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2004年04月26日
イラクのこと・民主主義について
その29
平川克美から内田樹くんへ
■ 共存のプロジェクト
「国際社会の笑いものたち」大変面白く拝読しました。
ウチダくんが以前アメリカ論の中で、アメリカという国は、それぞれのステートが
ひとつの国のようなもので、アメリカ人にとっては、合衆国そのものが
ひとつの国際社会であるという議論を展開されるのを「なるほどね」と
思ったものです。
その延長で、日本における国際社会ってのはなんだろうかといえば、
中国でもロシアでもヨーロッパでもない
アメリカ合衆国のことなんだろうなと答えざるを得ません。
でも、これって寂しい国際社会認識だよね。
スペインもドミニカもホンジュラスもボリビアも、イランも韓国も、中国も、
イラクも、イスラエルも北朝鮮だって国際社会を構成しているメンバーで、
いま、国際社会の価値観は政治的にも、宗教的にも二分、三分されているわけ
ですから、国際社会がひとつの価値観で動いているという
考え方の方に無理があるのは自明のことです。
いやむしろ、国際社会というものの価値観が四分五裂してバラけていること
をもっと積極的に評価すべきなのではないでしょうか。
そしてまさに四分五裂してバラけた思想信条というものが共存できる
社会を実現する工夫こそが国際的に問われているもんだいなのだろうと
思います。
国際政治の文脈では、「共存」とは必ずしも平和的なものではなく、
むしろ利害が対立した敵対的な「共存」である場合が多いかも知れません。
この「共存」のプログラムはだから、単純でも、易しくもない
現実的かつ政治的な課題だろうと思えます。
テロリストが世界を破壊しようとしている。
ならず者国家が大量破壊兵器を所有しようとしている。
それは、国際社会への挑戦であるから、ハルマゲドンが起こる前に
未然に悪の芽を摘んでおかねばならない。
このような勧善懲悪の世界観が、たとえば現在の複雑絡み合った中東情勢
を安定に導くという物語は、むしろセンチメンタルな発想だろう思う。
話は逆だ。
テロとの戦いキャンペーンが招来したものを
ひとつひとつ分析してみた方がいいと思います。
「テロリストを擁護するものもテロリストである」
「核兵器を開発するものはテロリストである。」
「イスラム原理主義はテロリストである。」
このように単純化されたテロとの戦いキャンペーンこそが、
中東を緊張させ、問題をさらに複雑にしていることがわかるはずです。
今の国際社会の複雑に絡み合った
利害関係を調整し、折り合いをつけるという難しいプロジェクトの遂行は
冷徹でリアルな分析、結果に対するイマジネーション、
対立を煽り立てない知性といったものが必要なのだと思うわけです。
国際社会をひとつのスタンダードで動かしたいと思うこと。
これを覇権主義というわけですが、アメリカはこの覇権主義の呪縛から
逃れることが、原理的にできない国であるのかもしれません。
その原因のひとつが、自国こそが国際社会であるという
信憑によって、自らが覇権的であることが隠蔽されてしまうという
アメリカという国民国家の構造にあるのでしょう。
グローバルルールとは、異なった背景をもつローカルルール間に
折り合いをつけるという冷静な計算と工夫のなかにしか生まれ得ないもので、
それは自国のルールがローカルなものでしかないという自制的な認識からしか
発明することはできないだろうと思います。
悲しいのはそのアメリカに追従しなければ、日本の未来はないという
信憑にとりつかれている日本サイドの政治・経済担当者です。
まあ、小泉さんはブッシュのダチだそうだから、共同正犯みないな関係で、
一連の政治決定プロセスは、総理大臣へ就職し続けるための戦略的
な行動であるような気もするのですが、
そのお先棒をかついでいる奇妙な友党の幹事長の発言には、
あいた口がふさがりませんでした。
今回、公明党の幹事長だかなんだかが、人質救出にかかった費用を
人質とその家族に請求すべきだ、なんてことを、鬼の首をとったかのように
吹聴したわけですが、まあ、よくぞ言ってくれたといったところです。
それこそ、国際社会が目をまるくするような見識ですが、
自民党の、そのほとんどが二世議員である要人たちもこれに同調しているのですから、
おそまつな政府をぼくたちはいただいているもんだと感じざるを
得ません。
いつからかれらは、日本国のオーナー経営者になったというのでしょうか。
今回の人質たちは、反政府的な思想を持っていたかもしれない。
あるいは、端的に、米国の介入、日本の自衛隊派遣に反対しているひとたち
であるかもしれない。たぶん、そうしたメンタリティの持ち主だろうと思う。
