その16
釈徹宗先生から内田 樹へ(2004年3月12日)
思えば、この持仏堂通信の当初より、内田先生と私をつなぐ回路は「常識」にあったかもしれません(しみじみ)。
えっ、たいていの社会人はそうなんですか!? …(汗)。
い、いや、そういうんじゃなくて…。
内田先生は覚えておられるかどうかわかりませんが、初めて芦屋でお会いしたとき「カルト宗教」の話題になりました。そして「なぜあんな教団に入信するのか」ということが論点になったとき、先生は「常識の力が弱いからだ」といった内容の発言をなさいました。
現代思想がご専門の内田先生が、「常識」という、すっかり手垢がつき、「打ち破るべきもの」の対象とさえなりつつある概念を判断の根拠になさったことが少々意外でした。
今にして思えば私は、価値観は多様化してきているので大多数が共有できる「常識」といったものは姿を消しつつある、と思い込んでいたかもしれません。
でもよく考えてみれば、現代はなにも価値観が多様化しているのではなくたんに情報が膨大になっているじゃないか、と最近思いなおしております。現代人は何が価値であるのかわけがわからなくなっており、とにかくシンプルな何かにすがりつきたいという人が増えているのじゃないでしょうか。ゆえに今こそ、「常識」というあいまいなものを拠りどころとすべきなのかも。「常識」って、全然シンプルじゃないです。
「常識」を保持するのには、知性の更新・バランスチェック・自己点検・周囲の観察などなど、かなり多方向へのコストがかかりそうな気がします。
さて、内田先生の宗教への知見もいよいよ本調子。ものすごく面白いので、私としましては、こちらからはあまり新しい要素を出さず、内田言説を真宗に照らし合わせてみると…、という姿勢で「その16」を書こうと思います。
<宗教・倫理・常識>
「常識」とは知性と教養を足がかりに、部分ではなく全体を把握する直観能力に裏づけられた感性だと思います。ただ、この直観が偏見ではないかどうかをチェックするのが倫理というやつでしょう。つまり、「常識」がうまく機能しているときには、倫理は問題にならないはずです。
まわりを見わたせば、今の日本社会はまさに「貧すれば鈍す」状態。経済偏重の度が過ぎて、「経済的危機」即「生きざまの危機」のありさま…。
これからは、倫理性を成熟させて「貧すれども鈍せず」へ、宗教性を成熟させて「そんなところに人生の価値はないもんね」へ、という生きざまへの転換が必要に違いありません。
さて、世界では「宗教=常識」という文化が少なくありません。そこでは、宗教が違えば、「常識」も違ってしまいます。
しかし、複雑多様化した成熟社会や世俗社会では、そんな単純な図式にはなり得ません。世俗社会においては、宗教体系と日常生活のバランスを量るてんびんの役目を「常識」が果たすのかもしれません。
<枠内と枠外>
おっしゃる通り、「宗教的確信をもつことが倫理的なふるまいを妨げている」という状況はしばしば目にします。そういえば、オルポートが提出した有名な調査結果に、「熱心に教会へ通っている人ほど、人種差別意識が高い」というものがありました…。
これは先生がご指摘されたように、「枠内への態度」と「枠外への態度」を自覚する節度を欠くことが要因のひとつとなっているのでしょう。「枠外」に対しても、自分の確信をふりかざすような宗教では社会と共存できません。
その意味では、倫理的であることが「角のとれた制度宗教」の在りようであり、「宗教は倫理的である限りにおいて肯定される」ということでしょう。
>例えば、「あんた、そんなことしていると地獄に堕ちるよ」
「こうすれば来世では救いが得られます」
というようなことをじゃらじゃらと口にする「宗教者」や「信者」たちによく出会います。>
社会から見れば、プロ宗教者は盲腸のような存在です。あってもなくてもどちらでもいいけど、そういうおまけみたいなのがいろいろある社会のほうが豊か…、といったところでしょう。
それをどう勘違いするのか、自分の妄想を押しつけて平気な宗教者もいます。
さらに霊視とか除霊を脅迫の道具に使っているシャーマンに至っては…、許せないです。
だいたいシャーマンやるなら、もっと命を賭けてやってもらいたいです。世俗社会においては、シャーマニスティックな特殊能力は反社会的存在であり、一歩まちがえれば隔離病棟行き覚悟のたいへんなイバラ道です。シャーマンとして生きるということは、社会逸脱者のレッテルを貼られることさえいとわないほどの自己犠牲と利他への思いに支えられて初めて成立する苦難の選択でしょう。社会に受け入れてもらおうなんて思っているシャーマンなど言語道断。まして社会的に成功しようなどというやつは、サギ師です。
以前、「その14」で「宗教の最大の問題は信者と非信者の線引きをしてしまうところ」と書かせていただきましたが、内田先生に提起していただきました「枠外」と「枠内」の境界水位を下げてお互い共存できる手立てこそ「節度」と「常識」なんですね。よくわかりました。
<真宗の倫理観について>
