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2004年2月6日

 

内田樹から釈徹宗先生へ

 

いよいよ浄土真宗の中心的論件(であるらしい)「悪人正機」のところにはいってきました。これは私にとってもたいへんに興味のある問題です。

「救済」(これは本質的に霊的次元のできごとです)と「倫理」(これは端的には政治性の水準の問題です)をどうやって整合させるのか、というのはあらゆる宗教にとって避けることのできない宿題だと思います。

いちばん簡単な方法は「特定の宗教が権力を占有する」かあるいは「権力が特定の宗教を公認する」のどちらかです。

ホメイニ時代のイランやタリバーンは前者ですし、国家神道期の日本やヘンリー八世の時代の英国は後者の例です。

国家と宗教の一体化を問答無用に「悪」だと言い切る人がいますが、私はどうかなと思います。

たとえば、戦前の国家神道と軍国主義の結びつきは歴史的にはカタストロフィックな失敗をみちびきましたが、発想そのものは人類社会の発生とおなじだけ古いものですし、「けっこう、それでうまくいった」社会だって歴史的にはないわけではありません。

現に、宗教と国家の癒着を批判するのは「宗教は人民の阿片である」と主張するマルクス主義ですが、スターリン時代のソ連を筆頭に、マルクス主義を国是としてかかげている国を見渡すと、ほぼ例外なく「現人神崇拝」が行われていて、政治イデオロギーが疑似宗教化していることがわかります。

完全に権力と宗教が切り離されていて、それでなおかつ私人における「救い」と、市民としての「倫理性」が同時に担保されている社会システムというのは、想像することが困難なものです。

たとえばフランスは19世紀の末に公教育における完全な政教分離を果たした、近代世俗国家のチャンピオンですが、カトリックの教義にかわって掲げられている「自由・平等・博愛」の理念は、18世紀のフランス革命のあとに市民が守るべきあらたな「信仰箇条」として国家が制定したものです。

この理念を全ヨーロッパに「布教」すべくナポレオン戦争が戦われ、兵士たちは「殉教者」の狂おしいまでの勇猛さを発揮して、(クラウゼヴィッツ型の)中世的な軍隊を鎧袖一触、蹴散らしたたわけですから、これは「宗教の代替物」と申し上げてよいかと思います。

別に歴史的な例をあげなくても、ジョージ・ブッシュの率いるアメリカ合衆国が権力と宗教(プロテスタンティズム)の癒着がきわだって濃密な政治システムであることは社会学者が教えてくれているところです。

なにが申し上げたいかというと、私人としての「魂の救済」と、公人としての「市民の責務」のあいだを整合させるというときに、「単純なあたま」は国家権力と公認宗教を癒着させる、という手しか思いつかないということを確認した上で、真に宗教的な知者は、「それとは違うしかた」で、救済と倫理、霊的次元と肉的次元を同一の原理でとらえる視点を見いだしたのではないか、と考えるからです。

救いと倫理の統一ということは、超越的なものの次元に触れ、「摂理」を直観するという経験が、そのままごはんを食べたり、仕事をしたり、恋をしたり、子供を育てたりという、日常の営みを律する規範につながる、ということです。

逆の例をあげるとすぐわかります。

いまちょうどオウム真理教の判決が次々と下されているところですけれど、この人たちはたしかにある種の霊的覚知を経験したのだろうと思います。

「おお、私は宇宙の神秘に触れた」

と思ったのでしょう。

けれども、そのあとに、その霊的な覚醒をどうやって「市民としての適切なふるまい」にリンクさせるか、ということにはたぶん一秒もあたまを使っていません。

そうではなくて、「市民としての適切なふるまい」を自分たちの教理に合致するように変更しようとしました。

自分たちに反対する人間はみんな殺してもいい、それが真の正義の実現であるという「非倫理的」結論は、あらゆるすべてのファナティズムに共通するものですが、その発想がどれほど「凡庸」なものであるかに彼らはたぶん気がついていません。

私はこれを「あたまが悪いなあ」と思ったのです。

でも、「あたまが悪い」のは、彼らばかりではありません。

今日の新聞にこんな記事がありました。

「空中浮揚には、何か未知の力が働いている。そして、我々の気づかない真実をこの人は知っているのかもしれない。松本智津夫被告の『超能力』に出会ったときそう考えたと、一審で死刑の判決を受けた広瀬健一被告は何度も繰り返す。(・・・)被告を終始支配していたのは、それまでの経験や知識をはるかに超える真理として信じた『教祖』への絶対的服従である。」

