしてますね。
ぼくは、今、一週間に一回から二回は大阪に通っているのですが、
ブログを見ていると、ウチダくんもそのくらいの頻度で東京へ来ているみたいですね。いつも、熱海あたりで、すれ違っているんですかね。
熱海で下車して、温泉にでもつかりたいですよね。
もっとも、ぼくは秘湯めぐりじじいですから、毎月どこかの
露天風呂に沈んでいるのですが。
ウチダくんが、「ためらいの倫理学」を書いてから、なんか
凄いことになりましたよね。
その様子が、よく分かります。
ブログ見てるからだろうけど、それにしてもこのブログってものは
おもしろいものですね。
全く会っていなくともお互いの近況が筒抜けになっている。
先日も、ミーツの青山さんを介して、
一度もお会いしたことのない方にお会いしたんだけれど、
お互いはブログを読んでいるんですね。
だから全然初対面の感じがしなかった。
そして、なんか、見えなかったものが、見えてきたという感じがしました。
それをすこしご説明します。
ブログにも書いたんですけど、
ここのところ、シリコンバレーで一緒に仕事をしていた仲間だとか、
お隣で事務所を開いていた方が、同じ時期にぼくのブログにコメントをくれて
それじゃ、会おうかってことになった。
お二人とも、それっきりの一期一会でも不思議はなかったのですが、
何かが「会ってみたら」と命じたわけです。
そのとき、なんとなく、ぼくも彼らのことを思い出していたのですが、
かつてなら、や、これはシンクロニシティってもんだと思ったはずです。
ところが、彼らはぼくのブログを読んでいたんですね。
そして、頃合をみて、シグナルを送ってきた。それも同時に。
もうひとつあります。
ウチダくんの先輩の田島先生からもコメントがきた。
以前に、偶然見つけた田島さんの文章を読んでぼくの中の何かが揺れ動いた。
そうしたら、そこにウチダくんのコメントがあった。
この話、ウチダくんにしましたよね。
それを、ブログに書いておいたら、インターネットつながりで、
彼もぼくのブログを読んでくれているということらしい。
こうやって、情報の尻尾みたいなものが時間を隔てて繋がってくる。
以前なら、「そりゃ、偶然だよ」って言っていたものが、実は
よく見えない時間の中で、必然の糸で繋がっている。
これは、実に不思議な感覚を運んでくれるものです。
ウチダくんは、若い頃こんな気持ちを持ちませんでしたか。
つまり、自分は、闇夜に強大な敵に向かって鉄砲を撃っている。
隣には誰もいないんです。しかし、どこか遠いところで、かすかに銃声がきこえる。
いや、聞こえないんだけれど、たぶん誰かが俺と同じように撃っているのがわかる。
ああ、自分の知らないところで、知らないやつが、同じ敵に向かって撃っているんだ。まあ、荒唐無稽な夢なのですが、最近、そういうことなのかと
思ったわけです。
思わぬところで。
電子メールが何でこんなに発達したのかご存知ですか。
いや、勿論いろいろな利便性があるからなのですが、
一番の理由は、それが非同期通信だってことらしいのです。
非同期って、英語にするとasynchronous、
つまりシンクロしていないってことなんですよ。
電話なんかは、相手と同じ時刻にお話するわけですが、
メールは、時間を隔てて、相手と繋がる。
電話だと、相手が留守だと、じゃ今度またかけ直そうというわけで、
いったん自分のメッセージを留保するのですが、メールの場合には、
相手がいようがいまいが、送信する。
そうして、一定の時間差の後に、返事が返ってくる。
この話、ウチダくんが以前にまったく別の文脈で書いていましたよね。
韓国映画『ラブストーリー』について書いてくれたことです。
ウチダくんはこんなことを書いていました。
─ 『ラブストーリー』はある「贈り物」が世代をまたがって交換され続ける、という話です。
その贈りものは、はじめある男が少女に贈り、少女が少年に贈り、少年が少女に差し戻し、少女(もう大人の女)が少年(もう青年になっている)に贈り、そして、青年の息子が女の娘に返す、というしかたで一巡します。
やりとりされるものそれ自体はたいして価値のあるものではないのですが、それが手から手へと交換されるにつれて、そこには「物語」が付加されてゆき、しだいにその意味が深まってゆきます。
メールやブログが発達した理由がこれで分かるような気がしませんか。
ウチダくんは、マリノフスキーが報告した、トロブリアントの「クラ」の儀礼になぞらえて、ここに文化人類学的な真理を見たと書いていましたが、メールや、ブログって
それ自体は、つまらないコンテンツであっても、それが非同期であるが故に、
