(おまけ2・つづき)
もちろん、日本人の宗教性や宗教観を形成してきたのは、仏教や神道だけではありません。儒教や道教、そしてキリスト教も大きな要素です。
しかし、今回は仏教と神道という代表選手を手がかりにもう少しお話を続けます。
(3)聖俗の無境界性
日本宗教文化における特徴のひとつに「聖」と「俗」の境界があいまいだ、というのがあります。
本来、近代化とは「聖」と「俗」が分離されなければ成立しないはずです。つまり二項対立構造です。この図式が一番シンプルです。でも日本の宗教文化は「聖俗」が無境界的。
例えば、家にある仏壇や神棚。あれは一種のホーム・チャペルです。
教会という聖域が確立し、非日常空間の線引きがなされる。というのではなく、日常の中に非日常が混じっている。
だから、いわゆる「聖職者」だって日本風にアレンジされていきます。
アジア諸国の中で比較すると、日本人はきわめて「宗教教団」や「聖職者」に対して懐疑的です。ときには<笑う対象>でさえあります。
日本宗教文化の底力は、そこにあります。
「世俗の中を生き抜くほうがえらいんだぜ」という価値観(この場合の「えらい」は、「立派」という意味と、関西弁の「大変きつい」をかけています)。
さて、だからこそ、ここで再考したいのが「場の力」という日本的宗教性です。
(4)身体性の砦「宗教儀礼」
養老孟司氏は、現代社会は脳の産物であり、脳化社会とは欲望が是とされる社会。現代人は身体性を取り戻さねばならない、という警告を発しています。
もちろん「悩」は「身体」を完全にコントロールできません。免疫システムだって「脳」を裏切ります。嗜好品だって、不合理な身体性です。
そうしてみると、合理とは「脳の栄養」で、不合理は「心の栄養」かもしれませんね。
たまにネットなどで「自分は仏教は宗教ではなく哲学として捉えている」とかいう、つまらん意見をどうどうと載せている人がいるんですよ。
そりゃ単に自分が仏教を哲学的に理解しただけだろ、といいたいです。宗教研究者の中にも、頭で宗教をわかった気になっている人が結構多いように思えます。そんな人は決まって「宗教の儀礼性」を軽視しています。宗教を知識で仕入れて、消費財のように扱っているのです。
実は、私がそういうタイプなので、その間違いがよくわかるのです。お恥ずかしい…。
以前、私の講義を受講している女子学生のお父さんが急死したことがありました。
その学生さんは、一回生でした。たまに友人と数人で質問にきていたのですが、あるときぱったり出席しなくなりました。彼女の友人に聞いてみると、お父さんが事故で亡くなってからかなり精神的にまいっているとのことでした。
しばらく欠席が続いた後、その女子学生さんは再び講義に出席するようになりました。しかし、あきらかに情緒不安定な様子でした。やはり、相当なショックであったようです。
直接話す機会もないままでした。どんな言葉も彼女には届きそうもなかったので、私は知らず知らず避けていたのかもしれません。
かなり後に、話す機会がありました。そのときは少し立ち直っていたような印象でした。でもそのとき彼女が話してくれた内容は、今でもよく覚えています。
「まさか父がこの世からいなくなるなんて考えたこともありませんでした。父が死んだその日から世界が一変したようでした。喪失感にすべてを支配されてしまいました」
「どんな言葉も耳に入りませんでした。何を見ても無色のようでした」
「でも、少しだけ自分の身体の感触が戻るときもありました」
それはどんなときなのですか、と私は聞きました。彼女は、自分の家にくるお坊さんと一緒にお経を読んでいるときでした、と答えました。
よく話を聞いてみると、そのお坊さんが話す仏教のお話も耳には残らなかったし、どんな顔のお坊さんだったかも覚えていないそうです。
合理的に考えればまるで無意味であるような「宗教儀礼」が彼女の生きる力を呼び起こしたのです。きちんと体系化された理念や思想を、単なる儀式が凌駕することがあるんだ…、そう思うと私はかなりショックでした。宗教の底力を見せつけられた気がしました。
私がこの先、何十年かけて<宗教>について考えぬいても、念仏ひとつで吹き飛ばされるのじゃないか。そんな脅威を感じました。
そういえば、こんなことを話してくださった人もいました。
「あの枕経から、お通夜、葬儀、還骨、初七日、…と、続くやつはよくできてますな」とおっしゃるので。はあ、そうですかね、と答えたら。
