インターネット持仏堂 その14
2004年2月17日
釈徹宗先生から内田樹へ
宗教という体系における最大の難点は、「信者」と「不信者」とに二分してしまうところにあると思います。どのような宗教セクトも、その線引きから逃れることはできません。ゆえに、宗教と宗教の対話、宗教と非宗教の対話を成立させるのは、「倫理」というフィールドが不可欠でしょう。「倫理」は宗教者と非宗教者のプロトコールでもあります。
内田先生が示してくださった「そういうことってあるかもね。でもそれでキミは…」という態度こそ、現在の混迷する宗教事情を解きほぐす回路かもしれません。
養老孟司氏は、オウム真理教(当時)に入信した教え子が「尊師が水の中に1時間沈む実験をやるので、立会人になってください」と頼んできたことによって、「バカの壁」を発見(?!)したそうです。
人間は酸素を断たれたら5分間で脳に重大な損傷を受けるという事は、医学生であれば常識のはず。ところが、その学生は本気で言っているので、養老先生のほうは驚愕。
「話あえばわかる」ってのはウソだと実感されたらしいです。
確かに「バカの壁」による思考停止は、脳の機能から考えて間違いなさそうな気はします。話せばわかる、というのも幻想でしょう。でも、あえて、そこで内田先生のような手続きをとった場合、相手はまた別の回路が開いたかもしれないと思うわけです。
―宗教と倫理―
最近の宗教研究において、倫理を再考察する傾向が生まれてきております。かつては、「宗教と倫理は別のものである」という側面が強調されていました。確かに、内田先生もお示しになった「イサク奉献」などは、倫理の範囲を逸脱しております。
そして、キェルケゴールは(確かM.ブーバーも)この「イサク奉献」こそ宗教の本質だと語っています。倫理は実践可能な領域を超えることはありませんが、宗教はかなり不条理な態度が求められることもあります。ときには反社会的行為に及ぶことまであるわけです。それに対して、社会は常に倫理的問いを宗教に発し続けます。それは、社会の責務だと思います※1。なにしろ、宗教と社会の価値観は一致しませんから。
これまで、どうも宗教サイドは、倫理と一線を引こう引こうとしたがる傾向があったように思われます。特にオイルショック以降は、「脱日常」や「非日常」といった部分がクローズアップされてきました。
私たちは社会でしか生きられません。でも社会だけが相手だと、生きていくことはかなりしんどいです。ときに、ちょっと反社会的なことをしてみたいとか、非日常を味わってみたいとか、という思いはどこかに抱えて暮らしています。ハメをはずして、失敗した人を見て「バカなやつ」と言いながら、ちょっとわかる気がする…、とか。
身の回りに社会内の価値観だけしかなければ、かなりつらいことになります。よく学校や家庭以外の世界をもたないから子供が社会から逸脱する、などと言われてますよね。
確かに価値観は多元的なほうが生きやすいし、生きる力そのものが強くなるでしょう。一面的な価値観の中で生きることの閉塞感は、みなさんも感じたことがおありだと思います。このような閉塞感から一度抜け出したい、他者とつながりたい、自己肯定して欲しい、何かに依存したい、などなど。
昔から、人は「祭り」や「隔離」などで反社会や非日常に往ったり来たりしていました。ですから、「科学教育がしっかりしていないから、オカルトがはやる」のではありません※2。科学とオカルトは表裏一体です。人は、科学的になればなるほどオカルトに惹かれるはずです。オカルトや占いなどは、またすぐ日常の合理性に引き返せる程度の不合理です。不合理なものによるガス抜きってところでしょうか。文化やエンターテインメントとして楽しむのがちょうど良い程度の、ちゃちな非日常・反社会です。どうせなら、「日常を生きる力」となるくらいの、もっとすごい非日常体系を知りたくありませんか、仏教にはそれがありますぜ、と言いたいです。
※1 社会学的にみれば、宗教と社会とは同じ構造です。どちらも共同幻想で成り立っており、その幻想を共有することによって構成員として受け入れられます。ですから双方がうまく牽制しあう関係が望ましいわけです。