時間を経過する毎に「物語」が付加されて、思わぬときに返ってくるという「時間の秘密」をうまく内包したコミュニケーションツールだったという訳です。
シンクロニシティは、実はア・シンクロニシティによって引き起こされていたっていうのが、大変興味深い点です。ぼくたちは、シンクロニシティに驚き、その「一致」に
神秘を感じていると思っていたのですが、本当は「一致」が成就するまでの「時間の秘密」に、驚いていたんじゃないでしょうか。
■ 見えていたものが見えなくなる
ここのところ「会社はだれのものか」という、岩井克人さんの著書をめぐって、
インタビュー形式で一冊の本(洋泉社)をつくっています。
で、共著者としてマイクロソフトの社長だった成毛眞さんや、吉本興業でやすきよのマネージャーだった木村政雄さんらを、巻き込んで、やっている。
かなり面白いものができそうです。
この本の出版と同時期に、この成毛さん、木村さん、それからジョージ・ソロスのアドバイザーだった、藤巻健史さんらとシンポジウムをやるんですが、
成毛、藤巻両氏は、ちょっと強面なので、すこし勉強しておこうかということで、
お二人と、もうひとり話題のマネックス証券の松本大さんによる『トーキョー金融道』を読みました。
そしたら、いや、よくわからないんですね。これが。
いや、確かに金融のプロのお話ですから、難しいタームがたくさん出てきて、
話も専門的でなかなかついてゆくのに苦労したんです。
でも、ぼくのいうわからなさは、そのコンテンツのわからなさとすこし違う。
金融の世界での日本的なしがらみに対して、いろいろ批判を加えているのだけれど
そういった批判を通して、何がおっしゃりたいのかという、
メタレベルのメッセージがよく見えてこない。
それは、たとえば理想的なシステムキッチンについて詳細に論じられた論文を
読んでいるような分からなさなんです。語られている内容は理解できても、
それで、著者が何を言いたいのかがよくわからない。
これは、ぼくが頭が悪いせいもあるんだろうけれど、日本語ってこんなに難しかったっけといった感じがしてしまう。
でも、あるところで、すこし分かってきた。
今話題の村上ファンドの村上さんが、東京スタイルという会社に要求をつきつけたとき、世論も新聞も、急に出てきて何でそんなこと言うんだと批判した。
これを受けて松本さんが
「それって、でも、資本主義を完全に知らない人間の言葉ですよ。なんのための株式会社か、と。株式って、時間の概念から解き放たれて、誰もがいつでも所有したり売ったりできるもんでしょ。」(98頁)
と言うわけです。
ぼくは、ああそういうことなのかと思ったのです。ぼくたちが、無時間モデルといって批判してきた、アメリカ流のビジネススタイルを、松本さんは、これこそが資本主義の常識なんだって言っている。そういうわけで、ぼくたちは、資本主義を「完全に知らない人間」なんだなと納得したわけです。松本さんという人は、一度お会いしたことがあるのですが、礼儀正しい感じのよい方です。ぼくは、この本を読んで、彼の膨大な知識とクリスプな言語感覚に圧倒されました。
でもね、ぼくはやはり、松本さんはずっと金融の勉強をしてきて、金融サイドの見方しかしていないと思うのです。
クリスプに見えるものしか見ようとしていない。
金融にとっては、時間という概念は最も無駄なもの、唾棄すべきものにならざるを得ない。でもぼくは、ビジネスってのは、「最初の贈与」からはじまって、時間の中を潜り抜けて、プラスアルファが返礼されるというプロセスの中に面白さも、スリルもあるんだと思っているわけです。ファジーであるから、面白いんですね。ぼくたちが苦労しているのは、このファジーなところを言語化しようとしているわけですから。
ウチダくんの前便の言葉を借りるなら、松本さんはまさに、アメリカという「エゴイスティックな親に育てられた子供」のひとりなんでしょうが、ぼくたちが自らの身体的な反応と、自らの立ち位置との間で、「ゆっくり発狂する」人間であるのに対して、そういったソリューションを必要としない、天才児が日本にも出現してきたという印象です。堀江さんや、村上さんなんかも、その一人かもしれません。こういったことは、これまではあまり感じませんでしたが、やはり戦後60年もたつと、ぼくたちとは頭も身体も使い方の異なる、若い人たちが出てきたんだなと思います。これを、進化というか、劣化というかの判断は差し控えたいと思いますが、それでも合理性を追求する過程で、「見えているもの」をあえて見ないようにしていると、ほんとにそれが無かったことのように見えてきてしまうということになるような気がしています。
