その2:2003年8月27日
釈から内田先生へ
「はじめてお目にかかったのに、懐かしい感じがしました」とおっしゃっていただき、ありがとうございます。しかし、おそらくその感覚は、「前世でお会いしているから」というよりも、釈が「ありがちな顔だから」だと思います。今でこそ、ヒゲを生やしたり、丸刈りにしたり、と個性をだしておりますが、若年の頃はひんぱんに「あ、どっかで見た顔!」と言われました。初めて会った人に、「知っている人にそっくり」と何度言われたことか。後日、その「似ている」という人に会うと…、(どこが似とるんじゃっ)と心で叫ばずにはいられない経験も一度や二度ではありません。しまいには、「釈と言います。友達に似ている人、いない? いるでしょ」と、こちらから聞いたことさえあります。日本人は8種類か9種類の民族による混血と言われますが、思うに、釈はその中にある一タイプの典型なのではないか、…と。
実は、私のほうは、内田先生にお会いして、「今まで会ったことのないタイプ」と感じたのです。とにかく柔らかい感じです。応変といいますか、逍遥遊といいますか。もしかしたら、勝手に、ものすごく切れ味が鋭く、かつものすごく自分勝手な人を想像していたのでしょうか(笑)。初めてお会いした内田樹という人物は、えらくかっこいい人でした(全然、おじさんじゃないじゃん! うそつきっ!)。
残念ながらラカンの『フロイトの技法論』は未読です。しかし、先生が引用した部分だけを読みますと、「卒啄の機」※1という言葉を思い浮かべました。
もし、内田先生に「おや、私もまったく同じことを考えていたんですよ!」というリアクションをしていただけるなら、これに勝る喜びはありません。むしろ、「つまらんことばかり書いてるなぁ」というリアクションへの恐怖が先立っております。
釈からHPをご覧のみなさまへ
はじめまして、釈と申します。このHPは、2年以上前から拝見しております。いままで一ファンだったものが、突如華々しく「長屋の祠」に登場することになり、うれしいやら申し訳ないやら。
とにかく、誠心誠意、勤めさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。
この企画の仕掛け人である藤本さんの意向で、私のパートは「初心者向き参考書」
風になっております。ご了承ください。「こんな誰でも知っていることを、とくとく
と書きやがって」と思わないでね。
《仏教に学ぶ》
―仏教は「因果律に基づく自由意志」―
それでは、今回、先生から投げ込まれた<宿命>と<自由>(いきなりの剛速球だなぁ)について、仏教ではどうなのか、ということを述べさせていただきます。
仏教は<因果律>に基づいています。いかに仏教にバリエーション多しといえども、これだけははずすわけにはいかないっっ、というほどの「仏教における基本的立脚点」です。ご存知のように、<因果律>とは、「あらゆる現象や存在には、原因がある。原因があれば必ず結果がある」という原則です。この法則に例外はない、ということで仏教は成り立っています※2。<因果律>の立場もいろいろあるんですが、仏教の<因果律>は<縁起>という相互依存性を強調するところに特徴があります。
これに対して、内田先生の<ご縁>論は、<縁>を一種の宿命として捉えておられるところに妙味がありますね! まるでつながれた糸のように人と人を結びつけるというイメージだとお見受けしました(もしかしてロマンチスト?)。私は、?啄同時のような体験をしたときには「意味ある偶然(シンクロニシティ)」として解釈しているのですが、このような把握は内田<ご縁>論とは少し相違しますか?