広瀬被告をはじめオウム信徒には理系エリートが少なくなくありませんでした。彼らは学校で習った物理法則とは「違うもの」を見た瞬間に、「世俗的なもの」すべての価値が崩壊したと感じたのでした。

どうしてまたそんなに簡単に。

それは彼を批判している当の指導教官のことばが示しています。

「広瀬被告出家のときに、『学問を積んだものがなにをバカなことを』としかったという指導教官は法廷で、『人生を語るべき大事な時期に、最近の大学はあまりに専門化され過ぎている』と彼らの錯誤の原因を語っている」

本当にそうなんでしょうか?

私は話は逆だと思います。

「人間が空中に浮くはずがない」ということを不可疑の「科学的真理」として教えてこられたからこそ、広瀬被告は「人間が空中に浮く」という「事実」を経験した瞬間に、それまでのすべての知的蓄積を「無価値」だと思いこんだのです。

それが「トリック」であっても、幻覚剤を吸引したあとの「幻想」であっても、あるいは「事実」であっても、それを「経験する人間」の中で起こるのは同じことです。

ここで賭けられているのは、「空中に浮揚すること」の真偽ではなくて、「空中に浮揚する人がいる」ということを「事実」として認めた人間が、その内的経験と「市民としてきちんと生きること」のあいだをどうやって論理的に架橋するか、という「つじつま合わせの問題」なのです。

被告たちの指導教官や同僚たちは、彼らが「すごいグルに出会ったよ。空飛ぶし、千里眼だし、予言もするし・・・」と興奮して話し出したときに、おそらく「なにをバカな・・・」という冷たい反応で一顧だにしなかったのではないかと思います。

でも、彼にしてみたら「見たものは見た」んだから譲れない。

結果的に、ここに「俗人は救いがたくバカだ(あいつらは死んでもいい)」という結論が短絡されることになります。

「導師は空を飛ぶんだよ」と言われたら、「うん、そういうことってあるかもしれないね」というのが真に科学的な知性が応じる仕方だと私は思います。

それについての科学的検証は今後の興味深い課題としておいて・・・で、君はその経験から、どのような『市民としての適切な生き方』を導き出すの?」

というふうに問い返すの「筋」というものでしょう。

現に「キリスト教徒の物理学者」というものが存在するわけです。

キリスト教徒であるということは、『聖書』の教えを信じている、ということですよね。

ところで『聖書』には、キリストが水の上を歩いたと書いてありますし、ラザロは死からよみがえったとも書いてある。

これは「事実」か「幻覚」か。どちらなのでしょう?

「いや、あれはイエスの偉大さを示すための修辞的誇張であって、ほんとは人間は宙に浮かないし、死んだ人間は生き返らないよ」

とこの物理学者は言うのでしょうか?

だとすれば、この人は『聖書』の中の「真実が書かれている箇所」と「虚偽が書かれている箇所」を彼の個人的な基準で判定可能だと考えているということになります。

聖典の解釈について多様性があることは当然のことですが、「聖典には嘘が書いてある」という発言は信仰を持つものが軽々に口にしてよいこととは思えません。

ですからもし私がキリスト教徒でしたら、

「そういうことって、あるかもしれない。その興味深い問題の解明は今後の科学的考究に待つとして、とりあえずの問題はイエスの教えを私たちのふだんの生活にどうやって生かしてゆくかだよね?」

というふうに答えると思います。

オウム真理教の信者にも同じように対応したでしょう。

「空中浮揚するひとなんて、これまでもたくさん証言があるんだから、そのこと自体には何の異論もないですよ。問題は、その導師が、その能力を『何のために』使っているのか、君の霊的救いを、君のこれからの生き方に架橋するための『どういう理路』を示してくれているのか、ということだと思うよ」

