その3:2003年8月29日
内田から釈先生へ
さっそくのご教示ありがとうございます。いろいろな論点が出てきて、なんだかわくわくしてきました。とりあえず、体系的にというよりは、思いついたところから順番に私見を述べて、それについて仏教学者のお立場からのコメントやご批判を頂きたいと思います。
まず釈先生がかなり詳しく説明してくれた「因果」ということについて、少し違う角度から考えてみたいと思います。
「因果」というのは、なかなか扱いのむずかしい概念ではないかと思います。というのは、もし原因があって結果がある、善根を積むと応報がある、悪事を働くと罰が下る、という「当たり前のこと」が「当たり前の時間順」に展開してゆくと、人間は最終的には倫理性の基礎づけを失ってしまうような気がするからです。
どうしてかというと・・・いささか七面倒な話ですが、しばらくお付き合い下さい。
全知全能の神さまというのがいたとします。勧善懲悪の原理に基づいて、人間たちに守るべき戒律を伝え、その戒律を遵守したか違反したかを最後に審判して、天国と地獄に人々を振り分ける神さま。
神さまというのは、こういうものだろうと思っている方も多いと思いますが、これは、いわば「幼児のための神さま」です。
というのは、こんな神さまがいても、人間はさっぱり大人にもならないし、倫理的にもふるまわないからです。
別の喩えを考えて見れば分かります。
警察機能が完璧に機能していて、あらゆる犯罪について逮捕率が100%であり、裁判の判決にまったく間違いがない社会というものを想像してみて下さい。たしかにそういう社会では犯罪発生率はたいへんに少ないでしょう。けれども、それは必ずしも人々が倫理的になったということを意味しません。むしろ、そういう完全な勧善懲悪社会では、人々は倫理的にふるまう必要を感じなくなります。例えば、自分の目の前で犯罪が行われていた場合、身体を張って犯罪を阻止したり、被害者を命がけで救護したりする使命感をあまり感じないようになるということです。
だって、そうですよね。すぐに警察がやってきて犯人を逮捕してくれるんですから。何も好きこのんで窮地に飛び込む必要はありません。
現に、私が子どもの頃に大好きだった『月光仮面』というTV番組では、毎週のように、ワルモノたちが白昼悪事をなしていたわけですが、市民たちも警察の諸君も、わりとあいまいな表情で、その犯罪行為をぼやっと眺めているのがつねでした。なにしろ、少し待っていれば、必ず月光仮面が来てくれて「悪は滅びる」ことがはじめから決まっているんですから。市民たちも気楽と言えば、気楽なものです。
そんなふうにして、勧善懲悪原理が完全実施された社会では、市民たちは眼前で行われている犯罪を看過することにさしたる疚しさを感じることもなくなる、これが「勧善懲悪の逆説」です。
全知全能の神さまによる勧善懲悪原理が完全貫徹する宇宙も、ある意味ではそれに似たものと思われます。善行を施せば応報があり、悪行をなせば罰が当たる。その因果応報への確信が高まれば高まるほど、私たちは悪人が跳梁跋扈し、義人が受難する状況に対して、ある意味で「無感動」になってゆきます。
神が全能である社会、すなわち人間が全員「幼児」のままでいてもよい社会では、悪のための余地がないのと同じように、善が芽生える余地もまたなくなります。
それに、この「幼児」たちは、全能の神さまを簡単に信じると同じように、「悪人が横行し、善人が受苦する状況」があまり長く続くと(つまり、「月光仮面」の到来が遅れがちになると)、今度はまた実に簡単に信仰を棄ててしまいます。
本来、悪事がなされると、月光仮面はすぐに登場して、悪を滅ぼすことになっていますが、うっかり事件解決に「遅刻」したりすると、子どもたちはまるで掌を返したように月光仮面を面罵します。
「なんだ、ぜんぜん正義の味方として役に立たないじゃないか。もう、要らないよ、あんたなんか。月光仮面のバカ!」
ほんとなんです。「万能の正義の味方」をめぐるすべての説話に共通するのは、「正義の味方」の勧善懲悪仕事が少しでも遅滞すると、少し前まで「正義の味方」に拍手喝采を送っていた人々が、たちまち態度を一変させて、罵倒の限りを尽くす、というエピソードが盛り込まれていることです。(『スーパーマン』も『バットマン』も『スパイダーマン』でも、もう全部そうです!)