※2 早稲田大学の大槻教授(この方は、大槻「教授」という芸名なのでしょうか。デビ「夫人」みたいに…)などは、よく「おかしな宗教を駆逐するには、科学的合理的判断を養わねばならない」とか、「科学教育を強化しろ」とかおっしゃってますが。その科学的合理的判断で解決しない問題に関わって苦しんでいるのに、そんなこといってどうなるのでしょうか。かなり的外れのような気がします。
―傲慢とおまかせ―
アメリカのニューエイジ・ムーブメントや、日本の精神世界ブームに代表されるようなウェーブ。また、超能力・占い・霊といったアイテムを駆使する宗教ブーム。これらは、現在もなお続いているようです。それは、「肥大した自我のもっていきどころ」という気がします。肥大するだけ肥大した傲慢な自我は、行き場所をなくし、不可解な現象を操作しようとすることによって着地点をつくりだそうとしているかのようです※1。
だいたい、コップを宙に浮かべたり、水中に1時間沈んだり、空中に止まったりすることが、「不思議」であることは我が家のおトンボ(小学1年生)でも思うことです。そんなの不思議に決まっているじゃないですか。そんなことよりももっと前提にある、目の前にコップがあることの不思議、自分がここに立っていることの不思議に思いをはせることはないのでしょうか。
今、ここで、誰もが実行可能であるべきことをせず、(少なくとも常人では)できもしないことをしようとする。それは自我肥大による傲慢以外なにものでもないでしょう。できることを為し、できないことは「おまかせ」していく態度とは対極にある姿勢です。それは、おまかせすることに目をそらし、非日常を利用(あるいはコントロール)して日常を軽視する態度なのです。
少なくとも、ある現象に対してどれほどの縁が内在されているかということに思いをいたし、喜び、コウベを垂れる姿勢がなくては、宗教の反社会的側面ばかりが拡大することになってしまいます。
内田先生がご指摘のとおり、宗教における最大の機能は人間中心主義を相対化するところにあります。ですから、なにか特別な力を身につけ、世間を睥睨し運命を操作するような人間になるために宗教はあるのではありません。公案の「趙州洗鉢」※2が示すように、今、この瞬間、自分は何をなすべきか。そこにしか仏教はありません。
というわけで、仏教の信心でどういういいことがあるのか、と聞かれても、「えー(汗)、別に何もありません…」としか答えられません。せいぜい「自分という人間がどんなやつかわかります…」と言える程度。
信心がある「から」、どんな功徳がいただけるのか。ではなく、「信心」そのものが功徳ということです。
幕末の剣豪・山岡鉄舟の友人が、「オレは毎日、あそこにある祠の前で立ち小便をしている。でも一度もバチなどあたったことがない。神仏などそんなものさ」と言ったそうです。それに対して鉄舟は、「ばかもん!もうすでにバチがあたっておるではないか。畜生のように立ち小便をしてしまっていることこそがお前に科せられたバチだ」とたしなめたそうです。鉄舟は禅を通して仏教の精神を学んでいました。彼は、「マジメにできること」そのものが功徳だと考えていたわけです。
※1 奇跡は宗教の重要な要素のひとつですが、本質ではありません。超常現象など、宗教なしでも起こります。宗教はその人の在り方そのもの、存在自身に関わります。「宗教は心の拠り所」などといった刺身のツマ程度の考えていると、ときに足元をすくわれます。
※2 趙州という有名な禅僧は、ある僧に「仏教とは何かを教えてくれ」と頼まれ、「よし。それじゃ、キミが今食べたごはんのお椀を洗いなさい」と答えます。この言葉でこの僧は悟りを開きます。
―仏から逃げ続ける―
宗教を信仰したからといって善人になれるわけではありません。かつて、私が非常に尊敬していた近所のおばあさんがおられました。篤い信心に生きた人で、かなりの高齢でしたが、合掌されている姿が私には菩薩のように見えました。往生されたあと、お孫さんに聞いた話なのですが、このおばあさんは何度も宗教心など捨てようと思われたそうです。その理由は、「聞けば聞くほど、自分自身が苦しくなっていくから」だったということです。そしてそのおばあさんは、「逃げても逃げても仏さんに追いかけられるんや」と笑って話していたと聞きました。