霊的直観には、勝手に区別すると二段階があるように思います。

ひとつは「ああ、この世の中には常識では測りしれないことがある」という驚き。

もうひとつは「あ!私はこの世になぜ送り出されてきたのかその理由がわかった」という覚醒です。

たいせつなのは、第一の霊的覚知「びっくりして、天地がひっくり返ったような思いをする」ことではなくて、そこにとどまらず、

「あ、私がここでこんな仕事をしていたり、こんな人と夫婦でいたり、こんなひとが友達だったり、こんな子供がいたりするのは、『そういうわけ』だったのか!」という霊的な「召命」の覚知にその「驚き」を結びつけることではないかと私は思います。

オウム真理教にかぎらず、狂信に対して私たちが向けるべきことばは「そんな奇跡は科学的にあり得ない。君は騙されているか、正気を失っているんだ」とはなから拒むことではありません。「ある」「ありえない」では水掛論にしかなりません。

そうではなくて、その「奇跡」をどうやって君は「いまの生活にリンクするか」に問題をシフトして、双方が共有できる語法の水準を探り当てることではないでしょうか。

「奇跡」の経験を否認された信者の中には「出家」して「テロリスト」になるものもいるでしょう。

それによって社会が背負い込むリスクは、「宙を浮遊することができるのはなぜか」を科学的に考究する道に進むちょっと毛色の変わった物理学者がでてくることによって生じる社会的損失よりはるかに大きいはずです。

ビジネスマインデッドに考えたって、「奇跡」はある、ということにしておいた方がぜったい「お得」です。

私たちがなすべきなのは、その「奇跡」はいかなる「善きこと」をあなのの「隣人」にもたらしきたすのか、その理路をともに語り合い、考えることのできることばの水準を探り当てることではないかと思います。

というのが「前置き」で、ここから本題に入ります。

釈先生はこう書かれています。

「悪の自覚」と「救済」とは、影と光の関係です。そこでは、「排除」される対象こそが、「救い」の対象です。ゆえに悪人こそが救われるというパラドクスが成立します。

ここで釈先生が対比されている「悪の自覚」と「救済」の関係は、私のことばでは、「倫理」と「救済」という二つの次元の関係ということになるかと思います。

そのあいだにあるのは「パラドクス」というより、「位相の違い」というふうに私は理解しています。

この二つの次元のあいだには、ストレートな対応関係は存在しません。(ストレートな関係が存在する、と思いこむひとたちを私は「シンプルなあたま」と呼称したわけです)

むしろ、対応関係がないその次元のあいだにひろがる「クレバス」にどんなふにして論理的架橋を試みるかという点にこそ人間の創造性と知性が賭けられている、というふうに私は考えます。

現世的な善悪と「救い」のあいだにはレディメイドの現世的な論理をもってしては架橋はできない、というのが宗教的な覚知の最初のステップだと思います。

その二つは切り分けられねばならない。

その隔絶を印象づけるためには、「現世的基準においての善悪は、霊的基準になじまない」ということを理解してもらう必要があります。

現世で「善根」を積めば、来世の救いが約束されている、という考え方は、人間は自力で天国の扉をこじあけたり、閉めたりすることができる、という人間中心主義に他なりません。

そんなに簡単にぱたぱた開け閉めできるところに「救済」の次元があるのでしょうか。

なんだか、それは違うような気がします。

ですから、とりあえず、なにが霊的な意味で「善きこと」であり、なにが「悪しきこと」であるかを、人間は現世的なロジックによっては判定できない、という無能の覚知が必要になります。

まず自分の立ち位置を「現世」、「人間が住む、人間だけの世界」に限定すること、そこから始まります。

「この世界の創造に自分は立ち会っていない」のですから、この世界をどんな理法が統御しているのか、十全に知るということはあり得ません。

「悪人正機」の説は、「人間が人間についてくだす善悪の判断は、人間の存在理由や存在価値を最終的に決定することができない。なぜなら、人間がなんのために、なにをなすために存在しているのか、人間が完全に知るということはありえないからだ」というメッセージを言外に含んでいるのではないかと思います。

しかし、そこで終わってしまってはニヒリズムに屈服しかねません。

私たちには善悪の基準はわからない。けれども、善悪の超越的基準はあるはずだ、という「私たちの理解を超えた審級」への信頼がそれに続きます。

「善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、もとのままにて(念仏を)申すべし」というときの「善人悪人」というのは、人間的次元のことであり、「念仏」というのは、霊的次元への「回路」のことだという解釈は成り立たないでしょうか?