これも、喩えは穏当ではないのですが、やはりアメリカは、ハリケーンに襲われたニューオリンズの人々は、アメリカには存在しないという立ち位置を採っていたんじゃないかと思えるのです。
それは、見えていても見えないものとして扱っていいんだと。
確かに、ビジネスでも政治のプロセスでもそういうことってありそうな気がします。3.14じゃなくて、3でいいんだということです。確かにそれで、世界はソリッドに形成してゆくことはできるかも知れない。しかし、ぼくはビジネスにおいても、政治プロセスにおいてもこの0.14が見えなくなったら、やる意味がないんじゃないかと思っているのです。ちょっと、いやかなり乱暴な議論ですが。
でも、やはり割り切れない世界を見る必要があるとぼくは思う。そういった意味でも、見えているアメリカだけを見て、アメリカはうまくいっているんだといった思考法を解体してゆく必要があるんだと思います。
2005年10月02日
アメリカの光、日本の影
■ アメリカの構造的「正しさ」について
『街場のアメリカ論』、やっと脱稿しました。
やれやれ。
ぼくはアメリカ論の専門家じゃないし、だいたいアメリカだってたこと二回しかないんです(サンフランシスコに10日、ハワイに7日)。そんな人間がアメリカ論を書いてよろしいのか、という疑問は当の本人にもあるんです。
唯一の強みは、ぼくが「自分の欲望を勘定に入れる」ということについてはずいぶん年季を積んできたということです。
ぼくのアメリカに対する感情で、ある意味きわめて日本人に典型的なしかたで「アンビバレント」なんです。「憧れ」と「嫌悪」がわかちがたく縒りあわさっている。
今日はちょっとその話をしたいと思います。
ぼくたちの世代にとってのアメリカは何よりもまず世界最強国、そして世界一豊かな国として映現しました。アメリカの音楽を聴き、アメリカ映画を見て、アメリカン・ウェイ・オブ・リビングへの素直な憧れの中でぼくたちは育ってきたわけです。
キューバ危機のときのことを覚えていますか?ニュース映画をみながら、ぼくはもちろんJFKに100%肩入れしていました。フルシチョフはどうみても「悪相」ですからね。
平川君もたぶん同じような印象を持ったんじゃないでしょうか?
第一、あのころ『少年サンデー』か『少年マガジン』で「ケネディ大統領物語」っていう伝記マンガが連載されていたんですよ!「長嶋茂雄物語」や「若乃花物語」と同じようなカテゴリーに属する少年たちのヒーローだったんですね、1962年のアメリカ大統領は。
ケネディ・コインというのもありましたね。大統領就任を祝って鋳造された記念貨幣。そんなノベルティを日本の子供たちは宝物にしていたんですよね(村上春樹もケネディ・コイン作ったペンダントをたいせつにしていたという話をエッセイに書いてました)。
そういうアメリカへの一方的な支持の気分が翳ったのは、やはりベトナム戦争が始まってからです。
ぼくたちから見ると、「どうしてアメリカがあんなひどいことを・・・」という意外感をともなった出来事だったわけですけれど、別に特に「ひどいこと」をしたわけではなくて、ずっと「ああいうこと」をやってきたんです。ぼくたちが歴史を知らなかっただけのことです。だいぶ経ってからそのことがわかりました。
考えてみたら、ぼくたちが使った歴史教科書ではアメリカ史の「暗部」はほとんど構造的に削除されていたんですから。
米西戦争でキューバやフィリピンを属国化したことも、米墨戦争でカリフォルニアを奪ったことも、アラモ砦の戦いがテキサス併合のためのマヌーヴァーだったことも、武力によるハワイ併合のことも、ウーンデッド・ニーのネイティヴの虐殺のことも、アジア人差別のことも、日系移民の強制収容のことも、アメリカの20世紀の世界戦略を理解する助けとなるような歴史的事実を知る機会がほとんどないままにベトナム戦争に遭遇したので、たぶんぼくたちは「びっくり」しちゃって、「アメリカは変わった」というようなとんちんかんな印象を抱いてしまったのだと思います。
どうして、「そういうこと」を知らないでいたのかというと、それはもちろんそんな年号は「入試に出ない」からですからね。
選抜制の教育制度の難点のひとつは「入試に出ない」ことについてはほとんど組織的に「情報として無価値である」と判定する習慣が幼児期から定着してしまうことです。
ぼくたちは「アメリカについてはあれこれ詮索立てしない方が有利である」ということをほとんど無意識的に刷り込まれてしまったのですが、ぼくたち自身はそのような刷り込みがあったこと自体意識化することがありませんでした。