仏教では、仏に救われることを「仏の慈悲に摂取される」と表現します。親鸞さんも「摂取」という用語は、しばしば使っています。そして彼は「摂」の字の横に「もののにぐるをおわえとるなり」とカナで書き込んでいます。「仏とは逃げていくものを追いかけて後ろからとっつかまえるんだ」、という思いから書かれたものなのでしょう。
悪人正因は、「悪人を救うための願いを聞いて、まさに私は悪人であったと知らされる」という目覚めにほかなりません。
―宿題―
内田先生が「どういう意味なんでしょう」とお尋ねの部分は、『歎異抄』の第九条に出てくる話を取意したものです。こんな話です…
あるとき、唯円さんが親鸞さんに「私…、念仏しても全然喜びの心がわきあがってこないんですが…。そのうえ、浄土に行きたいという気にもなれませんのですが…」と告白しました(なんと正直な人なんでしょ)。この言葉に対して、親鸞さんは「おお、実はわしもそうなんじゃ」と答えます。もうかなり老境に達しているにもかかわらず、こんなこと言う人だったんですねぇ。他の高僧諸師なら、こんなこと言いそうにありません。
さらに「よく自分を見つめてみれば、どうしても心からの喜びなどわいてこん。ほんとなら、浄土に往生できるというのだから飛び上がって喜ばねばならないはずなのに…。浄土に行きたい気持ちもないし、煩悩まみれのこの世は恋しい(苦悩の旧里はすてがたく、浄土は恋しからず候)。ちょっと病気にでもなれば、もしかしたら死ぬんじゃないか…、などと心配してしまうありさまじゃ」と言います。
そして、「こんな私だからこそ、悪人のための救いは間違いないことが実感できるのじゃ」と語ります。親鸞さんは、普段からよく「この私ひとりのためにこそ<悪人が救われる仏の願い>はあるのだ」と言っていたそうです。
この第九条には、親鸞さんのパーソナリティがとてもよく表れていると思います。
―おまけ・浄土真宗と経済倫理―
ところで、在家仏教である浄土真宗は庶民生活に経済倫理や職業倫理を生み出しました。これは、よくプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に比されるところです。
ご存知、M.ウェーバーの説によれば、資本主義経済の離陸には資本主義の精神やエートスと呼ばれる勤勉な労働倫理が必要だった、ということになります。その役割を、日本では浄土真宗や石田梅岩の商人道などが果たしてきたわけです。
たとえば、北陸を中心とした売薬行商。宗教社会史の有元正雄氏は、「全国的に真宗地帯には売薬行商が多い」と指摘しています。その理由として、(1)勤勉、正直、節倹、忍耐など真宗門徒の高い徳性が職業倫理を生んだ。(2)真宗地帯では堕胎、間引きの風習がなく、人口増加が労働力を生んだ。(3)加持祈祷やまじないを排し、医薬で治療を図るという合理的精神を育てた、などの点を挙げています。
また、現在でも大阪(そもそも大阪の基盤は石山本願寺の寺内町)では、御堂筋(西本願寺の北御堂と東本願寺の南御堂があることからついた名前)沿いに多くの企業が密集しています。これは、御堂の鐘の音が聞こえるところに本店を持ちたいという父祖伝来の夢を持った近江の浄土真宗門徒商人たちが集まって商売を始めたのがきっかけです。近江商人は、浄土真宗の信心による独自の職業倫理を実践していたことで有名です。
名だたる真宗王国・広島でも、浄土真宗から発した倫理観が多くの文化を育んできました。たとえば、ハワイには広島出身の日系人が多いそうです。昔、小林克也などが「The No.1 Band」というバンドでコミカルソングを歌ってましたが、その中の一曲に「きんさい、きんさい、ハワイへきんさい。わしらはみんな広島じゃけん」というフレーズがありました。実際、ハワイでは広島弁をよく耳にします。これは、広島の門徒たちが「間引き」をしなかったので、余剰労働力(次男とか三男とか)が新天地を求めてハワイなどに多く移住したためだそうです。
内田先生の「悪人」・「愚者」・「念仏」などへのご卓見、いよいよホントに「寝ながら学べる浄土真宗」状態となってまいりました。ありがとうございます。それでは失礼致します。