そんな奴らが、政府の退避勧告を無視して、イラクくんだりまで
でかけているのだから、自己責任で処理しろ、金を払えというべきでしょうか。
それとも、かれらは反政府的なメンタリティの持ち主だ。
だからこそ、かれらの行動は保障されるべきで、政府はその生命・財産を
保護する義務があると考えるべきでしょうか。
ぼくは、もし民主主義というシステムを肯定するならば、後者のように
考えるのが自然ではないかと思っています。
そして、複雑に絡み合った国家利害の対立を共存のプログラムに
乗せるためには、さまざまな対話の迂回路をもつべきであり、
むしろ積極的にNGOや、マスコミを活用する狡猾さや知恵が
政治のプロフェッショナルには求められているはずです。
■ 民主主義のディレンマ
今回のイラク派兵のお題目は、フセインの独裁を転覆させて、
イラクに民主主義を植えつけるというものでした。
(与えられる民主主義? 自家撞着ですよね。)
金を払えという人々も民主主義の信奉者であると自認しているはずなのですが、
民主主義とは決して政治的にベストの選択を保障するシステムではないし、
効率的で合理的なシステムでもありませんよね。
つまり民主主義とは最良のシナリオを最短で実現するシステムではないということです。
にもかかわらず、多くの国の国民がこのシステムを採用した理由は、
民主主義というシステムの柔軟性、冗長性といったものが、異論が共存する社会を存続
させるための最悪のシナリオを避けるためであり、最悪にならない可能性を最大
化するシステムであるという経験則と見識によるものだろうと思います。
そして、それを保障しているのが多数決という意思決定方法であり、
少数派が多数派と交代しうる可能性を残しているところに、
工夫と創見があるのだと思います。
だって、もし少数派が永遠に少数派として固定化されるならば、
少数派が自らの政治的宗教的な信条を実現するためには暴力と圧制に頼る
他はなくなるからです。
民主主義の政治プロセスが思想自体の合理性や先見性を争うよりは、
もっぱら多数派の形成に向かうのは、最悪のシナリオである
少数派の絶望的な暴力を留保するという意味でも、意味のある行動なわけです。
これは、国家意思というものが、一握りの選ばれたエリート
や党派に左右されるのではなく、いつでも右や左にと交換可能性の中にある
ということを意味しています。
このことが意味しているのは、現政権の意思決定の結果とは、
つねに「暫定的」なものであり、「暫定的」であり続けるということでもあります。
議論が回りくどくて申し訳ないのですが、
最悪の結果を回避するためには、まさに、回りくどくて、かったるいプロセスを
引き受けましょうというのが民主主義を採用するときの基本的な合意であったはずです。
自分たちの思想や利益に反する人たちに対して、それを排除しないで、
将来における逆転の可能性をも保障するのですから。
それが、たまたま現政権の政策と利益相反を起こしたからといって
だれが、誰の名において費用を請求できるというのでしょうか。
暫定的な意思決定の、暫定的な担当者に過ぎないということを
わきまえてもらいたいものです。(無理だろうけど)
■ 溶解する倫理
今回の人質問題で見えてしまったさらに重要な問題は、
政治的な課題とはすこし別なところにあります。
それは、辛い目にあっている人や、疲れ果てている人、弱者、困惑している人
に対する自然で、基本的なふるまいというものが、いつの間にか
平均的な日本人のメンタリティーの中で溶解してしまったということです。
「おつかれさん。まあゆっくり休んでください。
細かい話は後で聞きますから」というのが、ぼくの考える自然で、基本的な態度です。
「こまったときは相身たがい」これが自然な感情だと思うのですが、
いつのころからか、
この自然な感情よりは、国益や、アメリカの意思や、政治的な信条や、自分の懐具合を
先行させるようになっちまいましたね。
今回のことで言えば人質になったひとたちは、
自民党筋がいうように「政府の勧告を無視して危険地帯に入ったふとどきもの」だったから、
人質になったわけでも、
反戦派がいうように、「自衛隊を派遣したから」無辜の日本人が人質になったという
わけでもないということは抑えておく必要があるだろうと思います。
勿論どちらも理由のひとつとして数え上げることは可能ですが、
その根っこのところは、この戦争が無理筋であったことに尽きるだろうと思います。
このまま戦況が悪化してゆけば、
別に人質をとるのは、イラク国内でなくとも実行可能であるだろうし、
(その可能性はもっと高くなるだろう)
「ふとどきもの」ではなく、自衛官や大使館員を人質に取ることも可能だろう
ということです。
(その可能性ももっと高くなるだろう)
その場合は、費用は誰に請求するというのでしょうか?
