インターネット持仏堂
その15
2004年2月28日
内田樹から釈先生へ
■ 宗教と倫理
宗教と倫理というのは、なかなか一筋縄ではゆかない、ねじれた関係にあるみたいだな、と私は思っています。でも、その「ねじれ」をほぐしてくれるようなすっきりした説明に出会うことはめったにありません。
というわけで、今回は「宗教と倫理」の関係について、もう少し踏み込んだ考察をしてみたいと思います。
話、長くなりますけれど、覚悟してくださいね。
「宗教が倫理を基礎づける」という言い方は、それはそれで間違いではないのですけれど、通俗的な宗教者の中にはむしろ「宗教的確信をもつことが倫理的なふるまいを妨げている」ケースが散見(どころじゃないな)されます。
例えば、「あんた、そんなことしていると地獄に堕ちるよ」
「こうすれば来世では救いが得られます」
というようなことをじゃらじゃらと口にする「宗教者」や「信者」たちによく出会います。
「地獄」や「来世」について「見てきたようなこと」を言えるということは、「人間世界の外部」にアクセスした、ということです。
すごいですね。
でも、「人間的な限界の中にあっては、計り知れないこと」に「触れた」という経験は、(仮にどれほどその霊的経験がどれほどリアルなものであったにしても)、それだけでは倫理を基礎づけることはできません(これについては、もう少しあとに説明します。とりあえず話を先に進めさせてください)。
私の理解する「宗教的覚知」というのは、むしろその反対のもの、「徹底的な節度」のことです。
私は前に「世界の成り立ちに遅れて到着した感覚」のことを「宗教性」の根源にある体験だろうと書きました。
私は人間たちの世界の内部に閉じ込められていて、なぜこのような世界があり、人間はそこで何をなすことを定められているのかを知りません。このおのれ自身の無知と被投性の自覚こそが宗教の始点であると私は考えています。
でも、みずからの無知と被投性の自覚だけを言い立てていても、倫理は起動しません。
だって、そうですよね。
「何も知らない」人間がいちばん先に飛びつくのはニヒリズムですから。
「要するに、俺たちは自分たちの起源も宿命も、どこから来たのか、どこに行くのか、何も分かってないんだよ。どんなふうに生きたって、それが正しかったか間違っていたか、誰にも判定できないなら、おもしろおかしく好き勝手にやらせてもらうぜ」というイワン・カラマーゾフ的な道徳的アナーキズムまであと一歩しかありません。
これも困ります。
「私は神さまに会った」という人間は倫理には制約されませんし、「神さまなんかどこにもいない」という人間もまた倫理には制約されません。
では、倫理の立場はどうなるのか?
「狂信者」の非倫理性と「ニヒリスト」の非倫理性の「中間」に、人間の倫理性の境位はあり、そこにしか存立しえない、と私は考えています。
つまり「私は神の意志を知らないけれど、なんとなく知っている」。人間は何をなすべきで、何をなしてはいけないか、根拠は「ないようだけど、ありそう」という決然たるあいまいさこそが倫理の居住可能なエリアではないかと思うのです。
ややこしい話ですみませんが、このあと話はますますややこしくなります。
■ 常識と原理
「倫理」(ethics)とは、誤解を恐れずに一言で言えば(誤解されるだろうなあ・・・)「常識」(common sense)のことだと私は思っています。
「常識」あるいは「コモンセンス」というのは、実定的なものであるようで、実は実体のないものです。
だって、そうでしょう。
「そんなの常識だよ」と言う人間に向かって、「君はどうしてそれが『常識』であると断言できるのか、その根拠を示せ」というと、必ず相手は絶句しますから。
「だ、だって、『常識』なんだもん・・・」
としか答えられません。
この「だって、『常識なんだもん』」という同語反復以外に答える術を知らないというところに「常識の徳」はあります。
それは「常識」は絶対に「原理」になれないということです。
言い換えれば、「常識主義」というものはありえないということです。
「普遍的常識」とか「原理的常識」とか「狂信的常識」とか「詩的常識」いうような表現は、ご覧の通り、すべてが形容矛盾です。というのは、「常識」というのはその定義からして「地域限定」「期間限定」のものであり、通常、散文的で退屈な語法でしか語られないものだからです。
玩具を欲しがる子どもがよく「友だちみんな持ってるもん」というような理由づけをしますね。そのときに
「『みんな』って誰のこと?」と訊くと、
「隣のなっちゃんと・・・なっちゃんと・・・・なっちゃんと・・・」と子どもさんはぐっと詰まってしまいます。
