東京ファイティングキッズ
その21
2004年2月24日
平川克美から内田樹くんへ
■カリフォルニアブリーズ
いま、サンノゼから東京へ向かう飛行機の中で、書いています。
先ほど、機内食にカレーうどんがでて、思わず、「こりゃ、いいねぇ」と平らげたところです。
少し前からアメリカン・エアが機内食にカレーうどんを取り入れており、「おっ!ありがたいね」と思っていたのです。
機内食というと、肉でもパスタでもみな何か独特の匂いと味が滲み込んでいて、すぐに食傷気味になってしまうと相場が決まっていますが(まあ、人によっては違うのかも知れませんが、ぼくはね。)、カレー風味だけはこの独特の機内食臭に打ち勝って屹然とそのアイデンティティを主張することができるのです。
管見の及ぶ限り、これに匹敵できる食材は、牛丼における「紅生姜」ぐらいではないでしょうか。
ちなみに、ぼくは牛丼は、並、味噌汁、おしんこのフルコースで注文し、紅生姜を肉が隠れるほどいっぱいにまぶして、生卵をかけて、5分で胃袋に流し込むというスタイルを墨守しています。
この食材が入ることで、その料理が含むすべての素材をひとつの「方向」に連れ去り、この食材こそが、すべての食材の触媒であり、同時に料理全体を統合する「共同幻想」となり得るようなもの。
しかも、それ自体は単独ではほとんど食材としての主張をしない。
カレーはその最右翼というべきものでしょう。(インドの凄みだな)
まあ、とりあえず、カレーうどんなるもの、誰が発明したのかわかりませんが、いかにも食の文化の多様性と、味への執念が結集したみごとな食べ物じゃないかと思っています。
だから何なんだと言われると困ってしまうんだけどね。
さて、久しぶりに訪れたサンノゼは、20世紀後半の賑わいが嘘のようにひっそりとしており、どちらかといえばゴーストダウン化しているような気配でした。バブルの真っ最中でも、サンノゼはどちらかといえば辺境で、スタンフォードのあるパロアルトや、IT成金やVCの跋扈する隣町のメンロパーク、大手VCの巣窟サンドヒル、アップルの牙城クパチーノなどと比べると、ヒスパニックの多い下町の雰囲気を漂わせた街でした。
以前、ぼくの会社で働いていたNY帰りの青年吉田君とここに来たとき、彼が最初に足を踏み入れた場所がサンノゼで、英語学校に通いながらヒスパニックの家庭にホームステイしていたという話をしたので、じゃあそこを尋ねてみようかということになりました。吉田君は父親となじまず、自宅の庭にテントをはって生活するようなことをしていました。何でも、発狂するか、人をあやめるかといった精神状態だったらしいのです。
そんな自分をリセットするために、思い切って家出をしてサンノゼに流れ着いたとのことでした。10年振りなのでもうそこに住んでいないかもしれないけど、ということでしたが、まあ兎に角行ってみましょうかということになり、サンノゼのはずれの住宅地を記憶をたどりながら車をころがしていました。
そのうちだんだん昔の記憶が蘇ってきてついにその、家を探り当てたのです。それは閑静な住宅地コートの入り口にあり、外から見る限りでは、庭もよく手入れされている、アーリーアメリカン風の一軒家でした。道をはさんで、大きなオレンジの木があり、吉田君はよく、たわわに実ったオレンジをもいで食べたということでした。そのときも、ひとつだけでしたがオレンジの実がついていました。
ついでながら、このとき一人のビデオジャーナリストも同行していました。かれの名前は神田敏晶といい、KNNというたった一人のインターネット放送局を主宰し、どこにでも突撃取材する無礼で愉快な奴なのですが、先日テレビのニュースを見ていたら、セグウェイという面白い乗り物を日本にもってきて、原宿でキャンペーンをしていて警察に捕まり、書類送検されたということでした。
さて、吉田君が、おそるおそるドアをノックして、応答を待ったのですが、中からは何の反応もなく、メモを置いてぼくたちはモーテルに引き返しました。
その夜、モーテルに電話があり、吉田君は欣喜雀躍して家族を尋ね、久闊を叙したということでした。
その家族は今は18歳になる娘とその兄の二人のこどもがあり、娘はいまジェイルにいるとのこと。ドラッグで懲役をくらったそうです。親父さんは長距離トラックの運転手で、吉田君が最初に訪れたときに丁度ジェイルから出てきたところで、ウエルカムの印としてかれの被っていた野球帽をかぶせてくれたといいます。なんか映画の一場面のような光景ですが、これがどこにでもある、一般的なヒスパニックの家庭なんだそうです。