多元的な価値観を認める以上、思想の対立、利害の衝突は避けられない。
ましてや戦争だ。
その場合には、個々の価値観をいったん棚上げして、とりあえずの問題が
最も負債が少なくなるような方法で解決できるように努力しましょう。
食料も水も分かち合いましょう。怪我をした人がいれば、介抱しましょう。
というのがこの国にあった暗黙知だったと思うんだけど。
投稿者 uchida : 2004年04月26日 00:27
コメント
はじめまして、■溶解する倫理の項、心して読ませていただきました。
(イラクとは関係ないですけど)自分の人生がうまくいくことや自分が正しいよねぇ~っていうことに一生懸命で、一方自分が悩んでいるときには自分の悩みに一生懸命で、それでいて一人で寂しいと思っている、、そんな風に生きてきたなぁ。
そして、思い直しても、身についてない励ましの言葉は返って傷つけてしまったりで失敗ばかり。きっと自分を守る癖がついてしまっているのでしょう、いやだなぁと思います。(パートのおばちゃんの発想や会話ってすごくまともなんですよ)
後、”根っこのところは、この戦争が無理筋であったことに尽きる”というのは、なるほどなーと思いました。
前になりますが、ビジネスマンは一回転半の話など色んな、「なるほどなー」の発想をいただいています。ありがとうございます。
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内田先生、私はその時ためらっていたので「ためらいの倫理学」という題名にひかれて本を買ったら、なんと母校の先生だったのでした。
なんだか嬉しいです。
先生のHPを読んでいると、丁寧に落ち着いて自分でいること、その上で人と繋がることに背中を押してもらっているような気持ちになれます。ありがとうございます。
これからも日記等楽しみにしています。
トピックと全然関係なくてすみません。
投稿者 青山さおり : 2004年04月28日 02:58
平川克美さんへ
見ず知らずのものですが、「ようやく私が考えていたことに近い考えを書いている人に出会えた」ので、少し心強く思い、遅くなりましたが、
わたしの考えも投稿させていただきます。平川さん・内田さんが書かれていることは概して賛同しますが、何よりもわたしが共感したのは
平川さんの その29 溶解する論理 のなかの、「『お疲れさん。まあゆっくり休んでください。細かい話は後で聞きますから』というのがぼくの考える自然で基本的な態度です。」という言葉でした。この文章に出会えて、ようやくわたしの心が少しだけ軽くなり、わたしも意見をつづりたいという気持ちになりました。
イラクで3人が人質にされるという事態が起こってから自己責任論の噴出が続いている件に関して、私がもっとも衝撃を受けたのは開放直後のインタビューでの小泉総理大臣のコメントです。
「(開放されて)よかったですね」の言葉に続いたのは、「続けたい」という高遠さんの言葉に、不快感を顔中にあらわにして「迷惑をかえりみない」というコメントでした。
自分の決断でなした行為のなかで大失敗や不測の危機的事態に陥ったとき、事態の発生で心や体に傷を負うのは誰でしょうか?親も国家も世間の人も、事態の発生に何の責任もありませんから、「傷つく」ことはありません。ただ一人、判断と行為をなした本人だけがその重荷を背負うのです。このようなときには、どうしても言われたら耐えられない言葉があります。「お前はひとのためにやったと言うが、そのお前こそとんでもない迷惑をかけたんだぞ。わかっているのか!」
小泉総理は、まさに、この言葉を口にしたのです。それも責める気持ちをそのままに表して。
このようなときに、このようなことを言われれば何も反論できません。反論することのできない詰問は、ただ相手を追い詰めるだけの辛辣な行為です。私はテレビに向かって「ふざけるな!」といって、あやうくコップを投げつけるところでした。
しかし、恐ろしいのはその後でした。
「こんなひどいことを言うやつはとんでもない変人だけだよな」と思ったのですが、その後の意見の噴出の中に、わたしを安心させてくれるものが出てきません。彼らを擁護する意見があっても、決まって「彼らにも思慮に欠ける点が・・・」とか、「彼らにも責められるべき点が・・・」といった前置きがはいります。そのような前置きは必要なのでしょうか?本人たちがまだ会見もしていないのに、いったいいつ、誰が彼らの活動・計画・イラクでの行動を検証したのでしょう。検証されてもいないのに、問題ありと決め付けて、彼らのボランティアやジャーナリストとしての資質や人間性を低いものとレッテル張りしているとしか思えません。