宗教の正体が行動様式(エートス)であるとするならば、宗教を基盤として日常生活の形態や倫理観や常識が形成されていくと言えます。つまり、浄土真宗という理念に彩られた枠内では、当然真宗色の濃い倫理や常識が発達します。以下、そのような部分を概観してみました。
まず、親鸞さんは倫理に対してどのような態度だったのでしょうか。
『歎異抄』の第十三条にこんな話が載っています。あるとき、親鸞さんは、唯円さん(『歎異抄』の作者、といわれている)に「おまえ、千人もの人間を殺せるか?」と尋ねました。なにしろ大量破壊兵器がない時代ですから、とてつもない数です。「わたしの器量ではとてもできそうにありません」と唯円さんが答えると…。「うん、ワシもできそうにない。でも、それはワシもお前も善人だからしない、と思ったら大間違いなんじゃ」と親鸞さんが言います。
ここで親鸞は、殺さないのは自由意志に基づく行為の選択ではない、ということを述べています。柄谷行人氏は『歎異抄』の第三条や第十三条を取り上げて、「自由な意思でやっている一般に思っていることがそうではないということ。といってもそれは自由の否定ではない。その逆に、真に自由であれといっているのだ。つまり、自由などないと考えたとき、はじめて倫理的(自由)な行為が成立する」と言います。さらに、「普通なら、自分の意思だ、と片づけてしまうところをそうしない。不透明なままなんだけど、自問し続ける」というところに注目しています。
親鸞さんは、「自分の意思や努力で善き状態を保っているのではないぞ=決してこの状態はあたりまえじゃないんだ」ことの自覚を臨終まで持続させます。縁があれば、千人殺してしまう、殺していないのは自分が善人だからではない、このことの自覚こそ倫理の基盤だと思います。無限のイマジネーションはこのような方向性にこそ活用せねばなりません。
縁があればどのような悪にも手を染める、自分が善だから悪を回避できているのではない、ということでしょう。アイヒマン・テスト※の例をもちだすまでもなく、状況によっては背筋も凍る行為をなすのが私たちです。
ただ因や縁によって成立した行為だから、倫理的責任が私にないのではありません。柄谷氏が言うように、それは逆です。自らの業として引き受ける、つまり縁によって成立した行為だからこそ、自らが選択した行為であるという自覚がなければなりません。
このような「縁」と「自由意志」とのあいまいさ(緊張関係?)を、我々はなかなか意識できないで生活しております。
内田先生の「決然たるあいまいさ」とは言い得て妙、です。どちらの側にも落ちる可能性を抱えていることの自覚なしで倫理は成立しないでしょう。まさに「その15」で述べられる「自身の無知と被投性の自覚」こそが宗教の始点であり宗教的覚知であるに違いありません。
※ S.ミルグラムによる実験。質問に間違って答えると、電気ショックの罰を与える役と与えられる役に分けます(罰を与えられる人はサクラ)。電気ショックは最初は15ボルトとわずかであるが、回答者が間違えつづけるとどんどん高くなり、最大450ボルトまで電気を上げることができるわけです。さて、被験者はいったいどこまで電気ショックを与え続けるのでしょうか。
実験を始める前は、おそらくほとんどの被験者が、苦痛の様子(サクラの演技)を目の当たりにして、すぐに行為を中止するだろうと思われていました。しかし、実験を始めると当初の予測とはまったく異なる結果となりました。驚くべきことに、すべての人が300ボルトを越える電気ショックを与え、40人のうち、26人は最大の450ボルトまで電圧を高めたのです。
<真宗的倫理の特性を見る>
浄土真宗といえば、「悪は妨げにはならない」という部分が有名なので、しばしば独自の倫理観が強調されがちです。そこで、ここでは「社会性を保持しつつ宗教性を発揮」している部分をご紹介します。
1.恩
例えば、門徒(伝統的真宗信徒のことです)の伝統的な言葉使いに「…させていただく」というものがあります。「念仏を称える」じゃなくて、「お念仏を称えさせていただく」。「年季を勤める」じゃなくて、「お年忌を勤めさせていただく」。かなりもってまわった言い方をするわけです。これは、自分の力でものごとが進んでいくのではない、という態度の表現です。真宗王国のひとつである滋賀県などは、このような言葉使いが方言として定着しているくらいです。
そして、このような態度は「恩」の意識を発達させてきました。これは真宗を基盤にした倫理観の特徴だと思います。
社会学者の見田宗介氏は日本の精神構造の基底には、「原罪」ならぬ「原恩」がある、と言いました。R.N.ベラーによれば、日本宗教文化の場合「超越的存在の実感は恩の理論を生み出す」ということです。
真宗には、念仏は報恩感謝の営みである、という概念があります。自分の修行や善根功徳ではない、なにも祈らず願わず、自己の欲望を投影せず、ただ喜びと感謝の思いが口からこぼれる…、それが他力の念仏です。
2.雑毒の善
親鸞は「私たちが行う善は、毒が混じっている善なんだ」と言います。いくら頭についた火を必死になって払い消すがごとく懸命に努め励んでも、決してすべて煩悩から離れることはない。いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。