ママさんが言うには、「最近ではサンノゼも住みにくくなった。レントが高くなりすぎたし、気候も昔に比べると寒くなった。生活も楽ではない。だから、もうすこし南へ移ろうかと思っている」とのことでした。
そのとき、ああここはもともとヒスパニックが作った街なんだということをあらためて思い起こしたわけです。サンホセ、エルカミーノ、サンペドロ、クパチーノと、街や通りの名がスペイン語であることが今更ながら思い起こされました。南はサンディエゴから北はサンフランシスコまでカリフォルニアを南北に走る大通りエルカミーノ・レアルは、もともと入植してきたヒスパニックの伝道師たちがミッションといわれる伝道所を結ぶ道路として建設したとのことです。もちろん、それ以前にはインディオが集落をつくっており、スペイン人は彼らから見れば侵略者だったわけですね。そして、そのスペイン人たちが作った街も、合衆国との戦争によりアメリカに割譲されるわけです。
先住スペイン人も、メキシコから入ってきたヒスパニックも、あるいはゴールドラッシュに引き寄せられたアイルランド移民や東部のフロンティア、まあ山師ともいいますが、みなエルドラドを求めてこの地にやって来たというわけです。
150年を経て、この地がITゴールドラッシュとなり、インドや中国、韓国、日本からITフロンティア達を呼び寄せているというのも、歴史の皮肉かもしれません。
民衆史からアメリカを見ると、まさにこの地は多様な人種の闘争と棲み分けの舞台であり、包括的な価値観を当てはめることが不可能なほどの、多様性の培地であることが見て取れるわけです。
■ アメリカと多様性
なんだかとても長い前置きになってしまいましたが、
今回はアメリカの多様性について考えたいと思ったのです。
いつの間にか、大学論からアメリカ論に移ってしまいましたが、まあいいか、グローバリズムの問題がその根っこにあるという意味では、通底問題だからね。
グローバリズムというのは、一言で言ってしまえば「アメリカによるアメリカの否定」なのだと思うわけです。どうしてかといえば世界をアメリカ的な価値観で統一するということは、まさにアメリカが持っているもっとも魅力的なもの、つまりは多様性を自ら否定するということに他ならないと思うからです。アメリカという国の懐の深さは、ワシントン(政府)がなんと言おうと、自分の生き方のスタイルは変えないといったことが許されるということにあったと思うわけです。なぜなら、この国は自分たちが汗と涙で切り開いたという歴史が、遺伝子として引き継がれているからです。別な言い方をすれば、アメリカ人にとっての国家の原型は、国民国家なのではなく、まさにライフラインであるランドそのものなのではないかということです。
以前、アメリカで銃規制がうまくいかないのは、南部の開拓者たちが最終的にぶつかるのは国家政府であり、銃はそのときに国家を打倒するために保持しているという考えがあるというのを読んだことがありますが、まさにユナイテッドステートにとって国家はいつでも交換可能な虚構なわけです。
デビッド・ハルバースタムは、アメリカ現代史の白眉ともいえる「ベストアンドブライテスト」の中の冒頭、「娘への手紙」の中で、こんなことを書いています。
「だが、おじいさんは誰よりも厳しく、自分に忠実であれ、自分の信じることが何であれ正しいと信ずることについて臆してはならない、と教えてくれたのだということを私は思い出した。おじいさんは愛国者ではあったが、狂信的なところは何も無かった。「星条旗よ永遠なれ」の騒々しい音色が嫌いで、アメリカ国家には「美わしのアメリカ」のほうがふさわしいとも言っていた。」
アメリカの価値観も、倫理も、この開拓と開墾の歴史にどのように関わるべきかというところから生まれてきているように思えます。ジョンウェインもパパヘミングウェイも、ララミー牧場のロバートフラーもまさに開墾する人間として現われるわけです。
そして、開墾する人間をアイデンティティとしたひとつの仮構がアメリカのネーションステートを作っているわけで、人種(アングロサクソン)や宗教(プロテスタント)とかいうものをまとめて、ステートとするという考え方をとらなかったということなのだろうと思うわけです。
アメリカの魅力は、まさにアメリカの弱点である「歴史の浅さ」にあると言えるようにおもえるのです。