「常識」の「詰まり方」もそれと同型的です。
「あなたの言うことのどこが『常識』なのか。百年前もそうだったのか、百年後もそうなのか、ベドウィン族もそうなのか、ナンビクラワ族もそうなのか」と畳み込まれると「ぐっと詰まってしまう」というのが「常識」の「常識」たる所以です。
誰でもが「常識」に対しては、その汎通性、普遍性を反証することができます。
これをして「だから常識はダメなんだ」というのは短見というものです。というのは、まさにこの点こそが「常識」が「倫理」の基礎づけとなりうる特権的な条件のように私には思われるからです。
「常識」は「常識」を「常識」として共有できる人間集団以外にはいかなる外部的・上位的な基礎づけを持ちません。
「常識」は逆立ちしても「原理」になりえなません。
このあからさまな限定性こそ、「常識」が「倫理」たりうる理由なのです。
「倫理」というのは、「原理」の対極にある概念です。
「倫」というのはもともと「共同体」という意味です。ヨーロッパの言語のethics, 師hique, Ethikはいずれも「慣習」を意味するギリシャ語に由来しています。
「共同体」も「慣習」も、定義上「地域限定」「期間限定」のものです。そこでだけ通じる言語、そこでだけ使える通貨、そこでだけ祝される祭儀、そこでだけ恐れられる鬼神・・のようなものは成員のあいだでのみ共有され、その集団成員以外には共有されません。
つまり、「倫理」は「どの共同体も固有のルールを持っているが、そのルールを他の共同体に汎通的に適用することはできない」という事況そのものを指しているということです。
つまり、「私にとっての『当たり前』はあなたにとっての『当たり前』ではない」ということです。
ただし、この言明だけでは、ただのバケツの底の抜けたアノミーに(イワン・カラマーゾフ的な道徳的アナーキズム)にしか至り着きません。どうしても、そこにもう一つ条件を書き加える必要があります。
「あらゆる集団がそれぞれの『当たり前』を持つのは、『当たり前』のことである。」
これで「当たり前」の次数が一つ繰り上がることになります。
「常識」という概念の取り柄は、「どの社会集団もその『常識』を他の集団と共有することはできないが、『常識』を持たない社会集団は存在しないという『常識』は、どの社会集団とも共有することができる」というところにあります。
カール・ポパーはかつて「科学性」の定義を「反証可能性」に求めました。これはまことに卓見です。
その論法を借りるならば、「常識」の本義はそれが「ところかわれば非常識」であるという「自己否定」の条件をはじめから組み込まれている点にあります。
「倫理」についても「常識」と同じことが言えます。
ある集団の成員たちが信じている「倫理」的コードがあります。そのコードの倫理性を担保しているのは、そのコードが「あらゆる社会集団において汎通的に妥当すること」ではありません(現に妥当しません)。そうではなくて、「自分たちの倫理コードがあらゆる社会集団に妥当するわけではないということを知っている」という「被限定性」の覚知です。
そうですよね。
同じ倫理コードを共有している人間同士のあいだでは、その共有コードに照らしてその人の言動の正邪理非を論じることが倫理的なふるまいです。
「そんなことしちゃダメだよ。そういう決まりなんだから」
と叱られると
「あ、ごめんなさい。もうしません」
とへこへこ謝るというのが「倫理的対話」の基本形その1です。
けれども同一の倫理コードを共有しない人間が相手のときは、おのれのコードを無限定的に適用して、相手の言動の正邪理非を論じないことが今度は「倫理的な」ふるまいであることになります。
例えば、かつてヨーロッパの帝国主義国家はアジア、アフリカの土地にやってきて、ヨーロッパ人が崇高と信じる宗教を押しつけて土着の信教を破壊し、彼らが理性的と信じる政治体制を押しつけて土着の社会制度を破壊し、彼らが快適と信じるライフスタイルを押しつけて土着のライフスタイルを破壊しました。これは「倫理的」なふるまいとは言われません。
「常識」と「常識」が排他的に競合する場面では、「おのれの常識の汎通性を過大評価しない」という節度が「倫理的」と評価されます。
「きみんとこは、ずいぶん変わったものを食べるね。何かね、この腐った豆は?これが人間の食い物かね」
「てやんでえ、こちとら毎朝納豆くわねえといちんちが始まらねんだい。おきやがれ、べらぼうめ」
というような場合は
「ま、好きにして。勝手に腐った豆食べて、腹下しなさい」
と応じるのが「倫理的対話」の基本的その2となります。
つまり、「倫理」というのは本質的にダブル・スタンダードなのです。