きっと、行為の善悪を徹底してつきつめれば、まともな善など一つもできない自分が知らされにちがいありません(想像…)。真宗では善人に対して、「その善には毒が混じっていますからご注意ご注意」ってなことを言うわけです。
親鸞さんの人間観がよくわかる例を挙げてみましょう。「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」という善導の文章があります。意味は「外面を善く見せといて内面に虚仮を持っちゃいけない(内も外も善でありなさい)」です。
この文章を親鸞さんは自著に引用するのですが、「外に賢善精進の相を現ずることなかれ、内に虚仮を懐けばなり」と勝手な読み方をしているんです。これじゃ、「外面に賢く善人らしくふるまうのはやめなさい。内にはは、うそ、むさぼり、いかり、よこしまな思いが絶えず起こって、それを断ち切ることができない身なのだから(どんなに外面を作っていても内面にはいつも虚仮を懐き、矛盾を抱えている)」という意になっちゃいますよね。
親鸞さんは、しばしばこのように経・論の読み換えをする人です。ですから、中には「漢文をちゃんと読めなかったんじゃないか」という説まであります。もちろん、親鸞さんが恣意的に改読していることは明白です(詳しくは拙著『親鸞の思想構造』ご覧下さい、えへへ)。
親鸞という人は、ここで取り上げたような自己内省的読み換えを非常に多く行っています。
さらに親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せず候(善も悪もわしにはわからん)」とも言います。やはり内田先生がおっしゃるように、善悪とは決して原理になり得ないんですね。他力の真髄は「義なきを義とする」と語られます。「義」とは「はからい」のことです。
内田言説によって、なにやら、かつて真宗が庶民の倫理となりえた理由がわかったような気がしてきました。
3.行動的禁欲
蓮如さんの手紙に、
「まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただ商いをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ」
というのがあります。
私、結構好きな「御文章(=蓮如の手紙。「お文」ともいいます)」のひとつです。
意味は「真宗の信心は、なにも日々悪を廃し善を行え、というのではない。ただ商売もし、奉公もせよ、漁師、猟師も仕事せよ(当時、いやしい仕事とされていたんですね)」といった感じです。このような、自分の業を行う中に救済が成立するんだと言います。
ほんと、プロテスタンティズムの「行動的禁欲」に似てますよねぇ。あ、真宗のほうが先に成立しているので、あちらが似ているのか(笑)。
4.節度
「節度」といえば、親鸞さんの手紙には「悪を好んで行う人からは遠ざかれ」とか、「もともと酔っているのに、さらに酒を飲むな(もともと悪を抱えた存在なのに、さらに悪に近づいてはならない)」とか、たしなみ的倫理観を表現している言葉もあります。
また、よく「厭離穢土・欣求浄土」という言葉から、浄土仏教のことを来世中心のニヒリズムだと非難する人がいますが、親鸞さんの手紙にはこういう言葉もあります。
「この世のわろきをすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ念仏申すことにては候へ」
悪いことやあさましい行いをしないことが、「世を厭うしるし」だと考えるのですね。悪しきニヒリズムとはやはり違うようです。
5.枠内と枠外のダブルスタンダード
蓮如さんは、内田先生がおっしゃるダブルスタンダードを強調した人でした。「信心は内に確立しておいて、外には社会性を大切にしろ」とか、「仏法を主人とし、世間を客とせよ」なんてことを言ってます※。
それに蓮如さんは、世間の人に「仏教者」とか「真宗者」とかあからさまにわかる態度はだめだ、などと言っております。中には、風変わりな言い方をしているものもあって、「たとえ牛盗人と呼ばれることがあっても、あれは善人じゃ、あれは熱心な仏教者じゃ、などと呼ばれることがあってはいけない」などとも書いておられます。
なんという変わったことを言うのでしょうか。善人よばわりや仏教者よばわりされるより、牛どろぼうと呼ばれるほうがマシ…。笑っちゃうなぁ。
こうしてみると、やはり「常識」や「節度」を手がかりにすることによって、「枠内」と「枠外」の境界は低くなりそうですね。
それでは失礼いたします。
※真宗のように、軸がはっきりしている宗教体系は、どうしても世俗と厳しく対峙する傾向が強くなりがちです。みなさんご存知のように、かつて「一向宗」と呼ばれ、当時の社会制度と衝突したこともその一例です。また、近代になっても、社会主義思想などの影響で、そのような反体制的態度が高く評価されたりもしました。
教団運営サイドとしては、社会制度の中で存続していきたいものですから、このような先鋭的な傾向は抑制しようとします。