彼らに問題があったのかなかったのか、危険地帯での活動に、どのようなリスク把握と準備・体制が必要か、責任とは何か、人命救助・人道支援とは何か・どうあるべきかなど、命題はいくらでもあり、論議もされるべきだとは思いますが、それは、普通、彼らに、「お帰りなさい。無事に帰れてほんとによかった」とねぎらって、落ち着いてからの話でしょう。
小泉総理の発言に、「いくらなんでもあんまりだ~!!」と思ったのに、会社で昼休みに「いくら何でも・・・」と言おうしたら、「そう、本当に無責任だよね」と誰かが言い、他のみんなも同調し、私は下を向いてしまいました。。。というような世の風潮だったと思います。
先日、高遠さんを除く2人が会見し、憶測でヒートアップしただけの世論が冷静に落ち着きを取り戻していくことを期待していますが、日本の社会が一線を越えてしまったのではないかという危惧についてもう少し書かせてください。
小泉総理が、自分の発言をメディアがどう伝え、どんな影響力を持つか考えて発言しているとしたら、3人とその家族に対するバッシングを利用し、むしろそれを後押ししたことになります。そうであれば、日本を率いているひとが、サディスティックに人を追い詰める姿勢を是としたわけです。平川さんやわたしがなじんできた自然で基本的な態度の溶解は、いつのまにか、知らない間に溶解したのではなく、小泉総理によって、意図的に溶解させられていると思うのは私の誇大妄想でしょうか?
長いメールになりすいません。
蛇足ですが、
4月27日の朝日新聞で、京都大学の国際政治学の教授、中西寛さんという人がこの件について、「問題の性質を冷静に分析して判断することが重要である」と前置きして書いた「国家の声価 高める個人」という文をご存知でしょうか?
京都大学に対して、自由な校風と独立自尊の気風を重んじる大学という好意的なイメージを抱いていたのですが、その大学で、国際政治の専門家たるひとが、全編奇怪な論理を展開し、特に(3人を拘束したものからの)「要求は、3日という短期の期限がつけられていたことを考えれば、真剣なものというより、政治的宣伝効果をねらったものとすぐ判別がつく内容であった」とか、「支援者や一部メディアは人命尊重に名を借りて政府のアメリカ支持、自衛隊派遣を批判するキャンペーンを行った」と書いていました。
このような人の頭脳こそ小泉総理のブレーンなのだろうと、小泉総理の頭のなかが理解できたように感じました。論の中身はすべて決めつけと偏見による根拠のない批判ばかりですので、読考に値しないと思っていますが、こういうひとがこの国の主要な大学で、教授として国際政治の教鞭をとるこの国の学知の世界について、いったいどうなっているのか、現状を何かお聞かせいただけたらありがたいと思います。
投稿者 福井 誠 : 2004年05月04日 01:37
青山さん、福井さん
コメントありがとうございます。
「溶解する倫理」は、実はイラク問題に関係なく、ぼくのフィールドであるビジネスの分野でこの間ずっと、感じていたことです。
数年前からテレビや雑誌で盛んに「勝ち組、負け組」なんてことが言われるようになって、ああ、随分言葉が軽くなっちまったなぁと感じていたものです。軽くなったというのは、その言葉が世間でどのようにふるまい、どのような空気をつくるかという言葉の射程に対するイマジネーションが働いていないということです。
そこにもってきて、今回は「自己責任」なんて言葉がそれこそ、その言葉を吐くことの自己責任を寸毫も感じないような感性の持ち主たちが、言い募っているのを見て、これも同じだよなと思ったわけですね。
中西さんの文章ですが、ぼくも読みましたが、何かすこしも心に届いてこないほとんど意味のない言葉の羅列のようにしか思えませんでした。声価だとか世界の笑いものだとかという言葉遣いで自説を補強するような知性をぼくはまったく信用していないんですよ。
本当は、しっかりとした、自衛隊派遣擁護や、アメリカの軍事介入の論理に触れたいと思っているのですが、なかなかいませんね。
一昔前の右翼の論客には、思わずこちらをうならせるようなのがありましたよ。
はなしは、すこし飛びますが、本日の朝日新聞に長谷部恭男という人が憲法改正に関して非常にクリアな考え方を示してくれていました。こういうのを学者の知性と呼びたいですね。
投稿者 平川克美 : 2004年05月07日 00:12
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