これが「幼児の神さま」の哀しい末路です。
「幼児の神さま」は99%の確率で勧善懲悪の裁きを下しても、ただ1回の失敗で、「あんた、神さま失格だよ」と偉そうな顔をした信者たちに簡単に宣告されてしまうのです。つまり、神さまは、全知全能であればあるほど人間の成熟を妨げ、信仰心の涵養に失敗することになります。
この逆説から、「成人の神」という概念が導き出されます。
成人というのは、かりにこの社会で悪がなされ、義人が不義に苦しんでいても、そのことを「神を責める」という発想で片づけることを自制する人のことです。
神さまには神さまの仕事があり、人間には人間の仕事がある。神さまは世界を創造した。創造された世界を「住むに値する場所」に造り変えてゆくのは人間の仕事である。だから、「人間が人間に対して犯した罪」は人間だけがそれを贖うことができるのであって、神が人間に代わって贖うことはできない。そういうふうに考えることのできる人間が「成人」である。レヴィナスはそう教えています。
言い換えると、成人とは、この社会で悪がなされ、義人が不義で苦しんでいるときに、そのことを誰よりもまず「自分の責任」として引き受ける人間だ、ということです。
でも、そういう人間て、ほんとうに少ないですよね。
私たちの社会を見回してみても、内政や外交や経済や教育や医療やメディアや家庭や・・・ありとあらゆる制度が批判にさらされていますが、その制度の機能不全を「私の責任です、ごめんなさい」と言って引き受ける人間はどこにもいません。
小泉純一郎は「自民党をぶっつぶす」と公言して自民党総裁になりました。自民党はどうやらそれほどにろくでもない政党のようですが、それについて政党を代表して「ろくでもない政党でごめんなさい」と謝罪する気は小泉首相にはもちろんありません。自民党の制度的欠陥は、自民党総裁にとって「ひとごと」なんです。
為政者がそうなんですから、国民全員それに倣うのも、仕方がありません。
「悪がなされ、義人が不義で苦しんでいる」ことを批判する切れ味のよい言葉は誰もが競って口にしますが、それについて「私の責任です。ごめんさい」と言う人間はどこにもいません。
政府を批判する人も、ナショナリズムを批判する人間も、家族を批判する人間も、学校を批判する人間も・・・どなたにも、ろくでもない制度の「共犯者」の一人として、あるいはその制度の「受益者」として、謝罪する様子は伺えません。
でも、「謝らない人」というのは、要するに「子ども」のことです。
「月光仮面」の到来をいらつきながら待っている「子ども」だけが、無垢なる批判者の権利を行使できるのです。
代議士や銀行や企業がいろいろと問題を起こして「謝罪の記者会見」というのがよくTVで放映されていましたけれど、言うことはみんな一緒です。
「世間をお騒がせして、関係者にご迷惑をかけて申し訳ない。」
不思議な言い分だと思いませんか?
だって、現に「世間をお騒がせ」しているのは、彼ら自身ではなくメディアなんですから(彼らにしてみても本音は「こんなことは、できるだけ世間に知られず、そっとしておきたかった」んですからね!)
「メディアが世間をお騒がせした」ことについてのみお詫びをする彼らの論法は、言ってみれば、隣家の一家を殺して逮捕された殺人犯が、「犯人逮捕の場面を撮影するためにTVクルーが入り込んできて、隣家のご一家にたいへんご迷惑をかけたことをお詫びしたい」と言っているようなものです。ずいぶんな話だと思いませんか?
でも、なんだけ情け無い話ですけれど、これが「子ども」たちが構成する社会の実相です。
よれよれの老人であろうが、脂ぎったオジサンであろうが、けたたましいオバサンであろうが、「責任者、出てこい」と叫ぶ人は原理的に「幼児」です。
でも、世の中を住み良くするのは「責任者、出てこい。なんとかしろ」と怒鳴る人間ではなく、「はい、私が責任者です。ごめんなさい、なんとかします」と言う人間です。そういう人が出てこない限り、世の中は少しも変わりません。
おっと、つい愚痴になりました。どうもすみません。私が社会批判しちゃいけないんだ。ほんらい「謝る側の人間」なんだから。そうです。私が悪いのです。ごめんなさい。
さて、これが「幼児」と「大人」の違いであるわけですが、「大人」であることがむずかしいのは、「ところで、いったい私が何をしたというんです?」と反問してはならない、ということです。
私に許されているのは責任を取ることだけで、「どうして?何の責任を?誰に代わって?どういう立場で?」と問い返すことは私には禁じられているのです。
というのは有責性というのは、司法的な概念ではないからです。
マタイ伝にこんな一節があります。
主が人々に向かって、こう言います。「呪われた者ども。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときも、たずねてくれなかった。」
人々はびっくりして反問します。
「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」
すると主は答えます。
「おまえたちが、この最も小さな者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」(マタイ伝、25:41−45)
この聖句はいったい何を教えているのでしょう?
