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2004年04月18日

国際社会の笑いものたち

東京ファイティングキッズ
その28

内田樹から平川克美くんへ(2004年4月17日)


血液型の話、ぼくも、平川くんと同じ意見です。
単純な物語に牽引されて、物語の消費者自身が「ほんとうに」単純になってしまうという順逆の転倒はある意味、こわいですね。
このような類型化がいまの日本でこれだけ好まれるというのは「なんだかよく分からないこと」をまとめて排除するということについて、全社会的な合意ができつつある、ということではないかと思います。

人間の知性が動物の知性といちばん大きく違うところは、人間だけは「なんだかよく分からないもの」というカテゴリーをもっていてることだそうです。そこにいろいろな事象をテンポラリーに放り込んで置いて、あとになってから「あ、『あれ』は『これ』だったのか。なるほどね」と関係性や同一性を発見できるという能力が人間とほかの動物のいちばん大きな違いです。

ラカンは、人間の知性が動物や機械のそれとの違いを「闇夜の海を航海している航海士」の比喩で語ったことがあります。
暗い海に何かが浮かんでいる。何だか分からない。でも、サメやカモメは、それを「流木」であるか「生物」であるかを瞬時に判定してしまう。流木なら無視し、生物ならとりあえず囓ってみる(そしてブイを食べて腹を下したりするわけです)。動物は必ず既知のものと同定する。「よくわからない」ままにしておくということはしないのです。
でも、人間はそうではありません。
「何月何日何時何分、東経**度、北緯**度のところで、『何だか分からないもの』が漂流しているのを発見」とクールに航海日誌に書き記すことができます。

ところがその人間と獣を分かつ本質的な境界線であるところの「何だか分からないもの」というカテゴリーを、当の人間たちが「こんなカテゴリーがあると、いろいろめんどくさいから」と言って廃棄しようとしているわけです。
これって、要するに「私はサルになりたい」と言っているのと同じじゃないか、とぼくは思います。

この「私はサルになりたい」という欲望がグローバリズムの趨勢に棹さすかたちで全世界に蔓延しつつあるような気がします。
血液型性格診断を信じる女の子と、日米同盟の堅持の国際関係論的必要性を信じる政治評論家は、「何だか分からないもの」をできるかぎり視野から排除したいという欲望の痛々しいあり方において、酷似しています。

こんどのイラク戦争について、派兵賛成派の政治家や評論家たちの話を聞いていると、「日米同盟の堅持は日本にとって生存のために不可避のオプションである」というのがだいたい出発点の仮説ですよね。
いつからそんなことが「常識」になったのか、ぼくは寡聞にして知りません。
福田官房長官が父親の首相が決断したダッカ事件のときの「超法規的措置」に言及して「時代が違う」と記者団を一喝していたところから推察するに、たぶん「時代が変わった」後のことなんでしょう。

いつごろ「時代が変わった」のか、誰もアナウンスしてくれないので、ぼくは知りませんけれど、とにかく歴史上のある時点からあと、「アメリカの世界戦略を無条件支持することが、日本の生命線」ということが日本人の「常識」に登録されたようです(「満州は日本の生命線」という常套句がある日から「常識」に登録されたのと、その消息はなんとなく似ているような気がします)。

でも、いったい、「いつから」なんでしょうね?

少なくとも、ぼくのところには「これから、そういうことになりましたから、ひとつよろしく」という挨拶はどこからもありませんでした。
でも、ふざけているわけじゃなくて、この「いつ、どこから、だれから?」という問いかけは、けっこうたいせつなことなんじゃないかと思います。
フーコーがその系譜学的考究の中で行ってきたのは、「そんなの常識じゃん」という無反省な言明に向かって、「ほう、それはいつから、どこから、誰から、『常識』になったのか、ひとつ教えちゃくれませんか?」と執拗に問いかけることでした。

ぼくがこのところ気になっているのは最近常套句のように使われる「国際社会の笑いものになる」というワーディングです。
「湾岸戦争のときに金だけ出して、人的貢献をしなかったので、日本人は世界中の笑いものになった」ということをよく耳にしますし、このあいだは『TVタックル』で「ダッカ事件のときに日本は世界の笑いものいなった」と誰かが断言していましたけれど、そういうことがいつから「常識」になったんでしょうか?

その人がたとえば、そのころにアメリカに留学中で、「街でいきなりアメリカの子どもに『日本人のバカ!』とか嘲弄されて、トマトをぶつけられた」というような原体験があれば、日本政府の弱腰に悔し涙にくれたということも分からないではありません。
でも、外国のひとたちと国際政治について踏み込んだ議論をした経験があるとも思われない街のおじさんおばさんが「湾岸戦争のときに、日本は国際社会の笑いものになった」みたいなことをTVのレポーターにむかって「事実」として語っているのを聞いていると、「おい、ほんとかよ」と突っ込みを入れたくなります。
「ねえ、どこであなた『国際社会』と知り合いになって、どこで何を言われたの?『国際社会』があんたの家のドアをノックして、『わはは、日本人のバカめ』と笑ったの?」と訊きたくなります。

日本にいる外国人というとまず在日のコリアンたちです。それから中国人。東南アジアからの人も多い。中南米からの出稼ぎ労働者もたくさんいます。そういうひとたちが、とりあえず日本人が日常よく接する「国際社会のメンバーたち」です。
その人たちが「そんなこと」を日本人に対して言うでしょうか?
ぼくは言うようには思われません。