さて、仏教で<縁>という概念は事象成立の条件です。また、<原因>と<結果>という主要因に関わる、二次的要因と考える場合もあります。いずれにしても、あらゆる事象は、さまざまな要因が複雑に絡み合い、一時的に成立したり存在したりしている、と認識します。言ってみれば、認識するための仮説モデル
んですね※3。この認識モデルによって、さまざまな現象や存在を分析すれば、生きて行く上での<苦>は克服される、とシャカは考えました※4。
ところで「親の因果が子に報い…」というフレーズがありますが、間違っています。正確には「親の因が、子に果…」といわねばなりません。でも親の因が、子に結果として出るというのはねじれた仏教思想です。本来、<自因自果>といって、自分のまいた種が自分にふりかかるのが因果律ですから。つまり「自らの行為や思考が、自らの未来を形成していく」わけです。
このように、仏教では「宿命(しゅくめい)論」や「神(あるいは超越的存在)の意思による決定論」ははっきりと否定されます※5。
【仏教用語の整理】
・宿命(しゅくみょう)…過去世の人生
・宿縁…過去世からの縁。
・自由…それ自身で存在していること。縁起とは逆の概念になる。
・自然(じねん)…natureではなく、「本来そうなっている」ということ。
【基礎講読】
「これに因りてかれ有り。これ生ずれば則ち生ず。これ滅すれば則ち滅す。これ無ければ則ち無し」(『阿含経』)
…現代語訳:「これに依拠してそれが成立する。これが生じるからそれが生じる。
これが滅すればそれも滅する。これが無ければそれも無い」。有名な<縁起>を語る一節である。『阿含経』は初期の仏教経典で、シャカの教えを比較的ストレートに伝えている。
《シャクの管見》
―内田「ご縁」論に触発されて―
このコーナーでは、釈の学際的視点による、独創的といいますか自己流といいますか、少しだけ好きに述べさせていただきます。
といいましても、今回の「宿命」と「自由」というテーマに関しては、残念ながらオリジナリティの高い意見は持ち合わせておりません。そこで、前項の話をもう少し延長させていただきます。
仏教はどこまでいっても「因果律に則った自由意志」です。しかし、「向こう側から開いた」とした表現のしようがない体験は常に語られ、重視されてきました。その意味では甲野先生がおっしゃる、真に求めた者にのみに訪れる「認識の逆転回」は非常に仏教的思考です。特に、禅僧などは「自力の行き着く先に他力がある」と表現します。世界や自己が向こう側から開かれる、という逆対応の体験は、まさに「位相関係のベクトル」が引っくり返るということだと思われます。
内田先生はご著書の中で、「自分の正しさを主張するためよりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが好き(かなりうろ覚え…)」というようなことをおっしゃっていたと記憶しております。「ああ、これはこれでしかあり得なかったなぁ」(=宿命)と感じる心性は、鈍感で傲慢な人間には生起しないであろうと思われます。また、選択や責任に対して、真剣であればあるほど、振り返ってみれば「これは宿命だった」という実感が伴うのに違いありません。
でも、もう少し掘り下げて再考いたしますと、違う表現も可能ではないでしょうか。それは、果たして「誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う」ということは実際にあり得るのか? という視点です。人間が本当に自由意志によって自己のすべてをコントロールできるのであれば、人生の苦はほとんど解決しそうな気がします。「食べたいけど、痩せたい」などということもなくなりそうですし、他人をうらやむこともなさそうです。しかし私たちは、どうにもならない感情や衝動、そして不合理な身体を抱えています(フロイトは「自己の中の他者」を無意識と表現しました)。さらにはタイミングや環境や事情といった外的要因も…。
自分がおのれの力で選択した、と思っていても実はさまざまな<縁>によって成立した事象ではないでしょうか(うーん、だんだん坊主の説教みたいになってきたぞ)。