「念仏」というのは、それが語義的水準でなにを意味するのかわからない。けれども、「ここではない、こことは違う、ここより上位の境位が存在し、私はそれを信じる」ということを全身をかけて告げる、人間の不能と可能を同時に示すサインのことではないのでしょうか?

霊的次元にアクセスした、という経験がもたらすことばは「だから、すべてがわかった」ではなく、「だから、何がなんだかわからなくなった(でも、「何がなんだか分からなくなった」ということは言うことができる)」ではないでしょうか。

釈先生からの引用を続けますね。

それに法然さんは「愚か者となって往生するのだ」などと言います。なにか味わいのある言葉です。でも、とんでもない仏教です。仏教は本来、智者となるための体系です。ところが法然は、愚者になるのだ、と言うわけです。

「愚者」というのは、先ほどのことばを繰り返せば「不能と可能を同時に示す立ち位置」のことではないかなと私は解釈しました。

「正機」と「正因」の区別は私にはまだよく分かりませんが、「きっかけ」と「原因」の違いということであれば、「きっかけ」より「原因」の方が、「結果」への結びつきがつよい、というふうに理解してよいのでしょうか?

悪人であることが往生への「正因」であるということは、「自分の邪悪さ」を意識できた人間が「往生」の最初の一歩を踏み出すということですよね。たぶん。

「往生」というのが「ここではない他の場所へ歩み出すこと」であるとすれば、それは『創世記』で主がアブラハムに告げることばを思い出させます。

「レフ・レハー」(あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしがあなたに示す地へ行きなさい)というときの「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家」は「あなたがこれまでその中にとどまっていた知的閉域、あなたがその虜囚であるところの臆断の檻」というふうにレヴィナスは理解しています。

だとすれば、その「閉域の住人」であること「臆断の檻の虜囚」であることを「悪人」あるいは「愚者」ということばで言い換えるのは、それほど不都合なことではありません。

アブラハムはそのことばに従って家郷を棄て、父母を棄てます。

これは現世的倫理に照らすと、かなり「悪人」ですよね。

それどころか、こんどは主はアブラハムにむかってもっとひどいことを告げます。

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」

子どもを殺して生け贄に捧げろというのです。

父を棄てたのちは、子どもを殺せです。

このときアブラハムは絶対的な孤独のうちに立ち尽くします。

子どもを殺せって・・・どういうことだろう。

まわりにはアブラハムの判断について意見を述べてくれる人は誰もおりません。

もちろん神さまにむかって

「あのー神さま。いま『イサクをわたしにささげなさい』というのは、ほんとにほんとにイサクを殺して、焼いてしまえ、という意味なんですか?それとも何かのメタファー?」

というふうに問い返すこともできません。

ある命令が無文脈的に下る。

その命令が正しいのかどうか、あるいはその命令の「解釈」が適切であったのかどうか、それを決定する「参照枠組」がどこにもみつからない状態で、なお決定を下さなければならない。

それがアブラハムの孤独です。

釈先生はそういえばキェルケゴールと親鸞の比較宗教学的研究で学位を取られたんだから、このへんのことは熟知されていますよね。

アブラハムの決断は「悪人」のそれです。

だって、イサクを殺す決意をするんですから。

主の命令のことばを自分が「正しく」聴き取ったのかどうか、それはアブラハムには分かりません。分からないけれど、「こう聴いた」という判断をした以上は、そこから先はアブラハムの責任です。

そして、誰にも責任を転嫁することのできない絶対的孤独のうちで、みずからの行動の責任を引き受けるという決意によってアブラハムは「義人」となるわけです。

「悪人」というのは、もしかすると汎通的な参照枠組み適用できない局面で、「すべての責任は私が引き受ける」と決断するアブラハム的主体性のことではないでしょうか?

なぜアブラハムは壮絶な孤独のうちにありながら、なお主のことばは「絶対的に正しい」という確信だけは揺るぎないものとして維持できたのかということはまた別の長い複雑な問題につながりますけれど。

長くなりましたので、今日はここまでにしておきます。

悪人正因のお話、もっと続けてください。

いくら仏に呼ばれても、その声に背き続けるのがオレという人間だ、と言いま す。そして、それこそがオレの実存だ、仏教はまさにこのオレ唯一人のためにこそあ るのだ、と言うのです。

という親鸞のことばはどういう意味なんでしょう。

わくわく。

ではまた

 

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