ぼくの大学には外国人の先生もけっこういますけれど、湾岸戦争やダッカ事件を引き合いにして、「日本人は恥じよ」などと言ったひとをぼくは一人も知りません。
湾岸戦争の勃発のころ、ちょうどぼくはフランスにいましたけれど、フランス人から「日本も兵隊出せよな。出さないと恥だぞ」とすごまれた記憶もありませんし、そんなふうな社説や評論を読んだ記憶もありません(だいたい日本政府の外交政策になんか、フランス人はぜんぜん興味ないし)。

要するに、いまの文脈で「国際社会」と言われているのは「アメリカ政府」のことなんですね。アメリカ以外の国の政府もその国民のことも、基本的には眼中にないわけです。

でも「国際社会とは詮ずるところアメリカ政府のことである」ということを前提にしている人が「国際社会の信義に応えるためにも、アメリカ政府の世界戦略を支持しなければならない」というのは、ただの同語反復でしょ?
「アメリカは正しい。なぜなら、『アメリカは正しい』とアメリカが言っているから」。
なるほど。
たしかにそれでも蓋然的には「アメリカが正しい」ということはありえます(「ダメ!ダメなものはダメ!」という判断が「当たり」ということだってありますからね)。
でも、他人を説得しようと思ったら、もう少しロジックの組み立てを工夫した方がいいんじゃないかと思います。

ぼく自身は外国の知人友人の誰からも湾岸戦争やダッカ事件のことで「恥を知れ」なんて責められたことはありませんし、今度の自衛隊派兵で「よくやった」と肩を叩かれたこともありません。けれども、それはぼくの狭隘な見聞の範囲でのことにすぎませんから、「国際社会では誰もそんなことを言っていない」というような一般化はしません。

世界にはいろいろな考えをする人がいて、その人たちが日本をどう思い、日本人に何を求めているかについて、ぼくには断定的なことなんかとても言えませんには。
でも、それでも日本の外交について議論しなければいけないというのなら、せめて数十の国の数十万人程度のサンプルを取る程度のアンケートを実施して、その結果に基づいて議論を始めたらどうですか?

でも、外務省が「国際社会が日本に期待すること」というような網羅的なアンケートを実施したという話は寡聞にして知りません。
そのアンケート結果こそ、ぼくたち国民が政府の外交政策を点検するときに、いちばん必要とする基礎的データのはずですけれど、外務省はそれほど死活的に重要なデータであるにもかかわらず、そんな調査をする気も、公開する気もなさそうです。まことに不思議なことです。

ここでテロリストに屈して撤兵すれば「国際社会の笑いもの」になると言う人たちは、スペインやイタリアについてはどうお考えなのでしょう。
スペインは鉄道テロのあと、撤兵を掲げた野党が政権を取りました。おそらく新政権発足後すぐにイラクから軍隊は撤収されるでしょう。
イタリアも自国民の人質が殺されてあと世論が一変して、今や国民の57%が派兵の政治的失敗を認めて、即時撤兵を要求しています。
この両国の市民の過半数は「国際社会の笑いもの」であることを選ぼうとしています。
イラク戦争に反対した独仏ははやばやと「国際社会の笑いもの」になる道を選びました。
それどころか、最近の世論調査ではアメリカ市民の53%もブッシュのイラク政策は「間違っていた」と回答しています。この数字は過去二ヶ月で16ポイントも上昇しましたから、このままイラク国内の状況が膠着すれば、夏頃にはもっと高くなるかも知れません。このアメリカ市民たちも「国際社会の笑いもの」になる選択をしようとしている、ということになるのでしょうか?

その上で、「国際社会の笑いもの論者」たちに質問したいのですが、世界にひろがる「国際社会の笑いもの」のみなさんに具体的にどのような「罰」が下ることになるのでしょう。
相応のペナルティがあって、それによってその国の国益が大きく損なわれるという事実があるからこそ、「国際社会の笑いもの」論はこれまでディベートの切り札に使われてきたわけですよね。
ですから、この派兵反対の米独仏伊西の市民と政府に対してはどのような罰が下るのか、それをぼくは知りたいのです。
「笑いもの」になった場合の懲戒的措置がどういうものなのか、ぼくにはうまく想像できません。政治的な弾劾や経済的な制裁、大使館の引き上げとか、文化交流の停止とか、そういうところまではゆきませんよね?
経験のないぼくには分かりませんが、「笑いもの」論者の方々は「国際社会の笑いものになる」ことが「どういうこと」なのか熟知されているわけですから、日本がかつてされたのと同じことを「仕返す」ということでよろしいかと思います。

で、日本は何をされたんですか?
これから政府の外交政策に反対するアメリカ市民や、イラク派兵に反対する独仏西伊の国民たちに「国際社会」はどんな懲戒を下すんですか?

話がくどくなったので、もう止めておきますけれど、「こういう問いかけ」をするということは、けっこうたいせつじゃないかと思うんです。重要な外交政策を決定するときの世論形成の場に、「国際社会の笑いもの」論のような実質のない情緒的な言葉が飛び交うのは、とても危険なことだとぼくは思います。
日本がアメリカの世界戦略に従属することで、何が得られるのか、それ以外のオプションを採択した場合には何が失われるのか、その予測をきちんと示すことなしに、「アメリカに従う以外に生きる道はない」と言い募る人たちの話をぼくはどうしてもまじめに聞く気になれないのです。

ではまた。


投稿者 uchida : 2004年04月18日 11:03

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