tokyo fighting kids
その19
2004年2月9日
平川克美くんから内田 樹へ
内田さま
スープが冷めないうちに、もう一発返しておきます。
超特急の18便、わくわくしながら読ませてもらいました。
「美は乱調に在り」っていうけれど、稠密精緻に構築されたものよりも、走りながら、動きながら吐息のように吐き出された言葉の方がおもしろいってことありますよね。気配なし、おこりなし、活殺自在な文体です。
ウチダくんは、両方できるひとですが、のインプロビゼーショナルな文体は、まさに快刀乱麻を断つといった風情で、気持ちのいいグルーブ感を漂わせて、ぼくはこっちの方が好きですね。(怒んないでね)
ウチダくんの「引越し癖」が「人間関係への持続的なスタイル」とのトレードオフだなんて、まったくとっぴな発想だとおもうのですけれど、妙に納得してしまいましたよ。
■ マザーシップ
ウチダくんくんの「内田樹ハーバーライト説」
そのような「人外魔境」で悪戦の日々を送る少年少女に「エール」を送り、彼ら彼女らが冒険の旅から帰ってくるときに「そこをめざして航行すれば、かならず懐かしい場所に帰ってこられる」「ハーバーライト」の役割をぼくはたぶん無意識に引き受けようとしているのです
ってのは、別の言い方をすればマザーシップってことですよね。
ぼくは、まえからウチダくんの本質のひとつはマザーシップじゃないかと思っていましたよ。
本質のひとつっていうのは、他にもいろいろあるってことで、ひとつのタームで説明できるような単純なもんではないってことなんだけれど。
そして、マザーシップのひとって、日本人にはほとんどいないんだよね。
ファザーシップのひとはたくさんいるんだけどね。
以前何かで吉本隆明が学生時代に太宰治に会いに行くという話しを読んだことがあります。
確か太宰の「冬の花火」を上演したいということで、仁義を切りにいったというはなしだとおもうのですが、そのとき太宰から
「髯を剃りなさい。男の本質はマザーシップだよ」と言われたという話です。
話は飛ぶんだけれど、
昨日、じつは愛犬のマルを見ていて、ああ、こいつの寿命はあと10年も無いのかもしれないと思っていたら、つぎつきと連想が働いて、ぼくの父や母の寿命ももう直ぐ尽きるんだろうなといった感慨に入ってしまいました。
そのとき、ふと、ああ「おふくろはかわいそうだな、おふくろが死んだら悲しいだろうな」って思ったのです。
ぼくの母親はいわゆる「無学の人」で、父は理屈のひとなんですけれど、母のほうは、まったくべたな身内びいき、欲望丸出し、すべては神頼みで、無償のひとで、くったくというものがまったくない人なわけです。
もうしわけないですが言ってみればマルとおんなじなのです。
ぼくにとっては、父の死は観念的にも、思想的にも処理できる問題であるような気がするのですが、母の死は、いってみれば「宙吊りになった思い」という感じで、これはなかなか耐えられねぇだろうなと思うわけです。
つまり、父の死は既知へと還元できそうな気がするのですが、母の死は、前代未聞の出来事としてしか現れようのないもので、ぼくの身体がどのような反応をするのか予測不能ということです。
母は、まったく観念というものの世界、幻想の世界というものが極小化したところで生きているわけです。マルの場合は幻想の世界がそれこそ存在していないわけね。
で、子供に対する期待とか愛情とか、非常に身体に近いところで感じ取っている世界があって、別の言い方をすれば「未来への投企」そのものを生きているわけで、この「中断」っていうのは、こたえるわけです。
で、通常はファザーシップつまりは、観念と現実みないなところが問題になるような場所で踏み堪えているような世界を考えるときに「知性」が使われると思われているのでしょうが、ほんとうはもっと「身体」に近いところから発想される場所でこそ、「知性」が輝くのかなと思ったりするわけです。
というのは愛情とか欲望といったものは必ず、生きている身体を通して表現されるものであり、より根源的、原初的に考えなければこれらの問題に触れることはできないからです。
ファザーシップは、つきつめてゆけば峻厳な審問官ということにならざるを得ず、マザーシップは、解決不能の問題を切り分けて、それに対して許しとか祈り、見守りといったソリューションを提供する役割を担っているのだと思います。
ハックを「異端審問」の淵源にするのは気の毒じゃねぇかというウチダくんのご指摘はもっともな話です。(アメリカ共産党ミシシッピ支部の書記局員という話はまさにハック・フィン的で笑えます。)
ただ、ぼくが引用した本でもことわられているのですが、反知性主義をもっぱらマイナーな評価、知性主義にポジティブな評価を与えるというのも、それこそ何も問題を解決しないということに、注意を払うべきなのでしょう。
ウチダくんもぼくも再三指摘しているように、知性も反知性もひとつの現実しか持ちえず、現実は常に、知性的なものと反知性的なものの両義的な意味合いを孕んでいるという認識をもつ必要があるということがポイントなのだということです。
ここで、もうひとつ身を震わせている子供、チャイルドシップってものも考えておく必要があるのかなと思うのです。つまりは、見るもの聞くものすべてが始めて体験する未知で、未知へと身を投げ出すことがうれしくてたまらないという精神のありようもあるねということです。
無垢の問題です。
ここでは、恐怖と興味はひとつのものです。
この意味で、ハック・フィンの物語はアメリカ的な正義、義侠心、友情、労働の楽しさといったものの本来的な姿=アーキタイプを創造したのだと思います。
そして、ここで創造された価値観そのものが「近代化」「都市化」「グローバル化」の中で再現不能な「過去」になってしまっているということなのかもしれません。
話がおもしろいので、思わず返信しました。
で、これから何処へ?