「自分ひとりで全責任を負う」ことができるのも、<縁>によってである、のではないでしょうか。自分の選択や責任を成立させている多くの要因を謙虚に分析してみると、自由(この場合は「自らに由る」という意です。甲野先生もこの意味で使用されています。カントの自由ですね)さえも<縁>に依っている、という結論になると思うのです。やや、自己否定を手放さない、といった傾向が強くなってしまいましたが…。
仏教では、<宿命>という考え方は否定しますが、<自由>も縁起という相互依存関
係のモデルで考えるわけです※6。
※ 1 卒啄同時ともいう。もともと禅の用語。「雛が卵から出ようとして内側からカラをつつく」のが「卒」、母鳥が雛を孵そうとして卵をつつくのが「啄」、これが同時になされる絶妙の時機を指す。禅においては、老師と弟子とが以心伝心によって、見事にカラを脱することを言う。
(ウチダ注:「そったく同時」の「そつ」の字(口へんに卒)がATOK14では出せませんでした・・・ごめんなさい)
※2 因果律に基づかない思想や宗教も多い。※5にもあるように、キリスト教やイスラムなどもそうである。また、シャカと同時代には、マッカリ・ゴーサーラー(アージーヴィカ教の開祖)が、「努力しようがしまいが、バカでも利口でも、輪廻や解脱はもう決定している」と主張した。「宿命論」や「無因論」の歴史は古く、ウパニシャッドにも散見できる。仏教者たちはこのような考えに対して(因果律に則していないということで)「外道」と非難している。
※3 因果律は、倫理や責任主体を明確にするためには確かに単純で純粋な虚構です。しかし、これは実際にはかなり苦しい。現実は、因果応報や善因善果・悪因苦果などは例外だらけである。つまり因果律を補完する「輪廻思想」や「別次元」といった形而上の概念が必要となる。ああ、ややこしいなぁ。
※4 今、現在直面している<苦>があるとする。しかし、その<苦>という現象をなんとかしようとしても解決しない。苦を生み出した<原因(=直接的要因)>や<縁(=事象成立への諸条件)>があるわけだから、それを鍛え上げた知見によって分析し尽くす。うまく<因>・<縁>を抽出できれば、それをコントロールして最小にすれば、結果も最小になる。
シャカは<原因>が大きければ大きいほど、結果が大きくなると考えた。つまり、「世の中、金。金こそすべて」と考えている人は、何が一番苦しいのか。それは金がないことだ。「金なんかそのうち何とかなるさ」と思っている人は、お金がなくてもあまり苦しくない。「人間、見た目が勝負よ」などと容姿を重視している人は、老いるのが他の人よりめちゃんこ苦しい。筆者がハゲるよりキムタクがハゲるほうが苦しいはずだ(いやぁ、そう考えるとなんだかうれしくなってきたなぁ。これが智慧による苦の克服か?)。
原因を小さくしない限り、問題は解決しない。お金を儲けても、守るため増やすため苦しむ。整形手術しても、また別の問題が出てくる。結果に惑わされず、「何が原因か」を知見する以外に根本的解決法はない。
ところで、ここにあるようにシャカの瞑想は分析的手法だった。しかし、その後の仏教は直感や無分別を重視するようになる。
※5 一方、ルターは『奴隷意思論』という著作で、明確に「すべては神の意思によって決定されており、人間の自由意志などない」としている。有名なカルヴァンなどの「予定説」も、同じ論理だ。そもそも「啓示」とは、本人の意思とは全然関係なく起こる現象であるから、啓示型宗教には多かれ少なかれ、そういう思考傾向がある。だからこそ、かえってそのリバウンドで、ヒューマニズムなどの人間中心主義が生まれるのかもしれない。
※6 そもそも仏教思想に拠れば、自由の主体である自己そのものも、実体があるのではなくさまざまな条件や刺激への反応という形で寄せ集められた一時的状態である。これを仮有(けう)という。実有の反対である。物体としての存在は、すべて仮りに集合している状態、という考え方だ。
【One Point !】
そつ啄の機、以心伝心、衣鉢を継ぐ、などの言葉があるように、禅仏教においては「師と弟子」という関係は体系の根幹を成します。これに対して親鸞の他力仏教では、「自分の弟子などというものはなく、すべて仏の弟子である」という立場に立ちます。それで、同じ道を歩む仲間を、御同行・御同朋(おんどうぎょう・おんどうぼう)と呼びます。