「次から次へと夢中で儀式をこなすうちに、なんか悲しみがましになりましたよ」
と話されました。
ははあ、これがフロイトのいう「モーニング・ワーク(喪の仕事・悲しみの仕事)」かと納得した覚えがあります。
まさに、つまらん教説など足元にも及ばない、儀礼=身体性がもつ力じゃないでしょうか。
不合理な行為を行なうことによって<つながる>という力が生まれる、と思われます。共同体の構成員がつながる…。死者とつながる…。「つながり」という視点から、「家の宗教」による儀礼性も再考すべきかもしれません。
宗教の情報化・消費財化の傾向はますます進行していますが、頭で宗教をわかったような気になるのはやはりダメです。身体性、リアルな足場、が欠落しています。
(5)「軸をもたない宗教構造」と「場の力」
キリスト教やイスラムでは、宗教は進化すると最後に一神教(モノシイズム)にたどりつく、と考えます。様々な神仏を拝んでいるというのはまだまだ未開の国で、本当の宗教に目覚めていないのだ、と考えている人も少なくありません。
でも、今は世界の文化研究が進み、風土や民族によってそれぞれ形態が違った宗教が発達することがわかっています。日本の重層信仰(シンクレティズム)は、日本人の豊かな宗教性のあらわれであるということがいえます。
日本的宗教性の特徴は、「軸をもたない」ところにあります。
絶対的普遍的なものはなく、すべてのものは一時的現象だ、という宗教性です。たとえば、「場」を感じる力などは、このような宗教性のたまものではないでしょうか。その場の状況や雰囲気を読み取り、リアルタイムで対応する。これからの社会を生きていくために、大変重要な要素だと思います。各人がその場その場で働かせる融通無碍な知恵です。
これに対するのは、やはり唯一神教のような「絶対で普遍なる神」をもつ宗教性です。
「軸をもつ宗教性」と「軸をもたない宗教性」、さまざまな文化的相違があります。でもどちらが正しくどちらが間違いとか、どちらが優秀でどちらが劣等という価値基準は成立しません。
どちらも豊かな宗教性なのです。
ただ、近代において日本的な宗教性はあまり評価されてきませんでした。「場」の力などは、いわく「日本人はその場その場で対応するだけで、確固とした個人の理念がない」とか。いわく「西洋は個の論理で、日本は複数の人間が集まることで創り出される場の論理、だから集団主義で自立できない」。いわく「場の論理が支配する日本では、人間関係で他者に対する察しのよさが求められる」などなど(最近も、ある教員研修で「場の力」について話したら、えらく反発されました…)。
そうやって自己批判の結果、自我と自我の対決という構図を強調してきました。行き着いたところが、今の状況です。公共の場での迷惑行為を見て見ぬふりするのが「個」なんでしょうか?
宗教施設の場に足を踏み入れると、普段はそんなこと考えたこともないような荘厳なイメージに満たされる。あるいは、宗教儀礼の場に接すると何か圧倒されるような「つながり」のパワーを感じる。そんな経験をおもちの方は多いと思います。「場」には軸はありません。中空です。
もはや世界の距離がこれほど近くなった現代、<共生>の方向に向かわざるをえません。同一化ではなく、<共生(=異質のまま共存)>です。「場」なら多様性を共生できます。円卓なら、みんなが序列なしで座れるように、中空で座標軸がなければ排除はありません。「場」なら異質のままで同じテーブルにつけます。
「場」を感じる力を強くすることによって、「場の予見」ができるようになり、武道の「先の先」のようなストーリーを創出することができるんじゃないでしょうか。
それに、例えば、キリスト教みたいな強い自我とイスラームみたいな強い自我がばーんと互いに対峙したときなど、「場の力」に強いヤツのほうが逆にイニシアティブを取れるのではないかと思うのです。まあ、それには、「場の予見」によるストーリー創出ができるほど「場の力」を鍛えないとね。「場の力」とまったく反対の性質が、「根回しによる合意」です。こればっかりやってると、「場の力」が弱まるぞー。
アメリカが推進するグローバリゼーションの正体が、もし「統一規格」の押しつけであるなら、まだまだ自我の強いほうが勝つ時代が続くかもしれません。しかし、近いうちに必ず「場の理念」が必要なときがやってくると思います。