「身内」に対しては強制的に、「他者」に対しては宥和的に機能するという、宿命的な「あいまいさ」が「倫理」の身上なのです。
「倫理」はそのようなしかたで本質的に「非原理的」「反原理的」なものです。その「節度」の感覚が「倫理」の生命線です。私はそういうふうに思います。
ですから、宗教であれ政治思想であれ社会理論であれ、「すべての人間はすべからく・・・しなければならない」という言明を述べている場合、私はそれを「原理主義」すなわち「節度を知らない理説」「非倫理的な思考」に区分します。それは、その理説が有効であるかどうか、論理的に整合的であるかとどうかという判定にはかかわりません。ただ、「倫理的でない」あるいは「常識に悖る」というだけのことです。
「正しいけれど、倫理的でないこと」「整合的だけれど、常識的でないこと」という理説は現に存在します。
その場合、どちの判断枠組みに軸足を置いて、その理説の当否や価値を判定するのか、という決断は最終的には、ひとりひとりの実存的な決断に委ねるしかないことだと私は思います。
■ アブラハムの「常識」
『創世記』のイサクの燔祭というのは、多様な解釈可能性に開かれていると思いますが、今日はひとつこれを「常識を基礎づけたもの」と解釈してみたい気がします。
釈先生は「倫理の範囲を逸脱している」と書かれていますけれど、実は「倫理の範囲を逸脱すること」を通じて「倫理の範囲を画定した」という読みも可能ではないのでしょうか?
物語をもう一度振り返ってみます。
主は「なんじのひとり子イサクを燔祭に捧げよ」と命じます。当然ながら、これはアブラハムの中に身体化している倫理規範には反しています。けれども主はその倫理規範を踏み越えなさいと命じてきます。
ここでアブラハムが覚知することは何でしょう。
それは「私が正邪理非の基準としている倫理規範には、汎通性はないらしい」ということです。
なにしろ、世界を創造した神さまが、それを踏みにじれといっているわけですから。
「ああ、私が奉じているこの倫理規範は『人間が作った暫定的制度』にすぎないのだ」
ということをアブラハムは思い知ります。
「もしかすると、父親が子どもに愛情を感じるというのも、実はごくごく限定的な社会集団に固有のエートスなのかもしれない」
という『親族の基本構造』におけるレヴィ=ストロースの知見を先取りしたかも知れません。
そして、どう考えても納得できない主の命令にしぶしぶ(聖書には「しぶしぶ」なんて書いてませんけれど、たぶん)従う決意をします。
その結果、何が起こるでしょうか。
「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』
御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」
そして、主の御使いは、さらに「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聴き従ったからである。」とイサクの血脈の子々孫々に至る繁栄をさえ約します。
主はアブラハムをいったん「常識」の外側へ連れ出し、彼が「私の『常識』には『外側』がある」という覚知に至ったのを見届けた後に、アブラハムを「常識」の内側にそっと押し戻すのです。
もしこのエピソードが、「アブラハムはそのままイサクを殺して、犠牲に捧げた。すると、主はアブラハムの信仰を義とされた」というふうに終わったら、どうなるでしょう。
たぶん古代ユダヤ人だって、「そんなことを信者にさせる神さまは、ちょっと勘弁・・・」ということになって、ぞろぞろとエホバに背を向けたのではないでしょうか。
では、逆に「アブラハムは主の命令に敢然と背いて、イサクを連れて逃げ出した」というふうに話が終わったらどうなったでしょう。『創世記』はそこで「おしまい」ですね。もうその先を続けようがありません。
ということは、この物語はこういうふうに展開する以外にありえないということになります。
このストーリーラインでなければ、「あなたの常識には外側がある」という被造物としての宗教的覚知と、「あなたはあなたの『常識』を守って、あなたに与えられたスキームの中で、『正しく』生きなさい」という倫理的命令を「同時に」アブラハムに理解させることはできないからです。
■ オカルトと倫理
釈先生と同じく私も「オカルト」には節度が必要だと考えています。オカルトが、私たちのものの考え方が固定化するのを解きほぐし、思考や感性の「しばり」をゆるめる効果(私はそれを「学術性」だと思っています)が期待できるとき、私は「オカルト大好き人間」です。
けれど、オカルトが「原理」になることについては(あらゆる「原理主義」に対してと同じく)きっぱり「ノー」です。