かれらは、白紙の上に地図を描くようにして、道をつくり、コミュニティを作り、街をつくり、文化を作り出した。それを成すためには、遅れて来たものであっても、自ら切り開いてきたものには、権利を与えるということが必要であったということなのかも知れません。アメリカのもっともアメリカらしさは、まさに未開を開墾するという建国のテーマそのものにある訳で、土地(ランド)と人との直接的な関係の中にあると言える様に思えます。
同時にアメリカの弱点もまたアメリカの魅力の中にあるのかもしれません。開墾の倫理の中では、まさにプラクティカルであることが最優先されるわけで、女性が解放されるためには「張り倒す女」になる他はなく、ウチダくんのいうように「ゲイ」や「じいや」の役割は、いわば周縁において置かれる宿命を最初から担っていたといえるのかもしれません。
そして、アメリカのこの価値観の中には、どこを探しても白人の優位性といったものを見つけることはできません。
そこで、アメリカの白人たちは、自分たちが主人公であるような物語を語り続ける必要があったのではないでしょうか。
蛇足ながら、50年生まれのぼくたちにとっては、アメリカは「ララミー牧場」や「ローハイド」といった埃と汗の匂いのする開拓地のイメージと、サンセット77のロサンゼルス、ベンケーシーのニューヨークといったクールな都会のイメージが交錯する巨大な憧れだったように思います。何かあるとすぐに取っ組み合いの喧嘩をする流れ者のジェフと牧場を守るスリムの牧歌的で、向日的な物語と、テカテカにポマードで光らせたオールバックをいつも櫛で梳かしながら、ホットロッドを転がすクーキーたちの都会の物語、難しい手術の合間にやたらにコーヒーを飲むベンケーシー医師と意味深長なオープニングの「誕生、死亡、無限」の記号がもたらした先進性など、あげてゆけば限がないのですが、ただ模倣するしか無いといった類の巨大な憧れだったように思います。
ここで、面白いのはアメリカンヒーローとして圧倒的な人気を得たのは、性善説に立ち、善意と伝統墨守の穏健な兄ではなく、弟の側、つまりジェフにせよ、クーキーにせよ、またエデンの東のキャルにせよ、問題児、秩序紊乱者の側にあったということです。メイフラファーの精神が底流していたかどうかはわかりませんが、アメリカという国を動かした原動力は、遅れて来たものの新しい価値観を認める寛容、そして自分たちで法を作ってゆくといった思考の直接性、垂直性のように思えます。そしてアメリカの大衆がこれを支持しているということが日本から見るとなんとも輝かしく見えたのだろうと思います。
まあ、以上はアメリカ雑感ですが、最近カリフォルニアに来るといつも感じることがあります。
それはここは、アメリカであって、アメリカじゃないな。 いや、これこそがアメリカなんだろうか。といったちょっとした困惑と逡巡です。
これが、何に由来するのかといえば、一にしてカリフォルニアには白人がいなくなってしまったということなのです。まあ、これはちょっと(かなり、かな)大げさですが、確かに少し前にロサンゼルスで、メジャーな人口が白人からヒスパニックに取って代わられたという記事を読んだことがあります。北カリフォルニア、特に高級住宅地とは言えないサンノゼなんかはもっと顕著で、町を歩いても、出会うのは中国、韓国、スペイン系、日系、インド系といったアジア、ラテン系ばかりで、アングロサクソンはレストランなどでも「少数派」って感じでひっそりとしています。
もちろん、これはぼくのようなビンボービジネスマンが歩き回る場所が限定されていること、つまりは皮相的な体験に過ぎないので、真相はよくわからないってことなんでしょうが、あまりにも多様な人種が入り混じったアメリカでは、もはや人種的なマジョリティとかマイノリティといった区別は意味を成さなくなっているということだけは、確からしく思えます。
そして、白人たちはこの現実にある種のあせりを感じ始めているのではないかということです。
明らかに昨今のアメリカを見ていると、多様性に対する不寛容、増殖する異教徒に対する不寛容が前景化しているように思えてなりません。
すでに述べてきたように、アメリカの基本的な価値観は徹底的なローカリズム、それぞれにまかせたよということじゃなかったのかと思います。習慣も、法律も、文化もローカルルールでいいよという、まさに多様性を認めるところにその真骨頂があったはずなのに、何でグローバリズムなんでしょうかね。白人たちのあせり以外にうまく説明ができないのです。
追い詰められているのはイラクではなく、まさにアングロアメリカンなのかも知れません。
だらだらと筆のままに書き連ねてしまいました。
とりあえずの、「アメリカ体感レポート」ということで、ご勘弁を。