そういうもんですよね。
中国史なんかだと、それこそ則天武后が後宮でどんな拷問をしたのかとか景徳鎮ではどんな釉薬を使っていたのかというようなえらくトリヴィアルなことが教科書には出ていたのに、アメリカがどうやってカリフォルニアやハワイを手に入れたかというような政治上の当然の常識については教えられなかったことを「変だ」と思うべきなのに。そう思わなかったことの方が不思議です。
■ 発狂ソリューション
こういうアメリカ史の「暗部」についての隠蔽は無意識的かつ組織的に、日本人自身の手で戦後ずっと行われていたんじゃないかと思います。
1940-50年代の敗戦国民日本人がまず求めたのは物質的な繁栄ではなくて、何よりも「倫理的な正統性」だったとぼくは思うんです。
どうしてかというと、ほかに存在理由がなかったから。
生きる目的をほとんど見失っていた敗戦国民たちは「私たちには存在する権利がある。なぜなら私たち日本人には日本人にしか果たしえない世界史的使命があるから・・・」という語形で存在の基礎づけをしようとしました(たぶん)。平和憲法というのはその倫理性の目に見えるかたちだったと思うのです。日本が世界に倫理的な意味で誇りうる唯一のことは、平和憲法の護持と「被爆国だけれど核兵器を持たない」という自制(というよりは「非力」なんですけれど)にあったのではないでしょうか。
どちらにしても日本の倫理的正統性は日本に平和憲法と非核自衛隊を同時に与えたアメリカの世界戦略の「正しさ」が担保していたわけです。アメリカの「政治的正しさ」が日本の「倫理的正しさ」を担保するという依存の構造になっていた。そういう場合に、日本人がアメリカ史におけるアメリカの政治的判断を否定的に論じることには強い心理的な抑圧がかかっていたということはなかったのでしょうか?だって、「アメリカの政治的判断はしばしば間違う」ということがわかってしまうと、「日本人がここにこうしていること(九条があって、自衛隊があって、従属国であること)の必然性」というものを基礎づけられなくなってしまいますから。
これはエゴイスティックな親に育てられた子供のアイデンティティの混乱の仕方に似ているような気がします。
親はそのつどの自分のつごうで支離滅裂なことを子供に要求します。それは「親の都合」という以外には何の理由もなくて、子供に首尾一貫した指示を与える気なんかないのだけれど、子供の側は「あれをしろ、次はこれをしろ」という親の錯綜した指示をある「隠された教育的意図」によるものだと考えて、必死に首尾一貫性を探し出そうとする。でも、結局は親の全行動を説明を包括できるようなスキームを発見できない(「子供のことをぜんぜん配慮していない」というのが親の行動についての唯一合理的な説明なんですけれど、それはつらくて意識化できないから)。そして、ゆっくり狂ってゆくわけです。
ぼくはいささか不穏当な言い方を許して頂ければ、日本人はアメリカに対して集団的に「発狂している」という考え方をしているんです。
■ 日本人はどうして英語ができないのか?
そう考えると、「どうして日本人は英語ができないか」という長年の疑問にも解答の手がかりが見えそうに思うんです。「日本人は」なんて一般論にしないで、端的に「ぼくは」と言い換えてもいいです。
ぼくが英語ができない。
「英語ができない」という言い方は不正確ですね。
読み書きに関して言えば、英語はできます。かなり、できます。リテラシーに関して言えば、たぶんアメリカ市民の平均よりも高いでしょう。
でも、話すのは苦手です。
なんていうのかな「自分の声」で話すことができないんですよ、英語だと。
英語で文章を書くと、時間はかかるけれど、それはまちがいなく「ぼくの文章」なんです。ふだん日本語で書いている感じとかなり近いものが書ける。
でも、しゃべるとだめなんだな、これが。
何て言ったらいいんでしょう。日本人の話す英語って、「等身大」じゃないでしょう?
その人の年齢や社会的立場やそれまでの人生経験や教養や美意識や世界観や・・・そういうものが全部込みでにじみ出るものですよね。語ることばというのは。でも、日本人が話す英語だとそういう「その人なりの固有性の厚み」みたいなものが出ないんです。
英語を話す人というのは「まるでアメリカ人みたいにぺらぺらしゃべる人」と「みぶりてぶりでめちゃくちゃに話す人」の二極に分化して、その中間に存在するはずの無数の「等身大」がない。いかにもその人らしい味のある英語を話す人というのがほとんどいないんです。
いてもいいと思いません?