「おお、ホレーショよ、この世には哲学の及びもつかぬことがあるわい」という内省は生産的なものですし、あらゆる科学的発見はこの嘆息から始まります。
けれども、「哲学の及びもつかぬところ」に「尊師のお導き」で到達したので、私は「この世」を解脱したとして、自己肯定してしまうことは何も生み出しません。
このあいだヨガの成瀬雅春師と私の合気道の師匠である多田宏先生の対談というまことにコアなイベントがありました。
その中で、インドのヨギの中には「過去五十年間、飲まず食わず」の行者がいるという話をきかせてくれました。
聴衆は「爆笑」していましたが、私は妙に納得してしまって、その後、多田先生に「そういうことって、ありますかね」と伺うと、「そりゃ、あるだろ」と事もなげに答えられました。「霞を食って生きる」という言葉があるくらいなんだから。
なるほど。
人間は皮膚の汗腺から水蒸気を出して体温調整しているわけだから、皮膚経由で「水分が出入りする」ということは原理的には可能です。空気中の水分にはいろいろな金属イオンなんかが含まれているわけだし、現に、すごく環境のよいところにゆくと、自分が「栄養分のありそうな大気」に包まれていると感じることがあります。逆に、東京の町中なんか歩いていると、「この空気にはぜんぜん栄養がないなあ」と感じることがあります。
だから、仮に空気中の水分やミネラルが高濃度であるような場と、そうでない場で、人間が「飢餓感か喉の渇き」を感じ始めるまでの時間に統計的に有意な差が検出できたとしたら、「霞を食って生きる」という表現にはわずかなりとはいえども「科学的」な裏づけがとれたことになります。
「おお、これは面白い」というので、「霞を食う」能力が高い個体には、どんな生理学的・解剖学的特徴があるのか・・というふうに話が進むと、これは立派な「学問」になります。
つまりはそういうことだと思うのです。
人間については、いろいろなことが「できる」と言われています。その中には実験的に反証されたこともありますし、反証もされていないこともあります。
人間が空をぶのも、遠方と話ができるのも、過去の風景を再現するのも、すべて「人間にはできない」と言われていたことでしたけれど、飛行機や電話や写真の発明で可能になりました。飛行機は鳥の飛翔の工学的解析から、電話は磁石の性質から、写真は感光性の物質の発見から、つまりすべて「自然界に存在するもの」のある種の性質を人間の世界に拡大してみたことで実現したものです。
ある種のダニは飲まず食わずで眠ったまま数年間過ごし、自分のいる木の下を温血動物が通ると、その瞬間に目を覚まして落下し、その皮膚に食いつきます。そういう生物が現に自然界に存在する以上、同種の潜在能力の片鱗が同じ生物である人間の中に残存しているかもしれない、と類推するのは「オカルト」もうではなく、とりあえず「マッド・サイエンス」です。
そして、あらゆる科学上の発見が数千の「マッド・サイエンティスト」の中のひとりの「ほんもののサイエンティスト」によって果たされたことを科学史が教えてくれる以上、「マッド・サイエンス」侮りがたしである、と私は思います。
問題は、「トンデモ」説の「内容」ではなく、その内容を検証してゆくときの「手続き」にかかわることだと思います。
そして、学術の世界で「手続き」がやかましくいわれるのは、それが「倫理的」な「しばり」だからです。
驚嘆すべき発見について、「だって、私は見たんだもん」というようなことをいくら言い募っても、その経験にどれほどリアリティを感じていても、それだけでは科学にはなりません。そのことは前にも書きました。
経験が科学になるというのは、「個人的体験」が「公共性を獲得する」ということです。「誰にでも理解でき、誰にでも受容でき、誰にでも反証できるコミュニケーションの水準に載せられる」ということです。
つまり学術性というのは「私の経験や、私がそこから演繹した仮説を、あなたは反論する権利がある」という他者に対する「ディセンシー」の表明に他なりません。
倫理と科学というのは、ずいぶん無縁のもののように思われていますけれど、実は「科学性」とは「倫理性」、つまり「おのれの経験や推論の客観性を過大評価しない節度」の別名に他ならない、と私は考えています。
「オカルト」と「科学」を切り分ける境界線があるとすれば、私は「倫理性」ということに尽きると思います。そして、それは「オカルト」と「宗教」を切り分ける境界線と本質的には変わらないだろうとも思うのです。
信仰と生活についてもまだ書きたいことがありますけれど、なんだかやたら長くなりましたので、このへんでいったん筆を擱くことにします。