「最も小さな者たち」、つまり「寡婦、孤児、異邦人」たち、よるべなき最も弱い者たちに対しても、主に対するのと同じように仕えなければならない、というこれは「倫理的命令」なのでしょうか?弱き者たちを主に対するのと同じように歓待しなければならないという戒律を破った罪で、この人々は呪われたのでしょうか?
そうではないと思います。
「主よ。いつ私たちは・・・」という人々の反問の言葉が示しているように、彼らには「犯意」がないからです。彼らには罪を犯したという自覚が全然ないのです。「え?いったい、いつの話してるの?私が何をしたって?」というふうに当惑しているのです。
「最も小さな者たち」への配慮の欠如を「歴史的事実」として考えると、この聖句はたぶん倫理的には意味をなしません。
そうだとすると、この「呪われた人々」は怒って再審請求をするはずだからです。「いついっか、どこで、誰がどんなふうにして『最も小さな者たち』を迫害したか立証してみろ」というふうにことは司法の語法で語られることになります。当然、それに対して「主」の側も証人喚問して、「ほら、こんなふうに迫害したじゃないか。神の罰を受けるのも当然だ」というふうな論証を行ったら、結局また単なる「勧善懲悪物語」になってしまいます。
悪いことをしたから、神に咎められるという「勧善懲悪、因果応報」の法理はいくら積み重ねても人間を少しも倫理的にしません。これは先ほど述べた通りです。
ですから、このマタイ伝の聖句が教えているのは、「迫害」の事実があったかどうかにかかわりなく、むしろ事実に先んじて、「責任は私にある」と名乗る者の出現を主が要請している、ということではないのでしょうか?
およそ人間の世界で起こることのすべてについては、人間の一人として「私に責任がある」と告知することを、「誰が何をしたのだ?どういうふうに有責なのだ?真相を明らかにせよ」と審問することより優先させるような意識のあり方を、この聖句は教えようとしているのではないでしょうか?
レヴィナスはこれを「アナクロニズム」(時間の順逆の転倒)というふうに術語化しています。原因があるから結果があるのではなく、人間の成熟と倫理性の基礎づけという「目的」のために、それを動機づける「過去」が事後的に挿入される、ということの順逆を転倒させる考え方のことです。
「私は有責であるが、それは何らかの罪によって有責であるのではなく、かつて一度も現在になったことのない過去において、一度も犯したことない罪について有責なのである」というのが、レヴィナスの有責論の構造ですが、ここでは因果律は時間の逆流のせいで、ずいぶんと歪んだかたちになっているようです。
因果律について、レヴィナスはこう書いています。
「あたかも自分一人だけが行動しており、宇宙の自分以外のものどもは自分の行動を受容するためにのみそこにいるのであるかのようにしてなされる一切の行動は暴力的である。それゆえ私たちがあらゆる点においてその行動の協力者である場合を除いて、私たちがこうむる行動はすべて暴力的である。
あらゆる因果律はその意味で暴力的である。ある物を製造することも、ある欲求を満たすことも、ある対象を欲することも、認識することでさえも、暴力である。」(『困難な自由』)
いろいろ書きましたが、私からの質問を要約しますと、次のようになります。
仏教で「因果」というとき、それは時間の「前後」とどうかかわっているのでしょうか?
私は仏教においても「因果律」の働く時間は私たちが通俗的に理解している時間とは違う流れをする時間ではないかという気がしています。必ずしも「原因」が先にあって「結果」が後にある、というものではない。そのことをどう理解するかが、その人の宗教性のあり方に深くかかわってくるのではないかと思うのです。
そのへんのことについて釈先生からのご教示を賜れれば幸いです。