その人の専門領域についての必要な語彙だけは備わっていて、そのエリアの話題についてなら、基礎的なことについてはきちんと語り合えるというようなプラグマティックな言語運用。ナースの英語とか、タクシー運転手の英語とか、寿司職人の英語とか、コンビニ店員の英語とか。
そういうふうにオーラル・コミュニケーションの英語力を道具的・限定的に利用するという発想がなかなか根づかない。
むしろ「誰にでも使える汎用性の高い英語」の習得が勧奨される。でも、「誰にでも使える汎用性の高い英語」はかなりのレベルに達するまで「現場」では使いものにならないものでしょう。
そういうプログラムの構築の仕方って語学力の問題じゃなくて、ある種の政治の効果ではないかとぼくは思うんです。
植民地の宗主国が植民地の人間に語学教育をしますね。コミュニケーションができないと不便だから。
でも、そのときの語学教育の中心は必ずオーラルなんです。文法や修辞学はあまり教えようとしない。
理由は簡単です。
「読み書き」をきちんと教えると、植民地原住民の中から植民者人よりもリテラシーの高い人間が出現してしまうからです。原住民の秀才の中から、宗主国出身の教師を知的に凌駕するもが出てきかねない。
知的な非対称性を維持することは権力関係の基本ですから、そのような事態は決してあってはならない。
ですから、植民地における語学教育は必ずオーラル中心になります。
宗主国からきた教師の文法の誤謬を指摘できる生徒はすぐに出現しますが、教師の発音の誤りを指摘できる生徒は原理的にありえないからです。母国語話者が語る限り、どのような発音もその国語の「コーパス」に登録される権利があります。発音に関しては母国語話者には「間違い」ということがありません。逆に母国語話者である教師は生徒の発音のうちに無限の誤謬を指摘することができます。
ですから、オーラル・コミュニケーションを語学教育の中心にすえているかぎり、宗主国民の知的優位は構造的に揺るがないのです。
どのような堂々たるコンテンツであっても、オーラルレベルにある限り、原住民が語ることばをさえぎって発音の間違いを指摘したり、「聞き取れないふり」をすることが母国語話者には許されています。
日本の英語教育は戦前までは旧制高校での集中的な語学教育に見られるように、かなりの水準のものでした。けれども、それは徹底的に「道具的」な発想に貫かれていました。
例えば、夏目漱石の英語力は驚嘆すべきもので、漱石は十代の途中で漢学を棄てて英語に転じるのですが、英語を始めてわずか数年で『方丈記』を英訳しています。
これは彼の英語学習の努力のほぼ100%がリテラシーの向上に集中されていたことを示していると思います。
もちろん大学の英語教師にはたくさんのお雇い外国人がいましたから、漱石は英会話能力も高かったはずですが、それは別に日常の用を弁ずるに足りればいいことでした。
漱石の漢詩もまたご存知のとおり、高い水準のものでした。じゃあ漱石が当時の中国人とオーラル・コミュニケーションができたかというと、たぶんできなかったと思います。そして、そのことを漱石はたぶん「語学力の不足」だとは考えていなかったはずです。必要があれば筆談すれば済むことですし、そもそも自国語の文字を解せないような中国人には彼のほうからは特段の用事がなかったから。
この「教養のない母国語話者には用がない」という「傲慢さ」が戦前までの日本の知的エリートの外国語習得の感覚には伏流していたように思います。
オーラル・コミュニケーション中心の英語教育はこの伝統を転倒しました。それは「教養のない母国語話者たち」(日本を支配しにやってきたアメリカの「有象無象」諸君)に知的威信を担保するための教育制度だったようにぼくには思われるのです。
それ以後、コミュニケーションのコンテンツは副次的で、英単語をいかに「それらしく」発音し、表情やみぶりを「それらしく」演じるかということに日本人の語学学習の関心は集中してしまいました。
たとえ非ネイティヴ・スピーカーの語るコンテンツが高度すぎて理解が及ばない場合でも、母国語話者は「わからないことを言うな」とそれを棄却することができるようになったということです。
いま漱石のような高校生が登場して、『方丈記』を英訳してみせても、ネイティヴの英語教師はあまり感心しないでしょう。そんな無駄なことをする暇があったら、ラップでも聴いて早口英語の聞き取り練習をしなさいというようなとんちんかんなことを言うかもしれない。
非ネイティヴである限り、どんな局面でも知的に劣位におかれるという政治的な構造は、半世紀かけて日本人の英語力を根本的に損なってしまったのではないかとぼくは思っています。
またも話がとんでもない方向に逸れてしまいました。
文化的相対主義の話、靖国の話。ぼくもいろいろ書きたいことがあったんです。次回にまた。